山頭火の日記 ⑫
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945788741&owner_id=7184021&org_id=1945824253 【山頭火の日記(昭和7年1月1日~)】より
一月一日 時雨、宿はおなじく豆田の後藤といふ家で。
水音の、新年が来た
何としづかな、あまりにしづかな元旦だつたらう、それでも一杯ひつかけてお雑煮も食べた。申の歳、熊本の事を思ひだす、木の葉猿。宿の子供にお年玉を少しばかりやつた、そして鯉を一尾家の人々におごつた。嚢中自無銭、五厘銅貨があるばかり。酒壺洞文庫から借りてきた京洛小品を読む、井師の一面がよく出てゐる、井師に親しく面したやうな気持がした。飲んで寝て食べて、読んで考へて、そして何にもならない新年だつたが、それでよろしい。私が欣求してやまないのは、悠々として迫らない心である、渾然として自他を絶した境である、その根源は信念であり、その表現が句である、歩いて、歩いて、そこまで歩かなければならないのである。
【九州西北部を行乞】
山頭火は前年の12月22日から、柳川・久留米・大宰府・長尾・嬉野・島原・佐世保・福岡・下関・山口県川棚温泉と旅を続けます。
一月二日 時雨、行程六里、糸田、緑平居。
今日は逢へる――このよろこびが私の身心を軽くする、天道町(おもしろい地名だ)を行乞し、飯塚を横ぎり、鳥尾峠を越えて、三時にはもう、冬木の坂の上の玄関に草鞋をぬいだ。この地方は旧暦で正月をする、ところとごろに注連が張つてあつて国旗がひらひらするぐらゐ、しかし緑平居に於ける私はすつかりお正月気分だ。
風にめさめて水をさがす(昨夜の句)
自戒三則――
一、腹を立てないこと
二、嘘をいはないこと
三、物を無駄にしないこと(酒を粗末にするなかれ!)
今日は、午前は冬、午後は春だつた。
【自戒三則】
この日の日記には、「自戒三則」として、「腹を立てないこと」「嘘をいはないこと」「物を無駄にしないこと」とあります。昭和5年10月30日の日記に、「私の三誓願」として、「今日一日、腹を立てない事」「今日一日、嘘をいはない事」「今日一日、物を無駄にしない事」とあり、続いて「腹を立てない事は或る程度まで実践してゐるが、嘘をいはない事はなかなか出来ない、口で嘘をいはないばかりでなく、心でも嘘をいはないやうにならなければならない、口で嘘をいはない事は出来ないこともあるまいが、体でも嘘をいはないようにしなければならない、行持が水の流れるやうに、また風の吹くやうにならなければならないのである」とあります。これらはとても難しいことです。とくに、嘘をいわないということがいかに難しいことか。自分にさえ嘘をつかない人生など、本当に理想に過ぎないのではないでしょうか。山頭火は、この自戒三則を念頭に修行の旅をつづけようとしました。後年には、次の「自戒三則」に続き、「誓願三章」「欣求(ごんぐ)三条」なども追加して、生活信条としています。
「自戒三則 一、物を粗末にしないこと 一、腹を立てないこと 一、愚痴をいはないこと」
「誓願三章 一、無理をしないこと 一、後悔しないこと 一、自己に佞らないこと」
「欣求三条 一、勉強すること 一、観照すること 一、句作すること」
一月三日 晴曇さだめなし、緑平居。
終日閑談、酒あり句あり、ラヂオもありて申分なし。
ボタ山の間から昇る日だ
ラヂオでつながつて故郷の唄
香春岳は見飽かぬ山だ、特殊なものを持つてゐる、山容にも山色にも、また伝説にも。
【緑平居】
この年の正月は、緑平居でむかえています。また、山頭火の随筆に次のように記されています。
「何処へ行く、東の方へ行こう。何処まで行く、其中庵のあるところまで。六年が暮れて七年の正月には、私は緑平居でお屠蘇を頂戴していた。そしてボタ山を眺めながら話し合っていた。ここで、其中庵の第二石が置かれた。今暫らく行乞の旅を続けているうちに、造庵の方法を講じてあげるとのことであった。私は身も心も軽く草鞋を穿いた。あの桜の老樹の青葉若葉を心に描きながら坂を下りて行った。」
一月五日 晴、行程九里、赤間町、小倉屋(三〇・中)
歩いた、歩いて、歩いて、とうとうここまで来た、無論行乞なんかしない、こんなにお天気がよくて、そして親しい人々と別れて来て、どうして行乞なんか出来るものか、少しセンチになる、水をのんでも涙ぐましいやうな気持になつた。
【こんなにお天気がよくて】
この日の日記に、「こんなにお天気がよくて」とあります。山頭火の句に、「お天気よすぎる独りぼっち」があります。まばゆい空、輝かしい太陽の光の中を、連れだって出る家族も持たず、これといってしなければならない仕事もない山頭火にとって、明るい日にふさわしい何かを持たぬ自分が、いっそう孤独感を深めるものとなったのでしょう。
一月六日 晴、行程三里、神湊、隣船寺。
赤間町一時間、東郷町一時間行乞、それから水にそうて宗像神社に参拝、こんなところに官幣大社があることを知らない人が多い。神木楢、石碑無量寿仏、木彫石彫の狛犬はよかった。水といっしょに歩いてゐさへすれば、おのづから神湊へ出た。俊和尚を訪ねる、不在、奥さんもお留守、それでもあがりこんで女中さん相手に話してゐるうちに奥さんだけ帰って来られた、遠慮なく泊る。
蘭竹もかれがれに住んでゐる
咲き残つたバラの赤さである
つきあたつて墓場をぬけ
【宗像大社】
この日の日記に宗像大社の記述があるのに、九州観音霊場第31番鎮国寺の記述がありません。この頃、観音霊場へよく立ち寄っていたのですが、鎮国寺へは参拝しなかったのでしょうか。石碑無量寿仏、木彫石彫の狛犬は、社殿左手奥の神宝館の1階にあります。宗像大社から神湊にむかって釣川が流れています。「水といっしょに歩いてゐさへすれば、おのづから神湊へ出た」の「水」とは、釣川のことでしょうか。
【隣船禅寺】
山頭火が泊った臨済宗隣船禅寺は、玄海界町神湊にあります。この寺の境内には、山頭火の生前に建てられた唯一の句碑があります。句は、熊本県植木町味取観音での作「松はみな枝垂れて南無観世音」です。この寺には、樹齢400年の潜龍松がありましたが、1975年に枯れ果てました。山頭火が泊った頃には、この松は健在だったことから、この日の日記に「潜龍窟に蛇が泊ったのだ」と自分のことを蛇といっているのでしょうか。寺の前にある魚屋(うおや)は、今は割烹旅館ですが、伊能忠敬も宿泊したと伝えられています。もしかして山頭火も、この店にお酒を飲みに行ったのかもしれません。
一月八日 雪、行程六里、芦屋町、□(三十・下)
ぢっとしてゐられなくて、俊和尚帰山まで行乞するつもりで出かける、さすがにここあたりの松原はうつくしい、最も日本的な風景だ。今日はだいぶ寒かった、一昨六日が小寒の入、寒くなければ嘘だが、雪と波しぶきとをまともにうけて歩くのは、行脚らしすぎる。
木の葉に笠に音たてて霰
鉄鉢の中へも霰
ここの湯銭三銭は高い、神湊の弐銭があたりまへだらう、しかし何といつても、入浴ほど安くて嬉しいものはない、私はいつも温泉地に隠遁したいと念じてゐる、そしてそれが実現しさうである、万歳! この宿もよくない、ボクチンには驚ろくほどのちがひがある、すまないと思ふほど優遇してくれるところもあれば、木石かと思ふほど冷遇するところもある、ボクチンのいいところは、独善主義でやりぬけるところだらう。同宿の二人の朝鮮人のうち、老鮮人は風采も態度もすべて朝鮮人的で好きだつた、どうぞ彼の筆が売れるやうに。もう一人の同宿者もおもしろかつた、善良な世間師だつた、相当に物事を知つてる人だつた、早くから床を並べて話し続けた。途上で、連歌俳句研究所、何々庵何々、入門随意といふ看板を見た、現代には珍らしいものだ。
【さつき松原と三里松原】
この日、山頭火は神湊から海岸線を歩いて芦屋へと行乞に向かいました。この日の日記に「このあたりの松原」といっているのは、たぶん「さつき松原」のことでしょう。さつき松原の先は、郡界から波津までは海岸沿いを歩いています。日記に「雪と波しぶきをまともにうけて歩く」と書いていますが、冬にここを訪ねると今でもこの記述の通りのようです。
【鉄鉢の中へも霰】
また、「鉄鉢の中へも霰」の山頭火の代表作のようにいわれている有名な句もあります。この句が生まれたのは、波津の先にある「三里松原」で、今も3㎞くらいの松林が残っています。岡垣町の湯川山山腹にある成田山不動寺境内に、この句碑があります。山頭火自身この句が好きだったようで、一杯ひっかけて輿にのるとよく揮豪したようで、松山市の一草庵跡にもこの句碑があり、句碑の下には山頭火の髭(あごひげ)がおさめられていて、この碑は髭塚(あごひげづか)と呼ばれています。
一月十六日 雨后晴、寒風、宿は同前(赤松屋、二五・中)
雨だ、風だ、といつてぢつとしてゐるほどの余裕はない、十時頃から前原町まで出かけて三時頃まで専念に行乞する、一風呂浴びて一杯ひつかける。句稿を整理して井師へ送る、一年振の俳句ともいへる、送句ともいへる、とにかく井師の言のやうに、私は旅に出てゐなければ句は出来ないのかも知れない。前原も田舎町だ、本通の新道は広々としてゐるけれど、自動車々庫がヤタラに多い、しかし今日の行乞相は上出来だつた、所得も悪くなかつた。朝も夜も、面白い話ばかりだ、――女になつて子を生んだ夢の話、をとこ女の話、今は昔、米が四銭で酒が八銭の話。……
いつまで旅することの爪をきる
【いつまで旅することの爪をきる】
この日の日記に、「私は旅に出てゐなければ句は出来ない」とあり、そして「いつまで旅することの爪をきる」の句があります。山頭火にとって、旅をやめることは死を待つこと。そんな自分の姿をふっと振り返る時が、旅で風呂に入り、ほっと一息ついて、爪を切ろうとはさみを取り上げたときでした。
一月十八日 晴、行程四里(佐賀県)浜崎町、栄屋(二五、中)
霜、あたたかい日だつた。九時から十一時まで深江町行乞、それから、ところどころ行乞しつつ、ぶらぶら歩く、やうやく肥前に入つた、宿についたのは五時前。福岡佐賀の県界を越えた時は多少の感慨があつた、そこには波が寄せてゐた、山から水が流れ落ちてゐた、自然そのものに変わりはないが、人心には思ひめぐらすものがある。筑前の海岸は松原つづきだ、今日も松原のうつくしさを味はつた、文字通りの白砂青松だ。左は山、右は海、その一筋道を旅人は行く、動き易い心を恥ぢる。松の切株に腰をかけて一服やつてゐると、女のボテフリがきて『お魚はいりませんか』深切か皮肉か、とにかく旅中の一興だ。在国寺といふ姓、大入(だいにう)といふ地名、そして村の共同風呂もおもしろい。此宿は悪くないけれど、うるさいところがある、新宿だけにフトンが軽くて軟かで暖かだつた(一枚しかくれないが)。いつぞや途上で話し合つた若い大黒さんと同宿になつた、世の中は広いやうでも狭い、またどこかで出くわすことだらう、彼には愛すべきものが残つてゐる、彼は浪花節屋(ふしや)なのだ、同宿者の需めに応じて一席どなつた、芸題はジゴマのお清! 一年ぶりに頭を剃つてさつぱりした、坊主にはやつぱり坊主頭がよい、床屋のおかみさんが、ほんたうに久しぶりに頭を剃りました、あなたの頭は剃りよいといつてくれた。
波音の県界を跨ぐ
落つればおなじ谷川の水、水の流れるままに流れたまへ、かしこ。
【波音の県界を跨ぐ】
この日の日記に、「福岡佐賀の県界を越えた時は多少の感慨があつた、そこには波が寄せてゐた、山から水が流れ落ちてゐた、自然そのものに変わりはないが、人心には思ひめぐらすものがある」とあり、「波音の県界を跨ぐ」の句があります。福岡・佐賀県境には、昭和3年建造の県境石がたっており、山頭火もこの標石を見たことでしょう。県境付近の道路は海岸沿いにあり、玄界灘の荒波が岩に砕け散っています。
一月十九日 曇、行程二里、唐津市、梅屋(三○、中)
午前中は浜崎町行乞、午後は虹の松原を散歩した、領布振山は見ただけで沢山らしかった、情熱の彼女を思ふ。唐津といふところは、今年、飯塚と共に市制をしいたのだが、より多く落ちつきを持ってゐるのは城下町だからだらう。松原の茶店はいいね、薬缶から湯気がふいてゐる。娘さんは裁縫してゐる、松風、波音。……受けとつてはならない一銭をいただいたやうに、受けとらなければならない一銭をいただかなかつた。江雲流水、雲のゆく如く水の流れるやうであれ。
初誕生のよいうんこしたとあたためてゐる
松に腰かけて松を観る
松風のよい家ではじかれた
此宿はおちついてよろしい、修行者は泊らないらしい、また泊めないらしい、しかし高い割合にはよくない、今夜は少し酔ふほど飲んだ、焼酎一合、酒二合、それで到彼岸だからめでたしめでたし。虹の松原はさすがにうつくしいと思つた、私は笠をぬいで、鉄鉢をしまつて、あちらこちら歩きまはつた、そして松――松は梅が孤立的に味ははれるものに対して群団的に観るべきものだらう――を満喫した。げにもアルコール大明神の霊験はいやちこだつた、ぐつすり寝て、先日来の不眠をとりかへした。
【松に腰かけて松を観る】
この日の日記に、「午後は虹の松原を散歩した、領布振山は見ただけで沢山」とあり、「松に腰かけて松を観る」の句があります。山頭火が見ただけで沢山といった標高284mの領布振山(鏡山)からは、虹の松原が見えます。今はこの虹の松原の真ん中を国道が走っていますが、山頭火が歩いた頃は細い道だったと思われます。虹の松原の中ほど、二軒茶屋の駐車スペースの片隅に、この句碑があります。
一月廿日 曇、唐津市街行乞、宿は同前。
九時過ぎから三時頃まで行乞、今日の行乞は気分も所得もよかつた、しみじみ仏陀の慈蔭を思ふ。ここの名物の一つとして松露饅頭といふのがある、名物にうまいものなしといふが、うまさうに見える(食べないから)、そしてその本家とか元祖とかいふのが方々にある。小鰯を買つて一杯やつた、文字通り一杯だけ、昨夜の今夜だから。
けふのおひるは水ばかり
山へ空へ摩訶般若波羅密多心経
晩食後、同宿の鍋屋さんに誘はれて、唐津座へ行く、最初の市議選挙演説会である、私が政談演説といふものを聴いたのは、これが最初だといつてもよからう、何しろ物好きには違ひない、五銭の下足料を払つて十一時過ぎまで謹聴したのだから。
【山へ空へ摩訶般若波羅密多心経】
この日の日記に、「山へ空へ摩訶般若波羅密多心経」の句があります。昭和7年、山頭火は雲水姿で九州北西部を行乞しながら句作の旅を続けました。この日、唐津市の旅館「梅屋」に泊った山頭火は、9時過ぎから3時頃まで市内を行乞しています。唐津市西寺町の近松寺に、この句碑があります。
一月廿九日 曇后晴、行程三里、武雄、油屋(三〇・中)
朝から飲んで、その勢で山越えする、呼吸がはずんで一しほ山気を感じた。千枚漬はおいしかつた(この町のうどんやで柚子味噌がおいしかつたやうに)。解秋和尚から眼薬をさしてもらつた(此寺へは随分変り種がやつてくるさうな、私もその一人だらうか、私としては、また寺としても、ふさはしいだらう)。この寺は和泉式部の出生地、古びた一幅を見せて貰つた(峨山和尚の達磨の一幅はよかつた)。
故郷に帰る衣の色くちて
錦のうらやきしまなるらん
五百年忌供養の五輪石塔が庭内にある。井特の幽霊の絵も見せてもらつた、それは憎い怨めしい幽霊でなくて、おお可愛の幽霊――母性愛を表徴したものださうな。
ひかせてうたつてゐる
ここの湯――二銭湯――はきたなくて嫌だつたが、西方に峙えてゐる城山――それは今にも倒れさうな低い、繁つた山だ――はわるくない。うどん、さけ、しやみせん、おしろい、等々、さすがに湯町らしい気分がないでもないが、とにかく不景気。
【福泉寺】
山頭火が九十四間の自然石段といった石段を登ると、仁王門が見えてきます。福泉寺への山道の入口にある泉溜池があり、池のむこうに田んぼ、民家、そして有明海が見えます。前日の日記に、「飯盛山福泉寺(解秋和尚主宰、鍋島家旧別邸) 山をそのままの庭、茅葺の本堂書院庫裏、かすかな水の音、梅の一二本、海まで見える」とあります。福泉寺の境内に入ると、左手が本堂、正面が庫裏。山頭火は茅葺きと日記に書いていますが、屋根の形を見るとかつては茅葺きであったことが推測できます。山頭火がどういうルートで福泉寺へ行ったのかはっきりしませんが、現在の北方町から有明町へ入り、泉溜池に沿った道を登って行ったと思われます。
【和泉式部の出生地】
この日の日記に、「この寺は和泉式部の出生地、古びた一幅を見せて貰つた(峨山和尚の達磨の一幅はよかつた)」とあり、和尚さんから和泉式部に関する掛け軸を見せてもらったと書いています。ここ福泉寺は、和泉式部が生まれ育ったところと言われていて、塩田町には和泉式部を記念した公園があります。
一月卅日 晴、暖、滞在(武雄)、宿は同前(油屋)、等々々。
お天気はよし、温泉はあるし、お布施はたつぷり(解秋和尚から、そして緑平老からも)、どまぐれざるをえない。一浴して一杯、二浴して二杯、そしてまた三浴して三杯だ、百浴百杯、千浴千杯、万浴万杯、八万四千浴八万四千杯の元気なし。けふいちにちはなまけるつもりだつたが、おもいかえへして、午後二時間ばかり行乞。よき食欲とよき睡眠、そしてよき性欲とよき浪費、それより外に何もない! とにかくルンペンのひとり旅はさみしいね。
【武雄温泉】
山頭火は前日、福泉寺を発って10数㎞を歩いて武雄温泉に到着しここで2泊しています。温泉街の北には大正3年建造の楼門があって、この奥に公衆浴場があります。山頭火は銭湯に入ったと書いているので、ここの公衆浴場に入ったと思われます。
一月卅一日 曇、歩行四里、嬉野温泉、朝日屋(三○、中)
一気にここまで来た、行乞三時間。宿は新湯の傍、なかなかよい、よいだけ客が多いのでうるさい。飲んだ、たらふく飲んだ、造酒屋が二軒ある、どちらの酒もよろしい、酒銘「一人娘」「虎の児」。武雄温泉にはあまり好意が持てなかつた、それだけこの温泉には好意が持てる。湧出量が豊富だ(武雄には自宅温泉はないのにここには方々にある)温度も高い、安くて明るい、普通湯は二銭だが、宿から湯札を貰へば一銭だ。茶の生産地だけあつて、茶畑が多い、茶の花のさみしいこと。嬉野はうれしいの(神功宮皇后のお言葉)。休みすぎた、だらけた、一句も生まれない。ぐっすり寝た、アルコールと入浴のおかげで、しかし、もっと、もっと、しっかりしなければならない。
【嬉野温泉】
山頭火は、福岡から玄海灘沿いに、浜玉・佐志・湊・呼子・名護屋と東松浦半島を彷徨し、相知・多久市筋原・武雄を行乞して、昭和7年1月31日に嬉野温泉に着きました。この日の日記に、「武雄温泉にはあまり好意が持てなかつた、それだけこの温泉には好意が持てる」とあります。山頭火は嬉野温泉がよほど気に入ったようですが、1泊しただけで出て行きました。嬉野川に沿って開けた嬉野温泉は、1500年の歴史を持ち、江戸時代長崎街道の嬉野宿として栄え、美肌に効果がある重曹泉で入浴した後につるつる感があることから、「日本三大美肌の湯」の一つとされています。山頭火が宿泊したのは新湯ですが、新湯に対して古湯があります。古湯温泉には、大正12年建造の美しい外観の公衆浴場がありますが、建造から85年近くになり、内部の老朽化により今は使われていません。山頭火もこの建物を見たと思われます。「嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が草鞋をぬぐによいところです、私も出来ることなら、こんなところに落ちつきたいと思ひます、云々」とあり、山頭火はそんな嬉野に庵を結ぼうと考えたときもあったようです
【井出酒造】
この日の日記に、「飲んだ、たらふく飲んだ、造酒屋が二軒ある、どちらの酒もよろしい、酒銘「一人娘」「虎の児」。」とありますが、今は、温泉街の中心部にある「井出酒造」一軒だけになっています。店先に、「湯壺から桜ふくらんだ」の句と、「嬉野はうれしいところです、湯どころ茶どころ、孤独の旅人が・・・」の日記の碑があります。