山頭火の日記 ⑤
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945571575&owner_id=7184021&org_id=1945607067 【山頭火の日記(昭和5年11月17日~)】より
十一月十七日 晴、行程一里、宇ノ島、太田屋(三十、中の上)
朝酒は勿躰ないと思つたけれど、見た以上は飲まずにはゐられない私である、ほろほろ酔うてお暇する、いつまたあはれるか、それはわからない、けふここで顔と顔とを合せてる――人生はこれだけだ、これだけでよろしい、これだけ以上になつては困る。……情のこもつた別れの言葉を後にして、すたすた歩く、とても行乞なんか出来るものぢやない、一里歩いて宇ノ島、教えられた宿へ泊る、何しろ寂しくてならないので濁酒を二三杯ひつかける、そして休んだ、かういふ場合は酔うて寝る外ないのだから。此宿はよろしい、木賃宿は一般によくなつたが、そして客種もよくなつたが、三十銭でこれだけの待遇をうけると、何となくすまないやうな気もする、しかも木賃宿は、それが客の多い宿ならば、みんな儲けだしてゐる。
友人からのたより――昧々居で受け取つたもの――をまた、くりかへしくりかへし読んだ、そして人間、友、心といふものにうたれた。
同宿七人、同室はおへんろさんとおゑびすさん、前者はおだやかな、しんせつな老人だつたが、後者は無智な、我儘な中年者だつた、でも話してゐるうちに、私といふものを多少解つてくれたやうだつた。
別れて来た道がまつすぐ
酔うて急いで山国川を渡る
つきあたつてまがれば風
別れきてさみしい濁酒があつた
タダの湯へつかれた足を伸ばす
【山国橋】
大分と福岡の県境を流れる山国川には、河口付近に2本の橋が架っています。日豊本線の鉄橋をはさんで河口側に山国橋、上流側に山国大橋。山頭火は、山国橋を渡ったのではないかと思います。現在の山国橋は昭和9年の建造、山頭火がほろ酔いで渡った昭和5年にはありませんでした。おそらく、木の橋が架っていたのではないでしょうか。山国橋は美しい橋です。橋脚の赤い煉瓦の色が、山国川の水面に映る姿はとても美しいです。
十一月廿二日 晴曇定めなし、時々雨、一流街行乞、宿は同じ事。
お天気は昨日からの――正確にいへば一昨日からの――つづき、降つたり晴れたりだ、十時近くなつて、どうやら大して降りさうもないので出かける、こんな日は、ひとり火鉢をかかへて、読書と思索とに沈潜したいのだけれど、それはとうてい許されない。草鞋ではとてもやりきれないので、昨日も今日も地下足袋を穿いたが、感じの悪い事おびただしい。二時過ぎまで行乞、キス一杯の余裕あるだけはいただいて、地橙孫さんを訪ねる、不在、奥さんに逢つて(女中さん怪訝な顔付で呼びにいつた)ちよつと挨拶する、白状すれば、昨春御馳走のなりつぱなしになつてゐるし、そのうへ少し借りたのもそのままになつてゐる、逢うて話したいし、逢へばきまりが悪いし、といつてここへ来て黙つてゐることは私の心情が許さないし、とにもかくにも地橙孫さんは尊敬すべき紳士である、私は俳人としてでなく、人間として親しみを感じてゐるのである。宿に戻つて、すぐ入浴、そして一杯、それはシヨウチユウ一杯とドブ一杯とのカクテルだ、飲まずにはゐられないアルコール(酒とはいはない)、何とみじめな、そして何とうまいことだろう!
下関は好きだけれど、煤烟と騒音とには閉口する。狭くるしい街を人が通る、自動車が通る、荷馬車が通る、オートバイが通る、自転車が通る、……その間を縫うて、あちこちと行乞するのはほんたうに嫌になります。生きてゐることのうれしさとくるしさを毎日感じる。同時に人間といふもののよさとわるさを感ぜずにはゐられない、……それがルンペン生活の特権とでもいはうか、それはそれとして明日は句会だ、どうかお天気であってほしい。好悪愛憎、我他彼此のない気分になりたい。
改作二句(源三郎居即事)
吠えて親しい小犬であつた
まづ朝日一本いただいて喫ひこむ
旅はきらくな起きるより唄
雨をよけてゐるラヂオがきこえる
ハジカレたが菊の見事さよ(ハジカレは術語、御免の意味)
お経とどかないヂヤズの騒音(或は又、ヂヤズとお経とこんがらがつて)
風の中声はりあげて南無観世音菩薩
これでもお土産の林檎二つです
火が何よりの御馳走の旅となつた
改
紅葉山へ腹いつぱいのこし
藪で赤いは烏瓜
坐るよりよい石塔を見た
ならんで尿する空が暗い
また逢ふまでの山茶花を数へる
土蔵そのそばの柚の実も(福沢旧邸)
【下関一流街】
山頭火はこの日の日記に、「一流街行乞」と書いています。日記の表現から浮かぶのは、下関駅付近と唐戸交差点付近の雑踏です。
十一月廿三日 曇、時雨、下関市、地橙孫居。
相変らずの天候である。朝の関門海峡を渡る、時雨に濡れて近代風景を鑑賞する、舳の突端に立って法衣を寒風に任した次第である。多少のモダン味がないこともあるまい。関門風景を点綴するには朝鮮服の朝鮮人の悠然たる姿を添えなければならない、西洋人のすっきりした姿乃至どっしりした姿も……そして下関駅頭の屋台店(飲食店に限る)門司海岸の果実売子を忘れてはならない。(中略)下関から眺めた門司の山々はよかったが、近づいて見て、登って観て、一層よかった、門司には過ぎたものだ。『当然』に生きるのが本当の生活だらうけれど、私はただ『必然』に生きてゐる、少くとも此二筋の『句』に於ては、『酒』に於ては!
燃えてしまつたそのままの灰となつてゐる
風の夜の戸をたたく音がある
風の音もふけてゐる散財か
更けてバクチうつ声
あすはあへるぞトタン屋根の雨
しんみりぬれて人も馬も
夢がやぶれたトタンうつ雨
きちがい日和の街をさまよふのだ
ま夜中の虱を這はせる
あの汽車もふる郷の方へ音たかく
地図一枚捨てて心かろく去る
すこし揺れる船のひとり
きたない船が濃い煙吐いて
しぐるる街のみんなあたたかう着てゐる
しぐるるや西洋人がうまさうに林檎かじつてゐる
あんな船の大きな汽笛だつた
しぐれてる浮標が赤いな
風が強い大岩小岩にうづもれ□□
吹きまくられる二人で登る
好きな僕チヤンそのまま寝ちまつた(源三郎居)
このいただきにただずむことも
水飲んで尿して去る
水飲めばルンペンのこころ
雨の一日一隅を守る
【門司港】
山頭火が放浪していた頃、関門トンネルは開通していませんでした。九州の行き帰りには、幾度も船で関門海峡を渡っていました。当時の門司港は、現在よりも多くの洋風建築があり、山頭火はそれを近代風景と表現しました。門司海岸の果実売子の果実とは、バナナのことではないでしょうか。この日、山頭火は句会のため、門司広石町の「層雲」支部「早鞆会」を率いる久保源三郎をたずねています。句会は都合が付かない人が多く、出席者は山頭火と源三郎だけ。主客二人だけでは句会にならない、と句会をやめて山に登ったといいます。登った山は、おそらく風師山だと思われます。
十一月廿四日 曇、雨、寒、八幡市、星城子居(もつたいない)
今日も亦、きちがい日和だ、裁判所行きの地橙孫君と連れ立つて歩く、別れるとき、また汽車賃、辨当代をいただいた、すまないとは思ふけれど、汽車賃はありますか、辨当代はありますかと訊かれると、ありませんと答へる外ない、おかげで行乞しないで、門司へ渡り八幡へ飛ぶ、やうやく星城子居を尋ねあてて腰を据える、星城子居で星城子に会ふのは当然だが、俊和尚に相見したのは意外だつた、今日は二重のよろこび――星氏に会つたよろこび、俊氏に逢つたよろこび――を与へられたのである。俊和尚は予期した通りの和尚だつた、私は所謂、禅坊主はあまり好きでないが、和尚だけは好きにならずにはゐられない禅坊主だ(何と不可思議な機縁だらう)。星城子氏も予期を裏切らない、いや、予期以上の人物だ、あまり優遇されるので恐縮するほどだ、訪問早々、奥さんの温情に甘えて、昼御飯をうんと食べたほど、身心をのびのびとさせた。ずゐぶんおそくまで飲みつづけ話しつづけた、飲んでも飲んでも話しても話しても興はつきなかつた、それでは皆さんおやすみ、あすはまた飲みませう、話しませう(虫がよすぎますね!)。
逢ひたうて逢うてゐる風(地橙孫居)
風の街の毛皮売れない鮮人で
けふもしぐれて落ちつく場所がない
しみじみしみいる尿である
買ふでもないものを観てまはる
ふる郷ちかく酔うてゐる
朝から酔うて雨がふる
ありがたいお金さみしくいただく
供養受けるばかりで今日の終り
しぐるるや煙突数のかぎりなく(八幡風景)
風の街の朝鮮女の衣裳うつくしい
また逢ふまでの山茶花の花(昧々氏へ)
標札見てあるく彦山の鈴(星城子居)
しぐるるやあんたの家をたづねあてた( 〃 )
省みて、私は搾取者ぢやないか、否、奪掠者ぢやないか、と恥ぢる、かういふ生活、かういふ生活に溺れてゆく私を呪ふ。……芭蕉の言葉に、わが句は夏爐冬扇の如し、といふのがある、俳句は夏爐冬扇だ、夏爐冬扇であるが故に、冬爐夏扇として役立つのではあるまいか。荷物の重さ、いひかへれば執着の重さを感じる、荷物は少くなつてゆかなければならないのに、だんだん多くなつてくる、捨てるよりも拾ふからである。八幡よいとこ――第一印象は、上かんおさかなつき一合十銭の立看板だつた、そしてバラツク式長屋をめぐる煤煙だつた、そして友人の温かい雰囲気だつた。
【ありがたいお金さみしくいただく】
この日の日記に、「ありがたいお金さみしくいただく」の句があります。山頭火は「乞食の外道」である道を、実にしばしば体験して歩くことになりました。それはまず、山頭火の中の感謝の心と、山頭火が軒下に立った家の人の報謝の心との違いから生じています。ある時は、「投げ与えられた一銭のひかりだ」と詠っていますが、乞食坊主としか見えぬ風体の男への処遇はさまざまでした。銭を投げる人の仕打ちに、心底まで傷つけられ、それがしだいに人間不信につながり、心をその根元から荒廃させてしまうことを、山頭火は何よりも恐れていました。山頭火は、その行乞の辛酸をくぐりぬけ、なおその最後まで、人間信頼の心のあたたかさを失わずにいたのだと思います。
十一月廿五日 晴、河内水源地散歩、星城子居、雲関亭、四有三居。
ほがらかな晴れ、俊和尚と同行して警察署へ行く、朝酒はうまかつたが、それよりも人の情がうれしかつた、道場で小城氏に紹介される、氏も何処となく古武士の風格を具へてゐる、あの年配で剣道六段の教士であるとは珍らしい、外柔内剛、春のやさしさと秋のおごそかとを持つ人格者である、予期しなかつた面接のよろこびをよろこばずにはゐられなかつた、稽古の済むのを待つて、四人――小城氏と俊和尚と星城子君とそして私と――うち連れて中学校の裏へまはり、そこの草をしいて坐る、と俊和尚の袖から般若湯の一本が出る、殆んど私一人で飲みほした(自分ながらよく飲むのに感心した)、ここからは小城さんと別れた、三人で山路を登る、途中、柚子を貰つたり、苺を摘んだり、笑つたり、ひやかしたり、句作したりしながら、まるで春のやうな散歩をつづる、そしてまた飲んだ、気分がよいので、景色がよいので――河内水源地は国家の経営だけに、近代風景として印象深く受け入れた(この紀行も別に、秋ところどころの一節として書く)、帰途、小城さんの雲関亭に寄つて夕飯を饗ばれる、暮れてから四有三居の句会へ出る、会する者十人ばかり、初対面の方が多かつたが、なかなかの盛会だつた(私が例の如く笑ひ過ぎ饒舌り過ぎたことはいふまでもあるまい)、十二時近く散会、それからまたまた例の四人でおでんやの床几に腰かけて、別れの盃をかはす、みんな気持よく酔つて、俊和尚は小城さんといつしよに、私は星城子さんといつしよに東と西へ、――私はずゐぶん酔つぱらつてゐたが、それでも、俊和尚と強い握手をして、さらに小城さんの手をも握つたことを覚えてゐる。
朝日まぶしく組み合つてゐる(道場即時)
ほがらかにして草の上(草上饗宴)
よい家があるその壁の蔦紅葉
蓬むしれば昔なつかし
水はたたへてわが影うつる(水源地風景)
をりをり羽ばたく水鳥の水( 〃 )
水を前に墓一つ
好きな山路でころりと寝る
そよいでるその葉が赤い
小皿、紫蘇の実のほのかなる(雲関亭即事)
さみしい顔が更けてゐる
風が冷い握手する
竹植ゑてある日向の家
まつたく裸木となりて立つ(雲関亭即事)
【河内貯水池】
この日の日記に「水源地風景」として、「水はたたへてわが影うつる」「をりをり羽ばたく水鳥の水」の句があります。日記によると、山頭火は昭和5年11月24日、下関市から八幡市にやってきました。八幡では、俳句で知り合った星城子さんの家に泊まりました。そして、翌日(11月25日)河内貯水池に、星城子さん、俊和尚と三人で行っています。山頭火たちは、柚子をもらったり、野いちごをつんだり、俳句を作ったりしながら河内貯水池に登ってきました。河内貯水池へのハイキングをした日は、天気がよく、三人は春の日のような散歩を楽しんでいます。帰りには、警察署に勤める小城さんの雲関亭によって、俳句の会に出席しています。八幡にいたのは、わずか2日間でしたが、河内の美しい景色を印象深く受けとめたということが日記に書かれています。また、河内貯水池に星城子、俊和尚と三人で訪れた時に詠んだ「水を前に墓一つ」と刻まれた句碑が、帆柱新四国大三十番札所の広場にあります。
【好きな山路でころりと寝る】
また、「好きな山路でころりと寝る」の句もあります。山頭火の句に「ころり寝ころべば青空」があります。山頭火は日記に、「コロリ往生」ということをしばしば書いています。生きるだけ生きて、ころりとあの世に行きたいというのです。