山頭火の日記 ⑪
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945757401&owner_id=7184021&org_id=1945788741 【山頭火の日記(昭和6年12月22日~、行乞記二)】 より
『行乞記』(二)
死をまへの木の葉そよぐなり
陽を吸ふ
死ぬる夜の雪ふりつもる
生死のなかの雪ふりしきる
【行乞記(二)】
『行乞記』(二)には、昭和6年12月22日から昭和7年5月31日までの日記が収載されています。ここに「生死のなかの雪ふりしきる」の句があります。山頭火は、激しい吹雪の中を惑い苦しみつつ行き悩んでいます、しかし、山頭火は歯を食いしばって、全身ありったけの力を振り絞って歩み通そうとしており、久留米・福岡へと旅を続けます。
十二月廿二日 晴、汽車で五里、味取、星子宅。
私はまた旅に出た。――『私はまた草鞋を穿かなければならなくなりました、旅から旅へ旅しつづける外ない私でありました』と親しい人々に書いた。山鹿まで切符を買うたが、途中、味取に下車してHさんGさんを訪ねる、いつもかはらぬ人々のなさけが身にしみた。Sさんの言葉、Gさんの酒盃、K上座の熱風呂、和尚さんの足袋、……すべてが有難かつた。積る話に夜を更かして、少し興奮して、観音堂の明けの鐘がなるまで寝つかれなかつた。
【私はまた旅に出た】
この日の日記に、「私はまた旅に出た」「私はまた草鞋を穿かなければならなくなりました、旅から旅へ旅しつづける外ない私でありました」とあります。山頭火は九州への旅の往復時には、必ず防府市の俳友・近木圭之介(福井市生まれ)のところに立ち寄っています。近木は山頭火と語り合った数少ない俳友の一人としても知られ、山頭火の死に至るまで親交を結びました。よく知られた山頭火の後ろ姿の写真は、近木が下関市長府三島町の地で撮影したものです。また、自動シャッターで撮った山頭火との写真もあります。下関市長府中土居本町には、近木の句碑と並んで山頭火・井泉水の句碑があり、これらの句碑は二人の友情を表わすものといえます。
十二月廿七日 晴后雨、市街行乞、大宰府参拝、二日市、和多屋。
九時から三時まで行乞、赤字がさうさせたのだ、随つて行乞相のよくないのはやむをえない、職業的だから。……大宰府天満宮の印象としては樟の老樹くらいだろう。さんざん雨に濡れて参拝して帰宿した。宿の娘さん、親類の娘さん、若い行商人さん、近所の若衆さんが集つて、歌かるたをやつてゐる、すつかりお正月気分だ、フレーフレー青春、下世話でいへば若い時は二度ない、出来るだけ若さをエンヂヨイしたまへ。
【大宰府天満宮】
この日の日記に、「大宰府天満宮の印象としては樟の老樹くらいだろう。さんざん雨に濡れて参拝して帰宿した」とあり、山頭火は大宰府の印象をそっけない感じで書いています。境内には約50本のクスの古木があるといわれていますが、とにかくクスの木が目立ち、山頭火も同じような感想を持ったようです。後の12月31日の日記に、「大宰府三句」として、「しぐれて反橋二つ渡る」「右近の橘の実のしぐるるや」「大樟も私も犬もしぐれつつ」の句があります。
十二月廿九日 曇、時雨、四里、二日市、和多屋。
十時、電車通で別れる、昨夜飲み過ぎたので、何となく憂欝だ、どうせ行乞は出来さうもないから、電車をやめて歩く、俊和尚上洛中と聞いたので、冷水越えして緑平居へ向ふつもり、時々思ひだしたやうに行乞しては歩く。武蔵温泉に浸った、温泉はほんたうにいい、私はどうでも温泉所在地に草庵を結びたい。
【二日市温泉】
山頭火はこの日、二日市を訪ねて、「温泉はほんたうにいい、私はどうでも温泉所在地に草庵を結びたい」とあります。現在の二日市温泉は、当時は「武蔵温泉」と呼ばれていました。温泉が好きだった山頭火は、武蔵温泉の和多屋に三泊して、周辺を行乞しています。しかし、二日市温線街は山頭火を偲べるものは何も残っていません。
十二月卅日 晴れたり、曇ったり、徒歩七里、長尾駅前の後藤屋に泊る、木賃二十五銭、
しづかで、しんせつで、うれしかつた、躊躇なく特上の印をつける。
早朝、地下足袋を穿いて急ぎ歩く、山家、内野、長尾というやうな田舎街を行乞する。冷水峠は長かった、久しぶりに山路を歩いたので身心がさっぱりした、ここへ着いたのは四時、さつそく豆田炭坑の湯に入れて貰つた。山の中はいいなあ、水の音も、枯草の色も、小鳥の声も何も彼も。――このあたりはもうさすがに炭坑町らしい。夫婦で、子供と犬とみんないつしよに車をひつぱつて行商してゐるのを見た、おもしろいなあ。何といふ酒のうまさ、呪はれてあれ。持つてゐるだけの端書を書く、今の私には、俳友の中の俳友にしか音信したくない。
【長尾駅】
この日の日記に、「長尾駅前の後藤屋に泊る」とあります。筑豊本線の筑前内野~原田が開通したのは昭和4年で、昭和6年には全線開通していましたが、山頭火は冷水峠を歩いて越えています。山家、内野、長尾のうち、昔の面影が残っているのは内野だけです。長尾駅は今の上穂波駅ですが、山頭火が歩いた時代の建造物はなにも残ってはいません。
十二月卅一日 快晴、飯塚町行乞、往復四里、宿は同前。
昨夜は寒かったが今日は温かい、一寒一温、それが取りも直さず人生そのものだ。行乞相も行乞果もあまりよくなかった、恥づべし々々。『年暮れぬ笠きて草鞋はきながら』まったくその通りだ、おだやかに沈みゆく太陽を見送りながら、合掌した、私の一生は終わったのだ、さうだ来年から新らしい人間として新しい生活を初めるのである。
ここに落ちついて夕顔や
雨の二階の女の一人は口笛をふく
ふるさとを去るけさの鬚を剃る
ずんぶり浸るふる郷の温泉(ゆ)で
星へおわかれの息を吐く
どこやらで鴉なく道は遠い
旅人は鴉に啼かれ
旅は寒い生徒がお辞儀してくれる
旅から旅へ山山の雪
身にちかく山の鴉の来ては啼く
熊本県界
ここからは筑紫路の枯草山
自嘲
うしろ姿のしぐれてゆくか
大宰府三句
しぐれて反橋二つ渡る
右近の橘の実のしぐるるや
大樟も私も犬もしぐれつつ
ふるさと恋しいぬかるみをあるく
街は師走の売りたい鯉を泳がせて
酒壺洞房
幼い靨で話しかけるよ
師走のゆききの知らない顔ばかり
しぐれて犬はからだ舐めてゐる越えてゆく山また山は冬の山
枯草に寝ころぶやからだ一つ
【師走のゆききの知らない顔ばかり】
この日の日記に、「『年暮れぬ笠きて草鞋はきながら』まったくその通りだ、おだやかに沈みゆく太陽を見送りながら、合掌した、私の一生は終わったのだ」とあります。この「年暮れぬ笠きて草鞋はきながら」は芭蕉の句です。芭蕉ははるばる江戸から伊賀のふるさとへ帰ってきましたが、そこには生まれた家で兄さんたちが待っていてくれました。ところが山頭火はこの日の日記の最後に、「師走のゆききの知らない顔ばかり」「しぐれて犬はからだ舐めてゐる越えてゆく山また山は冬の山」「枯草に寝ころぶやからだ一つ」と続けて詠っているように、大晦日に人さまの軒に立って行乞しつつ、しぐれの中を、からだ一つで太陽の沈む山の方へと歩いています。芭蕉のように、旅を楽しむ心境とはまったく別の、さびしくきびしいどん底の句に思えます。
【うしろ姿のしぐれてゆくか】
また、「うしろ姿のしぐれてゆくか」の有名な句もあります。この日、飯塚を行乞していたときに生まれたと伝えられ、網代笠をかぶって歩く山頭火の姿を象徴しているような句で、山頭火の生涯をひとことで表すにふさわしい、簡潔にして格調高い有名な句です。句の前に「自嘲」とあり、出家をしても捨てきれぬものを背負っている己を嘲ったのか、いや今の自分はまだ悟り切れていないと思う心が、悟りに近づいていたのかも知れません。山頭火は、句集『草木塔』に載せたときには、自嘲の文字に加えて、「昭和六年、熊本に落ちつくべく努めたけれども、どうしても落ちつけなかった、またもや旅から旅へ旅しつづけるばかりである」と、その深い思いを記しています。