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山頭火の日記 ㉞

2018.03.24 15:06

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946374241&owner_id=7184021&org_id=1946402094 【山頭火の日記(昭和9年7月26日~、其中日記七)】より

『其中日記』(七)

   花開時蝶来

   蝶来時花開

七月廿六日

曇、雨、蒸暑かつた、山口行。心臓いよいよ弱り、酒がますます飲める、――飲みたい、まことに困つたことである。朝、学校の給仕さんがやつてきて、山口へ出張の樹明君からの電話を伝へる、――今日正午、師範学校の正門前で待つてゐる、是非おいでなさい、――そこでさつそく出かける、上郷駅まで歩いて、九時半の汽車で湯田へ。千人風呂にはいつて髭を剃る、浴後一杯ひつかけることは忘れない、濡れて歩いて山口へ、予定通りに両人会合、二十銭の定食で腹をこしらへて、鈴木さん訪問、いつものやうに御馳走になる、冷し素麺がおいしかつた、それから、街をぶらついてゐると、幸か不幸か、伊東俊さんに邂逅、食堂から食堂へとうろついた、そしてさらに湯田で飲む、私たち二人は西村さんを尋ねあて、湯に入れて貰ひ、ビールを戴いた、むろん短冊や色紙は樹明君に煽動されて書きなぐつた、それからまた、祇園祭の人込を縫ひ歩き、最終のバスで帰庵、満月のうつくしさを賞する余裕もなく、ぐつすりと寝た、よくもあれだけ飲んだり食べたりしたものだ、そして無事におとなしく戻つてきたものだ、そのいづれも感心されてよい!

今日の印象、――今日の感想――何となく心楽しい日(時々かういふ日がある、日々好日ではあるけれど)。汽車がバスより高いとは(上郷から湯田まで、汽車賃十三銭、バスは十銭、このバスは安くて心地のよい道である、今日は満員つづきで、とても乗れない)。ガソリンカアの快さよ、逢ひにゆくにも飲みにゆくにも! 田舎の娘さんのハイカラぶりはあまりよくありませんね、ゼイタクは一しほみじめですよ。マダムはシヤン、お嬢さんはスベタ、まことにお気の毒なことですが。湯田はよいとこ。……千人風呂五銭の享楽! 檻の猿、それをいつまでも見てゐる人々。ボロ着て涼しく、安らかで朗らかで。湯あがりの肌へ雨のかかるも悪くない。さみだれて濁り湛へた水(といつても差支あるまい)からぼちやんと跳ねては大鯉のあそび。梅雨のやうな土用、しかし鰻は、せめて鰌でも食べたいものですね。糸米の山口が今日は殊によかつた、山口の山はうつくしい、含蓄があつて親しみがある。鱸のあらひ、鮒のあらひ、鮎の塩焼、いづれも結構だつたが、鮎はとりわけ有難かつた。人の世に、死のさびしさ、生のなやみはなくなりません。女よりも男、ビールよりも酒、海よりも山、樹よりも草、そして、――N旅館の三助君、とても感じがよかつた、そして二人の仲居さん、あまり感じがよくなかつた。Y子さんは女性としての媚態を持つてゐない、そこがよいと思つた、彼女自身のためにはよくあるまいけれど。

 道がまつすぐ大きなものをころがしてくる

 よい雨が音たかくふる、これで十分

 かうして暮らして何もかも黴だらけ

 山のみどりを霧がはれたりつつんだり

 うれしい朝の、かぼちやの大きい花かな

 赤い花が、墓場だつた

 あつい温泉(ゆ)が湧いてのうせんかつらの花が咲いて

 おぢいさんは高声で、ふんどしのあとも

 濡れて歩いてしよんぼり昼顔

 けふは飲めるガソリンカアで行く

 むしあつくやつとホームイン(対校試合)

 こんやの最終は満員でバスガールはうたひつつ

 月へうたふバスガールのネクタイの涼しく

【其中日記(七)】

『其中日記』(七)には、昭和9年7月26日から昭和9年12月31日までの日記が収載されています。

九月十二日

Kさんから手紙、清丸さんから本、どちらも好意そのもののやうでうれしかつた。黙壺来、黙壺君はフアンのフアンだ、酒、牛肉、豆腐、そして銭――それらはすべて彼が私に投げかける温情の断だつた。樹明来、めづらしくまじめで、彼らしくない彼であつた、さびしい彼だつた。払へるだけ払つて、飲めるだけ飲んだ、とうとう□代を交番に行つて借りた、いや保證して貰つた!

 がちやがちやよ鳴きたいだけ鳴け

 お彼岸のお彼岸花をみ仏に

 何だか腹の立つ秋雨のふる

 秋雨の一人で踊る

 雨がふるので柿がおちるので

【お彼岸のお彼岸花をみ仏に】

この日の日記に、「お彼岸のお彼岸花をみ仏に」の句があります。兵庫県高砂市の「追悼碑の庭」内に、この句を含め全部で13基の句碑があります。

九月十九日

曇、五時前に起きて朝飯の支度。酒があまつてゐたので朝酒、いつものやうにうまくない、呪はれた山頭火! 敬君は下関へ出張、駅まで見送る、戻つてから、預つた愛犬Sと遊ぶ。……ハガキが来たので鯖山の禅昌寺へ、大山君に会ふために。犬と遊ぶ、――随筆一篇書けます。単調と単純、――それはすなはち、世間生活と私の生活。ヤキムスビ、――犬に十分与へておいて残飯をそれに。澄太君からのハガキで、同君が鯖山の禅昌寺に出張してゐて、そしてとても訪ねてくれる余裕がないといふので、こちらから出かけて、逢うてくるつもりで、田舎道を歩きだしたが、いやはや濡れた濡れた困つた困つた、『雨はふります、傘はなし』と子供にひやかされたりして、――とうてい、行きおほせないので、湯田の温泉で、冷えたからだをあたためてから、また濡れて戻つた、はだしであるいて。ひそかに心配してゐたSはおとなしく留守番をしてゐた(最初はやりきれないらしかつたと見えて、座敷の障子をつきやぶつて室内にとびこんだらしい、その障子のやぶれも何となく微笑ましいものだつたが)、彼にも食べさせ、私も食べた。何といふおとなしい犬だらう、上品で無口で、人懐かしい、犬小屋は樹明君がいつか持つてきた兎箱、二つに仕切つてあるから一つは寝室で、一つは食堂、そこには碗一個と古筵一枚、――それで万事OKだ! 水音がどこかにある、虫の声が流れるやうだ、溢れてこぼれるやうだ、寝覚はさびしい、しかしわるくない。物の音が声に、そして物のかたちがすがたにならなければウソだ、それがホントウの存在の世界だ。酔ひたい、うまいものがたべたい、――呪はれてあれ。

 水のながるるに葦の花さく

 てふてふとべばそこここ残る花はある

 あひびきは秋暑い街が長く

 あすはおまつりの蓮をほるぬくいくもり

 掃きよせて焚くけむりしづかなるかな

 はれたりふつたりあひたうていそぐ

 まよふたみちで、もう秋季収穫がはじまつてゐる音

 出来秋ぬれてはたらく

 夜あけの雨が柿をおとして晴れました

 十字街はバスが人間がさんさんな秋雨

 濡れて越える秋山のうつくしさよ

 ぬれてきてくみあげる水や秋のいろ

 はだしであるく花草のもう枯れそめて

 ヱスもひとりで風をみてゐるか

 秋雨の夜がふける犬に話しかける

【禅昌寺の句碑】

この日の日記に、「ハガキが来たので鯖山の禅昌寺へ、大山君に会ふために」とあります。山口市小鯖の禅昌寺には、参道入口に「水音のたえずしてみ仏とあり」、山門前に「水音しんじつおちつきました」、第二墓地に「われをしみじみ風が出てきて考えさせろ」の句碑があります。

九月廿一日

やうやく風雨がおさまつて晴れてきた。菜園手入、ホウレン草と新菊とを播きつけた、これで播きたいものだけは播いた、大根、蕪、菜はもう芽生えてゐる、風で倒された蕃椒や茄子をおこしてやる。嵐の跡、野分の名残も寂しいものである。街のポストへ、酒屋で一杯ひつかけて、新聞を読んでゐる間に、ついてきたSが見えなくなつた、生き物は厄介だな、探しても見当らないから戻る、Sよ、早く戻つてこい。大根一本四銭は高いな、田舎味噌百匁八銭。あれこれ、そそくさして夜が明け日が暮れる。――昨日もさうだつた、今日もさうだ、明日もさうだらう。……背広をきて、ステツキをついて、犬をつれて、山頭火も歩いたらどうです! 庵の周囲は曼珠沙華の花ざかり、毒々しい花だけれど、捨てがたい野性味がある、人がかへりみないだけ私は心をひかれる。うすら寒い、ソデナシをきて頭巾をかぶつて、さて――だいぶおそくなつてSが戻つてきた、何だかすまなさうにしよんぼりしてゐる、飯を与へると、いそいで食べて、ぐつたりと寝てしまつた、やれやれこれで私は安心。

 けさの水音の、ゆふべがおもひだされる雨

 サイレン鳴れば犬がほえる秋雨

 嵐のかげのしろじろと韮の花

 日向ごろりとヱスもわたしも秋草に

 あらしのあとの水音が身のまはり

 月へ汲みあげる水のあかるさ

 月のさやけさ酒は身ぬちをめぐる

 月が酒が私ひとりの秋かよ

【月のさやけさ酒は身ぬちをめぐる】

この日の日記に、「月のさやけさ酒は身ぬちをめぐる」の句があります。別に山頭火の句に、「酒はしづかに身ぬちをめぐる夜の一人」があります。「一人であること」の寂しさに堪えられなくなった時、彼は酒を飲みました。酒を飲むことで、「一人であること」の寂しさが、いくぶんかまぎれたに違いありません。しかし、また、酒を飲むことによって、いっそう「一人であること」の寂しさは、彼を取り巻いてきました。

九月廿八日

晴、当面の仕事は何か、――まづ書債を果たす、これだけでもサツパリした。午前樹明徃訪、午後は樹明来訪、ちりで一杯やる、松茸は初物なり、そしていつ食べてもうまい。高木断食寮の研究生、中村幸治さんといふ青年来庵、長期断食をしたいが泊めてくれぬかとの事、私はSがゐてさへ神経にさはる位だからと断る。彼は断食、私は絶食! 樹明君は風邪気味で夕方まで寝た、そしておとなしく帰宅、私はねむれないのでおそくまで漫読。樹明君についていつたSがいつまでも戻つてこない、それがまた私の気分をみだす。……

   追加一句 津島にて

 おわかれの水鳥がういたりしづんだり

   改作二句

 つくつくぼうしあまりにちかくつくつくぼうし

 月へゆれつつバスガールのうたひつつ

【おわかれの水鳥がういたりしづんだり】

この日の日記に、「おわかれの水鳥がういたりしづんだり」の句があります。

【つくつくぼうしあまりにちかくつくつくぼうし】

また、「つくつくぼうしあまりにちかくつくつくぼうし」の句もあります。山頭火の句に、「つくつくぼふし鳴いてつくつくぼふし」があります。これらの句を詠んで、何かしら物悲しいものの尾をひくのが感じられます。その奥に、山頭火の孤独を思わせる句です。

九月廿九日

曇、晴れて秋空のよろしさ。過去一切を清算して、新一歩を踏み出さなければならない、私はもう行乞する意力も体力もなくしてしまつたから、行乞を行商にふりかへて、改めて歩くより外ない。Sは昨夜はとうとう戻つて来なかつた、多分、樹明君に踉いて行つたのだらうとは思ふけれど気にかかる、午後になつたら、学校へ出かけようと心配してゐるところへ、給仕さんが、樹明君からの手紙を持つて、Sを連れて来てくれた、よかつたよかつた。大田へ来てくれといふ電話ださうなが、行きたいけれど、いつもの金缺で行けさうもない、残念々々。近在散歩、お伴はS、秋の雑草を貰つて帰る、苅萱、コスモス、河原蓼、等々、やつぱり苅萱がいちばん好きだ。今夜はまた不眠で困つた、夜が長かつた。油虫ものろのろとなつた、それを打ち殺す残忍さ。

 昼も虫なく咲きこぼれたる萩なれば

 風がふく障子をしめて犬とふたり

 ここへも恋猫のきてさわぐか闇夜

 ゆれては萩の、ふしては萩のこぼるる花

 みごもつてこほろぎはよろめく

 どうでもかうでも旅へ出る茶の花の咲く

 朝は早い糸瓜のしづくするなどは

【秋の雑草】

この日の日記に、「秋の雑草を貰つて帰る」とあります。また山頭火の句に、「秋となつた雑草にすわる」があります。今年も、また秋となった。暑い夏を歩き続け秋を迎えます。これからしばらくは、たとえ飢えたとしても身体は楽な旅となります。そうした安らぎが、この句にはあります。

十一月六日

秋時雨、雨の音と百舌鳥の声と柿落葉と。M君からの返信はありがたかつた、ほんたうにありがたかつた。あまり沈欝になるので、キレイ一升借りて、イワシ十銭ほど買うてきて、チビチビ飲みはじめたが、そして待つともなく樹明君を待つてゐたがやつてこないので、学校まで出かけて訳を話したが、とても忙しくて行けないといふ、そこで私自身を持てあまして街へ出てみたけれど面白くないので、鮨を食べて戻つて、すぐ寝た。……酒飲みが酒が飲めなくなつては、――あれほど好きだつた酒があまり欲しくなくなつては、――それが今日の私だつた、明日の私であるかも知れない。身心不調、胸苦しくて困つた、心臓がいけなくなつたのであらう、もう罰があたつてもよい頃ですね! 持つて生れて来たものを出したい、その人のみが持つもの、その人でなければ出せないもの、それを出しきるのが人生だ、私は私を全的に純真に俳句しなければならない、それを果さなければ死んでも死ねないのだ。食慾がなくなるのがさみしい、私の大きい胃袋は萎縮しつつあるのか、ルンペンの精力がなくなりだしたのか。

   病中

 ともかくも生かされてはゐる雑草の中

 をんな気取つてゆく野分ふく

 蛇がひなたに、もう穴へはいれ

【ともかくも生かされてはゐる雑草の中】

この日の日記に、「ともかくも生かされてはゐる雑草の中」の有名な句があります。一人旅を頑固に続けていて、ふと、死の影を予感します。それは、年を取るにしたがって、しだいに大きな影となって山頭火につきまといます。旅の中にも、喜怒哀楽はあります。そして、ふっと気づいた時、まだ「生かされてはゐる」と感じるのです。

十一月十日

晴、二日酔の気味、恥づべし。小鳥の来ては啼く日なり。余生を楽しむ――私の場合では私に徹することだ。与へる何物も持たない私はせめて何物をも奪はない生活を持しなければならない、他を妨げ物を害する行動を捨てなければならない。昨日の酔中散歩は醜くかつたが、いや悪かつたが、それによつて積日の沈欝が払ひ除かれたのはよかつた。「雑草」所載の「正信偈一巻」を読んで白船老におそひかかつた不幸を悲しむ、希くはこの不幸が最初の、そして最後のものであれ。勉強、勉強、勉強しよう、私はあんまりなまけてゐた。ヱキのポストまで、――やつと行つてきた。ありのままに一切を観る。与へられるものを与へられるままに受入ける、それを咀嚼し消化し消化する生活。いつもそくそくとして身にせまるもの、それは流転のすがただ。自己省察がアヤフヤだ、だから現実把握もアヤフヤだ。あまりにしづかな、しづかすぎてやりきれないほどのゆふべだつた。終日終夜読書。

 ここに枯れたるこの木の冬となる(庵の枇杷樹)

 大根漬けてから長い手紙を書く

 ひなたはあたたかくやがて死ぬる虫

 いつとなく草枯れて家が建ち子が泣いてゐる

 お寺の鐘が鳴りだしました蔦紅葉

 病めるからだをあるかせてゐるよ草の実よ

 虫なくや咳がやまない

 なんだか人なつかしい草はみのつてゐるみち

 あまりひつそりして死相など考へては

【虫なくや咳がやまない】

この日の日記に、「虫なくや咳がやまない」の句があります。また『草木塔』に、「咳がやまない背中をたたく手がない」の句があります。まるで放哉の句と見間違えるような句感です。山頭火は基本的には身体は丈夫でしたが、野宿も当たり前で空きっ腹に酒をあおる放浪の日々を送っていたのですから、不摂生も極まれりという有様です。すきま風の入る粗末な庵の中では、風邪をひくことも多かったと思われ、そんな時、近くに誰かがいてくれたら、背中をたたいてくれる人といっても庵にはいるはずもなく、毎日顔を出してくれる知り合いも、こういう時には間が悪いものでまだ来てはくれません。こういうときは、先々の悪いことしか考えられなくなってしまいます。ようやく咳がおさまったものの息苦しさもまだ残る中、あらためて自分以外に人気のない淋しさを思う山頭火がいます。

十一月十四日

好晴、身辺整理。私の心は今日の大空のやうに澄みわたる、そしてをりをり木の葉を散らす風が吹くやうに、私の心も動いて流れる。うれしいたよりがいろいろきた。酒屋の店員Sさんが来て話して帰る。絶対的境地には自他もなければ善悪もない、第一義的立場に於ては俳句も短歌もない、詩が在るのみだ、たゞ実際の問題として、作者の素質傾向才能によつて、俳句的表現があり短歌的表現がある。私はほんとに幸福だ、しんみりとしづかなよろこびを味ふ。酒はかならずあたためてしづかにすするべし。芸術的飛躍、それは宗教的飛躍と通ずるものがある、その飛躍が私にもやつてきてくれた! 私はとかく普通の世間人から undervalue せられるやうに、いはゆるインテリには overvalue されがちである、人は――私は買被られるよりも見下げられる心易さをよろこぶ。――死ぬる時には死ぬるがよろしく候、と良寛和尚は或る人への手紙の中に書いてゐる、私はそれを思ひ出す毎に、私の修養の到らないのを恥ぢないではゐられない、私はかうしかいへない、――殺すべき時には殺すがよろしく候、――このべくがいけない、それは嘘ではないけれど、小主観の言葉だ、自殺、自決、自裁といふやうなことを考へないで、さういふ独善的な潔癖を抛擲して、死ぬるまで死なないでゐる、生きられるだけ生きたい、生も死も忘却して是非を超越した心境にまで磨きあげなければならないと思ふ。酒と句と、句と酒と。……私は遂に木の実をほんたうに味はひ得なかつた、もう歯がぬけてなくなつてしまつた、どうすることも出来ない、もつとも、耳で、眼で、手で木の実を味ふことは出来るけれど。……夜は斎藤さんから今朝頂戴した『はてしなく歩む』に読みふけつた、私は当然必然、今春の私の旅、そして来春の私の旅を考へながら。

 落葉ふかく水くめば水の澄みやう(雑)

 雨の落葉の足音は郵便やさんか

   病中

 寝たり起きたり落葉する(松)

 煮えるにほひの、焼けるにほひの、野良がへりのゆふ闇ただよふ

 すつかり柿の葉は落ちて遠く灯つた

   病中さらに一句

 ひとり寝てゐるわらやしたしくしづくする(松)

 身のまはりかたづけてすわる私もよい人であらう

 柿をもぐ父と子とうへしたでよびかはし

 水たたへたればいちはやく櫨はもみづりて

 実ばかりの柿の木のなんとほがらかな空

 雑草みのつて枯れてゆくその中に住む

 めづらしく人のけはひは木の実ひらふこゑ

 やつと汲みあげる水の秋ふかく

 ひよいと手がでて木の実をつかんだ

 大根いつぽんぬいてきてたべてそれでおしまい

   (改作)

 山あれば山を観る

 雨の日は雨を聴く

 春夏秋冬

 物みなよろし

【山あれば山を観る~】

この日の日記に、「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 物みなよろし」の有名な句があります。

十一月十七日 晴、曇、肌寒い。

あれやこれやとすればすることはいくらでもある、今日だつて、草取、窓張、洗濯。……友よ、私を買ひかぶる勿れ――と今日も私は私に向つて叫んだ、彼は私を買ひ被つてゐる、私に善意を持ちすぎてゐる、君は私の一面を見て他の一面を見ないやうにしてゐる、君は私の病所弱点缺陥を剔抉し指摘して、私を鞭撻しなければならない、私は買ひ被られてゐるに堪へない、私は君の笑顔よりも君の鞭を望んでゐる、――これは澄太君に対する私の抗議――といふ外あるまい――である。私がどんなに醜い夢を見るか、私が酔うた場合にどんなに愚劣であるか、私が或る日或る場合、或る事件或る人に対して、どんなに卑怯であり利己的であるか、――それをあなたは知らなければなりません、私はあなたに対して、あなたが私を正しく批判して下さることを熱望してゐるのです(これも澄太君に)。山田酒店のSさんがやつてきて、しばらく話した。終日就床、読書思索。樹明遂に来らず、約束が守れないほど酔ひしれた彼でないことを祈る。慾望がうすらぐといふことが――具体的にいへば、性慾は勿論、酒も煙草もこらへられるし、三度の食事すらもあまり欲しくない――私をして事物――自然、人生、私自身――を正視直視せしめる、生活意力の沈潜とでもいはうか。ここにふたたび私の身のふりかたについて書きそへておかう――

……私がもし健康ならば、私はとうていここには落ちついてゐないだらう、そして私がもし疾病にとりつかれるならば、私はおそらく自殺しなければなるまい、……私がもし病むでもなく病まぬでもなく、いはゆる元気がなくなつて、ぼんやりした気分であるならば、私は多分ここに落ちついて、生きられるだけ生きるだらう。……半病人の生活、それが私には最もふさわしい、それがここに私に実現しつつある! しかし果して私の運命はどんな姿で私の上にあらはれるか、私には解らない、誰も知るまい、それでよいのだ、それでよいのだ。

 ほほけすすきもそよがないゆふべの感傷が月

 或る予感、はだか木に百舌鳥のさけぶや

 灯のとどく草の枯れてゐる

   Sよさようなら

 ああいへばかうなる朝がきて別れる

   (改作)石鴨荘

 草山のしたしさを鶯もなき

 月のあかるい水くんでおく

 窓からいつも見える木のいつかもみづれる月あかり

 月のひかりの、はだか木の、虫のなくや

 ひとりで朝からけぶらしてゐる、冬

 もう冬空の、忘れられてあるざくろの実

 糸瓜からから冬がきた

 おちついてゐる月夜雨降る

 月の落ちた山から鳴きだしたもの

【月のあかるい水くんでおく】

この日の日記に、「月のあかるい水くんでおく」の句があります。今宵は、もうすることもなし、といっても眠るでもない。そして、思うことも特にありません。月と自分と、今、この世にここにあるだけです。