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山頭火の日記 ㊻

2018.03.24 14:19

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947280740&owner_id=7184021&org_id=1947309107 【山頭火の日記(昭和14年11月1日~、四国遍路日記)】より

『四国遍路日記』

十一月一日 晴、行程七里、もみぢ屋という宿に泊る。

――有明月のうつくしさ。今朝はいよいよ出発、更始一新、転一歩のたしかな一歩を踏み出さなければならない。七時出立、徳島へ向う(先夜の苦しさを考え味わいつつ)。このあたりは水郷である、吉野川の支流がゆるやかに流れ、蘆荻が見わたすかぎり風に靡いている、水に沿うて水を眺めながら歩いて行く。宮島という部落へまいって十郎兵衛の遺跡を見た、道筋を訊ねたら嘘を教えてくれた人がある、悪意からではなかろうけれど、旅人に同情がなさすぎる。発動汽船で別宮川を渡して貰う、大河らしく濁流滔々として流れている(渡船賃は市営なので無料)。徳島は通りぬける、ずいぶん急いだけれど道程はなかなか捗らない、日が落ちてから、籏島(義経上陸地といわれる)のほとりの宿に泊った。八十歳近い老爺一人で営業しているらしいが、この老爺なかなか曲者らしい、嫌な人間である、調度も賄も悪くて、私をして旅のわびしさせつなさを感ぜしめるに十分であった!(皮肉的に表現すれば草紅葉のよさの一端もない宿だった!) 今日は興亜奉公日、第二回目、恥ずかしいことだが、私はちょっぴりアルコールを摂取して旅情をまぎらした。同宿四人、修業遍路二人、巡礼母子二人、何だかごみごみごてごてして寝覚勝な夜であった。

   (十一月一日)

 旅空ほつかりと朝月がある

 夜をこめておちつけない葦の葉ずれの

 ちかづく山の、とほざかる山の雑木紅葉の

 落葉吹きまくる風のよろよろあるく

 秋の山山ひきずる地下足袋のやぶれ

 お山のぼりくだり何かおとしたやうな

【四国遍路日記】

『四国遍路日記』には、昭和14年11月1日から昭和14年12月16日までの日記が収載されています。この日記には、前回の伊那路で得た生命律と自然律の調和のなかにありつづけようとした様子があり、松山に移る前の屈託なく旅情のままを詠っています。

【放哉の墓に詣でる】

山頭火は昭和14年11月、二度目の四国遍路の途上、小豆島の尾崎放哉の墓に詣でています。この時、「その松の木のゆふ風ふきだした」の句があります。また、「墓にごま水を、わたしもすすり」の句もあり、山頭火は四合ばかりの酒を、まず墓石にぶっかけて、そのあと自分も飲んでいます。二人とも酒好きでしたが、晩年の放哉は肺が悪くてあまり飲めなかったので、墓の下でよろこんだことでしょう。どちらも大学に学び、一応家庭を持ちましたが、夫人とは合意の上で別れ、一人の道をとぼとぼ歩んだ点は共通しています。

【長尾町での山頭火】

山頭火は昭和14年、四国遍路の途中で小豆島の尾崎放哉の墓参りに立ち寄り、小豆島を離れた日が10月25日、そして四国長尾町の八十八番結願寺大窪寺にたどり着いた日が10月26日となっているので、次の25日の晩は長尾町で野宿したと想定されます。山頭火は、長尾町内で22句を残しています。山頭火句集『草木塔』によれば、「ここが打留の水があふれている」の句が大窪寺で作った句とあり、大窪寺境内に句碑があります。同じ句集に、「泊めてくれない折りからの月が行手に」「あかあか燃える火が、ふと泊る」の2句があります。また、次の句も詠んでいます。

 木を伐るしきりにしぐる

 しぐれて山をまた山を知らない山

 からだなげだしてしぐるる山

 しぐれて道しるべその字が読めない

長尾町内には、「夜が長い谷の瀬音のとほくもちかくも」など、10基ほどの句碑があります。

十一月三日 晴、行程八里、牟岐、長尾屋。

老同行と同道して、いつもより早く出発した。峠三里、平地みたいになだらかだったけれど、ずいぶん長い坂であった、話相手があるので退屈しなかった、老同行とは日和佐町の入口で別れた(おじいさん、どうぞお大切に)。第二十三番薬王寺拝登、仏殿庫裡もがっちりしている、円山らしい、その山上からの眺望がよろしい、相生の樟の下で休憩した、日和佐という港街はよさそうな場所である。途中、どこかで手拭をおとして、そしてそのために一句ひろった、ふかしいもを買って食べ食べ歩いた、飯ばかりの飯も食べた、自分で自分の胃袋のでかいのに呆れる。途中、すこし行乞、いそいだけれど牟岐へ辿り着いたのは夕方だった。よい宿が見つかってうれしかった、おじいさんは好々爺、おばあさんはしんせつでこまめで、好きな人柄で、夜具も賄もよかった、部屋は古びてむさくるしかったが、風呂に入れて貰ったのもうれしかった、三日ぶりのつかれを流すことが出来た。御飯前、一杯ひっかけずにはいられないので、数町も遠い酒店まで出かけた、酒好き酒飲みの心裡は酒好き酒飲みでないと、とうてい解るまい、おそくなって、おばあさんへんろが二人ころげこんできた、あまりしゃべるので、同宿の不動老人がぶつくさいっていた。

   (十一月三日)

 山家ひそかにもひたき

   明治節

 山の学校けふはよき日の旗をあげ

 もみづる山の家あれば旗日の旗

 よい連れがあつて雑木もみぢやひよ鳥や

 旗日の旗は立てて村はとかくおるすがち

 村はるすがちの柿赤し

 山みち暮れいそぐりんだう

 こんなに草の実どこの草の実(改)

 しぐるるあしあとをたどりゆく

 トンネル吹きぬける風の葉がちる

 しぐれてぬれて旅ごろもしぼつてはゆく

 しぐれてぬれてまつかな柿もろた

 しぐるるほどは波の音たかく

 大魚籠さかさまにしぐれてゐる

 濡れてはたらくめうとなかよく

 しぐれて人が海をみてゐる

【しぐれてぬれてまつかな柿もろた】

この日の日記に、「しぐれてぬれてまつかな柿もろた」の句があります。牟岐町の国道55線(旧土佐海道)沿いの関集落(長尾屋跡)に、この句碑があります。この日、長尾屋の戸をたたいた山頭火を迎え入れ、柿をご馳走した宿の主人らのぬくもりが伝わる句です。句碑の辺りに、今なお旧土佐街道と当時の町並みがわずかに残っています。

十一月五日 快晴、行程五里、佐喜浜、樫尾屋。

すっきり晴れあがつて、昨日の時化は夢のやうに、四時に起きて六時に立つ。今日の道はよかつた、すばらしかつた(昨日の道もまた)。山よ海よ空よと呼びかけたいやうだつた。波音、小鳥、水、何もかもありがたかつた。太平洋と昇る日! 途中時々行乞。お遍路さんが日にまし数多くなってくる、よい墓地があり、よい橋があり、よい神社があり、よい岩石があった。……おべんとうはとても景色のよいところでいただいた、松の木のかげで、散松葉の上で、石蕗の花の中で、大海を見おろして。ごろごろ浜のごろごろ石、まるいまるい、波に磨かれ磨かれた石だ。早いけれど、佐喜浜の素人宿ともいいたいような宿に泊った、浜はお祭、みんな騒いでいる、今夜も私は二杯傾けた! 一室一人で一燈を独占した、おかげで日記をだいぶ整理することが出来た。行乞の功徳、昨日は銭四銭米四合、今日は銭二銭米五合、宿銭はどこでも木賃三十銭米五合代二十銭、米を持っていないと五十銭払わなければならない。行乞のむつかしさ、私はすっかり行乞の自信をなくしてしまった、行乞はつらいかな、やるせないかな。(中略)

   (十一月五日、室戸岬へ)

 おほらかにおしよせて白波

   ごろごろ浜

 水もころころ山から海へ

   銃後風景

 おぢいさんおばあさん炭を焼いてゐる

 旅はほろほろ月が出た

 旅のからだをぽりぽり掻いてゐる

 病みて旅人いつもニンニクたべてゐる

   (室戸)

 わだつみをまへにわがおべんたうまづしけれども

 あらなみの石蕗の花ざかり

 松はかたむいてあら波のくだけるまま

 蔦がからまりもみづりて電信棒

 われいまここに海の青さのかぎりなし

 秋ふかく分け入るほどはあざみの花

 墓二つ三つ大樟のかげ

 落葉あたたかく噛みしめる御飯のひかり

 いちにち物いはず波音

   野宿さまざま

 こんやはひとり波音につつまれて

 食べて寝て月がさしいる岩穴

 枯草ぬくう寝るとする蠅もきてゐる

 月夜あかるい舟があつてそのなかで寝る

 泊るところがないどかりと暮れた

 すすき原まつぱだかになつて虱をとる

 かうまでよりすがる蠅をうたうとするか

 水あり飲めばおいしく洗ふによろしく

 波音そのかみの悲劇のあと

   太平洋に面して

 ぼうぼううちよせてわれをうつ

 現実直前の力。大地を踏みしめ踏みしめて歩け!

【いちにち物いはず波音】

この日の日記に、「いちにち物いはず波音」の句があります。言いたいことだけを言って過ごせる日々。黙っていられる日々。言いたくなった時だけ、言うに価値あることだけを言えばいい日々。それが、人間の理想の日々かもしれません。

【四国遍路】

また、「ぼうぼううちよせてわれをうつ」の室戸での句もあります。第23番薬王寺から第24番最御崎寺までは約76㎞。山頭火が23番に参拝したのは11月3日、24番に参拝したのは11月6日。四国の空と海を満喫しながら、3日間かけて歩いています。44歳で出家という異例の道を歩きながら、それが必ずしも求道一筋の満足のいくものではなかったことを、この句は正直に示しています。

十一月六日 曇、時雨、晴、行程六里、室戸町、原屋。

朝すこしばかりしぐれた。七時出立。行乞二時間、銭四銭米四合あまり功徳を戴いた、行乞相は悪くなかつたと思ふ、海そひに室戸岬へいそぐ、途上、奇岩怪石がしばしば足をとどめさせる、椎名隧道は額画のやうであつた、そこで飯行李を開く、私もまた額画の一部分となつた訳である。室戸岬の突端に立ったのは三時頃であつたらう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果てしなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽きない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる、……ここにも大師の行水池、苦行窟などがある、草刈婆さんがわざわざ亀の池まで連れていつてくれたが、亀はあらわれなかつた、婆さん御苦労さま有難う。山の上に第二十四番の札所東寺がある、堂塔はさほどでないが景勝第一を占めている、そこで、私は思いがけなく小犬に咬みつかれた、何でもないことだが寺の人々は心配したらしい、私はさっさと山を下った、私としてこれを機縁として、更に強く更に深く自己を反省しなければならない。麓の津呂で泊るつもりだったけれど泊れなかった(断られたり、留守だったりして)、とうとう室戸の本町まで歩いて、やっと最後の宿のおかみさんに無理に泊めて貰った、もうとっぷり暮れていたのである。片隅で無燈、一杯機嫌で早寝した(風呂があってよかった)。

   (十一月六日)“室戸岬”へ

 波音しぐれて晴れた

 あらうみとどろ稲は枯れてゐる

 かくれたりあらはれたり岩と波と岩とのあそび

 海鳴そぞろ別れて遠い人をおもふ

 ゆふべは寒い猫の子鳴いて戻つた

 あら海せまる蘭竹のみだれやう

   東寺

 うちぬけて秋ふかい山の波音

   土佐海岸

 松の木松の木としぐれてくる

【室戸岬】

この日の日記に、「海そひに室戸岬へいそぐ」とあります。海岸から室戸岬灯台を見ると、灯台の向こうに第24番札所があります。空海修行の伝説地・御蔵洞もあります。

十一月九日 曇――雨、行程三里、和食松原、恵比須屋。

四時半起床、雲ってはいるが降ってはいない、助かった! という感じである、おばあさんが起きるまで日記をつける、散歩する、身心平静、近来にないおちつき、七時前出発、橋を二つ渡るとすぐ安芸町、午前中行乞、かなり長い街筋である、行乞しおえると雨になった、雨中を三里あまり歩いて和食町、教えられた宿――町はずれの、松林の中のゑびすやにおちつく、ほんによい宿であった、きれいでしんせつでしずかで、そしてまじめで、――名勝、和食の松原、名産、和食笠。夕方、はだしで五丁も十丁も出かけて、一杯ひっかけて(何といううまさ!)、ずぶぬれになった、御苦労々々々。晩食後、同宿の行商老人と共に宿の主人から轟神社の神事について聞かされた、どこでもたれでもお国自慢は旅の好話題というべしである。今日は大降りだった、とある路傍のお宮で雨やどりしていると田舎のおかみさん二人もやってきた、その会話がおもしろい、言葉がよく解らないけれど、腰巻の話、おやじの話、息子の話。今日の功徳はめずらしくも、銭二十八銭、米九合余。(中略)

   (十一月九日)

 水音明けてくる長い橋をわたる

 朝の橋をわたるより乞ひはじめる

 朝のひかりただよへばうたふもの

   高知へ

 日に日に近うなる松原つづく

【朝の橋をわたるより乞ひはじめる】

この日の日記に、「朝の橋をわたるより乞ひはじめる」の句があります。朝の橋を渡り終えて、読経を始めて、いい充実感がわいてくるのを知ります。

十一月十八日 好晴、往復四里、おなじく。

山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ、主人に教えられて、二里ちかく奥にある池川町へ出かけて行乞、九時から十二時まで、いろいろの点で、よい町であった(行きちがう小学生がお辞儀する)。行乞成績は銭七十九銭、米一升三合、もったいなかった(留守は多かったけれど、お通りは殆んどなかった、奥の町はよいかな)。渓谷美、私の好きな山も水も存分に味った、野糞山糞、何と景色のよいこと! 三時には帰って来て、川で身心を清め、そして一杯すすった。明けおそく暮れ早い山峡の第二夜が来た、今夜は瀬音が耳について、いつまでも睡れなかった。宵月、そして星空、うつくしかった。

 “谿谷美”

 “善根宿”

 “野宿”

行乞しつつ、無言ではあるが私のよびかける言葉の一節、或る日或る家で――

 “おかみさんよ、足を洗うよりも心を洗いなさい、石敷を拭くよりも心を拭きなさい”

 “顔をうつくしくするよりもまず心をうつくしくしなさい”

   (十一月十六日)(十一月十七日)(十一月十八日)

 あなたの好きな山茶花の散つては咲く(或る友に)

   野宿

 わが手わが足われにあたたかく寝る

 夜の長さ夜どほし犬にほえられて

 寝ても覚めても夜が長い瀬の音

 橋があると家がある崖の蔦紅葉

 山のするどさそこに昼月をおく

 びつしり唐黍ほしならべゆたかなかまへ

 岩ばしる水がたたへて青さ禊する

 山のしづけさはわが息くさく

【わが手わが足われにあたたかく寝る】

この日の日記に、「山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ、主人に教えられて、二里ちかく奥にある池川町へ出かけて行乞」とあり、「わが手わが足われにあたたかく寝る」の句があります。今宵一夜は、人との交渉の一切を離れて眠り、大地にじかに触れて夜を送っています。自分を温めるものが、自分であると思う時、心はむしろ安らかになります。この年、晩年の種田山頭火は四国の歩き遍路に出てこの地を訪れ、思いがけない歓待を受けた喜びを日記に記しています。この句碑が、高知県仁淀川町土居の天明逃散地である安の河原のそばに建っています。


https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947309107&owner_id=7184021&org_id=1947335815 【山頭火の日記(昭和14年11月20日~)】より

十一月二十日 晴、好晴、行程六里、久万町、札所下、とみや。

やっと夜が明けはじめた、いちめんの霧である、寒い寒い、手足が冷える(さすがに土佐は温かく伊予は寒いと思う)、瀬の音が高い、霧がうすらぐにつれて前面の山のよさがあらわれる、すぐそばの桜紅葉がほろほろ散りしく、焼香読経、冥想黙祷。そこへ村の信心老人――この堂の世話人らしい――が詣でで来て、何かと聞かされた、遍路にもいろいろあって、めったにはここに泊められないこと、お賽銭を盗んだり何かして困ること、幸にして私の正しさは認めて貰った。寒いけれど(川風が吹くので)八時から一時間ばかり行乞(銭二十八銭、米四合、途中も行乞しつつ)、それから久万へ、成川の流れ、山々の雑木紅葉、歩々の美観、路傍の家のおばあさんからふかし薯をたくさん頂戴した、さっそく朝食として半分、またの半分は昼食として、うまかった、うれしかった。三里ちかく来ると御三戸橋(みみとばし)、ここから面河渓へ入る道が分れている、そこの巨大なる夫婦岩は奥地の風景の尋常でなかろうことを思わせるに十分である、私はひたむきに久万へ――松山へといそいだ。山がひらけるともう久万町だった、まだ日は落ちなかった、札所下の宿に泊ることが出来た、おばあさんなかなかの上手者、よい宿である、広くて深切で、そして。――五日ぶりの宿、五日ぶりの風呂!(よい宿のよい風呂) 街まで出かけて、ちゃんぽんで二杯ひっかけた、甘露々々、そして極楽々々(宿へは米五合銭三十銭渡して安心)。同宿十数人、同室の同行(修行遍路)から田舎餅を御馳走になった、何ともいえない味だった、ありがとう。半夜熟睡、半夜執筆、今夜は夜の長いのも苦にならない。(中略) 田舎には山羊を飼養している家が多い。山羊は一匹つながれて、おとなしく、さびしく草を食べたり鳴いたり、――何だか私も山羊のような!

   (十一月二十日)(十一月十九日も)

 つつましくも山畑三椏(みつまた)咲きそろひ

 岩が大きな岩がいちめんの蔦紅葉

 なんとまつかにもみづりて何の木

 銀杏ちるちる山羊はかなしげに

 水はみな瀧となり秋ふかし

 ほんに小春のあたたかいてふてふ

 雑木紅葉を掃きよせて焚く

   野宿

 つめたう覚めてまぶしくも山は雑木紅葉

【つつましくも山畑三椏咲きそろひ】

この日の日記に、「つつましくも山畑三椏(みつまた)咲きそろひ」の句があります。この句碑が、静岡市秘在寺薬師庵境内にあります。静岡市の山頭火研究家、愛好者らによって建てられ、毎年句碑まつりが行われています。

十一月廿一日

早起、すぐ上の四十四番(注=菅生山大宝寺)に拝登する、老杉しんしんとして霧ふかい、よいお寺である。(中略)八時から九時まで久万町行乞、銭十三銭米二合、霧の中を二里ちかく歩いてゆくと三坂峠、手足の不自由な同行と道連れになり、ゆっくりと歩く(鶏を拾つた話はをかしかつた)、遍路みちはあまり人通りがないと見えて落葉が深い、桜の老木が枯れて立つている、峠が下りになつたところでならんでお弁当を食べてから別れる、ご機嫌よう。山が山に樹が樹に紅葉をひろげてうつくしさつたらない、いそいで四十六番(注=医王山浄瑠璃寺)参拝、長い橋を渡って、森松駅から汽車で松山へ、立花駅から藤岡さんの宅へとびこんだのは六時頃だったろう、ほっと安心する。人のなさけにほごれて旅のつかれが一時に出た、ほろ酔きげんで道後温泉にひたる、理髪したので一層のうのうする、緑平老のおせったいで、坊ちゃんというおでんやで高等学校の学生さんを相手に酔いつぶれた! それでも帰ることは帰って来た! 奥さん、たいへんお手数をかけました、……のんべいのあさましさを味う、……友情のありがたさを味う。

   大宝寺

 朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく

 お山は霧のしんしん大杉そそり立つ

   へんろ宿

 お客もあつたりなかつたりコスモス枯れ枯れ

 霧の中から霧の中へ人かげ

 雑木紅葉のかがやくところでおべんたう

 秋風あるいてもあるいても

   蓮月尼

 宿かさぬ人のつらさをなさけにて朧月夜の花の下臥

【遍路みち】

この日、山頭火が歩いたのは今の国道33号線だったかどうか分りませんが、いずれにせよ当時、交通量は少なかったでしょう。現在は愛媛と高知を結ぶ幹線、交通量は非常に多いです。

【朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく】

この日の日記に、「朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく」の句があります。大室寺の山門を潜ると、本堂に至る石段があり、石段の右手にこの句碑があります。お遍路さんの大半は、気付くことなく登って行きます。

十二月三日 晴。

気分ややかろし、第五十七回の誕生日、自祝も自弔もあったものじゃない! 同室の青年に話していると、高橋さん来訪、同道して藤岡さん往訪。招かれて、夕方から高橋さんを訪う、令弟(茂夫さん)戦死し遺骨に回向する、生々死々去々来々、それでよろしいと思う。十時ごろ帰宿、酒がこころよくまわらないので、そしていろいろさまざまのことが考えられるので、いつまでもねつかれなかった。

   或る日

 なんとあたたかなしらみをとる

   十二月三日夜、一洵居、戦死せる高市茂夫氏の遺骨にぬかづいて

 供へまつる柿よ林檎よさんらんたり

 なむあみだぶつなむあみだぶつみあかしまたたく

 蝋涙いつとなく長い秋も更けて

 わかれていそぐ足音さむざむ

 ひなたしみじみ石ころのやうに

 さかのぼる秋ふかい水が渡れない

   或る老人

 ひなたぢつとして生きぬいてきたといつたやうな

【ひなたしみじみ石ころのやうに】

この日の日記に、「ひなたしみじみ石ころのやうに」の句があります。ですがこの句には、いままでの山頭火の生命力が感じられません。死期を予感していて、それにこだわっていたのでしょうか。とにかく自然の有り態が、こころの姿としてよく見えなくなっています。

十二月十五日 晴。

昨日の飲みすぎ食べすぎがたたっている、朝酒数杯でごまかす。午前、高橋さん来訪、厚情に甘えて、新居へ移った、御幸山麓、御幸寺の隠宅のような家屋、私には過ぎている、勿体ないような気がする。高橋さんがいろいろさまざまの物を持って来て下さる、すなおに受ける、ほんとうに感謝の言葉もない、蒲団、机、火鉢、鍋、七輪、バケツ、茶椀、箸、そして米、醤油、塩。昼食は街のおでんやで、夕食は高橋さんの宅で。――夜は高橋さんに連れられて安井さんを訪ねた、あるだけの酒をよばれる、揮毫したり、俳談したり、絵を観せてもらったりしているうちに、いつしか十時近くなったのでいそいで帰る、練兵場を横ぎりそこなって、うろうろしたけれど、さわりなく帰れた、そしてすぐ寝た。ここで私は宿の妻君に改めて感謝しなければならない、まことによい宿であった、よい妻君であった、私はとうとう二十日近くも滞在してしまった(事情がそうさせたのであるが、宿がよくなかったならば、私はどこかへとびだしたであろう)。四国巡拝中の遍路宿で、もっとも居心地のよい宿と思う(もっとも木賃料は四十銭で、他地方よりも十銭高いけれど、道後の宿一般がそうなのである、それでも一日三食たべて六十五銭乃至七十銭)。夜の敷布上掛はいつも白々と洗濯してある、居間も便所も掃除が行き届いている、食事もよい、魚類、野菜、味噌汁、漬物、どれも料理が上手でたっぷりある、亭主は好人物にすぎないらしいが、妻君は口も八丁、手も八丁、なかなかの遣手だった。

十二月十五日 晴(重複するけれど改めて記述する)

とうとうその日――今日が来た、私はまさに転一歩するのである、そして新一歩しなければならないのである。一洵君に連れられて新居へ移って来た、御幸山麓御幸寺境内の隠宅である、高台で閑静で、家屋も土地も清らかである、山の景観も市街や山野の遠望も佳い。京間の六畳一室四畳半一室、厨房も便所もほどよくしてある、水は前の方十間ばかりのところに汲揚ポンプがある、水質は悪くない、焚物は裏山から勝手に採るがよろしい、東々北向だから、まともに太陽が昇る(この頃は右に偏っているが)、月見には申分なかろう。東隣は新築の護国神社、西隣は古刹龍泰寺、松山銀座へ七丁位、道後温泉へは数町。知人としては真摯と温和とで心からいたわつて下さる一洵君、物事を苦にしないで何かと庇護して下さる藤君、等々、そして君らの夫人。すべての点に於て、私の分には過ぎたる栖家である、私は感泣して、すなおにつつましく私の寝床をここにこしらえた。夕飯は一洵君の宅で頂戴し、それから同道して隣接の月村画伯を訪ね、おそくまで話し興じた。新居第一夜のねむりはやすらかだった。

 新“風来居”の記

 “無事心頭情自寂

   無心事上境都如”(自警偈)

【新風来居「一草庵」】

この日の日記に、「一洵君に連れられて新居へ移って来た、御幸山麓御幸寺境内の隠宅である、高台で閑静で、家屋も土地も清らかである、山の景観も市街や山野の遠望も佳い。京間の六畳一室四畳半一室、厨房も便所もほどよくしてある、水は前の方十間ばかりのところに汲揚ポンプがある、水質は悪くない、焚物は裏山から勝手に採るがよろしい、東々北向だから、まともに太陽が昇る(この頃は右に偏っているが)、月見には申分なかろう。東隣は新築の護国神社、西隣は古刹龍泰寺、松山銀座へ七丁位、道後温泉へは数町」とあります。このころの句に、「おちついて死ねさうな草枯るる」があります。一洵らの世話があり、市内御幸町御幸寺の黒田和尚の好意で、境内の納屋を改造してもらい入庵、のち大山澄太が「一草庵」と名づけ、以来「風の夜を来て餅くれて風の夜をまた」の句のように、松山の知友に暖かく迎えられて過ごしました。新居一草庵では、老山頭火にとって、生涯で最も静かなあたたかな生活が始まったのです。なお一草庵跡には、「春風の鉢の子一つ」「鐵鉢の中へも霰」「濁れる水の流れつつ澄む」「おちついて死ねさうな草枯るる」などの句碑があり、「鐵鉢の中へも霰」の句碑は没後初めて建てられた(山頭火にとって2番目の)句碑で、山頭火の髯(あごひげ)が納められています。

十二月十六日 (晴)

高橋さんの内へ行たり高橋さんが来たりで。……


https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947335815&owner_id=7184021&org_id=1947361825

【山頭火の日記(昭和15年2月11日~、松山日記)】より

『松山日記』

   “同塵居” 誓詞に代へて

  我昔所造諸悪業

  皆由無始貪瞋痴

  従身語意之所生

  一切我今皆懺悔

   三帰礼

 自から仏に帰依し奉る  当に願はくは衆生と共に

 大道を体解して       無上意を発さん

 自から法に帰依し奉る  当に願はくは衆生と共に

 深く経蔵に入りて      智慧海の如くならん

 自から僧に帰依し奉る  当に願はくは衆生と共に

 大衆を統理して       一切無礙ならん

             願以此功徳 普及於一切

             我等与衆生 皆共成仏道

 紀元二千六百年元日

 輝かしい新世紀の黎明。――

 午前九時、聖寿万歳斉唱、黙祷。――

 新年誓詞――

  “ここに昭和十五年の元旦を迎へ恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉り、いよいよ肇国の精神を顕揚

   し、強力日本を建設して新東亜建設の聖業完遂に邁進し、もつて紀元二千六百年を光輝あ

   る年たらしめんことを堅くお誓ひ申します。”

二月十一日 曇――雨。

紀元節、新らしい世紀を意識し把握し体得せよ、殆んど徹夜だつた、句稿整理。午前、道後温泉入浴、護国神社参拝、午後、一洵兄と同道して月村君を訪ね、三人打連れて漫歩漫談、降りだしたので急いで帰つた。今日も飲みすぎだつた、酒を慎しむべし、己を省みるべし、シヨウチユウよ、さよなら!(消極的に日本酒だけを味ふべし) 落ちついて雨ふる、雨ふりて落ちつく。……徹夜執筆。――

【松山日記】

『松山日記』には、昭和15年2月11日から昭和15年8月2日までの日記が収載されています。

三月十二日 晴。

朝、ポストまで、運よくはぎ一袋。お寺の女性が洗濯して赤い布をひらひらさせる、お寺にも春が来たかな! ――だんだん食べるものがなくなる――寒いな、心細いな。――夕はあるだけの御飯を炊いて食べた、胡麻塩をふりかけて、――それでも数碗けろりと平らげるのだから、私の胃袋は強い々々! 友達への消息に――伊予路の春は日にましうつくしくなります、私もこちらへ移つて来てから、おかげでしごくのんきに暮らせて、今までのやうに好んで苦しむやうな癖がだんだん矯められました。……

 おちついて死ねさうな草萠ゆる

和尚さん来談、とりとめもない四方山話をしたが、予想してゐたよりも、文芸に理解のある新らしい老人だつた。午後は松山散策、――立花から郊外へ(朱鱗洞君の墓を展した、昨秋の深更まゐつたときは酔中で礼を失したことが多く済まないと心が咎めてゐたが、これでほつと安心した)。おだやかなねむり、千金万金にも代へがたいねむりだつた。

【おちついて死ねさうな草萠ゆる】

この日の日記に、「おちついて死ねさうな草萠ゆる」の有名な句があります。一草庵での作。山頭火は、死期が間近いことをうすうす感じていたかもしれません。一草庵跡に、この句碑があります。

五月廿七日 晴。

早起出立、中国九州の旅へ、――九時の汽船で広島へ向ふ。身心憂欝、おちついてはゐるけれど、――この旅はいはば私の逃避行である、――私は死んでも死にきれない境地を彷徨してゐるのだ。海上平穏、一時宇品着、電車で局にどんこ和尚を訪ふ、宅で泊めて貰ふ、よい風呂にはいりおいしい夕飯をいただく、ああどんこ和尚、どんこ和尚の家庭、しづかであたたかなるかな、私もくつろいでしんみりした。夜、後藤さん来訪、三人でしめやかに話した。罰あたりの私はおそくまで睡れなかつた。

【最後の旅路】

この日の日記に、「早起出立、中国九州の旅へ、――九時の汽船で広島へ向ふ」とあります。これまで世話になった俳友知人に出来上がった句集を呈上し、惜別の情にしたろうと、出かけることにしました。

五月廿八日 曇。

早起、一雨ほしいなと誰もが希ふ。いつもの飲みすぎ食べすぎで多少の腹痛と下痢、自粛しよう、しなければならない。朝、奥さんは道後へ、私は山口へ。――己斐までバスと電車、賃金七銭、何といふ安さ、もつたいないと思ふ、折よく九時の列車に乗れた。バスの中ではうるさかつた、汽車の中ではさうざうしかつた。十二時、徳山下車、白船居訪問、ここでもよばれる、旧友のなつかしさ。三時の汽車で山口へ、四時着、Y君を訪ねる、M君を招き、三人連れで湯田の或る料亭で夕飯を食べる、飲みたいだけ飲み、しやべりたいだけしやべつた、Y君の沈黙とM君の饒舌とは変な対照だつた。夜ふけて帰山、私はY君の厄介になつた、おそくまでいろいろ話した。……

 曇れば波立つ行く春の海の憂欝

 島をばらまいて海は夏めく

 いちにち日向でひとりの仕事

   柊屋(澄太居)

 よい眼ざめの雀のおしやべり

 風は初夏の、さつさうとしてあるけ

 むくむく盛りあがる若葉匂ふなり

 初夏の風のひかりて渦潮の

   自嘲

 六十にして落ちつけないこころ海をわたる

【六十にして落ちつけないこころ海をわたる】

この日の日記にある、「六十にして落ちつけないこころ海をわたる」の句は自嘲の句であり、故郷へ向かうのが今だに「落ちつけない」というのです。結局晩年に至っても、故郷へ近づくことに戸惑う思いを隠せなかった山頭火にとって、対岸の松山から故郷を思うことが、かろうじて落ちつけたのではないでしょうか。

【一代句集『草木塔』出版】

4月28日、山頭火の一代句集『草木塔』が出版されました。部数700部。山頭火は、この記念塔あるいは墓標というべき句集『草木塔』を携えて、5月27日から6月3日まで、中国・九州地方の旅に出ています。これまで世話になった俳友知人にこの句集を呈上し、惜別の情にしたろうというのです。

六月四日 晴。

休養。夏を感じる。買物に出かけて、そしてほろほろぼろぼろ。

 はだかへ木の実ぽつとり

【はだかへ木の実ぽつとり】

この日の日記に、「はだかへ木の実ぽつとり」の句があります。また、山頭火の晩年の句に「いつ死ぬる木の実は播いておく」があります。死の訪れをそう遠くないものと予感したものにとって、木の実を播(ま)くということは何を意味するものでしょうか。自分の播いた木の実が成長し、この自然の中にあるということ。それは、自然の大きな営みにほんのささやかではありますが、一つのたしかな賑わいを加えることです。山頭火は、それだけのために木の実を播いたのです。また、いつ死ねる句は作っておく-----。それが、ほんとうの句をつくるということなのだ、と山頭火はいっています。

七月二日 晴。

けさも早起、おとなりの時計が五つ鳴つた。身辺整理、捨てられるだけ捨てる。どうやら梅雨も早目に上つたらしい、暑くなつた、真夏真昼の感じがあつた。夕方から一洵老徃訪。

 “あるときは王者のこころ

  あるときは乞食のこころ

  生きがたく生く”

八月一日 晴。

興亜奉公日、その一週年記念日。酒を飲め、飲まずにはゐられないならば、――酒に飲まれるな、酒を飲むならば。――暗欝、自責の苦悩に転々する、終日黙々として謹慎する。

 もくもく蚊帳のうちひとり食くふ

この苦悩は私のみが知つてゐる、それを解消するのは私だけである。かなしいかな、ああ、さびしいかな。

【酒びたり】

この日の日記に、「酒を飲め、飲まずにはゐられないならば、――酒に飲まれるな、酒を飲むならば。――暗欝、自責の苦悩に転々する、終日黙々として謹慎する」とあります。九州地方から帰庵してから、気持ちの上でも整理がついて平穏な日々をすごしています。山頭火は、死期が間近いことをうすうす感じていたのかもしれません。ですが、悟り澄ました庵住というのではなく、酒が入れは乱れたりもしています。

八月二日 曇。

身心やや軽く。――B亭の妻君来庵、掛取也、今更のやうに今春の悪夢を反省させられる。終日黙坐、麦ばかりの御飯を少々戴いて。あるがままに受け入れて、なるやうに任しきらう。事にこだはるな、物にとどこほるな、自己に侫るな、他己に頼るな。

 “私は旧生活体制を清算する。そして、私は私の新生活体制をうち立てる。

  そこで、改巻する。――”

   (八月三日朝)

○一遍上人(證誠大師)

┌道後、宝厳寺   古塚や恋のさめたる柳散る  子規

└内子、願成寺

○城北寺町

 寒月や石塔のかげ松のかげ  子規

 黄鶴一度去不復返 白雲千載空悠々  (李白)

【第七句集『鴉』刊行】

山頭火は、昭和15年7月25日に第七句集『鴉』を刊行しています。「後ろ書き」に次のようにあります。

「三年ぶりに句稿(昭和十三年七月―十四年九月)を整理して七十二句ほど拾ひあげた。所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。  (昭和十五年二月、御幸山麓一草庵にて 山頭火)」

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947361825&owner_id=7184021&org_id=1947387788

【山頭火の日記(昭和15年8月3日~、一草庵日記)】

『一草庵日記』

八月三日 晴。

絶食、私は絶食しなければならない、食物がないといふ訳ばかりでなく、身心清掃のためにも。――せめて今日一日だけでもすなほにつつましく正しく暮らしたいと思ふ、その日その日――その時その時を充実してゆくことが一生を充実することである。黙々読書、おのれに籠つておのれを観た、労れると柴茶をすすつた……今日も午後はおこぼれ夕立があつた、めつきり涼しくなつて、夜明けは肌寒くさへ感じた、夜無水居を訪ふ。

【一草庵日記】

『一草庵日記』には、昭和15年8月3日から昭和15年10月8日(山頭火最後の日記)までの日記が収載されています。山頭火は飄々と旅から旅へ、流転の日をかさねました。晩年は松山市の一草庵に住みましたが、無私無欲、しばしば酒につかり、食べるものを欠き、伝統や新聞も停められ、寒さと飢えに難儀していますが、しかし山頭火は少しもへこたれませんでした。常に変わることなく愚を守り、拙をつらぬき、句作に生命を燃やし、未曽有の詩的境地をひらきました。

八月十五(十四の間違い)日 曇、晴。

眼がさめるとそのまま起きる、おとなりの時計が四つうつた。こんなに曇つてどんより蒸暑くては稲の虫害が心配になる、――晴れよ晴れよ、照れ照れと祈りつづける。……昨夜大食、今朝少食。どこの店にもマツチが品切れ、タバコの吸へないには少々まゐつた。泰山木の一枝を貰つて来て庭隅に挿したが、どうぞ根づくやうに、夾竹桃が芽ぶいたやうに。せめて――いとせて私が末後の一句を得んことを。――おちついて、私は待つてゐる。……けふはあるだけの麦を炊いた、そしてそれで今日明日を支へやうと考へてゐるところへ、一洵老来庵、なつかしや一ケ月ぶりの対談である、旅の話を聴く、そしてまた土産代を頂戴する、ありがたう。午後は道後へ、一浴一杯、そしてまた一杯、――それがいけなかつた、また一杯また一杯でさんざんだつた、どろどろぼろぼろになってしまつた。ああ、ああ。人間のあさましさよ、そして私の弱さよ、私は倒れたまま空を見つめたまま自分を罵り自己を鞭打つばかりだつた。... …

【道後温泉】

山頭火は、松山に来てからは道後温泉へよくでかけたようです。「朝湯のよろしきもくもくとして順番を待つ」の句があります。

九月一日 曇 微雨。

二百十日、興亜奉公日一周年記念日、関東震災記念日。いろいろの意味で、今日は私にとつて意味ふかい日である。跣足になつて近郊を散歩する、転々一歩一歩の心がまへである。独行不愧己、独寝不愧衾、慎独の境地である、私の生きるべき世界である。省みて疚しい私である、俯仰天地に恥ぢない私でなければならないのである。終日終夜謹慎、身心安定して熟睡することが出来た。

私の覚悟――

 節酒断行、借金厳禁、二食実践。

約言すれば、節慾である、生活に即して具体的にいへば、

 酒は一日一合、一度に三合以上、一日に五合以上は飲まないこと、酒は啜るべく味ふべく、呷

 らないこと、微酔以上を求めないこと。借金は決してしないこと、その借金が当面逼迫の融通で

 ないかぎりは、食べ過ぎないこと、代用食を実行すること。煙草も刻ですますやうに努めるこ

 と。

ただただ実践である、省察が行持となつて発現しなければならない、これを誓ふ、私は私に誓ふ、汝自身を守れ、愚を貫け。

【もりもりもりあがる雲へあゆむ】

山頭火句帳のこの日には、四国88ヶ所第52番札所太山寺巡拝のときに詠んだ「もりもりもりあがる雲へあゆむ」の句が記されています。この句には、生命のぎらつきを感じます。太山寺参道に、この句碑があります。また、松山市御幸町の長建寺にもこの句碑があります。

九月十七日 晴。

起ると、隣の時計が五つ鳴つた、山に落ちる月がうつくしかつた。身心の平静をとりもどした、私は日に日に刻々燈みつつある、と自信し自祝する。

 ぽろぽろ冷飯ぼろぼろ秋寒

これは今朝の実感である、実情は偽れない、そこにこそ句の尊さがあるといふものぞ。けさも郵便は来ないのか、ああああ、山頭火みじなことである。私が若しも――若しもだが――酒をやめることが出来たら私はどんなにやすらかになるだらう、第一、物質的に助かる、食ふや食はずやのその日ぐらしから救はれる、赤字のなやみ、借金のせつなさがうすらぎ、つまらない苦労がなくなる、――だが、私には禁酒の自信が持てない、酒を飲むことが、私にあつては、生きてゐることのうるほひだから! アル中の徴候がだんだん現れてきよる、ああ。ちよいとポストまで、途上、句を拾ふ、タバコの吸ひさしを拾ふ。今日の買物は、――二十六銭 平麦一升 十銭 ナデシコ 六銭 豆腐一丁 五銭 切手 卑しいかな人間、――醜いかな山頭火! 風、風、風――秋、秋、秋。身のまはりをかたづける、自分のエゴイズムを見せつけられたりして。

俳句について、――

     ┌精神――日本的――不変  ┌構成的

俳句的│                   │

    └表現――時代――流行    └主体的

完成――作品個々的には、未完成――作家的には、

御飯を炊きつつ、いろいろさまざまのことを考へる。おお何とデカい胃袋、さういふ胃袋の持主――私といふ無能力老人は不幸(あたりまへだけれど)である。ひしひしと迫るもの、ああ私は生きてゐられないのだ! 自粛の力――時代の力――そして季節の力。今夜もよい月、ひとりしづかに読みつつ考へつつ寝た。

【タバコを拾う】

この日の日記に、「途上、句を拾ふ、タバコの吸ひさしを拾ふ」とあります。また、このころの山頭火の句に、「あてもなくあるいて喫いさし拾ふ句を拾ふ」があります。山頭火は、還暦を迎えようとしてなお、道端に落ちたタバコを拾わなければならない姿に、落ちるところまで落ちて、むしろ腰を据えた一人の男を見ることができます。

【身のまはりをかたづける】

さらに、日記に「身のまはりをかたづける」とあります。また、山頭火の句に「身のまはりかたづけて遠く山なみの雪」があります。山頭火はよく身辺整理をしています。それは、意外に几帳面だった性格からきていますが、むしろ、いつ死んでもいいように、という配慮からきたものでした。さらに、「旅のかきおき書きかへておく」の句を書き残しています。

十月六日 晴―曇。

今日明日は松山地方の秋祭。和尚さんの温言―お祭りのお小遣が足りないやうなら少々持ち合せてゐますから御遠慮なく――とわざわざいつて来られたのである、――温情、ああありがたしともありがたし、昨年一洵老に連れられて此処新居へ移つて来た、御幸山麓御幸寺境内の隠宅――高台で閑静で家も土地も清らかであり市街や山野の遠望も佳い――が殊に和尚さんにその人を得た。ただ感謝あるばかりである。澄太が一草庵と名づけてくれた、一木一草と雖も宇宙の生命を受けて感謝の生活をつづけてゐる、感謝の生活をしろよとは澄太の心であつたのであらう。一草庵―狭間の六畳一室、四畳半一室、厨房も便所もほどよくしてある、水は前の方十間ばかりのところに汲場ポンプがある、水質は悪くない、焚物は裏から勝手に採るがよろしい、東に北向だからまともに太陽が昇る、(此頃は右に偏つてはゐるが)月見には申分がない。東隣は新築の護国神社、西隣は古刹龍泰寺、松山銀座へ七丁位、道後温泉へは数町、一洵どんぐり庵へは四丁、友人もみな、親切――、すべての点に於て、私の分には過ぎたる栖家である。私は感謝して、すなほにつつましく私の寝床をここに定めてから既に一年になろうとしてゐる。それにそれに……。感謝の生活、私は本当にそれを思ふ。

【重複される日記】

山頭火のこのころの日記、特に10月6日と7日の日記が重複されて書かれています。日記を読むと、どうもアルコール中毒によるせん妄、幻覚などの症状が現れてきているようです。

十月七日 曇―晴。

早朝和尚さんに逢ふ、――昨日はどうでした、お祭りのお小遣はありますかと言ふてくれた――勿体なし勿体なし、人には甘えないつもりだけれど、いづれまたすみませんが――とお願ひすることだらう、ああああ。けさは猫の食べのこしを食べた、先夜の犬のことをもあはせて雑文一篇を書かうと思ふ、いくらでも稿料が貰へたら、ワン公にもニヤン子にも奢つてやらう、むろん私も飲むよ! 犬から餅の御馳走になつた話、――

【犬から餅の御馳走になつた話】

この日の日記に、「犬から餅の御馳走になつた話」とありますが、数日前の10月2日の日記に、「この夜どこからともなくついて来た犬、その犬が大きい餅をくはえて居つた、犬から餅の御馳走になつた。ワン公よ有難う、白いワン公よ、あまりは、これもどこからともなく出てきた白い猫に供養した。最初の、そして最後の功徳!  犬から頂戴するとは!」とあります。またこのころ、「秋の夜や犬からもらったり猫に与えたり」の句があります。山頭火が他者や弱者(コオロギの虫など)にも、最後まで慈悲深かったのに間違いはありません。この句が山頭火の最後の句といわれていますが、諸説あります。


https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947387788&owner_id=7184021&org_id=1947445446 【山頭火の日記(昭和15年10月8日、山頭火最後の日記)】より

十月八日 晴。

早朝護国神社参拝、十日、十一日はその祭礼である、――暁の宮は殊にすがすがしく神々しい、なんとなく感謝、慎しみの心が湧く、感謝、感謝!感謝は誠であり信である、誠であり、信であるが故に力強い、力強いが故に忍苦の精進が出来るのであり、尽きせぬ喜びが生れるのである。皇室――国への感謝、国に尽くした人、尽くしつつある人、尽くすであらう因縁を持つて生れ出る人への感謝、母への感謝、我子への感謝、知友への感謝、宇宙霊―仏―への感謝。――一洵老が師匠の空覚聖尼からしみじみ教えてもらつたという懺悔、感謝、精進の生活道は平凡ではあるがそれは慥かに人の本道である――と思う、この三道は所詮一つだ、懺悔があれば必ずそこに感謝があり、精進があればそこに感謝があるべき筈である、感謝は懺悔と精神の娘である、私はこの娘を大切に心の中に育んでゆかなければならぬ。芸術は誠であり信である、誠であり信であるものの最高峰である感謝の心から生れた芸術であり句でなければ本当に人を動かすことは出来ないであろう、澄太や一洵にゆつたりとした落ちつきと、うつとりとした、うるほひが見えてゐて何かなしに人を動かす力があるのはこの心があるからだと思ふ、感謝があればいつも気分がよい、気分がよければ私にはいつでもお祭りである、拝む心で生き拝む心で死なう、そこに無量の光明と生命の世界が私を待つてゐてくれるであろう、巡礼の心は私のふるさとであつた筈であるから。――夜、一洵居へ行く、しんみりと話してかへつた、更けて書こうとするに今日は殊に手がふるへる。

【最後の日記】

この日、山頭火の最後の日記に、「夜、一洵居へ行く、しんみりと話してかへつた、更けて書こうとするに今日は殊に手がふるへる」とあります。山頭火が、松山市御幸寺境内の一草庵に入ったのは、昭和14年12月15日でした。昭和15年、山頭火にとって最後の新年をこの一草庵で迎え、4月28日には一代句集『草木塔』を発行しています。山頭火はこの日記の3日後の10月11日、脳溢血で亡くなくなりました。59歳でした。しかし山頭火は、44歳で出家し59歳で死ぬまで15年間、悟ったとも脱俗しきったともみえませんでした。

【一草庵】

一草庵は、松山市の御幸寺の一角にあり、内部は春秋2回のみ公開されています。6畳と4畳半、台所と便所、水は汲みあげポンプ、燃料の薪は裏山から調達、風呂はないので山頭火は道後温泉へ行っていました。一草庵には、「鉄鉢の中へも霰」「春風の鉢の子一つ」「濁れる水のなかれつつ澄む」の三つの句碑があります。最初の2句はよく知られていますが、「濁れる水のなかれつつ澄む」の句は、死去する1か月前の句で、一草庵の前を流れる樋又川にわが身を映したものです。事実、山頭火の生涯は「濁り」多きものでありながら、しだいに「澄む」ことを加えていった、と考えられます。

【護国神社】

山頭火の日記に、頻繁に出てくるのが護国神社です。山頭火は、よく散歩に出かけていたようです。神社の前の道を、向かって左方向へ徒歩5分くらいのところに一草庵があります。

【山頭火の最後】

松山に、山頭火を中心とした「柿の会」という句会がありました。昭和15年10月10日の夜、一草庵で句会が開かれました。山頭火は、床をとってすでに寝ていました。夜11時、句会が終わりましたが山頭火は起きてきませんでした。高橋一洵氏はいったん自宅に帰りましたが、気になって深夜2時すぎに行ってみると、山頭火の体は硬直していました。御幸寺の住職を起こして、一洵は医者へ行って往診を頼み駆け戻ってきましたが、山頭火の息はすでにありませんでした。死因は心臓麻痺で、午前4時ごろ死亡したものと推定されました。山頭火はかねてから「ころり往生」を願っており、死にかただけは望みのままになりました。さらに山頭火は、「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに湯を注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と自嘲していました。山頭火の遺骨は、ふるさと防府の護国寺裏の共同墓地にほうむられました。山頭火の句に、「おちついて死ねさうな草萌ゆる」があります。また、山頭火の最期を見守った高橋一洵の「母と行くこの細径のたんぽぽの花」の句碑が、長建寺境内にあります。

【最後の句】

山頭火の句に、「生える草の枯れゆく草のとき移る」があります。ぽっくり往生を願った山頭火は、その願いどおりに逝ってしまいました。この句は、その死の数日前に詠われたものといわれています。詠いかたが流れるように自然で、喜怒哀楽を、もう超えてしまった者の見方です。草のたたずまいを通して、自然の大きな巡りを見ています。その巡りに従って、自分に間もなく訪れるであろう死を見ている句だと感じられます。

【一代句集『草木塔』】

昭和15年4月28日、東京の八雲書店から発行。収録句数は701句。ただし、一代句集『草木塔』には、昭和14年9月末日までの作品が収録され、山頭火のこれより死までの約一年間の句作は、未定稿のまま残されました。

※山頭火シリーズは、今回で終了します。どうもありがとうございました。