山頭火の日記 ⑰
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945939009&owner_id=7184021&org_id=1945967000 【山頭火の日記(昭和7年8月26日~)】より
八月廿六日 川棚温泉、木下旅館。
秋高し、山桔梗二株活けた、女郎花一本と共に。いよいよ決心した、私は文字通りに足元から鳥が立つやうに、川棚をひきあげるのだ、さうするより外ないから。……形勢急転、疳癪破裂、即時出立、――といつたやうな語句しか使へない。其中庵遂に流産、しかしそれは川棚に於ける其中庵の流産だ、庵居の地は川棚に限らない、人間至るところ山あり水あり、どこにでもあるのだ、私の其中庵は! ヒトモジ一把一銭、うまかつた、憂欝を和げてくれた、それは流転の香味のやうでもあつたが。精霊とんぼがとんでゐる、彼等はまことに秋のお使である。
いつも一人で赤とんぼ
今夜もう一夜だけ滞在することにする、湯にも酒にも、また人にも(彼氏に彼女に)名残を惜しまうとするのであるか。……
【川棚温泉をひきあげる】
この日の日記に、「いよいよ決心した、私は文字通りに足元から鳥が立つやうに、川棚をひきあげるのだ、さうするより外ないから」とあります。先の5月25日の日記に、「川棚は山裾に丘陵をめぐらして、私の最も好きな風景である。とにかく、私は死場所をここに、こしらへよう」とあります。ここならどうにか落ち着けそうと、お寺の土地に草庵を結ぶことができたらどんなによかろう、わぴ住まいの夢を追いながら山頭火は、おぼろに光る妙青寺の裏山にひっそりと立ち尽くすのでした。ここの土となろう、お寺のふくろうにしみじみと、「ここが私の死場所ですよ」と呼びかける山頭火でした。川棚グランドホテルに、「花いばらここの土とならうよ」の句碑があります。川棚温泉の地がすっかり気にいった山頭火は、さっそく妙青寺に拝登し、お寺の土地借入と草庵建立を長老に懇願します。「私は私にふさはしくない、といふよりも不可能とされていた貯金」を始めるなどして、100日近く川棚温泉に滞在します。しかし日記には、「身許保証(土地借入、草庵建立について)には悩まされた、独身の風来坊には誰もが警戒の眼を離さない」とあり、結局、土地借入に必要な当村在住の保証人二名をこしらえられず、8月27日川棚を退去することになります。
【いつも一人で赤とんぼ】
この日の日記に、「いつも一人で赤とんぼ」の有名な句があります。山頭火が孤独を好みながらも、絶えず孤独から逃れようとしていたのは言うまでもありませんが、それは自然に対しても同じでした。彼が海よりも山を好んだのも、山の植物も動物も鬱蒼とした感じが、彼の淋しさを紛らしてくれたからではないでしょうか。そんな一人の山頭火に、赤とんぼが一羽だけ近づいてきました。いつも群飛ぶ赤とんぼなのに仲間とはぐれたのか、それとも一人が好きで仲間と離れてきたのか。夕焼けで真っ赤に染まったその中に似合う赤とんぼが、一羽だけ話しかけるように来てくれたのです。一人になろうとしてなりきれぬ山頭火の矛盾した思いが、秋空の中に溶け込み損ねた赤とんぼに反映されています。
八月廿七日 樹明居。
晴、残暑のきびしさ。退去のみじめさ。百日の滞在が倦怠となっただけだ、生きることのむづかしさを今更のやうに教えられただけだ、世間といふものがどんなに意地悪いかを如実に見せつけられただけだつた、とにかく、事ここに到つては万事休す、去る外ない。
けふはおわかれのへちまがぶらり(留別)
これは無論、私の作、次の句は玉泉老人から、
道芝もうなだれてゐる今朝の露
正さん(宿の次男坊)がいろいろと心配してくれる(彼も酒好きの酒飲みだから)、私の立場なり心持なりが多少解るのだ、荷造りして駅まで持つて来てくれた、五十銭玉一つを煙草代として無理に握らせる、私としても川棚で好意を持つたのは彼と真道さんだけ。午後二時四十七分、川棚温泉よ、左様なら! 川棚温泉のよいところも、わるいところも味わつた、川棚の人間が『狡猾な田舎者』であることも知つた。山もよい、温泉もわるくないけれど、人間がいけない! 立つ鳥は跡を濁さないといふ、来た時よりも去る時がむつかしい(生れるよりも死ぬる方がむつかしいやうに)、幸にして、私は跡を濁さなかつたつもりだ、むしろ、来た時の濁りを澄ませて去つたやうだ。T惣代を通して、地代として、金壱円だけ妙青寺へ寄附した(賃貸借地料としてはお互に困るから)。
ふるさとにちかい空から煤ふる(再録)
この土のすずしい風にうつりきて(小郡)
小郡へ着いたのが七時前、樹明居へは遠慮して安宿に泊る、呂竹さんに頼んで樹明兄に私の来訪を知らせて貰ふ、樹明兄さつそ来て下さる、いつしよに冬村居の青年会へ行く、雑談しばらく、それからとうとう樹明居の厄介になつた。
【川棚温泉を去る】
この日の日記に、「けふはおわかれのへちまがぶらり」の句があります。山頭火が最初の放浪の旅に疲れて、そろそろ落ち着こうかとたどりついたのが川棚の温泉町でした。川棚温泉に戻ってきた山頭火は木下旅館へ100日滞在し、土地探しと金策に走りまわりますが、うまく行かず結庵をあきらめて、8月27日に川棚温泉を去ることになります。この句には冷たい人心への恨めしい思いを残しながらも、「まあしょうがない。こんな私を信用してくれるものと思った自分こそが恥ずかしいことよ」という照れくささも感じられます。去るときもまたひどい言いようですが、別れには未練がなかった山頭火の気心も感じられる句です。でも日記を読めば、山頭火も自分がやっていることにムリがあるのは自覚しています。それほどまで、どうして川棚に執着したのでしょう。山頭火の随筆「『鉢の子』から『其中庵』まで」に、次のように書いています。
「私は殆んど捨鉢な気分にさえ堕在していた。憂鬱な暑苦しい日夜であった。私はどうにかせずにはいられないところまでいっていたのである。だが、私はこんなに未練ぶかい男ではなかった筈だ。むろん人間としての執着は捨て得ないけれど、これほど執着するだけの理由がどこにあるか。何事も因縁時節である、因縁が熟さなければ、時節が到来しなければ何事も実現するものではない。なるようになれではいけないが、なるようにしかならない世の中である。行雲流水の身の上だ、私は雲のように物事にこだわらないで、流れに随って行動しなければならない。去ろう、去ろう、川棚を去ろう。さらば川棚よ、たいへんお世話になった。私は一生涯川棚を忘れないであろう。川棚よ、さらば。
けふはおわかれの糸瓜がぶらり
(中略)最後に私は、川棚で出来た句『花いばら、ここの土とならうよ』の花いばらを茶の花におきかえなければならなくなったことを書き添えよう。そして、もう一句、最も新らしい一句を書き添えなければなるまい。
住みなれて茶の花のひらいては散る 」
この後、縁あって小郡の其中庵(ごちゅうあん)に落ち着くことになります。
九月四日
雨、よう降りますね、風がないのは結構ですね。午前は、樹明さん、敬治さん、冬村さんと四人連れで、其中庵の土地と家屋とを検分する、みんな喜ぶ、みんなの心がそのまま私の心に融け入る。……午後はまた四人で飲む、そしてそれぞれの方向へ別れた。夕方から夕立がひどかつた、よかつた、痛快だつた。さみしい葬式が通つた。私はだんだん涙もろくなるやうだ(その癖、自分自身に対しては、より冷静になる)。飯盒の飯はうまい、しかしこれは独身のうまさだ。故郷へ一歩近づくことは、やがて死へ一歩近づくことであると思ふ。――孤独、――入浴、――どしや降り、雷鳴、――そして発熱――倦怠。私はあまりに貪つた、たとへば食べすぎた(川棚では一日五合の飯だつた)、飲みすぎた(先日の山口行はどうだ)、そして友情を浴びすぎてゐる。……かういふ安易な、英語でいふ easy-going な生き方は百年が一年にも値しない。あの其中庵主として、ほんとうの、枯淡な生活に入りたい、枯淡の底からこんこんとして湧く真実を詠じたい。
いつも尿する木の実うれてきた
秋雨の枝をおろし道普請です
雨ふるふるさとははだしであるく
【雨ふるふるさとははだしであるく】
この日の日記に、「雨ふるふるさとははだしであるく」の有名な句があります。山頭火の草鞋はやぶれていますが、地下足袋を買う銭はありません。故郷の大種田の屋敷だった戎ヶ森あたりは、山頭火が少年時代によく遊んだところです。ふるさとに関して、日記には次の句もあります。
ふるさとのここにもそこにも家が建ち
ふるさとの水で腹がいつぱい
ふるさとの河原月見草咲きみだれ
うぶすなの宮はお祭のかげり
うぶすなの神のおみくじをひく(天満宮)
おもいでの草のこみちをお墓まで
夏草、お墓をさがす
すずしくお墓の草をとる
九月九日
相かはらず降つてゐる、そしてとうとう大雨になつた、遠雷近雷、ピカリ、ガランと身体にひびくほどだつた、多分、どこか近いところへ落ちたのだらう。午後は霽れてきた、十丁ばかり出かけて入浴。畑を作る楽しみは句を作るよろこびに似てゐる、それは、産む、育てる、よりよい方への精進である。出家――漂泊――庵居――孤高自から持して、寂然として独死する――これも東洋的、そしてそれは日本人の落ちつく型(生活様式)の一つだ。魚釣にいつたが一尾も釣れなかつた、彼岸花を初めて見た。夕方、樹明兄から珍味到来、やがて兄自からも来訪、一升買つてきて飲む、雛鶏はうまかつた、うますぎた、大根、玉葱、茄子も、そして豆腐も。生れて初めて、生の鶏肉(肌身)を食べた、初めて河豚を食べたときのやうな味だつた。Comfortable life 結局帰するところはここにあるらしい。
起きるより土をいぢつてゐるはだか
ひとり住めば雑草など活けて
こほろぎがわたしのたべるものをたべた
くりやまで月かげのひとりで
月の落ちる方へ見送る
あさあけ、うごくものがうごくものへ
蚯蚓が半分ちぎれてにげたよ
水のながれの、ちつとも釣れない
水草さいてゐるなかへ釣針(はり)をいれる
【快適な人生】
この日の日記に、「出家――漂泊――庵居――孤高自から持して、寂然として独死する――これも東洋的、そしてそれは日本人の落ちつく型(生活様式)の一つだ。魚釣にいつたが一尾も釣れなかつた、彼岸花を初めて見た。夕方、樹明兄から珍味到来、やがて兄自からも来訪、一升買つてきて飲む、雛鶏はうまかつた、うますぎた、大根、玉葱、茄子も、そして豆腐も。生れて初めて、生の鶏肉(肌身)を食べた、初めて河豚を食べたときのやうな味だつた。 Comfortable life 結局帰するところはここにあるらしい」とあります。はたして山頭火における Comfortable life、快適な人生とは庵居生活であったのでしょうか。
九月十日
とうとう徹夜してしまつた、悪い癖だと思ふけれど、どうしてもやまない、おそらくは一生やまないだらう、ちようど飲酒癖のやうに。ここまで来たらもう仕方がない、行けるところまで行かう。夜が明ける前の星はうつくしい、星はロマンチツクだ、星を眺めることを人間が忘れないかぎり、人生はうつくしい。こほろぎがいろいろの物をたべるには驚いた、胡瓜、茄子、ささげ、大根、玉葱までたべてゐる、私のたべるものはこほろぎもたべる、彼等は私に対して一種の侵入者だつた! 過ぎたるは及ばざるに如かず――まつたくさうだ、朝もかしわ、昼もかしわ、晩もまたかしわだ、待人不来、我常独在、御馳走がありすぎた! どうやらかうやらお天気らしい、風呂にいつて髯を剃り、財布をはたいて買物をした。身辺に酒があると、私はどうも落ちつけない、その癖あまり飲みたくはないのに飲まずにはゐられないのである、旦浦で酒造をしてゐる時、或る酒好老人がいつたことを思ひだした、――ワシは燗徳に酒が残つてをつてさへ、気にかかつて寝られないのに、何と酒屋は横着な、六尺の酒桶(こが)を並べといて平気でゐられたもんだ、――酒に『おあづけ』はない!
朝の水で洗ふ
樹影雲影に馬影もいれて
ここでしばらくとどまるほかない山茶花の実
草を刈り草を刈りうちは夕餉のけむり
夕焼、めをとふたりでどこへゆく
いつさいがつさい芽生えてゐる
樹明さんと夕飯をいつしよに食べるつもりで、待つても待つてもやつてきてくれない(草刈にいそがしかつたのだ)、待ちくたびれて一人の箸をとつた、今晩の私の食卓は、――例のかしわ、おろし大根、ひともじと茗荷、福神漬、らつきよう、――なかなか豊富である、書き添へるまでもなく、そこには儼として焼酎一本! 食事中にひよつこりと清丸さん来訪、さつそく御飯をあげる(炊いてはおそくなるから母家で借りる)、お行儀のよいのに感心した、さすがに禅寺の坊ちやんである。今夜は此部屋で十日会――小郡同人の集まり――の最初の句会を開催する予定だつたのに、集まつたのは樹明さん、冬村さんだけで(永平さんはどうしたのだらう)、そして清丸さんの来訪などで、とうとう句会の方は流会となつてしまつた、それもよからうではないか。みんなで、上郷駅まで見送る、それぞれ年齢や境遇や思想や傾向が違ふので、とかく話題がとぎれがちになる、むろん一脉の温情は相互の間を通うてはゐるけれど(私としては葡萄二房三房あげたのがせいぜいだつた)。
送別一句
また逢ふまでのくつわ虫なく(駅にて)
焼酎のたたりだらう、頭が痛んで胃が悪くなつた、じつさい近頃は飲みすぎてゐた、明日からは慎まう。
【飲みすぎは焼酎のたたり】
この日の日記に、「焼酎のたたりだらう、頭が痛んで胃が悪くなつた、じつさい近頃は飲みすぎてゐた、明日からは慎まう」とあります。酒好きの山頭火は、毎回、飲みすぎで酒に飲まれています。
九月十三日
起きたい時に起き、寝たい時に寝る、食べたくなれば食べ、飲みたくなれば飲む(在る時には――である)。今日は三時起床、昨夜の残滓を飲んで食べる。何といつても朝酒はうまい、これに朝湯が添へば申分なし。今朝の御飯はよく炊けた(昨朝の工合の悪さはどうだつた)。よく食べた、そして自分の自炊生活を礼讃した、その一句として、一粒一滴摂取不捨。めづらしい晴れ、ときどきしぐれ、好きな天候。摘んできて雑草を活ける、今朝は露草、その瑠璃色は何ともいへない明朗である。母家の若夫婦は味噌を搗くのにいそがしい、川柳的情趣。白船老から来信、それは私に三重のよろこびをもたらした、第一は書信そのもの、第二は後援会費、第三は掛軸のよろこびである。蛇が蛙を呑んだ、悲痛な蛙の声、得意満面の蛇の姿、私はどうすることもできない、どうすることはないのだ! 廃人が廃屋に入る、――其中庵の手入は日にまし捗りつつあると、樹明兄がいはれる、合掌。昼御飯をたべてから、海の方へ一里ばかり歩いて、五時間ほど遊んだ、国森さんの弟さんに逢ふ(必然の偶然とでもいはうか)、蜆貝をとつてきて一杯やる。夜、樹明兄来庵、ちよんびり飲んでから呂竹居へ、呂竹老は温厚そのものといへるほど、落ちついた好々人である、楽焼数点を頂戴する、それからまた二人で、何とかいふ食堂で飲む、性慾、遊蕩癖、自棄病が再発して困つた、やつと抑へつけて、戻つて、寝たけれど。――女房といふものは、たとへば、時計に似たところがある、安くても、見てくれはよくなくても、きちんとあつてをればよろしい、困るのは故障の多い品、時計屋をよろこばせて亭主は泣く、ヒチリケツパイ。
夜あけの星がこまかい雨をこぼしてゐる
鳴くかよこほろぎ私も眠れない
星空の土へ尿する
並木はるかに厄日ちかい風を見せてゐる
秋晴れの音たててローラーがくる
二百二十日の山草を刈る
秋の水ひとすぢの道をくだる
すわればまだ咲いてゐるなでしこ
かるかやへかるかやのゆれてゐる
ながれ掻くより澄むよりそこにしじみ貝
水草いちめん感じやすい浮標(うき)
月がある、あるけばあるく影の濃く
追加三句
おもたく昼の鐘なる
子を持たないオヤヂは朝から鳩ぽつぽ
こほろぎよ、食べるものがなくなつた
いやな夢ばかり見てゐる。……唖貝(煮ても煮えない貝)はさみしいかな。根竹の切株を拾ふ、それはそのまま灰皿として役立つ。
別れて月の道まつすぐ
【こほろぎよ、食べるものがなくなつた】
この日の日記に、「こほろぎよ、食べるものがなくなつた」の句があります。また山頭火の句に、「こほろぎよ、あすの米だけはある」もあります。「食うために働く」ということをやめてしまった山頭火は、当然のことながら常時、飢えに苦しめられていきます。日記にも、繰り返し飢えについて記述しており、句においても飢えや食うことを素材にしたものが実に多いです。次の句があります。
冬日まぶしく飯を食べないカホして
腹いつぱい水飲んで寝る
朝焼、夕焼食べるものがない
空腹を蚊にくはれてゐる
月夜あるだけの米とぐ
しみじみたべる飯だけの飯である
しかし、山頭火はどんなに飢えに攻められようとも、とうとう「食うために働く」生活には戻れませんでした。
九月廿日 小郡町矢足(やあし) 其中庵。
晴、彼岸入、そして私自身結庵入庵の日。朝の井戸の水の冷たさを感じた。自分一人で荷物を運んだ、酒屋の車力を借りて、往復二度半、荷物は大小九個あつた、少いといへば少いが、多いとおもへば多くないこともない、とにかく疲れた、坂の悪路では汗をしぼつた、何といふ弱い肉体だらうと思つた、自分で自分に苦笑を禁じえないやうな場面もあつた。五時過ぎ、車力を返して残品を持つて戻ると、もう樹明兄がきてゐて、せつせと手伝つてゐる、何といふ深切だらう。私がここに結庵し入庵することが出来たのは、樹明兄のおかげである、私の入庵を喜んでゐるのは、私よりもむしろ彼だ、彼は私に対して純真温厚無比である。だいぶ更けてから別れた、ぐつすり眠つた、心のやすけさと境のしづけさとが融けあつたのだ。昭和七年九月廿日其中庵主となる、――この事実は大満洲国承認よりも私には重大事実である。
【其中庵】
山頭火はこの日、小郡町矢足(やあし)に念願の草庵を結び「其中(ごちゅう)庵」と名付けました。其中とは、妙法蓮華経普門品第25の「其中若有乃至一人称観世音菩薩」からとったといわれています。裏は竹藪ですぐ山に続き、「茶の木をめぐらし、柿の木にかこまれ、木の葉が散りかけ、虫が集まり、百舌鳥(もず)が啼きかける」と山頭火自身が書いたように、彼の永年の願いにかなった住まいでした。山頭火の句集『草木塔』によればこのころの作に、「昭和七年九月二十日、私は故郷のほとりに私の其中庵を見つけて、そこに移り住むことが出来たのである」の前書きがあり、「曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ」の句があります。また、山頭火の随筆「『鉢の子』から『其中庵』まで」に、次のように書いています。
「或る家の裏座敷に取り敢えず落ちついた。鍋、釜、俎板、庖丁、米、炭、等々と自炊の道具が備えられた。二人でその家を見分に出かけた。山手の里を辿って、その奥の森の傍、夏草が茂りたいだけ茂った中に、草葺の小家があった。久しく風雨に任せてあったので、屋根は漏り壁は落ちていても、そこには私をひきつける何物かがあった。私はすっかり気に入った。一日も早く移って来たい希望を述べた。樹明兄は喜んで万事の交渉に当ってくれた。屋根が葺きかえられる。便所が改築される(というのは、独身者は老衰の場合を予想しておかなければならないから)。畳を敷いて障子を張る。――樹明兄、冬村兄の活動振は眼ざましいというよりも涙ぐましいものであった。昭和七年九月二十日、私は其中庵の主となった。私が探し求めていた其中庵は熊本にはなかった、嬉野にも川棚にもなかった。ふる郷のほとりの山裾にあった。茶の木をめぐらし、柿の木にかこまれ、木の葉が散りかけ、虫があつまり、百舌鳥が啼きかける廃屋にあった。廃人、廃屋に入る。それは最も自然で、最も相応しているではないか。水の流れるような推移ではないか。自然が、御仏が友人を通して指示する生活とはいえなかろうか。今にして思えば、私は長く川棚には落ちつけなかったろう(幸雄兄の温情にここで改めてお礼を申しあげる)。川棚には温泉はあるけれど、ここのような閑寂がない。しめやかさがない。私は山を愛する。高山名山には親しめないが、名もない山、見すぼらしい山を楽しむ。ここは水に乏しいけれど、すこしのぼれば、雑草の中からしみじみと湧き出る泉がある。私は雑木が好きだ。この頃の櫨(はぜ)の葉のうつくしさはどうだ。夜ふけて、そこはかとなく散る木の葉の音、おりおり思いだしたように落ちる木の実の音、それに聴き入るとき、私は御仏の声を感じる。」