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山頭火の日記 ㊳

2018.03.24 14:55

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946529215&owner_id=7184021&org_id=1946558917 【山頭火の日記(昭和11年1月1日~、旅日記)】 より

『旅日記』

年頭所感――

芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である、芭蕉にならうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところで初まらない。私は私である、山頭火は山頭火である、芭蕉にならうとも思はないし、また、なれるものでもない、良寛でないものが良寛らしく装ふことは良寛を汚し、同時に自分を害ふ。私は山頭火になりきればよろしいのである、自分を自分の自分として活かせば、それが私の道である。歩く、飲む、作る、――これが山頭火の三つ物である。山の中を歩く、――そこから私は身心の平静を与へられる。酒を飲むよりも水を飲む、酒を飲まずにはゐられない私の現在ではあるが、酒を飲むやうに水を飲む、いや、水を飲むやうに酒を飲む、――かういふ境地でありたい。作るとは無論、俳句を作るのである、そして随筆も書きたいのである。

【旅日記】

『旅日記』には、昭和11年1月1日から昭和11年7月22日までの日記が収載されています。この年頭所感に、「芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である、芭蕉にならうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところで初まらない。私は私である、山頭火は山頭火である、芭蕉にならうとも思はないし、また、なれるものでもない、良寛でないものが良寛らしく装ふことは良寛を汚し、同時に自分を害ふ。私は山頭火になりきればよろしいのである、自分を自分の自分として活かせば、それが私の道である」とあり、さらに「歩く、飲む、作る、――これが山頭火の三つ物である」とあります。

二月一日 澄太居。

澄太君は大人である、澄太君らしい澄太君である。私は友として澄太君を持つてゐることを喜び且つ誇る。黙壺居。黙壺君も有難い友である。初めてお目にかかつた小野さん夫婦に感謝する。広島の盛り場で私は風呂敷を盗まれた。日記、句帖、原稿――それは私にはかけがへのないものであり、泥坊には何でもないものである。とにかく残念な事をした、この旅日記も書けなくなつた、旅の句も大方は覚えてゐない。やつぱりぐうたらの罰である。岡山から広島までの間で、玉島のF女史を訪ねたことも、忘れがたい旅のおもひでとならう。

 円通寺、良寛和尚。

 (二月)

 奈良、桂子居。

 (二月)

 赤穂附近。

【風呂敷を盗まれた】

この日の日記に、「広島の盛り場で私は風呂敷を盗まれた。日記、句帖、原稿――それは私にはかけがへのないものであり、泥坊には何でもないものである。とにかく残念な事をした、この旅日記も書けなくなつた、旅の句も大方は覚えてゐない」とあります。この時の旅は春から夏にかけて、東海・東山・北陸・奥州へかけての大旅行であったので、その出発当初の原稿紛失事件は、「やつぱりぐうたらの罰である」と彼自身自戒しているように、酒場へ置き忘れてきました。

【円通寺】

また日記に、「円通寺」とあります。倉敷市玉島の円通寺公園に、「岩のよろしも良寛さまの想ひ出」の句碑があります。この句は、良寛の跡をたどっていた山頭火が、円通寺の石庭などを見て良寛の面影をしのんで作ったものです。

二月十一日 十二日 十三日

今日から新らしく書き初める。――雪、紀元節、建国祭。黙壺居滞在。第四句集雑草風景の句箋を書く。ここでまた改めて澄太君の温情に触れないではゐない。

【第四句集『雑草風景』刊行】

山頭火は、昭和11年2月28日に第四句集『雑草風景』を刊行しています。この「後ろ書き」に、次のようにあります。

「題して『雑草風景』といふ、それは其中庵風景であり、そしてまた山頭火風景である。風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに。私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろしいのである。或る時は澄み或る時は濁る。――澄んだり濁つたりする私であるが、澄んでも濁つても、私にあつては一句一句の身心脱落であることに間違ひはない。此の一年間に於て私は十年老いたことを感じる(十年間に一年しか老いなかつたこともあつたやうに)。そして老来ますます惑ひの多いことを感じないではゐられない。かへりみて心の脆弱、句の貧困を恥ぢ入るばかりである。

               (昭和十年十二月二十日、遠い旅路をたどりつつ 山頭火)」

三月三日

酔うて、ぬかるみを歩いて、そして、また飯塚へ、それから二瀬へ。逢うてはならないKに逢ふたが。とろとろどろどろ、ほろほろぼろぼろの一日だつた。死に場所が、死に時がなかなかに見つからないのである!

 ふりかへるボタ山ボタン雪ふりしきる

 雪ふる逢へばわかれの雪ふる

【ふりかへるボタ山ボタン雪ふりしきる】

この日の日記に、「ふりかへるボタ山ボタン雪ふりしきる」の句があります。福岡県柳川市出身で糸田町に住んでいた医者・木村緑平は、山頭火の経済的かつ精神的に援助していた友人で、山頭火はたびたび糸田町を訪れていました。2人の文芸活動を記念して、この句と木村緑平の句「かくれん坊の雀の尻が草から出てゐる」の句が両面に刻まれている句碑が、糸田小学校の前にあります。また、糸田町役場周辺に句碑が点在しています。山頭火を支えた緑平ですが、自らも俳人として数多くの句を残しました。緑平の句は、どれも日常の出来事や身の回りを詠った素朴なものが多く、とくに雀が大好きで、生涯3000句を超える雀の句を詠みましたが、どれ一つ同じ情景を詠ったものはなかったといいます。「雀生まれてゐる花の下を掃く」「子雀のあまえてゐる声のしてゐる朝月」など、緑平らしい静かなまなざしで、小さな命をやさしく見つめています。

三月五日 ばいかる丸。

神戸直航の汽船に乗り込む。さよなら、黎々火君、さよなら、岔水君よ。さよなら、九州の山よ海よ。テープのなげき。こころやすらかな海上の一夜だつた。

【ばいかる丸】

山頭火はこの日、「ばいかる丸」の船上から防府を遠望して、「ふるさとはあの山なみの雪のかがやく」の句を詠んでいます。

【死に場所を探す旅】

山頭火は昭和11年3月、門司から船で神戸に降り、平泉に至って7月に戻って来る大旅行を決行しました。おそらく日記にもあるように、死に場所を探す旅だったようです。

三月八日 愚郎居。

雪中吟行、神戸大阪の同人といつしよに、畑の梅林へ、梅やら雪やら、なかなかの傑作で、忘れられない追憶となるだらう、西幸寺の一室で句会、句作そのものはあまりふるはなかつたが、句評は愉快だつた、酒、握飯、焼酎、海苔巻、各自持参の御馳走もおいしかつた。夕方私一人は豊中下車、やうやく愚郎居をたづねあててほつとした、例によつて酒、火燵、ありがたかつた。雪は美しい、友情は温かい、私は私自身を祝福する。

 暮れて雪あかりの、寝床をたづねてあるく

 木の葉が雪をおとせばみそさざい

 雪でもふりだしさうな、唇の赤いこと

 春の雪ふるヲンナはまことにうつくしい

 春比佐良画がくところの娘さんたち

 からたちにふりつもる雪もしづかな家

 みんな洋服で私一人が法衣で雪がふるふる

【みんな洋服で私一人が法衣で雪がふるふる】

この日の日記に、「みんな洋服で私一人が法衣で雪がふるふる」の句があります。大阪府箕面市の西江寺境内に、この句碑があります。

三月廿三日 晴。

うららかな雀のおしやべり。早朝出発、乗車、九時大河原下車、途中、笠置の山、水、家、すべてが好ましかつた。川を渡船で渡されて、旅は道連れ、快活な若者と女給らしい娘さんらといつしよに山を越え山を越える。山城大和の自然は美しい。山路は快い、飛行機がまうへを掠める。母と子とが重荷を負うて行く。二里ばかりで名張川の岐流に添うて歩く、梅がちらほら咲いてゐる。歩々春だ、梅だ、月ヶ瀬梅渓は好きなところだつた、だいぶ名所じみてはゐるけれど。

 ここから月ヶ瀬といふ梅へ橋をわたる

バスで上野町へ、遊廓近くの安宿に泊る、うるさい宿だつた。

 五月門一目万本月瀬橋

【ここから月ヶ瀬といふ梅へ橋をわたる】

この日の日記に、「ここから月ヶ瀬といふ梅へ橋をわたる」の句があります。奈良市月ヶ瀬山嵩梅林の月瀬橋南詰に、この句碑があります。

三月廿五日

朝、都影さんを訪ねる、二角君に連れられて、都影さんは一見好きになれる人だ。自働車といふものもよしわるしだと思ふ。二角君に案内されて山田へ。内宮外宮はただありがたかつたといふより外はない。(中略) 都影居泊、私にはぜいたくすぎるほどだつた。夜は自家用で白子町までドライヴ、都影君はドクトルとして、私は妙なお客さんとして。

 おちついてしづけさは青木の実

   (比古君か印君に)

 鎧着ておよろこび申す春の風吹く

   (弘川寺)

 春の山鐘撞いて送られた

 けふのよろこびは山また山の芽ぶく色

 ちんぽこの湯気もほんによい湯で

   (京都)東山

 旅は笹山の笹のそよぐのも

 まるい山をまへに酔つぱらふ

 松笠の落ちてゐるだけで

 こんやはここで雨がふる春雨

 旅の袂草のこんなにたまり

 ぬかるみも春らしく堀りかへしてゐる

   (宇治)

 うららかな鐘をつかう

 御堂のさびも春のさざなみ

 春日へ扉ひらいて南無阿弥陀仏

 ただずめば風わたる空の遠く遠く

   (月ヶ瀬へ)

 落葉ふる岩が腰かけとして

 どこで倒れてもよい山うぐひす

 落葉してあらはなる巌がつちり

 蕗のとうあしもとに一つ

 後になり先になり梅にほふ

   (伊勢神宮、五十鈴川)

 そのながれにくちそそぐ

 たふとさはまつしろなる鶏の

 若葉のにほひも水のよろしさもぬかづく

   (二見ヶ浦)

 春波のおしよせる砂にゑがく

 旅人として小雪ちらつくを

   (津にて)

 けふはここにきて枯葦いちめん

 麦の穂のおもひでがないでもない

 こどもといつしよにひよろひよろつくし

 春の夜の近眼と老眼とこんがらがつて

 影は竹の葉の晴れてきさうな

 春めく雲でうごかない

   (辨天島)

 すうつと松並木が、雨も春

 とほく白波が見えて松のまがりやう

 裸木に一句作らしたといふ猿がしよんぼり

 ぬくい雨となる砂の足あと

 どうやら晴れてる花ぐもりの水平線

 春の海のどこからともなく漕いでくる

 これから旅も、さくら咲きだした

 茶どころの茶の木畑の春雨

【旅は笹山の笹のそよぐのも】

この日の日記に、「旅は笹山の笹のそよぐのも」の句があります。山頭火を生き生きとさせるのは、やはり旅でした。山頭火自身の言によれば、「今度の旅は文字通り死に場所を求めてのそれであった」とあります。山頭火はこの旅の途中、3月18~23日、京都で句友の内島北朗居や酒井仙醉楼居などに滞在し、京都市内の各所(八坂の塔・芭蕉堂・西行庵・知恩院・南禅寺・永観堂・銀閣寺・本願寺・鷹峯・源光庵・光悦寺・金閣寺など)と宇治・月ヶ瀬を巡ったり、句会を開いたりしています。

【茶どころの茶の木畑の春雨】

また、「茶どころの茶の木畑の春雨」の句もあります。静岡県川根本町上長尾の智満寺に、この句と「いつ戻って来たのか寝ている猫よ」の句碑があります。

【春日へ扉ひらいて南無阿弥陀仏】

さらに、「春日へ扉ひらいて南無阿弥陀仏」の句もあります。この句はその後、「春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏」と改作され、「雲のゆききも栄華のあとの水ひかる」「うららかな鐘を撞かうよ」の句と共に、京都府宇治市観光センターに隣接する宇治市営茶室「対鳳庵」外庭にこの句碑があります。

【春の海のどこからともなく漕いでくる】

続いて、「春の海のどこからともなく漕いでくる」の句もあります。JR弁天島駅近くの浜名湖畔に、この句碑があります。

四月四日 晴。

かたじけなくも、もつたいなくも、朝湯にはいつてから朝酒をいただく。蜻郎君来訪。三人連れで散歩、光明寺大聖閣、鶴八幡宮、建長寺、円覚寺、長谷の大仏。……冬青居徃訪。夜は南浦園で句会、支那料理がおいしかつた。まことによい日よい夜であつた。層雲社から電報、明日の句会へ出席せよといふので。――鎌倉風景。――東京の印象。――東京は広い。伊豆遊吟。

   沼津――東京。

 朝の富士は白いあたまの春の雲

 松の木あざやかに富士の全貌

 ぶらんこぶらぶら若葉照る

 街の騒音何の木か咲いてゐる

   東京をうたふ。

 さくらちる富士がまつしろ

 さくら咲いてまた逢うてゐる

 旅ごころかなしい風がふきまくる

 ぼうぼうとしてあるくいつしか春

   (追加)

 蘭竹かれがれの風にふかれつつ

 鎌倉は松の木のよい月がのぼつた

 大仏さん 異人さん さくら 寺

 いちはやく山ふところのさくら一もと

   斎藤さんに

 また逢ひませうと手を握る

   東京をうたふ

 ほつと月がある東京に来てゐる

 花ぐもりの富士が見えたりかくれたり

 ビルからビルへ東京は私はうごく

 ビルがビルに星も見えない空

   ビルにて

 窓へやつと芽ぶいてきた

【ほつと月がある東京に来てゐる】

この日の日記に、「ほつと月がある東京に来てゐる」の句があります。山手線日暮里駅に近い本行寺(江戸時代の俗称は月見寺)にこの句碑があります。東京にある山頭火の句碑は、ここ本行寺のものただ一つだそうで、昭和11年に東京に滞在した短い間、山頭火は縁あってこの本行寺に寄宿しました。一茶も愛したこの月見寺で、きっと束の間の「ほっとした」気分を味わうことができたと思われます。

四月五日 快晴、鎌倉から東京へ。

眼が覚めると海がころげてくるやうな波音である。鳴雨居はしづかな夫婦ずまゐ、別荘風のしやれた家である。朝湯朝酒、今日に限つたことではないけれど勿体ないなあと思ふ。雪男さん来訪、散歩する、雪男居に寄る、御馳走になる。昨夜の召電によつていつしよに上京する、大船で約束通り蜻郎君と落ち合ふ。うららかな日である。品川へ着いてまずそこの水を飲んだ、東京の水である、電車に乗つた、東京の空である、十三年ぶりに東京へ来たのだ。大泉園を初めて訪ねる、鎌倉の椿が咲いてゐる、井師にお目にかかる、北朗君も来てゐる。句会、二十名ばかり集まつた、殆んどみな初対面の方々だ。夜は層雲社に泊めて貰ふ、犬に吠えられた、歓迎してくれたのかも知れない。武二君、五味君、北朗君と夜の更けるのも忘れて話しつづけた。

【東京着】

この日の日記に、「品川へ着いてまずそこの水を飲んだ、東京の水である、電車に乗つた、東京の空である、十三年ぶりに東京へ来たのだ」とあります。これから伊豆に出かけます。

四月十八日 滞在、休養、整理。

伊豆はさすがに南国情調だ、麦が穂に出て燕が飛びかうてゐる。伊豆は生きるにも死ぬるにもよいところである。伊豆は至るところ花が咲いて湯が湧く、どこかに私にふさはしい寝床はないかな! 大地から湧きあがる湯は有難い。同宿同行の話がなかなか興味深い、トギヤ老人、アメヤクヅレ、ルンペン、ヘンロ、ツジウラウリ。……焼酎をひつかけてぐつすり眠つた。

 なみおとのさくらほろほろ

 春の夜の近眼と老眼とこんがらがつて

 伊豆はあたたかく死ぬるによろしい波音

 湯の町通りぬける春風

【伊豆はあたたかく死ぬるによろしい波音】

この日の日記に、「伊豆は生きるにも死ぬるにもよいところである。伊豆は至るところ花が咲いて湯が湧く、どこかに私にふさはしい寝床はないかな!」とあります。山頭火は伊豆をほんとうに気に入ったみたいで、「伊豆はあたたかく死ぬるによろしい波音」の句もあり、下田市の泰平寺にこの句碑があります。また、別に「伊豆はあたたかく野宿によろしい波音も」の句もあります。山頭火は、昭和11年4月17日に熱海から伊東へ徒歩で移動し、20日徒歩で下田に向けて出発、8里強(約32㎞)歩いて夕暮れ稲取に、21日稲取から今井浜近くの谷津温泉の知人宅に一泊、22日に下田の濱崎、23日に下賀茂、24日バスで松崎へ行き、そこから船で沼津に抜け、8日間の慌しい伊豆の旅をしています。

四月十九日 雨、予想した通り。

みんな籠城して四方山話、誰も一城のいや一畳の主だ、私も一隅に陣取つて読んだり書いたりする。午后は晴れた、私は行乞をやめてそこらを見物して歩く、浄の池で悠々泳いでゐる毒魚。伊東はいはゆる湯町情調が濃厚で、私のやうなものには向かない。波音、夕焼、旅情切ないものがあつた。一杯ひつかける余裕はない、寝苦しい一夜だつた。

   (伊東町)

 をなごやの春もにぎやかな青木の実

 まいにち風ふくからたちの芽で

 はるばるときて伊豆の山なみ夕焼くる

 かうして生きてゐることが、草の芽が赤い

【はるばるときて伊豆の山なみ夕焼くる】

この日の日記に、「はるばるときて伊豆の山なみ夕焼くる」の句があります。熱海市下多賀にある小山臨海公園内の管理事務所横付近に、この句碑があります。

四月二十三日 曇、うすら寒い。

朝早く、二人で散歩する、風が落ちて波音が耳につく、前はすぐ海だ。牡丹の花ざかり、楓の若葉が赤い。蛙が鳴く、頬白が囀づる。辨天島は特異な存在である、吉田松蔭の故事はなつかしい。九時すぎ、三人で下田へ、途中、一郎君と別れる、一郎君いろいろありがたう。稲生沢川を渡ればまさに下田港だ、港町情調ゆたかであらう、私は通りぬけて下賀茂温泉へ。留置の手紙は二通ありがたかつた。雑木山がよい姿と色とを見せてくれる。下賀茂は好きな温泉場である、雑木山につつまれて、のびやかな湯けむりがそこここから立ち昇る、そこここに散在してゐる旅館もしづかでしんみりとしてゐる。その一軒の二階に案内された、さつそく驚ろくべき熱い強塩泉だ、ぽかぽかあたたまつてからまた酒だ、あまり御馳走はないけれどうまいうまい。兎子君が専子君を同伴して紹介された、三人同伴で専子居へ落ちつく、兎子君は帰宅、私と専子君とはまた入浴して、そして来訪のSさんと飲みだした。今夜も酔ふて、しやべつて、書きなぐつた、湯と酒とが無何有郷に連れていつてくれた、ぐつすりねむれた。……ノンキだね、ゼイタクだね、ホガらかだね、モツタイないね!

 波音強くして葱坊主

 道は若葉の中を鉱山へ

 けふのみちはすみれたんぽぽさきつづいて

 すみれたんぽぽこどもらとたはむれる

黒船襲来、異人上陸で、里人は牛を連れて山へ逃げたさうな。黒船祭の前日。

【下田四句】

下田での句は、「波音強くして葱坊主」「道は若葉の中を鉱山へ」「今日の道はすみれたんぽぽさきつづいて」「すみれたんぽぽこどもらとたわむれる」の四句があります。また、伊東での「伊豆はあたたかく死ぬるによろしい波音」の句もあり、下田市の泰平寺にこの句碑があります。