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日本人にとって神(カミ)とは

2024.10.09 02:43

https://www.nippon.com/ja/in-depth/a02902/ 【日本人にとって神(カミ)とは】より

宗教といって多くの日本人が思い浮かべるのは「神様」「仏様」だろう。特に「神(カミ)」は仏教伝来前からの信仰対象だ。日本では古代から近代まで神(カミ)はどのように考えられてきたのか。

Godを、日本語では「神」と訳し、カミと発音する。これが間違いのもとかもしれない。God、神、カミ、を別々のものと考えよう。

Godは、一神教の神のこと。世界で一つしかないものだから、英語の習慣で、大文字で書く。小文字でgodと書くと、あっちこっちにいる多神教の神という意味になってしまう。

漢字で神と書くと、中国語の「神」の意味になる。精神、神経という場合は、人間の精神現象という意味。神のような存在も表すが、決してランクの高い存在ではない。いちばんランクの高いものは、天とか上帝とか呼ぶことになっている。

日本古来のカミは、ひとことで言えば、自然現象を人格化したもの。『古事記』『日本書紀』に登場するカミや、神社に祀られるカミはむろんのこと、太陽や月や、風や雨や海や、大きな木や岩や、動植物も人間も、並み外れたものはみな、カミである。江戸時代の国学者・本居宣長(もとおり・のりなが)はこのように、日本のカミを定義する。彼によると、人間に「あはれ」と感動を与えるものはみな、カミなのだ。

このように考える日本人にとって、この国土は、豊かな自然に恵まれ、至るところにカミが臨在している、カミの国である。カミの国を外国語に訳して、狂信的な国粋主義の表現のように誤解されることがあるが、もともとの意味はそうしたものではない。

さまざまな要素が渾然一体となった神道

カミを祀る日本古来の信仰を、神道という。

古代の神道がどのようなものだったか、資料がなく、詳しいことは不明である。そもそも神道と呼べるほどの、まとまった実態があったかもわからない。おそらくそれは、さまざまな要素がまざったものだったろう。たとえば、

狩猟採取段階の縄文人が抱いていた自然崇拝の習俗が、底流となった。

米作を営むようになった弥生人は、土偶のような土地の生産力の象徴を崇め、朝鮮半島のシャマニズムも受容した。

中国から伝わった青銅製の武器や鏡は、首長たちの祭具や呪具となった。

中国由来の易や天文暦学や神仙思想は、統治者の祭礼や葬礼に反映された。

各地の共同体や有力集団はそれぞれの氏神を祀り、神社を建立した。

こうした要素が渾然一体となったものが、神道と意識されるようになったのは、仏教が伝えられたのち、人びとが仏教との相違と対抗を意識してからのことである。

仏(ブッダ)との対照から生まれたカミの観念

仏教は、ゴータマ・ブッダ(釈迦=紀元前6世紀または5世紀ごろに生誕)がインドで創始した宗教で、膨大な文字テキストと精緻な理論をそなえている。日本に伝わった仏教は、中国を経由し中国化しているので、テキスト(書物)は漢字で書かれた漢訳仏典であり、教団組織や運営は中国流である。日本人は、こうして学んだ仏(ブッダ)と対照して、カミの観念をもつことができた。

仏(ブッダ)とカミを比較すると、以下のように言える。

ブッダは覚り(さとり)を開いた人間であり、生きている。ブッダが死んだときは輪廻を解脱しているので存在しなくなる。カミは人間とは異なるが、人間の祖先で、生きていることも死んでいることもある。

ブッダは男性であり、独身を守る。カミは男女があり結婚することがある。

ブッダは仏像をつくり、寺に安置するが、寺にはいない。カミは神像をつくらない。神社には依代(よりしろ=カミがやってくる場所となる物)を安置するが、カミは神社にはいない。

仏教や律令制や天文暦法・医薬・建築などの中国由来の高級文化は、統治階級が権力と威信を確実にするためのツールであった。日本に移植された仏教は、神道とどのように棲み分けることとなったか。

ヤマト政権によるカミガミの編成と貴族の仏教帰依

ヤマトの政権は各地に並立する有力集団に対して、アマテラスを祖とする集団(アマ氏)が祭祀権を独占する同盟を樹立したことで成立した。並立する有力集団はそれぞれ、祖と仰ぐ固有のカミをもっていた(たとえば、出雲のオオクニヌシ)。同盟は、これらカミガミが調和的に共存する神話を、編成することを通じてなされた。

8世紀に『日本書紀』『古事記』がまとめられた。この書物は、カミガミのなかでアマテラスが主神であること、その子孫が天皇であって、祭祀権と統治権を独占的に継承すること、を述べてある。結果として、天皇の系統以外の有力集団は、祭祀権や統治権から排除されることとなった。それでもイスラエルの民がヤハウェを唯一のGodとし、他を排斥した一神教を樹立したのと比べると、ヤマトの政権は、カミガミを排除せず、アマテラスに従属するそれなりの地位を与えた点に特徴がある。カミガミの共存は、有力集団の共存を意味する。

仏の特徴は、カミガミと無関係で、アマテラスに従属しないことである。そこで、天皇が祭祀権を独占し、神道が再編されて統治権の根拠とされた状況で、そこから排除された有力集団は、仏教を自由に採用することができた。各地の有力集団はヤマト地方に集住して、政府の官職や土地(荘園)を世襲し、貴族となった。貴族はおおむね仏教に帰依し、寺院を建て、来世で極楽に往生することを願ったのである。死後、往生して仏になるという考えは、神道と異なる新しい発想であった。いっぽう、貴族や寺社の荘園で働く農民たちには、仏教よりも、ローカルなカミガミへの伝統的な信仰のほうが身近であった。

神道と仏教、死生観の違い

死後の世界を日本人は、どのように考えていたのか。

死後、山に帰るという考え方もあった。地の底(黄泉の国)に行くとする考え方もあった。海の彼方(常世)に向かうという考え方もあった。「死の穢れ(けがれ)」の観念があり、死者は集落から離れたどこか遠くに行くと、漠然と考えられていた。仏教の輪廻が信じられたことはない。また、死者は鬼となって地獄に住するという中国の考え方が、道教や仏教を経由して日本に入ると、それも次第に広まっていった。

天皇は、アマテラスを祀り、カミガミを祀り、天皇の祖先を祀る。この祭儀は、中国の統治者の儀礼を模したものだが、死んだ祖先をカミとして祀るのは、日本に独特である。死者はどこか遠くで「穢れ」を浄められたのち、カミのようなものになりうると考えられていた。

仏教は、人間を、輪廻しつつ成仏をめざす修行の主体と考える。死んだ人間はすぐ別の生命に再生して、この世界をまた生きる。死者の世界も、霊魂も、存在しないと考える。すなわち仏教は、人間の死について、神道とまったく異なる考え方をもっている。

それにもかかわらず、仏教が広まることは、どうして可能になったのか。

鎌倉~江戸時代、カミと仏を区別せず

平安時代に本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)なるものが唱えられ、日本のカミガミはインドのさまざまな仏や菩薩が姿を変えて到来したものだと主張されるようになった。すなわち、カミ=仏、である。鎌倉時代にはこれが、日本人の一般的な通念となった。

カミ=仏であれば、カミを拝んでも仏を拝んでも、同じことである。それなら、神社と寺を区別する必要もなく、仏教と神道を区別する理由もない。以来、江戸時代の終わりまで、日本人はカミと仏を厳密には区別してこなかった。

人が死んでカミになるなら、人が死んで仏になってもよい。仏教のうち浄土宗は、輪廻を脱して、極楽に往生することを願う。阿弥陀仏は修行時代、この世界の衆生を彼の仏国土(極楽浄土)に往生させると誓ったのだ。極楽に往生できれば、成仏の一歩手前(一生補処)のランクが約束されるから、往生できるかどうかがポイント。死ぬ→往生する→成仏する、という教義から、人間は死ねば仏になる、という観念が広まった。

こうして日本人の平均的な死生観がかたちづくられ、今日に至っている。それは、

人間は死ぬと、霊魂となり、しばらく周囲をさまよっている。

そのあと、三途の川を渡って、あの世に行き、仏(ないしはカミ)となる。

現世に執着や怨念が強い場合は、成仏できずに、幽霊となる。

行ないのよくなかった者は、罰として地獄に堕ち、閻魔大王や鬼たちに苛められる。

盆には死者たちが、家に戻ってくる。

祖先は戒名をつけ仏壇の位牌に祀り、その前で線香をあげる。

といったものだが、よく考えると神道でも仏教でもなく、しかも内容が矛盾している。

天皇を尊崇するナショナリズムへ

江戸時代、幕府はキリスト教を禁止し、日本人全員に仏教徒であることを強制した。具体的には、家ごとに宗旨を決めさせ、近くの寺に登録させたのである(檀家制度)。そして僧侶は実際上、葬式以外の活動ができなくなった。いっぽう幕府は、武士たちに朱子学を奨励した。

朱子学は、町人や農民の上層部にも広まった。仏教を強制し、朱子学を奨励した幕府は、矛盾した政策をとっていたのだが、そのことに気づかなかった。

というのも、朱子学はアンチ仏教である。輪廻や霊魂の存在を否定する。また、学問さえすれば誰でも統治階級になれるという考え方だから、江戸時代の士農工商の身分制度を否定する。

また、正統な政府(統治者)に忠を尽くすことに価値を置くから、将軍の代わりに天皇を真実の統治者と仰ぐ、尊皇思想を生み出すことになった。すなわち朱子学は、潜在的に、江戸時代の統治システムを破壊する可能性を秘めていた。このロジックは、山本七平『現人神の創作者たち』に詳しい。

朱子学は、「孔孟の道」(孔孟は孔子と孟子)にかえれという原理主義的な伊藤仁斎(じんさい)の仁斎学、荻生徂徠(おぎゅう・そらい)の徂来学をうみ、そこから、日本古来のテキストを原理主義的に読解する国学を派生させた。国学の中心人物である本居宣長は『古事記伝』を著し、『古事記』の描く無文字社会の日本を再構成して、その当時すでに政府が存在し、人びとは天皇に服従していたと主張した。この天皇に対する服従は、朱子学の教えによって培われたものではない。人びとの自然な心情によるものである。こうして、天皇を尊崇するナショナリズムに参入する可能性が、すべての日本人に開かれることになった。

国家神道への道を開いた平田神道

幕末から明治維新にかけて、日本人のカミに対する考え方を大きく変えたのは、平田篤胤(あつたね)の唱える平田神道である。

本居宣長の弟子を自称する平田篤胤は、神道を研究して、つぎのように唱えた。人間は死ぬと、仏になるわけでも黄泉に行くわけでもない。霊となる。とりわけ国事に殉じた人びとの霊は、穢れのない、英霊(すぐれた霊)となって、後続する世代の人びとを護っている。この革新的なアイデア(個々人には霊があって、死んだあとでも永遠にその個性を失わない)は、平田篤胤が禁書だった漢訳聖書を密かに読んで、キリスト教から学んだともいわれる。

誰もが霊になるなら、日本人全員が檀家制度によって仏教と結びつけられ、仏式の葬儀を行なうとしても、それと無関係に神道式の慰霊の儀式を行なうことができる。戦死者を祀ることができる。明治政府を樹立した官軍は、平田神道を採用し、戦死者の英霊を招魂して、儀式を行なった。明治2年には東京の九段に招魂社が設けられ、のちに靖国神社となる。陸海軍が所管する、明治維新の志士や戦没者など国事殉難者の英霊を祀る施設だ。国のために命を犠牲にした一般の人びとが、カミとなって祀られる神社である。欧米のメディアは靖国神社を「戦争神社 war shrine」と報道するが、正しくない。実際には、革命記念碑や無名戦士の墓に類似した施設である。

平田神道と靖国神社は、国家のために献身する近代的な国民を創出する効果があった。そのためには、神道と仏教が分離する必要があった。こうして幕末から維新にかけて起こったのが、廃仏毀釈、神仏分離の運動である。政府の指導で、神社と寺ははっきり分けられ、あいまいであることは許されなかった。明治維新とともに、政府が主宰する国家神道が生まれた。文部省は、「神道は日本人の日常生活に溶け込んでいるから、宗教でない」という見解をとり、国家神道を日本人全員に強制した。

死んだ人間がカミになる、という考えから、新しい神社が明治以降にいくつもつくられた。明治天皇を祀る明治神宮。陸軍の乃木希典(まれすけ)を祀る乃木神社。海軍の東郷平八郎を祀る東郷神社。各地の地元出身の戦没者を祀る護国神社。天皇の写真を「ご真影」として学校に配り、拝礼したり、皇居の方向に向かって遥拝したりするやり方も、創造された。天皇を「現人神」とする、皇民教育である。

戦後、占領軍によって国家神道は禁止

第二次大戦が終了すると、占領軍の指令で、国家神道は禁止された。靖国神社は民間の宗教法人として存続した。英霊や、人間が死ぬとカミになるという考えも、戦後の日本人のあいだにそのまま残っている。

おそらく日本人自身が、自分たちがカミについてどのように考えているのか、意識できず、第三者に対して説明もできないに違いない。自分たちが何を考え、何を信じているか自覚する。日本人のいまだに果たされない課題である。