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山頭火の日記 ⑬

2018.03.25 03:33

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945824253&owner_id=7184021&org_id=1945854606 【山頭火の日記(昭和7年2月4日~)】より

二月四日 曇、雨、長崎見物、今夜も十返花居で。……

夜は句会、敦之、朝雄二句来会、ほんたうに親しみのある句会だつた、散会は十二時近くなり、それからまだ話したり書いたりして、ぐつすり眠つた、よい一日よい一夜だつた。友へのたよりに、――長崎よいとこ、まことによいところであります、ことにおなじ道をゆくもののありがたさ、あたたかい友に案内されて、長崎のよいところばかりを味はせていただいてをります。今日は唐寺を巡拝して、そしてまた天主堂に礼拝しました。あすは山へ海へ、等々、私には過ぎたモテナシであります、ブルプロを越えた生活とでもいひませうか。――

   長崎の句として

 ならんであるくに石だたみすべるほどの雨(途上)

   (だんだんすべるやうな危険を持つてきた!)

 冬雲の大釜の罅(ひび) (崇福寺)

 寺から寺へ蔦かずら  ( 〃 )

 すつかり剥げて布袋は笑ひつづけてゐる(福済寺)

 逢うてチヤンポン食べきれない  (十返花君に)

 冬雨の石階をのぼるサンタマリア (大浦天主堂)

【冬雨の石階をのぼるサンタマリア】

山頭火は長崎市内に4日間滞在し、句会を開いたりあちこちを見物したりで、楽しいときをすごしています。この日の日記に、「大浦天主堂」として「冬雨の石階をのぼるサンタマリア」の句があります、また、そのときのことを「ブルプロ」と表現しています。ブルとはブルジョアの意味と思われますが、プロとはプロレタリアだとすれば、ちょっと意味不明の言葉です。

二月五日 晴、少しばかり寒くなつた。

朝酒をひつかけて出かける、きょうは二人で山へ登らうといふのである、ノンキな事だ、ゼイタクな事だ、十返花君は水筒二つを(一つは酒、一つは茶)、私は握飯の包を掲げてゐる、瓢岩へ、そして帰途は敦之、朝雄の両君をも誘ひ合うて金毘羅山を越えて浦上の天主堂を参観した、気楽な言葉でいへば、まつたく恵まれた一日だつた、ありがたし、ありがたし。

 寒い雲がいそぐ(下山)

【金毘羅山】

この日の日記に、「朝雄の両君をも誘ひ合うて金毘羅山を越えて浦上の天主堂を参観した」とあり、山頭火が登った金毘羅山は、浦上の東南方に立つ標高366mの山です。山頭火がたずねた浦上聖堂は、昭和20年の原爆で倒壊しました。現在の聖堂前に立つ2体の聖像は、原爆の熱線を受けて焦げています。

【寒い雲がいそぐ】

また、「寒い雲がいそぐ」の句もあります。旅から旅へ流転していく山頭火にとっても、冬の旅は殊の外つらいものでした。通りすがりの木賃宿でのわずかな温もりと一浴一杯だけを唯一の楽しみにしながら、やりたくない行乞を続けている山頭火。そんな時に空を見れば、寒空の中に雲が引きちぎられながら吹き飛ばされていくのが見えます。季節は時は、どんどん流れていきます。それに追いつけないで取り残されていく自分。修行とは名ばかりの自堕落な生活しかできない自分。流れ行く森羅万象の中で、時間が止まったように取り残されている山頭火は、気がつけばいつもひとりでした。

二月六日 陰暦元旦、春が近いといふよりも春が来たやうなお天気である。

今日はたべるに心配はなくて、かへつて飲める喜びがある、無関心を通り越して呆心気分でぶらぶら歩きまはる、九時すぎから三時まへまで(十辺花さんは出勤)。諏訪公園(図書館でたまたま九州新聞を読んで望郷の念に駆られたり、鳩を観て羨ましがつたり、悲しんだり、水筒――正確にいへば酒筒だ――に舌鼓をうつたり……)。波止場(出船の船、波音、人声、老弱男女)。浜ノ町(買ひたいものもないが、買ふ銭もない、ただ観てあるく)。ノンキの底からサミシサが湧いてくる、いや滲み出てくる。上から下までみんな借物だ、着物もトンビも下駄も、しかし利休帽は俊和尚のもの、眼鏡だけは私のもの。別にウインクしたのでもないが、服装が態度が遊覧客らしかつたのだらう、若い売笑婦に呼びかけられた!長崎の銀座、いちばん賑やかな場所はどこですか、どうゆきますか、と行人に訊ねたら、浜ノ町でしようね、ここから下つて上つてそして行きなさいと教へられた、石をしきつめた街を上つて下つて、そして下つて上つて、そしてまた上つて下つて、――そこに長崎情調がある、山につきあたつても、或は海べりへ出ても。

 波止場、狂人もゐる(波止場)

長崎の人々、殊に子供は山登りがうまからうと思ふ、何しろ生れてから、石の上を登つたり下つたりしてゐるのだから! 低い方へゆけば海、高い方へ行けば山、海を埋め立てるか、それはもう余地がない、だから山へ、山の上へ、上へと伸びてゆく、山の家、――それが長崎市街の発展過程だ。灯火のうつくしさ、灯火の海(東洋では香港につぐ港の美景であるといはれてゐる)。

【諏訪神社】

この日の日記に、「諏訪公園(図書館でたまたま九州新聞を読んで望郷の念に駆られたり、鳩を観て羨ましがつたり、悲しんだり、水筒――正確にいへば酒筒だ――に舌鼓をうつたり……)」とあり、山頭火はこの日に諏訪神社の隣にある諏訪公園をたずねていますが、5日に詠まれた「大樟のそのやどり木の赤い実」の句碑が、諏訪神社の大クスの近くにあります。諏訪神社の大クスは、樹齢600~700年です。

二月七日 (追加)晴、肥ノ岬(脇岬)へ、発動船、徒歩。……

第二十六番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが人間は醜いのだ、今日の句としては、

 明けてくる山の灯の消えてゆく

 大海を汲みあげては洗ふ(船中)

 まへにうしろに海見える草で寝そべる

 岩ならんでおべんたうののこりをひろげる

【第26番札所観音寺】

九州西国観音霊場の第26番札所観音寺は、長崎市内から南へ下った野母崎町脇岬にあります。今は市内からバスで1時間ほどですが、山頭火は船で行ったようです。山頭火は、「第二十六番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない」と書いていますが、なかなか風情のあるお寺のようです。引き続き、「自然はうつくしいが人間は醜い」と書いているところをみると、何かいやなことでもあったのではないでしょうか。

二月十三日

朝の二時間行乞、それから、あちらでたづね、こちらでたづねて、水月山円通寺跡の丘に登りついた、麦畑、桑畑、そこに六百年のタイムが流れたのだ、やうやくにして大智禅師の墓所を訊ねあてる、石を積みあげて瓦をしいて、堂か、小屋か、ただの楠の一本がゆうぜんと立つてゐる、円通寺再興といふ岩戸山巌吼庵に詣でる、ナマクサ、ナマクサ、ナマクサマンダー。…… 歩ゐているうちにもう口ノ津だ、口ノ津は昔風の港町らしく、ちんまりとまとまってゐる、ちよんびり行乞、朝日屋(三〇・中)、同宿は鮮人の櫛売二人、若い方には好感が持てた。よくのんでよくねた。

【巌吼庵】

この日の日記に、「円通寺再興といふ岩戸山巌吼庵に詣でる、ナマクサ、ナマクサ、ナマクサマンダー」とあります。島原半島西岸を下ってきた山頭火がおとずれた巌吼庵は、加津佐町の巌吼寺ですが、山頭火はなぜ「ナマクサ」と言ったのでしょうか。口之津には当時をしのぶものはほとんど見当りませんが、旧長崎税関口之津支所の建物(現在は口之津歴史民俗資料館)が保存されています。

三月六日 曇后雨、あとは昨日の通り。

行乞して、たまたま出征兵士を乗せた汽車が通過するのに行き合せた、私も日本人の一人として、人々と共に真実こめて見送つた、旗がうごく、万歳々々々々の声――私は覚えず涙にむせんだ、私にもまだまだ涙があるのだ! 同宿の猿まはし君は愉快な男だ、老いた方は酒好きの、剽軽な苦労人だ、若い方は短気で几帳面で、唄好だ、長州人の、そして水平社的な性質の持主である、後者は昨夜も隣室の夫婦を奴鳴りつけてゐた、おぢいさんがおばあさんの蒲団をあげたのがいけないといふのだ、そして今夜はたまたま同宿の若いルンペンをいろいろ世話して、鬚を剃つてやつたり、或る世間師に紹介したりしてやつてゐる。みんな早くから寝た、寝るより外ないから――鳴りだした、お隣のラヂオが、そして向ひの蓄音機が、そしてみんなそれに聴き入つた、浪花節、流行歌、等、々、――私はだんだんセンチになつた、いつぞや緑平老の奥さんにそれを聴かしていただいたことなども想ひだしたりして。同宿のルンペン青年はまづ典型なものだらうが、彼は『酒ものまない、煙草もすはない、女もひつぱらない、バクチもうたない、喧嘩もしない、ただ働きたくない』怠惰といふことは、極端にいへば、生活意力がないといふことは、たしかに、ルンペンの一要素、――致命的条件だ。

   座右銘として

 おこるな しやべるな むさぼるな

    ゆつくりあるけ しつかりあるけ

【座右銘】

この日の日記に、「座右銘」として、「おこるな しやべるな むさぼるな ゆつくりあるけ しつかりあるけ」とあります。

三月十四日 曇、時々寒い雨が降つた、行程五里、また好きな嬉野温泉、筑後屋、おち

         ついた宿だ(三十・上)

此宿の主人は顔役だ、話せる人物である。友に近状を述べて、――

   嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が草鞋をぬぐによいところ

   です、私も出来ることなら、こんなところに落ちつきたいと思ひます、云々。

楽湯――遊於湯――何物にも囚へられないで悠々と手足を伸ばした気分。とにかく、入湯は趣味だ、身心の保養だ。

【嬉野温泉】

この日の日記に、「嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が草鞋をぬぐによいところです、私も出来ることなら、こんなところに落ちつきたいと思ひます」とあり、山頭火は「筑後屋」という宿に入り、嬉野温泉がえらく気に入ったらしく、3月14日から20日まで滞在しています。山頭火は以前から、どこか山村で、そして水がよいか温泉がよいところ、そんなところに庵を結びたいと、名前は「其中庵」に決めていました。まずは嬉野温泉が気に入りました。ここで、「湯壷から桜ふくらんだ」「ゆつくり湯に浸り沈丁花」「寒い夜の御灯またたく」の三句を残しています。ここから俳友たちに手紙を送り、嬉野で部屋あるいは家を借りる費用の用立てを依頼しました。しかし、はかばかしい回答は得られず、21日には嬉野温泉を去ることになります。

三月廿一日 晴、彼岸の中日、即ち春季皇霊祭、晴れて風が吹いて、この孤独の旅人を

         さびしがらせた、行程八里、早岐の太田屋といふ木賃宿へ泊る(三〇・中)

少しばかり行乞したが、どうしても行乞気分になれなかつた、嬉野温泉で休みすぎたためか、俊和尚、元寛君の厚意が懐中にあるためか、いやいや風が吹いたためだ。夕方、一文なしのルンペンが来て酒を飲みかけて追つぱらはれた、人事ぢやない、いろいろ考へさせられた、彼は横着だから憎むべく憐れむべしである、私はつつましくしてはゐるけれど、友情にあまり恵まれてゐる、友人の厚意に甘えすぎてゐる。

 ふるさとは遠くして木の芽

【ふるさとは遠くして木の芽】

この日の日記に、「ふるさとは遠くして木の芽」の句があります。防府市松崎町の防府天満宮北側の公園に、この句碑があります。長く厳しい冬が終わり、待ちに待った春の到来は山頭火にも嬉しいものであったに違いありません。しかし、この句にある淋しさは一体なんなのでしょうか。全ての生き物が息を吹き返し新たな一年を刻み始める春が来る度に、その喜びの季節を遠くふるさと離れてでしか迎えられない山頭火の憂いは深くなるのです。旅先でふと見つけた木の芽は、そのまま生まれた家にあった植木でも連想させたのかもしれません。そして何年たっても変わらない、変われない自分を情けなく思ったのではないでしょうか。