山頭火の日記 ②
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945427129&owner_id=7184021&org_id=1945456037 【山頭火の日記(昭和5年10月15日~)】より
十月十五日 晴、行程四里、有水、山村屋(四○、中下)
早く立つつもりだつたけれど、宿の仕度が出来ない、八時すぎてから草鞋を穿く、やつと昨日の朝になつて見つけた草鞋である、まことに尊い草鞋である。二時で高城、二時間ほど行乞、また二里で有水、もう二里歩むつもりだつたが、何だか腹工合がよくないので、豆腐で一杯ひつかけて山村の閑寂をしんみりヱンヂヨイする。宿の主人は多少異色がある、子供が十人あつたと話す、話す彼は両足のない躄だ、気の毒なやうな可笑しいやうな、そして呑気な気持で彼をしみじみ眺めたことだつた。途上、行乞しつつ、農村の疲弊を感ぜざるを得なかつた、日本にとつて農村の疲弊ほど恐ろしいものはないと思ふ、豊年で困る、蚕を飼つて損をする――いつたい、そんな事があつていいものか、あるべきなのか。今日は強情婆と馬鹿娘とに出くわした、何と強情我慢の婆さんだつたらう、地獄行間違なし、そしてまた、馬鹿娘の馬鹿らしさはどうだ、極楽の入口だつた。村の運動会(といつても小学校のそれだけれど、村全体が動くのである)は村の年中行事の一つとして、これほど有意義な、そして効果のあるものはなからう。宿の小娘に下駄を貸してくれといつたら、自分の赤い鼻緒のそれを持つて来た、それを穿いて、私は焼酎飲みに出かけた、何となく寂しかつた。
友のたれかれに与えたハガキの中に、――
やうやく海の威嚇と芋焼酎の誘惑とから逃れて、山の中にくることが出来ました、秋は海よ
りも山に、山よりも林に、いち早く深りつつあることを感じます、虫の声もいつとなく細くなつ
て、あるかなきかの風にも蝶々がただようてゐます。……
物のあはれか、旅のあはれか、私のあはれか、あはれ、あはれ、あはれといふもおろかなりけり。清酒が飲みたいけれど罎詰しかない、此地方では酒といへば焼酎だ、なるほど、焼酎は銭に於ても、また酔ふことに於ても経済だ、同時に何といふうまくないことだらう、焼酎が好きなどといふのは――彼がほんたうにさう感じてゐるならば――彼は間違なく変質者だ、私は呼吸せずにしか焼酎は飲めない、清酒は味へるけれど、焼酎は呻る外ない(焼酎は無味無臭なのがいい、ただ酔を買ふだけのものだ、藷焼酎でも米焼酎でも、焼酎の臭気なるものを私は好かない)。相客は一人、何かを行商する老人、無口で無愛想なのが却つてよろしい、彼は彼、私は私で、煩はされることなしに私は私自身のしたい事をしてゐられるから。湯に入れなかつたのは残念だつた、入浴は、私にとつては趣味である、疲労を医するといふことよりも気分を転換するための手段だ、二銭か三銭かの銭湯に於ける享楽はじつさいありがたいものである。薩摩日向の家屋は板壁であるのを不思議に思つてゐたが宿の主人の話で、その謎が解けた、旧藩時代、真宗は御法度であるのに、庶民が壁に塗り込んでまで阿弥陀如来を礼拝するので、土壁を禁止したからだと。
【酒の誘惑】
山頭火が世に受け入れられる上で重要なキイである酒の誘惑がからむのと、この日記は一般的に世に出ている山頭火の著作集の最も早いところにある部分ですから否応なく目立ちます。そこで山頭火は海嫌いということになるのですが、実際はそうではないと思えます。
十月十六日 曇、后晴、行程七里、高岡町、梅屋(六〇・中)
暗いうちに起きる、鶏が飛びだして歩く、子供も這ひだしてわめく、それを煙と無智とが彩るのだから、忙しくて五月蠅いことは疑ない。今日の道はよかつた、――二里歩くと四家(しか)、十軒ばかり人家がある、そこから山下まで二里の間は少し上つて少し下る、下つてまた上る、秋草が咲きつづいて、虫が鳴いて、百舌鳥が啼いて、水が流れたり、木の葉が散つたり、のんびりと辿るにうれしい山路だつた、自動車には一台もあはず、時々自転車が通ふばかり、行人もあまり見うけなかつた、しかし、山下から高岡までの三里は自動車の埃と大淀川水電の工事の響とでうるさかつた、せつかくのんびりとした気持が、どうやらいらいらせずにはゐないやうだつた。
今日はめづらしく辨当行李に御飯をちよんびり入れて来た、それを草原で食べたが、前は山、後も山、上は大空、下は河、蝶々がひらりと飛んで来たり、草が箸を動かす手に触れたりして、おいしく食べた。この宿は大正十五年の行脚の時、泊つたことがあるが、しづかで、きれいで、おちついて読み書きが出来る、殊に此頃は不景気で行商人が少ないため、今夜は私一人がお客さんだ、一室一燈、さつぱりした夜具の中で、故郷の夢のおだやかな一シーンでも見ませう。『徒歩禅について』といふやうな小論が書けさうだ、徒歩禅か、徒労禅か、有か無か、是か非か。今夜は水が飲みたいのに飲みにゆくことが出来ないので、水を飲んだ夢ばかり見た、水を飲めないやうに戸締りをした点に於て、此宿は下の下だ!
朝の煙のゆうゆうとしてまつすぐ
茶の花はわびしい照り曇り
傾いた軒端にも雁来紅を植えて
水音遠くなり近くなつて離れない
水音といつしよに里へ下りて来た
休んでゐるそこの木はもう紅葉してゐる
山路咲きつづく中のをみなへしである
だんだん晴れてくる山柿の赤さよ
山の中鉄鉢たたいて見たりして
しみじみ食べる飯ばかりの飯である
蝶々よずゐぶん弱つてゐますね
或る農村の風景(連作)
明るいところへ連れてきたら泣きやめた児だつた
子を負うて屑繭買ひあるく女房である
傾いた屋根の下には労れた人々
脱穀機の休むひまなく手も足も
八番目の子が泣きわめく母の夕べ
損するばかりの蚕飼ふとていそがしう食べ
出来秋のまんなかで暮らしかねてゐる
こんなに米がとれても食へないといふのか
出来すぎた稲を刈りつつ呟いてゐる
刈つて挽いて米とするほこりはあれど
豊年のよろこびとくるしみが来て
コスモスいたづらに咲いて障子破れたまま
寝るだけが楽しみの寝床だけはある
暮れてほそぼそ炊きだした
二本一銭の食べきれない大根である
何と安い繭の白さを□□る
勿論、これは外から見た風景で、内から発した情熱ではない、私としては農村を歩いてゐるうちに、その疲弊を感じ、いや、感じないではゐられないので、その感じを句として表現したに過ぎない、試作、未成品、海のものでも山のものでも、もとより畑のものではない。かういふ歌が――何事も偽り多き世の中に死ぬことばかりはまことなりけり――忘れられない、時々思ひ出しては生死去来真実人に実参しない自分を恥ぢてゐたが、今日また、或る文章の中にこの歌を見出して、今更のやうに、何行乞ぞやと自分自身に喚びかけないではゐられなかつた、同時に、木喰もいづれは野べの行き倒れ犬か鴉の餌食なりけりといふ歌を思ひ出したことである。
【山の中鉄鉢たたいて見たりして】
この日の日記に、有名な「山の中鉄鉢たたいて見たりして」の句があります。鉄鉢をたたいてみて、思いがけない反響があたりの静寂から帰ってくるのを知って、山頭火は心を弾ませました。ここには、おどけて見せる孤独な山頭火がいます。山頭火がおどけたのは、むろん山の中だからです。しかし、それは必ずしも人目がなかったからということではなく、山に包まれて歩くことが、山頭火の心をのびやかにし、はずませ、思わずそうさせたのです。山道での句はこのほかにも、「山のいちにち蟻の歩いてゐる」「人にあはなくなつてより山のてふてふ」など、いくつかあります。山に囲まれ、その緑の木々を見つつ歩くことが、しだいに山頭火の心を静め、憩を求められたからです。
【しみじみ食べる飯ばかりの飯である】
また、「しみじみ食べる飯ばかりの飯である」の句もあります。山頭火が泊まる木賃宿は、宿賃は安いけれども、自分が食べる米、そしてそれを炊くための薪代も客が出すのです。自分が人に頭を下げていただいたお米。それを朝早く起きて自分で炊き、朝飯に食べた残りは、自分で昼の弁当をつくって持って行きます。気持ちだけ塩っ気のある握り飯です。昼間道端に腰を下ろして、その握り飯を食べます。しみじみと。それは感謝の念だけではなく、旅にしか生きられない自分の境涯をつくづく考えながらでもありました。山頭火の句集『草木塔』には、次のようにあります。
「 しみじみ食べる飯ばかりの飯である
草にすわり飯ばかりの飯
やうやくにして改作することが出来た。両句は十年あまりの歳月を隔ててゐる。その間の生活過程を顧みると、私には感慨深いものがある。」
十月十七日 曇后晴、休養、宿は同前(梅屋)
昨夜は十二時がうつても寝付かれなかつた、無理をしたためでもあらう、イモショウチュウのたたりでもあらう、また、風邪気味のせいでもあらう、腰から足に熱があつて、倦くて痛くて苦しかつた。朝のお汁に、昨日途上でもらつて来た唐辛子を入れる、老来と共に辛いもの臭いもの苦いもの渋いものが親しくなる。昨日といへば農家の仕事を眺めてゐると、粒々辛苦といふ言葉を感ぜずにはゐられない、まつたく粒々辛苦だ。身心はすぐれないけれど、むりに八時出立する、行乞するつもりだけれど、発熱して悪寒がおこつて、とてもそれどころぢゃないので、やうやく路傍に小さい堂宇を見つけて、そこの狭い板敷に寝てゐると、近傍の子供が四五人やって声をかける、見ると地面にござを敷いて、そこに横たわりなさいといふ、ありがたいことだ、私は熱に燃え悪寒に慄へる身体をその上に横たえた、うつらうつらとして夢ともなく現ともなく二時間ばかり寝てゐるうちに、どうやら足元もひよろつかず声も出さうなので、二時間だけ行乞、しかも最後の家で、とても我慢強い老婆にぶつかつて、修証義と、観音経とを読誦したが、読誦しているうちに、だんだん身心が快くなつた。
大地ひえびえとして熱あるからだをまかす
いづれは土くれのやすけさで土に寝る
このまま死んでしまふかも知れない土に寝る
熱あるからだをながながと伸ばす土
前の宿にひきかへして寝床につく、水を飲んで(ここの水はうまくてよろしい)ゆつくりしてさへおれば、私の健康は回復する、果たして夕方には一番風呂にはいるだけの勇気が出て来た。やつと酒屋で酒を見つけて一杯飲む、おいしかつた、焼酎とはもう絶縁である。寝てゐると、どこやらで新内を語つている、明烏らしい、あの哀調は病める旅人の愁をそそるに十分だ。
たつた一匹の蚊で殺された
病んで寝て蝿が一匹きただけ
【無理がたたる】
この日の山頭火は大変でした。不思議なのは、熱で歩けなかった山頭火を助けた子供らと、身体のことも忘れさせるほど読経に集中させてくれた老婆です。自然の中に身を投げ出して天命に身を任せられた山頭火の自由さが、危なげではあるけれどうらやましいところです。まあ、一番風呂に入り、新内を聴く余裕も出た山頭火がいます。