山頭火の日記 ⑲
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945997008&owner_id=7184021&org_id=1946031504 【山頭火の日記(昭和7年10月21日~)】 より
十月廿一日
曇、それから晴、いよいよ秋がふかい。朝、厠にしやがんでゐると、ぽとぽとぽとぽとといふ音、しぐれだ、草屋根をしたたるしぐれの音だ。
おとはしぐれか
といふ一句が突発した、此君楼君の句(草は月夜)に似てゐるけれど、それは形式で内容は違つてゐるから、私の一句として捨てがたいものがある。
追加三句(帰郷 やつぱりうまい水があつたよ、の句と共に
句賛の三句とする)
露のしたたるしたしさにひたる
別れて遠い秋となつた
朝から百舌鳥のなきしきる枝は枯れてゐる
けさはほどよい起床だつた、すべてがおだやかに運ばれた、何かうれしい事でもないかな。敬治坊からの返信は私を微苦笑させた、いづくもおなじ秋の夕暮、お互に借金の風にふきまくられてゐる。どれ散歩でもせうか、それはまことに露のそぞろあるきでござりまする、はい、はい。――ここに庵居してからもう一ヶ月になる、落ちついたことは落ちついたが、まだほんとうに落ちついてはゐないらしい。其中庵風景――その台所風景の傑作は酒徳利の林立であらう、いつでも五六本並んでゐないことはない。I老人、竹伐りにきて、縁側でしばらく話しあふ、しづかでうらやましいといふ、誰でもがさういふ、そして感にたへたやうにあたりを見まはす、まあひとりで、かうしてやつてごらんなさいと私の疳の虫が腹の中でつぶやく、かうした私の生活は私みづから掘つた私の墓穴なのだ。……竹を伐る――伐られる竹――葉のそよぎ――倒されて枝をおろされて、明るみに持ちだされて。――寝て起きて、粥を煮て食べる、――今日も暮れた。
もう、暮れる百舌鳥は啼きやめない
暮れてから(あまり暗いので、それは勘で歩いたのである)学校へ樹明君を訪ねる(彼は今晩宿直だから来るやうにといつてきたのである)、例によつて一杯よばれる、風呂にもよばれる、そして雑誌にもよばれたといつてよからう、ひきとめられるままに泊る、帰つたところで仕方もないから、もつとも帰つた時にお茶なりと飲むつもりで、炭をいけ床をのべてきたのだが。読みつつ寝た、昆虫の愛情についての記事が面白かつた、かういふ科学記事を読んでゐると、人間執着がとれてくる、動物としての自己他己観照が出来るやうになる。
【おとはしぐれか】
この日の日記に、「おとはしぐれか」の有名な句があります。山頭火は唯一、酒におぼれることが楽しみでした。しかし、その後に来る寂しさや覚めた思いを知るたびに、真に自分に語りかけてくるものは、自然の声以外にないことを知るに至りました。それに耳を傾け、それにあやされる時が、真の自分であることをも知っていました。
十月廿八日
六時のサイレンが鳴つてから起きた、飯を炊き汁を煮る、そして食べてまた寝る、今日も動けさうにない。孤独よろこぶべし――が、孤独あはれむべし――になつてしまつた。井戸がいよいよ涸れてきた、濁つた水を澄まして使ふ、水を大切にせよ、水のありがたさを忘れるな、水のうまさを知つて、はじめて水の尊さが解る。秋日和、それはつめたさとぬくさとが飽和して、しんみりとおちつかせる、しづかで、おだやかで、すべてがしみじみとして。ぐずりぐずりして存らへてゐる、寝るでもなく、起きるでもなく、読むでもなく、考へるでもなく、――生きてゐるでもなく。――あんまり気がめいりこむから、歩くともなく歩いた、捨てられた物を拾ふともなく拾ひつつ(それはホントウのウソだ!)。
ただ百舌鳥のするどさの柿落葉
放つよりとんでゆく蜂の青い空
子供も蝗もいそがしい野良の日ざしかたむいて
秋の野のほがらかさは尾をふつてくる犬
たそがれる家のぐるりをめぐる
空からもいで柚味噌すつた
真昼あはただしいこうろぎの恋だ
秋の夜のふかさは油虫の触角
秋の夜ふけてあそぶはあぶらむし
障子たたくは秋の夜の虫
秋ふかうなる井戸水涸れてしまつた
こころつめたくくみあげた水は濁つて
みんないつしよに柿をもぎつつ柿をたべつつ
【みんないつしよに柿をもぎつつ柿をたべつつ】
この日の日記に、「みんないつしよに柿をもぎつつ柿をたべつつ」の句があります。山頭火の随筆『草木塔』に、次のように書かれています。
「柿 前も柿、後も柿、右も柿、左も柿である。柿の季節に於て、其中庵風景はその豪華版を展開する。今までの私は眼で柿を鑑賞していた。庵主となって初めて舌で柿を味わった。そしてそのうまさに驚かされた。何という甘さ、自然そのものの、そのままの甘さ、柿が木の実の甘さを私に教えてくれた。ありがたい。柿の若葉はうつくしい。青葉もうつくしい。秋ふこうなって、色づいて、そしてひらりひらりと落ちる葉もまたうつくしい。すべての葉をおとしつくして、冬空たかく立っている梢には、なすべきことをなしおえたおちつきがあるではないか。柿の実については、日本人が日本人に説くがものはない。るいるいとして枝にある柿、ゆたかに盛られた盆の柿、それはそれだけで芸術品である。そしてまた、彼女が剥いでくれる柿の味は彼氏にまかせておくがよい。柿は日本固有の、日本独特のものと聞いた。柿に日本の味があるのはあたりまえすぎるあたりまえであろう。
みんないつしよに柿をもぎつつ柿をたべつつ 」
【秋の夜ふけてあそぶはあぶらむし】
また、「秋の夜ふけてあそぶはあぶらむし」の句もあります。山頭火の随筆に、次の『草と虫とそして』があります。
「蟻が行儀正しく最後の御奉公にいそしんでいる姿は、ときどき机の上を歩きまわったり寝床を襲うたりして困るけれど、それは私に反省と勤労を教えてくれる。憎むべきは油虫だ。庵裏空しうして食べる物がないからでもあろうが、何でもかでも舐めたがる。いつぞやも友達から借りた本の表紙を舐めつくして、私にお詫言葉の蘊蓄を傾けさせた。蜚(あぶらむし)ほど又なく野鄙なるものはあらじ。譬へば露計りも愛矜(あいけう)なく、しかも身もちむさむさしたる出女の、油垢に汚れ朽ばみしゆふべの寝まきながら、発出(おきい)でたる心地ぞする。(風狂文章)古人がすでに言いきっている。油虫よ、私ばかりではないぞ、怒るな憎むな。」
十一月五日
朝寝した、晴れてゐる、元気回復、何でもやつてこい! 敬坊から来信、「松」十一月号が来る。落葉を掃きつつ、身も心ものびやかに、大空を仰ぎつつ。何となく人の待たれる日、といつて誰も来ないけれど。正午のサイレンをきいてから湯屋へ、かへりみち、墓場の黄菊(これがほんとうの野菊であると思ふ)を無断頂戴して来て、仏前に供へ奉つた。銀杏かがやかに、山茶花はさみしく。このあたりには雀がゐない、どうした訳だらう、私は雀に親しみを持つてゐる。裏を歩いたついでに拾うてきた枯枝で、ゆふべの粥がうまく出来た、何でもない事だけれど、ありがたい事である。日ごろはつつましく、あまりにつつましく、そして飲めばいつも飲みすぎる、――これも性であり命である、一円をくづして費ふ人もあれば、そのまま費ひ果す人もある。業報は受けなければならない、それは免かれることの出来ないものである、しかし業報をいかに受けるかはその人の意志にある、そして生死や禍福や、すべてを味到することが出来る力は信念にのみある。
もう穴に入るまへの蛇で日向ぼこ
ほがらかにして親豚仔豚
夕日の、ひつそりと落葉する木の
音がして落ちるは柿の葉で
あれは木の実の声です
夜はしぼむ花いけてひとりぐらし
夜に入つてから樹明君来庵、渋茶をすすりながらつつましく話して別れた、月も林のかなたに、汽車の響がもうだいぶ更けたらしい調子になつてゐた。アルボースせつけんのききめが意外にてきめんなのに驚かされた、まだ二回しか使はないが、それでも頭部のかゆがりがかゆるくなくなつた、私が此頃とりわけいらいらしている源因の一つは、このかゆがりがかゆくてかゆくて、かけばいたむし、かかずにはゐられないし、それこそ痛し痒しの苦しみだが、そのかゆがりにあると思ふ、しかし痒いところを掻く時の気持は何ともいへない快さである。
【ほがらかにして親豚仔豚】
この日の日記に、「ほがらかにして親豚仔豚」の句があります。鳥取県岩美町の山内養豚所に、放哉・緑石句と併刻してこの句碑があります。
十二月三日
第五十回誕生日、形影共に悲しむ風情。午後、樹明来庵、程なく敬坊幻の如く来庵、三人揃へば酒、酒、酒。酒が足りなくて街へ。――
しぐれへ三日月へ酒買ひに行く
例によつて街を飲みついたが、三人とも無事に帰庵、三人が枕をならべていつしよに寝てゐるのは珍妙だつた。
茶の花や身にちかく冬のきてゐる
落葉して大空の柚子のありどころ
【茶の花や身にちかく冬のきてゐる】
この日の日記に、「茶の花や身にちかく冬のきてゐる」の句があります。山頭火の随筆『草木塔』に、次のようにあります。
「茶の花 庵のまわりには茶の木が多い。五歩にして一株、十歩にしてまた一株。私は茶の木を愛する、その花をさらに愛する。私はここに移ってきてから、ながいこと忘れていた茶の花の趣致に心をひかれた。捨てられるともなく捨てられている茶の木は『佗びつくしたる佗人』の観がある。その花は彼の芸術であろう。茶の木は枝ぶりもおもしろいし、葉のかたちもよい。花のすがたは求むところなき気品をたたえている。この柿の木が其中庵を庵らしく装飾するならば、そこらの茶の木は庵の周囲を庵として完成してくれる。茶の花に隠遁的なものがあることは否めない。また、老後くさいものがあることもたしかである。年をとるにしたがって、みょうが、とうがらし、しょうが、ふきのとうが好きになるように、茶の木が、茶の花が好きになる。しかし、私はまだ茶人にはなっていない、幸にして、あるいは不幸にして。梅は春にさきがけ、茶の花は冬を知らせる(水仙は冬を象徴する)。茶の花をじっと観ていると、私は老を感じる。人生の冬を感じる。私の身心を流れている伝統的日本がうごめくのを感じる。
茶の花や身にちかく冬が来てゐる 」
十二月三十一日
昼は敬治君と、夜は樹明君と酒らしい酒を飲んだ。ひとり、しづかに、庵主として今年を送つた、さよなら。
冬夜の人影のいそぐこと
鉄鉢たたいて年をおくる
インチキ ドライヴ
昭和七年度の性慾整理は六回だつた、内二回不能、外に夢精二回、呵、呵、呵、呵。
【性慾整理】
この日の日記に、「昭和七年度の性慾整理は六回だつた、内二回不能、外に夢精二回」とあります。この年、山頭火51歳。こんなことまで、よく記録し整理しているのに感心させられます。山頭火の日記には、「朝立ち」「夢精」などが正直に記されており、先の昭和7年6月30日の日記には「あさましい夢を見た(それは、ほんとうにあさましいものだつた、西洋婦人といつしよに宝石探検に出かけて、途中、彼女を犯したのだ!)」と、あさましい夢(夢精か)のことなども記しています。