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山頭火の日記 ⑯

2018.03.25 03:23

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945911448&owner_id=7184021&org_id=1945939009 【山頭火の日記(昭和7年6月1日~、行乞記三)】より

『行乞記』(三)

   鶏肋抄

 霰、鉢の子にも(改作)

 山へ空へ摩訶般若波羅密多心経(再録)

 旅の法衣は吹きまくる風にまかす(〃)

   雪中行乞

 雪の法衣の重うなる(再録)

 このいただきのしぐれにたたずむ(〃)

 ふりかへる山はぐれて(〃)

 水は澄みわたるいもりいもりをいだき

 住みなれて筧あふれる

   鶏肋集(追加)

 青草に寝ころべば青空がある

 人の子竹の子ぐいぐい伸びろ(酒壺洞君第二世出生)

六月一日 川棚、中村屋(三五、中)

曇、だんだん晴れて一きれの雲もない青空となつた、照りすぎる、あんまり明るいとさへ感じた、七時出立、黒井行乞、三里歩いて川棚温泉へ戻り着いたのは二時頃だつたらうか、木下温泉へいつたら、息子さんの婚礼で混雑してゐるので、此宿に泊る、屋号は中村屋(先日、行乞の時に覚えた)安宿であることに問題はないが、私には良すぎるとさへ思ふ。すべてが夏だ、山の青葉の吐息を見よ、巡査さんも白服になつた、昨日は不如帰を聴き今日は早松茸を見た、百合の花が強い香を放ちながら売られてゐる。笠の蜘蛛! ああお前も旅をつづけてゐるのか! 新らしい日、新らしい心、新らしい生活、――更始一新して堅固な行持、清浄な信念を欣求する。樹明君からの通信は私をして涙ぐましめた、何といふ温情だらう、合掌。

 ほうたるこいほうたるこいふるさとにきた

此宿はよい、ていねいでしんせつだ、温泉宿は、殊に安宿はかういふ風でなければならない、ありがたいありがたい。

【行乞記(三)】

『行乞記』(三)には、昭和7年6月1日から昭和7年9月20日までの日記が収載されています。

【再び川棚温泉】

再び川棚温泉に戻ってきた山頭火は、中村屋に6月6日まで滞在します。関門海峡を渡り、故郷の防府に近い山口県下で庵居にふさわしい場所を求めようとして訪れます。

【ほうたるこいこいふるさとにきた】

この日の日記に、「ほうたるこいこいふるさとにきた」の句があります。これは、山頭火の幼少時代の幸せを伝える句で、それでも彼は、時折ふるさとを訪れています。

六月七日 木下旅館(三○、上)

転宿、チヨンビリ帰家穏座のここち。壺を貸して下さつたので、すい葉とみつ草とを摘んで来て活ける、ほんによいよい。午前は午後は晴。小串へ行つて、買物をする、財布を調べて、考へ考へ、あれこれと買つた、茶碗、大根おろし、急須、そして大根三本、茶一袋、――合計金四十三銭也、帰途、お腹が空いたので、三ツ角の茶店で柏餅を食べる、五つで五銭。草花を摘みつつ、柏餅を食べつつ、酒を飲みつつ、考へる。――うつくしいものはうつくしい、うまいものはうまい、それが何であつても、野の草花であつても一銭饅頭であつてもいいのである、物そのものを味ふのだから。飲める時には、飲める間は飲んだがよいぢやあないか、飲めない時には、飲めなくなつた場合には、ほがらかに飲まずにゐるだけの修行が出来てゐるならば。私も酒から茶へ向ひつつあるらしい、草庵一風の茶味、それはあまりに東洋的、いや、日本的だけれど山頭的でないこともある。茶道に於ける、一期一会の説には胸をうたれた、そこまで到達するのは実に容易ぢやない。日にまし命が惜しくなるやうに感じる、凡夫の至情だらう、かういふ土地でかういふ生活が続けられるやうだから! 此宿はよい、ホントウのシンセツがある、私は自炊をはじめた、それも不即不離の生活の一断面だ。

 朝の水くみあげくみあげあたたかい

 いちご、いちご、つんではたべるパパとボウヤ

 旅の人とし休んでゐる栴檀の花や葉や

 まいにちいちにち掘る音を聞かされる(温泉掘鑿)

【山頭園(旧木下旅館)】

川棚温泉の一番奥に山頭園(旧木下旅館)があり、その前に妙青寺があります。川棚温泉に戻ってきた山頭火は6月7日、中村屋から木下旅館(現山頭園)へ移って滞在し、土地探しと金策に走りまわりますが、うまく行かず結庵をあきらめて、8月27日に川棚温泉を去ります。山頭火が木下旅館に長逗留したのは、6月7日から8月26日までの100日間でした。6月には、第1句集『鉢の子』が刊行されています。

【帰家穏座のここち】

この日の日記の初頭に、「転宿、チヨンビリ帰家穏座のここち」とあります。山頭火の随筆『故郷』に、次のように記しています。

「家郷忘じ難しという。まことにそのとおりである。故郷はとうてい捨てきれないものである。それを愛する人は愛する意味に於て、それを憎む人は憎む意味に於て。さらにまた、予言者は故郷に容れられずという諺もある。えらい人はえらいが故に理解されない、変った者は変っているために爪弾きされる。しかし、拒まれても嘲られても、それを捨て得ないところに、人間性のいたましい発露がある。錦衣還郷が人情ならば、襤褸をさげて故園の山河をさまようのもまた人情である。近代人は故郷を失いつつある。故郷を持たない人間がふえてゆく。彼等の故郷は機械の間かも知れない。或はテーブルの上かも知れない。或はまた、闘争そのもの、享楽そのものかも知れない。しかしながら、身の故郷はいかにともあれ、私たちは心の故郷を離れてはならないと思う。自性を徹見して本地の風光に帰入する、この境地を禅門では『帰家穏座』と形容する。ここまで到達しなければ、ほんとうの故郷、ほんとうの人間、ほんとうの自分は見出せない。自分自身にたちかえる、ここから新らしい第一歩を踏み出さなければならない。そして歩み続けなければならない。私は今、ふるさとのほとりに庵居している。とうとうかえってきましたね――と慰められたり憐まれたりしながら、ひとりしずかに自然を観じ人事を観じている。余生いつまで保つかは解らないけれど、枯木死灰と化さないかぎり、ほんとうの故郷を欣求することは忘れていない。」

六月十三日 同前。

朝のうちは梅雨空らしかつたが、やがてからりと晴れた、そして風も相変わらず吹いた。三恵寺へまた拝登する、いかにも山寺らしい、坐禅石といふ岩があつた、怡雲和尚(温泉開基、三恵寺中興)の墓前に額づく、国見岩といふ巨岩も見た、和尚さん、もつと観光客にあつてほしい。酒はもとより、煙草の粉までなくなつた、端書も買へない、むろん、お香香ばかりで食べてゐる、といつて不平をいふのぢやない、逢茶喫茶、逢酒喫酒の境涯だから――しかし飲まないより飲んだ方がうれしい、吸はないより吸ふた方がうれしい、何となくさみしいとは思ふのである。南無緑平老如来、御来迎を待つ!

   妙青禅寺

 もう山門は開けてある

 梅雨曇り子を叱つては薬飲ませる

 子猫よ腹たてて鳴くかよ

 子をさがす親猫のいつまで鳴く

 仔牛かはいや赤い鉢巻してもろた

   三恵寺

 樹かげすずしく石にてふてふ

 迷うた山路で真赤なつつじ

 牛小屋のとなりで猫の子うまれた

 家をめぐつてどくだみの花

 働きつめて牛にひかれて戻る

今日は句数こそ沢山あるが、多少でも自惚のある句は一つもない、蒼天々々。どうやら寺領が借れるらしい、さつそく大工さんと契約しよう、其中庵まさに出来んとす、うれしい哉。

【妙青寺】

妙青寺には、本堂裏に雪舟作と伝えられる庭園があります。門を入ってすぐの左手には、大きな自然石に刻まれた「涌いてあふれる中にねている」の山頭火の句碑があります。

http://www.shimonoseki.zapadroad.com/otera/t227.html

六月十四日 同前。

晴、朝の野べから青草を貰つてきて活ける、おばさんから貰つて活けてをいた花は、すまないけれど、あまり感じよくないから。青草はよい、葉に葉をかさねて、いきいきとしてゐる。来信数通、みんなうれしいたよりであるが、殊に酒壺洞君、緑平老、井師からの言葉はうれしかつた。返事を書かうと思つても端書がない、切手を買ふ銭がない、緑平老への返事は急ぐので、やうやくとつておきの端書一枚を見つけて、さつそく書いた。貧乏は望ましいものでないが、かういふ場合には、私でも多少の早敢なさを覚える。嚢中まさに一銭銅貨一つ、読書にも倦いたし、気分も落ちつかないので、楠の森見物に出かける、天然記念保護物に指定されてあるだけに、ずゐぶんの老大樹である、根元に大内義隆の愛馬を埋葬したといふので、馬霊神ともいふ、ぢつと眺めてゐると尊敬と親愛とが湧いてくる。往復二里あまり、歩いてよかつた、気分が一新された、やつぱり私には、『歩くこと』が『救ひ』であるのだ。途上、切竹が捨ててあつたので拾つて戻つた、小刀で削つて衣紋竹を拵らへた、その竹を活かしたのだが、ナマクサ法衣をひつかけられては、竹は泣くかも知れない。河があつた、小魚が泳いでゐる、釣心がおこつた、いつか釣竿かたいでやつてきたい(漁猟の中では、私は釣が一番よいと思ふ、一番好きだ)。君よ、ナマクサと嘲るなかれ、セツシヨウを説くなかれ、ナマクサ坊主は遂にナマクサ坊主なり! うしろ姿は鬼、こちら向いたら仏だつた、これは或る日の行乞途上の偶感である。君は不生産的だからいけないと、或る人が非難したのに対して、俺は創造的だよと威張つてやつた。けふもサケナシデーだつた、いやナツシングデーだつた、時々、ちよいと一杯やりたいなあと思つた、私は凡夫、しかも下下の下だ、胸中未穏在、それは仕方がない、酒になれ、酒になれ通身アルコールとなりきれば、それはそれでまたよろしいのだが、そこまでは達しえない、咄、撞酒糟漢め。夕方また歩いた、ただ歩いた。自から嘲る気分から、自からあはれみ自からいたはる気分へうつりつつある私となつた、さて、この次はどんな私になるだらうか。いつからとなく私は『拾ふこと』を初めた、そしてまた、いつからとなく石を愛するやうになつた、今日も石を拾うて来た、一日一石としたら面白いね。拾う――といつても遺失物を拾ふといふのではない(東京には地見といふ職業もあるさうだが)、私が拾ふのは、落ちたるものでなくして、捨てられたもの、見向かれないもの、気取つていへば、在るものをそのまま人間的に活かすのである。いつぞやは、缺げた急須を拾うて水入とし、空罎を酢徳利とした、平ぺつたい石は文鎮に、形の好きなのを仏像の台座にした。

 冴える眼に虫のいろいろ

 山ほととぎすいつしか明けた

 朝風、みんなうごく

 しめやかな山とおもへば墓がある

 春蝉に焼場の灰のうづたかく

 よう泣く子につんばくろ

 いつまで生きよう庵を結んで

 ありつたけ食べて出かける(行乞)

 食べるものもなくなつた今日の朝焼

   楠の森三句

 注連を張られ楠の森といふ一樹

 大楠の枝から枝へ青あらし

 大楠の枝垂れて地にとどく花

 蜂のをる花を手折る

 田植唄もうたはず植ゑてゐる

 ひつかけようとする魚のすいすい澄んで

 梅雨の月があつて白い花

【楠の森三句】

この日の日記に、「楠の森三句」として「注連を張られ楠の森といふ一樹」「大楠の枝から枝へ青あらし」「大楠の枝垂れて地にとどく花」があります。川棚のクスの森の下に、「大楠の枝から枝へ青あらし」の句碑があります。クスの森からさらに県道を進むと、岩谷十三仏があります。そしてその少し先の小野には、小野小町の墓があります。絶世の美女小野小町が年をとり、その美貌が次第に衰えて行くのを京の人に見られるのがいやで、京を出て諸国を歩き、やがて川棚にたどりついここ小野で死んだといいます。川棚温泉に100日間滞在した山頭火は、あちこちへ行乞に出ています。山頭火は、岩谷十三仏や小野小町の墓を訪ねたのでしょうか。

http://chuburujapan.com/blog/?p=450

六月廿日 同前。

雨、梅雨もいよいよ本格的になつた、それでよい、それでよい、終日閉ぢ籠つて読書する、これが其中庵だつたら、どんなにうれしいだらう、それもしばらくのしんぼうだ、忍辱精進、その事、その事。雨につけ風につけ、私はやつぱりルンペンの事を考へずにはゐられない、家を持たない人、金を持たない人、保護者を持たない人、そして食慾を持ち愛慾を持ち、一切の執着煩悩を持つてゐる人だ! ルンペンは固より放浪癖にひきずられてゐるが、彼等の致命傷は、怠惰である、根気がないといふことである、酒も飲まない、女も買はない、賭博もしない、喧嘩もしない、そしてただ仕事がしたくない、といふルンペンに対しては長大息する外ない、彼等は永久に救はれないのだ。今日も焼酎一合十一銭、飛魚二尾で五銭、塩焼にしてちびり、それで往生安楽国!

 夏めいた灯かげ月かげを掃く

 障子に箒の影も更けて

 わいてあふれるなかにねてゐる

 生えてあやめの露けく咲いてる

 重さ、かきなやむ四人の大地

   魚店風景

 ならべられてまだ生きてゐる

 笠ぬげば松のしづくして

 しぼんだりひらいたりして壺のかきつばた

 こころふさぐ夜ふけて電燈きえた(事実そのものをとつて)

【第一句集『鉢の子』刊行】

山頭火はこの日に、第一句集『鉢の子』を刊行しました。山頭火の随筆「『鉢の子』から『其中庵』まで」に、次のように書いています。

「句集の原稿は、緑平居で層雲から写してまとめたが、句数は僅々百数十句に過ぎなかった。これが、これだけが行乞流転七年の結晶であった。私はその句稿を頭陀袋におさめて歩きつづけた。石を磨いて玉にしようとは思わないが、石には石だけの光があろう、磨いて、磨いて、磨きあげて、せめて石は石だけの光を出そうと努めるのが、私のような下根のなぐさめであり力である。しかし、私にはまだ自選の自信がなかったので、すまないとは思いながら、井師に厳選をお願いした、師が快く多忙な貴重な時間を割いて、何から何まで行き届いたお心づかいに対しては、まことに何ともお礼の申しあげようがない。句集出版については北朗兄を煩わした。まだ一面の識もない私に示された好意と斡旋とは永久に忘れることがないであろう。そしてさらに、後援会の事務一切を一身に引き受けて、面倒至極な事務をあんなに手際よく取り捌いて下さった酒壺洞兄に心からの謝意を表することを忘れてはならない。緑平老、白船老の厚情については説くまでもあるまいが、元寛兄、俊兄、星城子兄、入雲洞兄、樹明兄、敬治兄等の並々ならぬ友誼については、ここで感謝の一念を書き添えずにはいられない。こうして、身にあまる恩恵につつまれつつ、私は東漂西泊した。鉢の子という題名は私の句集にふさわしいものであった。一鉢千家飯、自然が人が友が私に米塩と寝床とをめぐんだ。」

六月廿一日 同前。

昨夜来の風雨がやつと午後になつてやんだ、青葉が散らばり草は倒れ伏してゐる。水はもう十分だが、この風では田植も出来ないと、お百姓さんは空を見上げて嘆息する。私にはうれしい手紙が来た、それはまことに福音であつた、緑平老はいつも温情の持主である。自分でも気味のわるいほど、あたまが澄んで冴えてきた、私もどうやら転換するらしい、――左から右へ、――酒から茶へ! 何故生きてるか、と問はれて、生きてるから生きてる、と答へることが出来るやうになつた、此問答の中に、私の人生観も社会観も宇宙観もすべてが籠つてゐるのだ。

 これで田植ができる雨を聴きつつ寝る

 いただきは立ち枯れの一樹

 蠅がうるさい独を守る

 ひとりのあつい茶をすする

 花いばら、ここの土とならうよ

【川棚温泉】

この日の日記に、「花いばら、ここの土とならうよ」の句があります。この句碑が、京都府宇治市槇島町の皆演寺境内にあります。山頭火はこの日、ここ川棚温泉に草庵を結ぼうと決心しますが、のちに失敗します。山頭火の随筆「『鉢の子』から『其中庵』まで」に、次のように記しています。

「庵居の場所を探ねるにあたって、私は二つの我儘な望みを持っていた。それが山村であること、そして水のよいところか、または温泉地であることであった。最初、嬉野温泉でだいぶ心が動いた、そこは、水もよく湯もよかった。視野が濶けすぎて、周囲がうるさくないこともなかったけれど、行乞の便利は悪くなかった。しかし何分にも手がかりがない。見知らぬ乞食坊主を歓迎するほどの物好きな人を見つけることが出来なかった。ついで足をとめたのが川棚温泉である。関門の都市に遠くない割合に現代化していない。山もうつくしいし湯もあつい。ことにうれしいのは友の多い都市に近いことであった。私はひとりでここが死場所であるときめてしまった。

  花いばらここの土とならうよ

こんな句が口をついて出るほどひきつけられたので、さっそく土地借入に没頭した。人の知らない苦心をして、やっと山裾の畑地一劃を借入れる約束はしたが、それからが難関であった。当村居住の確実な保証人を二人立ててくれというのである。幸にして幸雄兄の知辺があるので、紹介して貰って奔走したけれど、田舎の人は消極的で猜疑心が強くて、出来そうで出来ない。一人出来たと喜べば、二人目が破れて悲しませる。二人目が承諾すると、一人目が拒絶する。――私はこの時ほど旅人のはかなさを感じたことはない。

  ひとりきいてゐてきつつき 」

六月卅日 同前。

曇、今日も門外不出、すこしは気軽い。あさましい夢を見た(それは、ほんとうにあさましいものだつた、西洋婦人といつしよに宝石探検に出かけて、途中、彼女を犯したのだ!)。

 かつと日が照り逢ひたうなつた

私は、善良な悪人に過ぎない。……

自戒三条

 一、自分に媚びるな

 一、足らざるに足りてあれ

 一、現実を活かせ

いつもうまい酒を飲むべし、うまい酒は多くとも三合を超ゆるものにあらず、自他共に喜ぶなり。

【あさましい夢】

この日の日記に、「あさましい夢を見た(それは、ほんとうにあさましいものだつた、西洋婦人といつしよに宝石探検に出かけて、途中、彼女を犯したのだ!)」とあります。山頭火は正直に、この日のあさましい夢(夢精)を書き残しています。

【自戒三条】

またこの日の日記に、「自戒三条」として「一、自分に媚びるな」「一、足らざるに足りてあれ」「一、現実を活かせ」があります。

七月五日

曇、后晴、例の風が吹くので、同時に不眠の疲労があるので、小月行乞を見合わせて籠居。きのふのゆふべの散歩で拾うてきた蔓梅一枝(ねぢうめともいふ)を壺の萩と しかへたが、枝ぶり、葉のすがた、実のかたち、すべてが何ともいへないよさを持つてゐる、此木は冬になつて葉が落ち実がはじけた姿がよいのだが、かうした夏すがたもよかつた。句集「鉢の子」がやつときた、うれしかつた、うれしさといつしよに失望を感ぜずにはゐられなかつた、北朗兄にはすまないけれど、期待が大きかつただけそれだけ失望も大きかつた、装幀も組方も洗練が足りない、都会染みた田舎者! といつたような臭気を発散してゐる(誤植があるのは不快である)、第二句集はあざやかなものにしたい! 払うべきものを払へるだけ払つてしまつたので、また、文なしとなつちやつた、おばさんにたのんでアルコール一罎をマイナスで取り寄せて貰ふ、ぐいぐいひつかけて昼寝した。……夜は宿の人々といつしよに飲んでしまつた、アルコールのききめはてきめん、ぐつすりと朝まで覚えなかつた。

【第1句集『鉢の子』】

第1句集『鉢の子』が、6月2日に発行されました。発行所は酒壺洞が引き受け、発行者は木村緑平。師の井泉水は山頭火の自選句を厳選八十八句とし、装丁は京都にいた陶芸家の内島北朗が担当しました。山頭火はこの句集を領布して、造庵(其中庵)資金の一部にしようとしたらしのですが、肝心な造庵すべき土地がなかなか見つかりませんでした。

七月十七日

晴、小月町行乞、往復九里は暑苦しかつたけれど、道べりの花がうつくしかつた、うまい水をいくども飲んだ、行乞はやつぱり私にふさはしい行だと思つた。行乞所得はよくなかつたが、句の収穫はわるくなかつた。――

 ぴつたり身につけおべんたうあたたかい

 朝の水にそうてまがる

 すずしく蛇が朝のながれをよこぎつた

 禁札の文字にべつたり青蛙

 このみちや合歓の咲きつづき

 石をまつり水のわくところ

 つきあたつて蔦がからまる石仏

 いそいでもどるかなかなかなかな

 暮れてなほ田草とるかなかな

 山路暮れのこる水を飲み

一銭のありがたさ、それは解りすぎるほど解つてゐる、体験として、――しかも万銭を捨てて惜まない私はどうしたのだらう! なぜだか、けふは亡友I君の事がしきりにおもひだされた、彼は私の最初の心友だつた、彼をおもひだすときは、いつも彼の句と彼の歌とをおもひだす、それは、――

 おしよせてくだけて波のさむさかな

 我れんちさう籠るに耳は眼はいらじ

      土の蚯蚓のやすくもあるかな

労れて戻つて(此宿へは戻つたといつてもいい、それほど気安くて深切にして下さる)そして酒のうまさは!

 つかれた脚を湯が待つてゐた

 雲がいそいでよい月にする

【石をまつり水のわくところ】

この日の日記に、「石をまつり水のわくところ」の句があります。兵庫県高砂市松陽にある「播州山頭火句碑の園」に、この句碑があります。さらに次の句碑などもあります。全部で32基(36句)。

 朝湯こんこんあふるるまんなかのわたし

 石をまつり水のわくところ

 さくらさくらさくさくらちるさくら

 ほろほろ酔うて木の葉ふる

 分け入つても分け入つても青い山

 ふまれてたんぽぽひらいてたんぽぽ

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