暑き日を海にいれたり最上川
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno26.htm 【奥の細道
(鶴岡・酒田 6月10日~15日/18日~25日)】より
羽黒を立て、鶴が岡*の城下、長山氏重行と云物のふ*の家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田*の 湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす*。
あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ(あつみやまや ふくうらかけて ゆうすずみ)
暑き日を海にいれたり最上川(あつきひを うみにいれたり もがみがわ)
6月10日:午後5時ごろ呂丸(近藤左吉)を同道して、鶴岡の長山五良衛門(重行)宅に行き、粥を馳走される。仮眠して夜俳会。
6月11日:通り雨しばしば。俳会を開いたが芭蕉の体調あしく中途で止める。
6月12日:通り雨。昼過には晴。歌仙完成。
6月13日:川舟に乗って酒田へ。船中で雨。暮ごろ坂田着。
6月14日:酒田の豪商寺島彦助亭に招かれ俳会。
6月15日:象潟へ行く。
あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ
全体は、「暑さを吹いて涼む」構成になっている。吹浦は酒田海岸の地名、あつみ山は山形県西田川郡温海町にある温海岳(標高736m)のこと。雄大な景色の中で温海山が夕涼みをしているという擬人化。酒田の門人たちへの挨拶吟でもある。この句は象潟からの帰路に詠んだものであるので、紀行文としては順序が変更されている。
「あつみ山や・・」の句碑 2001年夏、友人田中正男さん撮影
暑き日を海にいれたり最上川
いままさに真っ赤な太陽が日本海に沈んで行く。この暑い日を海に納めた最上川は再び涼しさを招いてくれることだ。急流最上川が大量の水を海に入れて、その水量に流されて暑い太陽は沈んで行くのである。
なお、『継尾集』には、涼しさや海に入れたる最上川 とある。
酒田市南新町日和山公園の句碑(牛久市森田武さん撮影)
温海町海岸 同上田中正男さん撮影
鶴が岡:山形県鶴岡市。当時、14万石の酒井氏の城下町。
長山氏重行と云物のふ:<ながやまうじじゅうこうというもののふ>。「物のふ」は「武士」のこと。長山 五郎右衛門重行は、酒井家家臣で前出の図司左吉の縁者。それゆえ左吉はここまで芭蕉を見送ってきた。
酒田:山形県酒田市。河村瑞賢によって最上川河口が整備され港が作られてから、西廻り船が運航され港町として発展した。
淵庵不玉と云医師の許を宿とす:<えんあんふぎょくというくすしのもとをやどとす>。 伊東玄順。淵庵は医号、不玉が俳号。この折芭蕉の門に入った。Who`sWho参照。
全文翻訳
羽黒を発って、鶴岡の城下、長山重行という武士の家に迎えられて、俳諧一巻を興行する。図司左吉がここまで送ってくれた。
川舟に乗って、酒田の港に下る。酒田では、淵庵不玉という医者の家に泊めてもらった。
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ 暑き日を海にいれたり最上川
https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200217-460584.php 【【鶴岡~酒田】<暑き日を海にいれたり最上川> 鮮烈に残した夏の記憶】より
酒田港で小アジ釣りを楽しむ庄内町の夫婦。「唐揚げにするとおいしい」と言う
出羽三山の巡礼を無事果たした松尾芭蕉と河合曽良。ただ、山岳修行による肉体的疲労は、かなりのものだったようだ。特に芭蕉の消耗はひどく、体調不良は1週間近く続いた。
二人は、1689(元禄2)年6月10日(陽暦7月26日)まで羽黒山の南谷に滞在し、同日昼すぎ、庄内藩の城下町鶴岡(山形県鶴岡市。以下地名は山形県)へ出発した。羽黒山から鶴岡までは20キロほど。夕方には同地で藩士、長山五郎右衛門(重行)宅に到着した。すると芭蕉たちは早速、粥(かゆ)を所望し、食べ終わると「眠休」(仮眠か)したと、曽良の「日記」にある。
体調不良が続く
長山氏は、鶴岡俳壇を代表する俳人で、芭蕉の来訪を楽しみにしていただろう。芭蕉たちが仮眠から覚めると早速、羽黒山麓から同行した近藤呂丸(ろまる)を含む4人で歌仙を巻き始めた。
だが、同夜は一人1句ずつ詠み終了。翌11日、続行となるが、芭蕉が持病(胃腸病、痔(ぢ))で不快を訴え中断。終了は12日に持ち越された。三山巡礼の疲れが一気に出たようだ。
この歌仙で芭蕉が詠んだ発句(一番最初の句)が〈めづらしや山を出羽(いでは)の初(はつ)茄子(なすび)〉(「俳諧書留」)。7日間、羽黒に参籠(さんろう)して山を出て来た目に、この初茄子の色はまことに新鮮で珍しく映る―の意(今栄蔵校注「芭蕉句集」)。出羽と、出端(いでは)(出ぎわ)が掛けられている。
詠まれたナスは、鶴岡名産「民田(みんでん)なす」といわれる。小ぶりでまん丸な品種で、漬物が粥と一緒に出されたのか。ただ、胃弱の芭蕉が食べたのかは不明だ。
さて、長山邸に3泊した芭蕉たちは13日、川船で酒田(酒田市)へ旅立った。「日記」に「船ノ上七里也(約30キロ移動)」とある。
酒田は、最上川の河口にできた港町である。目の前は日本海。船での移動は納得だが、資料では、鶴岡の内川から赤川に入り酒田に至った―とあり、地図を見ると違和感を感じた。赤川は酒田のずっと南手前で海へ注いでいるのだ。すると「赤川の流れが今と昔とでは全く違うからです」と、酒田市立資料館の相原久生調査員(53)が解説してくれた。赤川は大正時代から河川改修が行われ、日本海へ注ぐようになったが、芭蕉の頃は最上川に合流していたという。
つまり「芭蕉の船は、赤川から最上川に入ると、その広い河口を北へ横切って酒田の港、日和山の南の船着き場で上陸した」と相原さん。そう聞くと、酒田への船旅のイメージが、一気にでかくなった。
庄内平野は広い。最上川の河口も、海に向かってがばっと喉を開けている。記者は、海が一望できる日和山公園で芭蕉の句碑などを見物した後、芭蕉上陸の地という船場町から港のあたりを散策した。すると、庄内町から来たという70代の夫婦が小アジ釣りに熱中していた。これが港町の開放感かと思った。
この開放感を芭蕉も船上で満喫できたのかは分からない。なにせ体調不良は続いていた。酒田上陸後、すぐ向かったのも俳人で町医者の淵庵不玉(伊東玄順。淵庵は医号、不玉は俳号)の家。季節は真夏、暑さもこたえたに違いない。
句が復活を証明
ただ、酒田で体調は着実に回復した。芭蕉たちは酒田入り3日目の6月15日、約40キロ北の象潟へと旅立っている。その前日14日には、寄宿した淵庵や、酒田の浦役人、寺島彦助(俳号・安種亭令道)らと歌仙を巻いており、港町の開放感と、旦那衆との交流が、俳聖の気力、体力をよみがえらせた気がする。
この句も、芭蕉「復活」の証拠だろう。〈涼しさや海に入(いれ)たる最上川〉(「俳諧書留」)。酒田入り2日目の句会で詠んだ、芭蕉の発句である。この句は、さらに推敲(すいこう)を経て〈暑き日を海にいれたり最上川〉として「おくのほそ道」に掲載された。夕日を沈め、一日の暑さも海に押しやって、最上川が流れていく、の意(佐藤勝明氏訳)。「暑き日」は素直に読めば「暑い一日」だが、読む者はどうしても夏の日本海に沈む「熱く大きな日=太陽」を眼裏(まなうら)に浮かべてしまう。「海に太陽を沈める大河」、この雄大な表現は、大自然と対峙(たいじ)した出羽三山での体験が影響している気がしてならない。
【鶴岡~酒田】<暑き日を海にいれたり最上川>
【 道標 】文化と食魅力「商人の町」
酒田の町の印象は、まず京都の文化が色濃いことです。繁華街と寺町が接していたりします。もう一つは「食」にあふれていること。広い農地と海に恵まれ、コメや野菜、海産物など何でもあります。
この、文化と食の豊かさ、多様性は、自然環境と古くからの人々の営みによって築かれ、酒田独特の風土を生みました。
京都など「異国」の文化は、北前船の寄港地として海からもたらされました。そして、この文化交流の歴史は「来る者は拒まず」という気風を生みました。今もクルーズ船が寄港し、外国人観光客、特に個人旅行者が急増しています。
食の豊かさ、つまり生産力の高さも、町の気風と関係しています。酒田では中世の頃から、廻船(かいせん)問屋などの商人たちが町政を取り仕切り、その自治組織は「酒田三十六人衆」と呼ばれました。
江戸時代には、酒田の本間家は「日本一の大地主」として知られ、庄内藩の財政を支えました。「本間様には叶(かな)わぬが、せめてなりたやお殿様」と俗謡にうたわれたほどです。
この経済力によって築かれた自治都市酒田の開放感が、現在も国内外から人々を呼び込んでいるのだと思います。武家の町、鶴岡との昔からのライバル意識も、良い意味で作用してるのではないでしょうか。(若葉旅館専務・矢野慶汰さん)(インタビューを基に構成)