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山頭火の日記 ㉑

2018.03.25 03:10

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946062144&owner_id=7184021&org_id=1946090548 【山頭火の日記(昭和8年1月20日~)】 より

一月廿日 大寒入。

のびのびと寝たから私は明朗、天候はまた雪もよひ、これでは行乞にも出かけられないし、期待する手紙は来ないし、さてと私もすこし悲観する、それは何でもない事なのだが。一茶会から「一茶」、酒壺洞君から仙崖の拓字が来た。すべてを自然的に、こだはりなく、すなほに、――考へ方も動き方も、くはしくいへば、話し方も飲み方も歩き方も、――すべてをなだらかに、気取らずに、誇張せずに、ありのままに、――水の流れるやうに、やつてゆきたいと痛感したことである。

鼠もゐない家――と昨夜、寝床のなかで考へた、じつさい此家には鼠がやつてこない、油虫も寒くなつたので姿をかくした、時々その死骸を見つけるだけだ。苦茗をすする朝の気持は何ともいへないすがすがしさである、私は思ふ、茶は頭脳を明快にする、酒は感興を喚ぶ、煙草は気を紛らす、茶は澄み酒は踊り煙草は漂ふ、だから、考へるには茶をすすり、作るには酒を飲み、忘れるには煙草を喫ふがよい。住めば住むほど、此家が此場所が気に入つてくる、うれしくなる、落ちついてくる、樹明君ありがたい。酒が悪いのぢやない、飲み方が悪いのだ、酒を飲んで乱れるのは人間が出来てゐないからだ、人間修行をしつかりやれ。今日は大寒入、朝餉としては昨日の豆腐の残りを食べた、それで沢山、うまくもまづくもなかつたが、さて昼餉は! けふも、いやな手紙を一通かいてだした、ゴツデム! ぢつとしてはゐられないから、そして午後はすこしあたたかくなつたから、嘉川まで出かけて行乞三時間、いろいろの意味で出かけてよかつた、行乞相も(主観的には)わるくなかつた。四日ぶりの御飯である(仏様も御同様に)、それはうまいよりもうれしい、うれしいよりもありがたいものだつた(仏様、すみませんでした)。御飯をたべたらがつかりした、米の魅力か、私の執着か、そのどちらでもあらう。醤油も味噌もないので、生の大根に塩をつけて食べた、何といふうまさだらう、フレツシユで、あまくて、何ともいへない味だつた、飯とても同じこと、おいしいお菜を副へて食べると、飯のうまさがほんとうに解らない、飯だけを噛みしめてみよ、飯のうまさが身にしみるであらう、物そのものの味はひ、それを味はなければならない。大根の浅漬に柚子を刻んでまぜた、そのかをりはまことに気品の高いものであつた、貴族的平民味ともいふべきであつた。私は考へる、食べることの真実、くはしくいへば、食べる物を味ふことの真実を知らなければならない。昨夜、樹明君から貰つた干魚はうまかつた、もうほとんどみんな食べてしまつたほど――天ヶ下にうまくないものはない! 今日の行乞は、ほんとうに久しぶり――半年ぶりだつた、声が出ないのには閉口した、からだがくづれるのに閉口した、必ずしも虚勢を張るのではない、表面を飾るのではないけれど、行乞相は正しくなければならない、身正しうして心正し(心が正しいから身が正しくなるのであるが、それと同様に)、我正しうして他正し、それは技巧ではない、表現である。心を白紙にせよ、そこに書かれた文字をすつかり消してしまつて、そして新らしい筆で――古い筆でもよろしい――新らしい文字を――古い文字でもよろしい――はつきりと書け。私の行乞姿を見ても、そこらの犬が吠えなくなつた、尾をふつては来ないけれど、いぶかしさうに眺めてゐる。貧乏は時々よい事を教へてくれる、貧しうしてまづいものなし、きたないものなし。あいかはらず、楢の葉が鳴る、早寝の熟睡。

 まとも木枯のローラーがころげてくる

 によきと出てきた竹の子ちよんぎる(改作)

 けふの御仏飯のひかりをいただく

 何やらきて冬夜の音をさせてゐる

一茶の次の二句はおもしろいと思ふ。

 節穴や我が初空もうつくしき

 うつくしや障子の穴の天の川

うつくしいといふ言葉がおもしろい、穴から見るのが一茶の俳人的眼孔だ。

【一茶の句】

この日の日記に、「一茶の次の二句はおもしろいと思ふ。

 節穴や我が初空もうつくしき

 うつくしや障子の穴の天の川

うつくしいといふ言葉がおもしろい、穴から見るのが一茶の俳人的眼孔だ」とあります。また、山頭火の随筆に、次の『片隅の幸福』があります。

「〝大の字に寝て涼しさよ淋しさよ〟一茶の句である。いつごろの作であるかは、手もとに参考書が一冊もないから解らないけれど、多分放浪時代の句であろうと思う。とにかくそのつもりで筆をすすめてゆく。――一茶は不幸な人間であった。幼にして慈母を失い、継母に虐められ、東漂西泊するより外はなかった。彼は幸か不幸か俳人であった。恐らくは俳句を作るより外には能力のない彼であったろう。彼は句を作った。悲しみも歓びも憤りも、すべてを俳句として表現した。彼の句が人間臭ふんぷんたる所以である。煩悩無尽、煩悩そのものが彼の句となったのである。しかし、この句には彼独特の反感と皮肉がなくて、のんびりとしてそしてしんみりとしたものがある。大の字に寝て涼しさよ――はさすがに一茶的である。いつもの一茶が出ているが、つづけて、淋しさよ――とうたったところに、ひねくれていない正直な、すなおな一茶の涙が滲んでいるではないか。彼が我儘気儘に寝転んだのはどこであったろう。居候していた家の別間か、道中の安宿か、それとも途上の樹蔭か、彼はそこでしみじみ人間の幸不幸運不運を考えたのであろう。切っても切れない、断とうとしても断てない執着の絆を思い、孤独地獄の苦悩を痛感したのであろう。所詮、人は人の中である。孤立は許されない。怨み罵りつつも人と人とは離れがたいのである。人は人を恋う。愛しても愛さなくても、家を持たずにはいられないのである。みだりに放浪とか孤独とかいうなかれ! 一茶の作品は極めて無造作に投げ出したようであるが、その底に潜んでいる苦労は恐らく作家でなければ味読することが出来まい(勿論、芭蕉ほど彫心鏤骨ではないが)。いうまでもなく、一茶には芭蕉的の深さはない。蕪村的な美しさもない。しかし彼には一茶の鋭さがあり、一茶的な飄逸味がある。私は一茶の句を読むと多少憂鬱になるが、同時にまた、いわば片隅の幸福を感じて、駄作一句を加えたくなった。―― 〝ひとり住めばあをあをとして草〟 」

一月廿五日

よい朝、よい朝、このよろこび、うれしいな、とても、とても。酒も滓もみんな飲む心。敬坊から約の如くうれしい手紙(それは同時にかなしい手紙でもあつたが)。郵便局まで大急ぎ、三八九発送第一回、帰りみち、冬村君を訪ねて、厚司とレーンコートとを押売する、おかげで、インチキカフヱーのマイナスが払へて、めいろ君に申訳が立つといふ訳。雪となつた藪かげで、椿の花を見つけた。今日の御馳走はどうだ! 酒がある、飯がある、肉がある、大根、ちしや、ほうれんさう、柚子。……右の手の物を失ふまいとして、左の手の物を失ふ、これは考へなければならない問題である。酒と貧乏とは質に於て反比例し、量に於て正比例する。雪の畑にこやしをやつた(肥料も自給自足)、これは昨夜、樹明君に教へられたのだ。夕方、樹明君がせかせかとやつてきた、生れたといふ、安産とは何より、このさい大によき夫ぶりを発揮して下さいと頼んだ。子がうまれたから句もうまれるといふ、万歳々々。吉野さんが三八九会費を樹明君に托して下さつたので、それを持つてまた街へ、三八九第二回発送。けふはほんとうにうれしい日だつた、涙がでるほどうまい酒を飲んだ、かういふ一日が一生のうちに幾日あらうか。おだやかな私と焚火だつた。年をとると、いやなもの、きたないものがないやうになる、肯定勝になるからか、妥協的になるからか、それとも諦めて意気地なくなるからか、とにかく与へられたものを快く受け入れて、それをしんみりと味ふ心持は悪くないと思ふ。句が出来すぎて困つた、おちついて、うれしかつたからだらう。かういふ場合には、句のよしあしは問題ぢやない、句が出来すぎるほどの心にウソはないかを省みるべきである。

 待人来ない焚火がはじく

 雪あかり餅がふくれて

 焚火へどさりと落ちてきた虫で

 寒さ、落ちてきた虫の生きてゐる

 ふけて山かげの、あれはうちの灯

 冴えかえる夜の酒も貰うてもどる

 つまづいて徳利はこわさない枯草

   樹明君に

 燗は焚火でふたりの夜

 雪ふる其中一人として火を燃やす

 雪ふるポストへ出したくない手紙

 仕事すまして雪をかぶつて山の家まで

 晴れて雪ふる里に入る

 雪がつみさうな藪椿の三つ四つ

 一人にしての音澄む

 のどがつまつてひとり風ふく

 ふるよりつむは杉の葉の雪

 雪のふるかなあんまりしづかに

 雪、雪、雪の一人

 雪はかぶるままの私と枯草

 小雪ちほら麦田うつふたりはふうふ

 雪かぶる畑のものにこやしやる

 からみあうて雪のほうれんさうは

 雪となつたが生れたさうな(樹明君さうですか)

 安産のよろこびの冴えかえる(樹明君さうでしたか)

 もう暮れたか火でも焚かうか

 恋猫がトタン屋根で暗い音

 夜ふけの薬罐がわいてこぼれてゐた

 雪の夜は酒はおだやかに身ぬちをめぐり

 雪がふるしみじみ顔を洗ふ

 たれかきたらしい夜の犬がほえて

 火鉢に火がなくひとりごというて寝る

【燗は焚火でふたりの夜】

この日の日記に、「燗は焚火でふたりの夜」の句があります。山頭火の随筆に次の『三八九雑記』があります。

「今年はよく雪が降りましたね、雪見酒は樹明君と二人でやりました。雪見にころぶところまで出かけました。

  燗は焚火でふたりの夜

節分には樹明君に誘われて、八幡様へのこのこおまいりいたしました。或るおじいさんのところで、鯨肉をよばれて年越らしい情調にひたりました。

  月がまうへに年越の鐘が鳴る鳴る 」

一月廿七日

よい朝、つめたい朝、すこし胃がわるくて、すこしにがい茶のうまい朝(きのふの破戒――シヨウチユウをのみ、ウイスキーをのんだタタリ)。何もかもポロポロだ、飯まで凍ててポロポロ。けふも雪、ちらりほらり。さすがの私も今日ばかりは、サケのサの字も嫌だ、天罰てきめん、酒毒おそるべしおそるべし、でも、雪見酒はうまかつたうまかつた。また、米がなくなつた、しかし今日食べるだけの飯はある、明日は明日の風が吹かう、明日の事は明日に任せてをけ――と、のんきにかまへてゐる、あまりよくない癖だが、なほらない癖だ。自製塩辛がうまかつた。午後はだいぶあたたかくなつた、とけてゆく雪はよごれて嫌だ。満目白皚々、銀 盛雪、好雪片々不落別処(すこし、禅坊主くさくなるが)、などとおもひだす雪がよい。遺書をいつぞや書きかへてをいたが、あれがあると何だか今にも死にさうな気がするので(まだ死にたくはない、死ぬるなら仕方もないが)、焼き捨ててしまつた、これで安心、死後の事なんかどうだつてよいではないか、死後の事は死前にとやかくいはない方がよからう。原稿も書き換へることにした、どうも薄つぺらなヨタリズムがまじつて困る、読みかへして見て、自分ながら嫌になつた、感興のうごくままに書いてゆくのはよいが、上調子になつては駄目だ。奇績を信じないで、しかも奇績を待つてゐる心は救はれない、救はれたら、それこそ奇績だらう。自己陶酔――自己耽溺――自己中毒の傾向があるではないかと自己を叱つてをく。いちにち、敬坊を待つた(今明日中来庵の通知があつたから)。焚火するので、手が黒く荒れてきた、恐らくは鼻の穴も燻ぶつてゐることだらう、色男台なしになつちやつた。酒の下物(さかな)はちよつとしたものがよい、西洋料理などは、うますぎて酒の味を奪ふ、そして腹にもたれる。樹明さんは、来庵者が少い――殆んど無いといふことを憤慨してゐるが、私としては、古い文句だけれど、来るものは拒まず去るもの追はず、で何の関心もない、理解のない人間に会ふよりも、山を見、樹を眺め、鳥を聞き、空を仰ぐ方が、どのぐらいうれしいかは、知る人は知つてゐる。敬治さんは、炬燵がなくては困るだらうと心配してくれる、しかし、私はまだ、炬燵なしにこの冬を凌ぐだけの活気を残されてゐる、炬燵といふものは日本趣味的で、興あるものであるが、とかくなまけものにさせられて困る、あつて困る方が、なくて困る場合よりも多い、だが、かういう場合の炬燵――親友会飲の時には、炬燵がほしいな。私の寝仕度もおかしいものですよ、――利久帽をかぶつて襟巻をして、そして、持つてるだけの着物をかける、何しろ掛蒲団一枚ではやりきれないから。亀の子のやうにちぢこまらないで、蚯蚓のやうにのびのびと寝るんですな!

 雪へ雪ふるしづけさにをる

 雪にふかくあとつけて来てくれた

 雪のなかの水がはつきり

 なにもかも凍つてしまつて啼く鴉

   樹明君に

 雪のゆふべの腹をへらして待つてゐる

 雪も晴れ伸びた芽にぬくいひざし

 火を燃やしては考へ事してゐる

 雪ふるひとりひとりゆく

 水のいろのわいてくる

 雪折れの水仙のつぼみおこしてやる

   改作一句

 この柿の木が庵らしくするあるじとなつて

 遠く遠く鳥渡る山山の雪

 雪晴れの煙突からけむりまつすぐ

 小鳥が枝の雪をちらして遊んでくれる

 今夜も雪が積みさうなみそさざい

 暮れはやくみそつちよが啼く底冷えのして

 電燈きえて雪あかりで食べる

 いそいでくる足音の冴えかえる

 雪あした、あるだけの米を粥にしてをく

 山の水の張りつめて氷

 雪の山路の、もう誰か通つた

 雪のあしあとのあとをふんでゆく

 霜ばしら踏みくだきつつくらしのみちへ

 雪どけみちの兵隊さんなんぼでもやつてくる

 大きな雪がふりだして一人

 おぢいさんは唄をうたうて雪を掃く

 朝の墓場へもう雪が掃いてある

【雪へ雪ふるしづけさにをる】

この日の日記に、「雪へ雪ふるしづけさにをる」の句があります。怖くなるほどの「しづけさ」は、明日への保障など何もない行乞者としての山頭火に、降り積もる雪よりも重く確実にのしかかってきます。ここには、神も仏もない世界にぽつねんと取り残されている存在である山頭火がいます。もはや人間という形からも疎外されかけている山頭火にとって、この雪の中に生を見出すことができるかはもう誰にもわかりません。しかし、その中にこの身を委ねざるをえないところまで自分を捨てきって、己を厳しく見つめ直そうという心の旅がうかがえます。

【雪ふるひとりひとりゆく】

このほかに雪の句としては、「雪ふるひとりひとりゆく」「雪あした、あるだけの米を粥にしてをく」のよい句もあります。

【大きな雪がふりだして一人】

また、「大きな雪がふりだして一人」の句もあります。山頭火の随筆に、次の『三八九雑記』があります。

「大根と新菊とはおしまいになった。ほうれんそうがだんだんとよくなった。こやし――それも自給自足――をうんと与えたためだろう。ちさはあいかわらず元気百パア、私も食気百パアというところ。畑地はずいぶん広い、とても全部へは手が届かないし、またそうする必要もない、その三分の二は雑草に委任、いや失地回復させてある。

  よう燃える火で私ひとりで

  大きな雪がふりだして一人

  いたづらに寒うしてよごれた手

  もう暮れたか火でも焚かうか

  いちにち花がこぼれてひとり

  雪あしたあるだけの米を粥にしてをく

  ひとりの火の燃えさかりゆくを

これらの句は、日記に記しただけで、たいがい捨てたのですが、わざとここに発表して、そしてこの発表を契機として、私はいわゆる孤独趣味、独りよがり、貧乏臭、等、を清算する、これも身心整理の一端です。樹明君にお嬢さんが恵まれた。本集所載の連作には、夫として父としての真実が樹明的手法で表現されている。」

一月三十一日

日々好日、事々好事。朝、敬坊来、県庁行を見送る、樹明来、珍品を持つて、そして早く出勤。粕汁はうまかつた、山頭火も料理人たるを失はない! 大根の始末をする、同じ種で、同じ土で、同じ肥料で、しかも大小短長さまざまはどうだらう。切り捨てた葱がそのまま伸びてゆく力には驚いた。今日から麦飯にした。何か煮える音、うまさうな匂ひ、すべてよろし。千客万来、――薬やさん、花もらひさん、電気やさん、悪友善人、とりどりさまざま。夕方、また三人があつまつて飲みはじめた、よい酒だつた、近来にないうまい酒だつた(酒そのものはあまりよくなかつたが、うまかつた)、三人でまた街で飲みつづけた、樹君を自動車で送り、敬君を停車場まで送つて、ききとして戻つた、よう寝られた。落ちついた、ではなくて落ちつけた、であらう。「ぢいさま」と或る女給が呼びかけたのにはびつくりさせられた。これで一月が終つた、長かつたやうでもあり、短かつたやうでもある、この一ケ月はまことに意味深かつた。所詮、人生は純化によつて正しくされる、復雑を通しての単純が人生の実相だ、ここから菩薩の遊びが生れる、物そのものに還生して、そして新生がある。

 とうとう雪がふりだした裏藪のしづもり

 まづ枇杷の葉のさらさらみぞれして

 けふいちにちはものいふこともなかつたみぞれ

 けさから麦飯にしてみぞれになつて

 雪晴れ、落ちる日としてしばしかがやく

 あんたに逢ひたい粉炭はじく

 霜をふんでくる音のふとそれた

 右は酒屋へみちびくみちで枯すすき

 いつも尿するあとが霜ばしら

 何だか死にさうな遠山の雪

 障子に冬日影の、郵便屋さんを待つてゐる

 ようできたちしやの葉や霜のふりざま

 ついそこまでみそつちよがきてゐるくもり

 倒れさうな垣もそのまま雪のふる

 地下足袋おもたく山の土つけてきてゐる

【菩薩の遊び】

この日の日記に、「所詮、人生は純化によつて正しくされる、復雑を通しての単純が人生の実相だ、ここから菩薩の遊びが生れる、物そのものに還生して、そして新生がある」とあります。「菩薩の遊びが生れる」とは面白い表現です。

二月一日

雪もよひ、ひとりをたのしむ。年はとつてもよい、年よりにはなりたくない(こんな意味の言葉をゲーテが吐いたさうだ)、私は年こそとつたが、まだまだ年寄にはなつてゐないつもりだ! 本来の愚を守つて愚に徹す、愚に生きる外なし、愚を活かす外なし。依頼心が多い、――この言葉ほど私の心を鋭く刺したものは近来になかつた、ああ。自然即入。生も死も去来も、それはすべていのちだ。有無にとらはれて、いのちを別扱にするなかれ。

 また雪となり、大根もらつた

 くもりおもくて竹の葉のゆれてなる

 影が水を渡る

 影もならんでふむ土の凍ててゐる

 夕月があつて春ちかい枯枝

 ゆふやみのうらみちからうらみちへ雪どけの

【ひとりをたのしむ】

この日の日記の冒頭に、「ひとりをたのしむ」とあります。まことに、山頭火らしい言い方です。

【愚に生きる】

続いて日記に、「本来の愚を守つて愚に徹す、愚に生きる外なし、愚を活かす外なし」とあります。山頭火は信じ、苦しみあえいで貫いた59年(昭和15年に亡くなる)の生涯の有様そのものには、悔いはなかったといいます。

二月十日

天地清明、私もその通り。樹明君、朝、来訪、昨夜のワヤはわるくなかつたやうです。午前は漫歩、飲みたくなれば酒屋で一杯、喫ひたくなれば煙草屋で一服、ひもじくなつてパン屋でパンパン! とにかく、すべてがよろしい。執着しないのが、必ずしも本当ではない、執着し、執着し、執着しつくすのが本当だ、耽る、凝る、溺れる、淫する、等々の言葉が表現するところまでゆかなければ嘘だ、そこまでゆかなければ、その物の味は解らない。今夜の月はよかつた、冬の月でもなし、春の月でもなし、ただよい月であつた。夜、宿直の樹明君から来状、来てくれといはれては、行きたい私だから、すぐ行く、冬村君ともいつしよになつて、飲んで話して、そして書く。おとなしく別れて戻つた、まことに、まことによい月であつた、月夜のよさをよく味はつた。とろとろこころよいほどの発熱(風邪もわるくない!)

 水底の岩も春らしい色となつた

 草の芽、めくらのおばさんが通る

 春は長い煙管を持つて

 君こひしゆふべのサイレン(!)

 冬の山からおりてくるまんまるい月

 枯枝をまるい月がのぼる

 月へいつまでも口笛ふいてゐる

 月のよさ、したしく言葉をかはしてゆく

 月のあかるさが木の根

【春は長い煙管を持つて】

この日の日記に、「春は長い煙管を持つて」の句があります。山頭火の随筆に、次の『三八九雑記』があります。

「あかね社の新井声風氏著『明治以降物故新派俳人伝』第壱輯の寄贈を受けて、当然出るべきものが出たことを喜ぶと共に著者の労を考えた。そして書中に、朱鱗洞葉平の名を見出して、懐旧の情を新たにした。『松』を毎号贈って下さる浜松の同人諸君に感謝する。同時に『紅』『リンゴ』『一茶』等の同人諸君に御礼を申しあげる。本集には、草木塔続篇及酒についての覚書を書くつもりでいて、どうにも気がすすみませんので止めました。これからは私も書きますから、諸兄も書いて下さい。

  春は長い煙管を持つて

                                        ――(二、二七、夜)―― 」