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山頭火の日記 ⑩

2018.03.25 03:42

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945729091&owner_id=7184021&org_id=1945757401 【山頭火の日記(昭和6年2月2日~)】より

二月二日 また雨、何といふ嫌らしい雨だらう。

私も人並に風邪気味になつてゐる。

 更けてやつと出来た御飯が半熟

ゲルトが手にいつたので、何よりもまづ米を、炭を、そして醤油を買つた(空気がタダなのはほんたうに有難いことだ)。

【ガリ番刷り個人誌『三八九』第一集発行】

山頭火はこの日、ガリ番刷り個人誌『三八九』第一集を発行しています。会友50余名が支援しています。また、山頭火の随筆『寝床』に次のように書いています。

「ここへ移って来てから、ほんとうにのびやかな時間が流れてゆく。自分の寝床――それはどんなに見すぼらしいものであっても――を持っているということが、こんなにも身心を落ちつかせるものかと自分ながら驚ろいているのである。仏教では樹下石上といい一所不住ともいう。ルンペンは『寝たとこ我が家』という。しかし、そこまで徹するには悟脱するか、または捨鉢にならなければならない。とうてい私たちのような平々凡々の徒の堪え得るところでない。

  家を持たない秋が深うなつた

  霜夜の寝床が見つからない

そうろうとして歩きつづけていた私は、私相応の諦観は持っていたけれど、時としてこういう嘆息を洩らさずにはいられなかった。人生の幸福とはよい食慾とよい睡眠とに外ならないと教えられたが、まったくそうである。ここでは食慾の問題には触れないでおく。私たちは眠らなければならない。いや眠らずにはいられない。しかも眠り得ない人々のいかに多いことよ。眠るためには寝床が与えられなければならない。よく眠るためにはよい寝床が与えられなければならない。彼等に寝床を与えよ。

  重荷おもくて唄うたふ 山頭火

    味取観音堂に於て

  松はみな枝垂れて南無観世音 耕畝

  久しぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる 同

  ねむりふかい村を見おろし尿する 同 」

【山頭火の随筆『私を語る』】

また、山頭火の随筆『私を語る』に次のように書いています。

「私もいつのまにやら五十歳になった。五十歳は孔子の所謂、知命の年齢である。私にはまだ天の命は解らないけれど、人の性は多少解ったような気がする。少くとも自分の性だけは。――私は労れた。歩くことにも労れたが、それよりも行乞の矛盾を繰り返すことに労れた。袈裟のかげに隠れる、嘘の経文を読む、貰いの技巧を弄する、――応供の資格なくして供養を受ける苦脳には堪えきれなくなったのである。或る時は死ねない人生、そして或る時は死なない人生。生死去来真実人であることに間違はない。しかしその生死去来は仏の御命でなければならない。征服の世界であり、闘争の時代である。人間が自然を征服しようとする。人と人とが血みどろになって掴み合うている。敵か味方か、勝つか敗けるか、殺すか殺されるか、――白雲は峯頭に起るも、或は庵中閑打坐は許されないであろう。しかも私は、無能無力の私は、時代錯誤的性情の持主である私は、巷に立ってラッパを吹くほどの意力も持っていない。私は私に籠る、時代錯誤的生活に沈潜する。『空』の世界、『遊化』の寂光土に精進するより外ないのである。本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ。

私は、我がままな二つの念願を抱いている。生きている間は出来るだけ感情を偽らずに生きたい。これが第一の念願である。言いかえれば、好きなものを好きといい、嫌いなものを嫌いといいたい。やりたい事をやって、したくない事をしないようになりたいのである。そして第二の念願は、死ぬる時は端的に死にたい。俗にいう『コロリ往生』を遂げることである。私は私自身が幸福であるか不幸であるかを知らないけれど、私の我がままな二つの念願がだんだん実現に近づきつつあることを感ぜずにはいられない。放てば手に満つ、私は私の手をほどこう。ここに幸福な不幸人の一句がある。――

  このみちや いくたりゆき われはけふゆく 」

【『三八九』第二集発行・3月3日】

この日、山頭火の随筆『私の生活』に次のように書いています。

「あんまり早く起きたところで仕方がないから、それに今でもよく徹夜するほど夜更しをする性分の私だから、自分ながら感心するほど悠然として朝寝をする。といっても此頃で八時九時には起きる。起きる直ぐ、新聞を丸めた上へ木炭を載せかけた七輪を煽ぎ立てる。米を洗う、味噌を摺る。冬の水は冷たい、だから肉体労働をしたことのない私の手はヒビだらけだ。ドテラ姿で、古扇子で七輪を煽いでいる、ロイド眼鏡のオヤジの恰好は随分珍妙なものに違いない。しかも、そこでまた自分ながら感心するほど綿々密々として、米を洗い味噌を摺るのである。ありもしない銭を粗末にする癖に、断然一粒の米も拾うて釜へ入れるのである。釜が吹くと汁鍋とかけかえる。それが出来ると、燠を火鉢に移して薬鑵をかける。実にこのあたりの行持はつつましくもつつましいものである。思うに彼が、いや私がたとえナマクサ坊主であるにせよ、元古仏『半杓の水』の遺訓までは忘れることが出来ないからである。(ここまで書いたらもう余白がなくなった。集を追うて余白がある毎に書き続けるつもり)」

【山頭火の随筆『漬物の味』】

さらに3月5日、山頭火の随筆『漬物の味』に次のように書いています。

「私は長いあいだ漬物の味を知らなかった。ようやく近頃になって漬物はうまいなあとしみじみ味うている。清新そのものともいいたい白菜の塩漬もうれしいが、鼈甲のような大根の味噌漬もわるくない。辛子菜の香味、茄子の色彩、胡瓜の快活、糸菜の優美、――しかし私はどちらかといえば、粕漬の濃厚よりも浅漬の淡白を好いている。よい女房は亭主の膳にうまい漬物を絶やさない。私は断言しよう、まずい漬物を食べさせる彼女は必らずよくない妻君だ! 山のもの海のもの、どんな御馳走があっても、最後の点睛はおいしい漬物の一皿でなければならない。漬物の味が解らないかぎり、彼は全き日本人ではあり得ないと思う。そしてまた私は考える、――漬物と俳句との間には一味相通ずるところの或る物があることを。――」

【『三八九』第三集発行・3月30日】

次に、山頭火の随筆『私の生活』(二)に次のように書いています。

「御飯ができ、お汁ができて、そして薬缶を沸くようにしておいて、私は湯屋へ出かける。朝湯は今の私に与えられているゼイタクの一つである、私は悠々として、そして黙々として朝湯を享楽する(朝湯については別に扉の言葉として書く)。過現未一切の私が熱い湯の中に融けてしまう快さ、とだけ書いておく。湯から帰ると、手製の郵便受函に投げ込まれてある郵便物を掴んで、いそいそと長火鉢の前にあぐらをかく、一つ一つ丹念に読む、読んでは微笑する、そして返事を認める、それを持って角のポストまで行く、途中きっと尿する、そこは花畑だ、紅白紫黄とりどりの美しさである、帰って来て、香ばしい茶をすする、考えるでもなく、考えないでもなく、自分が自分の自分であることを感じる。――この時ほど私は生きていることのよろこびを覚えることはない、そして死なないでよかったとしみじみ思う。それから、朝食兼昼食がはじまるのであるが、もう余白がなくなった。余白といえば、私の生活は余白的だ、厳密にいえば、それは埋草にも値しないらしい。」

【山頭火の随筆『水』】

また同日、山頭火の随筆『水』に次のように書いています。

「禅門――洞家には『永平半杓の水』という遺訓がある。それは道元禅師が、使い残しの半杓の水を桶にかえして、水の尊いこと、物を粗末にしてはならないことを戒められたのである。そういう話は現代にもある、建長寺の龍淵和尚(?)は、手水をそのまま捨ててこまった侍者を叱りつけられたということである。使った水を捨てるにしても、それをなおざりに捨てないで、そこらあたりの草木にかけてやる、――水を使えるだけ使う、いいかえれば、水を活かせるだけ活かすというのが禅門の心づかいである。物に不自由してから初めてその物の尊さを知る、ということは情ないけれど、凡夫としては詮方もない事実である。海上生活をしたことのある人は水を粗末にしないようになる。水のうまさ、ありがたさはなかなか解り難いものである。

  へうへうとして水を味ふ

こんな時代は身心共に過ぎてしまった。その時代にはまだ水を観念的に取扱うていたから、そして水を味うよりも自分に溺れていたから。

  腹いつぱい水を飲んで来てから寝る

放浪のさびしいあきらめである。それは水のような流転であった。

  岩かげまさしく水が湧いてゐる

そこにはまさしく水が湧いいた、その水のうまさありがたさは何物にも代えがたいものであった。私は水の如く湧き、水の如く流れ、水の如く詠いたい。」

二月五日 まだ降つてゐる、春雨のやうな、また五月雨のやうな。

毎日、うれしい手紙がくる。雨風の一人、泥濘の一人、幸福の一人、寂静の一人だつた。

 雨のおみくじも凶か

 凩、書きつづけてゐる

 ひとりの火おこす

   味取在住時代 三句

 久しぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる

 けふも托鉢、ここもかしこも花ざかり

 ねむり深い村を見おろし尿する

   追加一句

 松はみな枝たれて南無観世音(味取観音堂の耕畝として)

   行乞途上

 旅法衣ふきまくる風にまかす

【松はみな枝たれて南無観世音】

この日の日記に、「味取観音堂の耕畝として」とあり、「松はみな枝たれて南無観世音」の句があります。福岡県宗像市神湊の隣船寺に、この句碑があります。この句碑は、山頭火が生存中に建てられた唯一のもので、山頭火の筆跡が非常によく再現されています。当時の住職は山頭火と句会を通して交友を深め、その縁で山頭火は隣船寺に何度も泊まり、今も山頭火の手紙が残されており、「松の寺のしぐれとなつて泊まります」の句もあります。また、鳥取市安長の東圓寺に、この句と「木の芽草の芽あるきつづける」「鴉ないてわたしも一人」「秋空の墓をさがしてあるく」(放哉句併刻)の句碑があります。

【この後の日記の空白】

この後の山頭火の日記は、昭和6年12月22日まで約10ヶ月間の空白となっています。