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酒田三十六人衆の活躍

2018.03.26 04:54

http://www3.ic-net.or.jp/~shida-n/b_tokita/b_tokita_1_1.html 【2 酒田三十六人衆の活躍】より

(1) 徳尼公(とくにこう)と三十六人衆、その逃亡伝説

 建保五年(1217)4月15日、最上川河口左岸・向う酒田の泉流寺林の草庵で、87歳の尼さんが亡くなった。

 この方が酒田三十六人衆由緒書に出てくる平泉藤原秀衡の妹「徳尼公」である。しかし秀衡の妹ではなく、後妻の「泉の方」で実際は「ばばさま」と呼ぶ孫もいたらしい。文治五年(1189)、藤原泰衡が源義経の首を頼朝に差し出して平泉は没落、泰衡をはじめ一族が殺された。

 泰衡には万壽という一子がいた。泉の方は孫の万壽とともに、戦火に燃える平泉を逃れ、三十六騎の徳尼公と称された。一行は秋田の久保田からさらに南下をし、羽黒山東麓の立谷沢地内、妹沢に隠れ住んだ。

 どうして羽黒山の近くに来たものであろうかと素朴な疑問は残るが、出羽の庄内は藤原氏の勢力圏であったことと、そのころの羽黒山は、衆徒三千人を擁した修験道の山として、東北一帯にその名が鳴り響き、隠然たる勢力を保持していたので、その袖にすがって頼って来たものであろうと推察できる。  

 ところが源頼朝は、戦勝の報賽に家臣土肥実衡に命じて羽黒に黄金堂を建立させることになった。そこで頼朝の探索を恐れた徳尼公らは、さらに最上川河口の袖の浦に逃れてきた。子の万壽は10歳に満たないので、元服するまで「ばばさま」のもとで成長し、その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、「牧畑」を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住し た。その子孫が南北朝の天授三年(1377)瀬戸内海の因島に移り住み、「巻幡(まきはた)」姓を名乗っている。

 羽黒山黄金堂には徳尼公の木像が伝わり、羽黒山斎館には位牌が安置されている。

平泉の初代清衡は、白河から外ケ浜に至る道を開拓しており、二代基衡の子秀衡は、鎮守府将軍となった。基衡は次男秀栄を、十三浦の福島城主安倍氏季の養子にやった。秀栄は十三湊の築港、造船、異国船との交易に力を出した。頼朝が奥州を平定したとき、秀栄は老齢で自ら建立した檀林寺で仏門にあり、その子秀基が継いでいて事件に罪なしと、本領安堵された。

 平泉から津軽十三湖までの道は開いていたし、また受け入れる一族もいた。それなのに徳尼公と三十六騎が秋田から由利・飽海へと南下してきたのは、敵の裏をかく逃亡の道だったのであろうか。いずれにしても、信ずべき史料に乏しく、これらを偽説であると否定する学者も出てきた。徳尼公の家臣三十六人は酒田に土着、それぞれ廻船問屋を営み、そのかたわら町の年寄役として行政にたずさわり、日本海岸きっての湊町として栄えた酒田湊の基礎をつくった。

 平成16年(2004)3月、徳尼公像・天井絵・棟札を内臓する泉流寺の「徳尼公廟」が、酒田文化財に指定された。

(2) 源義経伝説

 源義経は、鎌倉幕府創立期に活躍した武将である。父は源義朝、母は九條院の雑仕(下級の女官)常盤である。

 幼名は牛若、通称九郎。「義経記」によると、義経の生まれた平治元年(1159)の暮れに平治の乱があり、この戦いで平氏と対立した父義朝は、翌年正月、敗走の途中殺された。牛若も母とともに捕われたが一命を助けられ、母の再婚した大蔵卿・藤原長成に養われた。 のち鞍馬山に送られたが、16歳のとき出家を嫌って陸奥の藤原秀衡を頼って奥州平泉におもむいた。

 治承四年(1180)兄頼朝の挙兵を知って、同年10月21日黄瀬川の陣で兄に対面、その後、壇の浦の合戦など、各地において平氏の軍勢を撃破し、はなばなしい戦功をたて、一躍名将としての名を馳せた。

 しかし兄頼朝にとって、壇の浦の戦いで安徳天皇と三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺曲玉瓊勾玉)のうちの剣を失ったことは、義経の大きな戦功とは裏腹に、大きな衝撃であった。さらに朝廷が頼朝に無断で義経に官位を与えたことや、頼朝の側近側梶原景時が義経の専断・独断を訴えたことなどがこれに拍車をかけ、ついに義経追討の命が下った。 源義経 やむなく義経は西海に逃れようとして船出したが暴風にあって難破し、その後、吉野・奈良・叡山・伊勢・美濃などを転々として隠れ歩いた。ついに、義経は奥州藤原氏を頼って越後から庄内へ向かった。

「念珠の関守きびしく、通るべきよしもなければ如何せんと仰せられ」とある。

 そのころ奥州に入る関所は、白河の関と出羽の念珠ケ関の二つであった。弁慶の機転により義経を身分の低い山伏に仕立てて二つの笈を持たせ、大きな若木の枝でしたたかに叩きながら、関守が呆気にとられている間に、無事木戸を通ったという。

 それから海岸の細道を通って三瀬の薬師堂に着き、出水のため2~3日滞在した。

田川の豪族・田川太郎の一子が悪病に悩まされていた折柄、熊野山伏一行が三瀬にいると聞き及び、一行に祈祷を頼みに来た。義経たちは止むを得ず出かけ、数珠押しもんで祈祷し、首尾よく悪病をなおしたという。

それより大梵寺・鶴岡を通り、北の方の産月間近なので羽黒山に弁慶を代参させ、清川の五所王子の前で一夜を明かし、最上川を遡った。

 なお、清川の斎藤家系譜(清川八郎の生家の系譜)に、次のことが書いてある。

 「義経潜行して清川に至るとき、斎藤治兵衛の家に迎えて数日歓待す。義経、弁慶をして羽黒山に代参せしむ(そのころの羽黒山表参道は、立谷沢村蜂子よりとした)。去るに臨んで佩る所の刀を解て寄贈す。刀はすなわち鬼王丸の作なり。今なお保存して家宝とすると。」

    最上川岩こす浪に月さへて よるをもろしき白糸の滝    義経

    最上川瀬々の岩なみ早ければ よらでぞ通る白糸の滝  北の方

 以上の歌が遺っているところを見ると、日中の人目を避け、夜に最上川を遡行したものと思う。文治三年(1187)、義経一行は最上川を遡行して奥州平泉にたどり着いたが、頼りにしていた秀衡が死ぬと、翌四年2月、義経追討の宣旨(天皇の命令を伝える文書)が下り、京都・鎌倉からの藤原氏追求がきびしくなった。

 同五年閏4月30日、義経は藤原秀衡の子・泰衡のために、妻子とともに衣川館で殺され31歳の生涯を終えた。鞍馬山から奥州平泉の秀衡を頼っていったのは、行商人金売吉次のすすめと、その案内によるところが大きかったという

(3) 酒田三十六人衆の活躍

 酒田商人の中心として

 酒田は廻船問屋を中心とした商業交易都市として、江戸時代に飛躍的な発展をみせた湊町である。その背景に、三十六人衆による政治的・経済的・文化的諸活動があったことについては、これまでしばしば解説されてきたことである。

 ここでは、今に残るありし日の三十六人衆の活躍をしのんで、その精神文化的なものを含めた具体的事象についてたずねてみることにしよう。まずその一つに、戦国時代は大永年間(1521~1528)ころ、向う酒田といわれた袖の浦地区から当酒田へ移転を開始して、砂質の荒蕪地を開拓整備しながら本町を中心とした市街地づくりにはげみ、そこに居を構えた三十六人衆屋敷街の誕生をあげることができる。そこには現在国の指定文化財になっている旧鐙屋家をはじめとして、本間家・加賀屋(二木家)・西野家・後藤家・根上家・上林家などの廻船問屋や豪商たちが軒を連ねていた。  二つ目は、今に伝わる旧町名の一部に、三十六人衆の氏名に由来するものがあったことである。その一つが、本町六丁目と七丁目の間にあった粕谷小路(粕谷源次郎の屋敷があった)であり、いま一つは、本町四丁目の横丁にあった和泉小路(上林和泉の屋敷があった)である。

 三つ目は、酒田町組の公用記録簿「三十六人御用帳」が現存していることである。この御用帳は、町年寄であった二木家から本間家に受け継がれて保存されてきたものであり、長期にわたる膨大な酒田の近世記録はたいへん貴重であり、注目を集めている。この御用帳によって、酒田町政と庄内藩との関わりや、三十六人衆そのものの役割を知ることができる。そのほか、三十六人衆の一員であった永田家・二木家・鐙屋家・上林家・尾関家・本間家などの古記録類が残されており、それらは酒田三十六人衆の活躍を書き留めている。

 四つ目は、三十六人衆を中心とした廻船問屋連中が、干石船や川舟を駆使して日本海や最上川を縦横に往来も、北陸・関西・関東方面や、内陸との物資交易を行った記録が残っていることである。

近世における酒田湊は、出船・入船の拠点として、まさに帆穏械立(帆柱が多く、林のように見えること)時代を迎えたのであった。

 ちなみに、河村瑞賢によって西廻り航路が開発されたころの元和三年(1683)には、毎月三百隻以上の出船入船があった。また、元禄十年(1697)の記録によると、酒田の川船有高は、合計三百六十艇であった。

酒田から積み出さわる移出品の主なものは、米、大豆、紅花、青苧などであり、移入品には播磨の塩、京都・大阪・堺・伊勢の木綿、出雲の鉄、美濃の茶、南部・津軽・秋田の木材などがあった。

 また集荷場近くには、物資保管のための倉庫群が建てられた。代表的なものとしては、現前田製管本社付近に材木蔵、酒田商業高校グラウンド付近に庄内藩上蔵、実橋付近に山形蔵、日和山東南下に庄内藩下蔵、日和山西方に江戸幕府御用米置場(城米置場)、すなわち瑞賢庫などがあった。なお、これらの蔵々に何らかの関わりをもったであろうと推測される酒田の総問屋数は 安永二年(1773)において97軒であった

(4) 豊臣秀吉時代からの廻船事業     

(5) 豪商の面々 粕谷家、永田家、加賀屋、上林家、本間家、鐙屋家

粕谷家

 平泉藤原氏の従臣で、地侍的存在であった粕谷家は、酒田三十六人衆のなかでもきわめて古い方であるo 記録によると、豊臣秀吉が最上義光をして庄内を仕置させていたころ、義光の御用商人をつとめていた粕谷源次郎は、酒田湊の警備を命じられている。

 また、天正十五年(1587)、粕谷は義光の命により、酒田湊収納米の受払いを担当している。そして自分の持船四般と、他家の船六寂艘を加えた、つごう十艘の船団を組んで上方に帆走し、物資の売払いをしている。秀吉による小田原征伐の際に、粕谷は五奉行から東国における船舶動静の監視役を命じられている。

 その任務終了後、粕谷は飛島産あわびの塩辛や鷹の羽根を土産に上坂伺候し、五奉行からふたたび廻船守護の命を受けている。慶長六年(1601)、庄内における最上、上杉攻防戦では、粕谷源次郎が年寄役の上林・永田らとともに吹浦に出陣し、仙北由利軍と戦って戦死している。粕谷家にみられる東国船団の監視や酒田湊警備の任務、さらには年貢収納米の受払い業務などは、三十八人衆の始祖が、単なる問屋業を営むだけにとどまらず、武力を保持する地侍的性格を合わせもつものであったことを裏付けるものである。

それとともに、郷村支配に懸命であった戦国大名と豪族との提携が、酒田においても存在していたことを示している。

永田家

 粕谷家と同じく、永田家は三十六人衆のなかでも古参の方であった。永田家の出自については明らかでないが、向う酒田時代、すなわち永田茂右衛門の代に、上林七郎左衛門や村井理兵衛とともに、年寄役をつとめていたといわれている。

 永田家は、粕谷家と同様最上家の命により、年貢取立て役を請負っていた。「最上家古筆巻物」には、永田家あての亀ケ崎城主志村伊豆守光安からの書状や、酒井家入部元和八年(1622)の際に立ち会った、亀ケ崎城兵具類引継ぎ書類が含まれている。

 酒井家入部以前に全盛をきわめていた永田家は、元和五年(1619)に町年寄を一時退役している。そしてこの後に加賀屋・鐙屋が台頭してくるのであり、本間家もこれに続く。なお、本町西突きあたりの現市営駐車場付近に、永田家の屋敷があった。

加賀屋

 さて次は、NHKテレビ「おしん」で一躍有名になった加賀屋についてである。

 加賀屋は屋号であり、その苗字を二木と称した。その名のとおり、加賀国二木庄から来たといわれている。しかし、いつごろ酒田に来たかについては不明である。戦国時代から廻船問屋を営んでおり、三十六人衆の上林・鐙屋とともに、はやくから町年寄をつとめていた。

 加賀屋は諸藩の蔵宿として、遠くは南部・加賀・松前藩、近くは庄内・松山・新庄・山形・上ノ山藩の御用をつとめていた。三十六人衆のなかの廻船問屋では、屈指の方であった。寛文年間(1661~1673)、幕府の命により西廻り航路開拓のため河村瑞賢一行が酒田にやってきたが、その時の投宿先が加賀屋・二木九左衛門宅(伊東家文書)であった。

 瑞賢による西廻り航路の改良と、それに連動した最上川舟運の隆盛は、湊町酒田を一層活性化させ、全国に酒田の名が知られるようになっていくのである。廻船問屋加賀屋の屋敷は、現酒田市役所のところにあった。

上林家

 次に上林家は、村井・永田家とともに、向う酒田時代からの町年寄であり、明治初年までこの役をつとめていた。上林家は本町四丁目の現産業会館のところに、広大な屋敷を構えていた。酒田町組の高札は、この付近に立てられたといわれている。タブの大木が一本高くそびえており、当時をしのばせてくれる。

 ところで三十六人衆全体に関わることについて述べてみると、三十六人衆全員がつねに酒田町政に参加していたのではなく、まずそのなかの重立三人が町年寄として町政のリーダー役をはたしていたのであり、これにつづく月行事三人ずつが、交替しながら十二カ月を乗り切っていた。酒井家入部後の三十六人衆には、城米の輸送や参勤交代、巡見使などの公儀役人通行の際の本陣・脇本陣、人足・伝馬・御用船の割出しなどの任務があった。

 近代になって鉄道輸送が行き渡ってから、これまで活気をみせていた三十六人衆を中心とする廻船問屋は、急速に翳りを見せはじめた。

本間家

 酒田の大商人本間家は始祖を村上天皇とし、弾正大弼顕定の代に、奈川県愛甲郡本間村に住し、本間姓を名乗った。後、越後の佐渡を経て、室町時代中期ころ季綱の代に、出羽国大泉庄下川村に移り住み、武藤家の幕下に入った。光重の代になって酒田の廻船問屋と合流し、永禄年中(1558~1570)酒田本間家の祖になった。この頃、平泉からの落武者粕谷・上林。永田家が、廻船問屋を営んでいた。

 天正・文禄のころ(1573~1596)忠光の代に酒田本町二丁目に移り住み、油屋・豆腐屋を営んでいたともいわれる。元和二年(1616)綱光の代からの過去帳が、菩提寺浄福寺(浄土真宗)に保存されている。

 元禄初期(1688~)原光(久四郎)の代に、本町一丁目の現在地に分家として「新潟屋」の暖簾をかまえた。

この原光を、本町一丁目本間家の初代としている。原光は宝永四年(1707)、父・九左衛門に代わって酒田町長人、酒田商人の中堅になった。

 なお九左衛門のとき、三十六人衆入りをしている。原光は、大阪商人の小山屋吉兵衛、京都の小刀屋太兵衛等がいた。扱い物に米・古手・古着・染物・金物などがあった。商いの余剰金で田地を購入した。原光の代に上余目組・西野村の田地20町歩を買入れて、初めて地主になった。

二代目光壽の代に、子の光丘(四郎三郎)を播州姫路の奈良屋権兵衛へ見習い奉公に出し、修行をさせた。三代目光丘は勤倹力行、経営手腕を発揮し、非凡な才能で多くの人々 や困窮している藩を救った。光丘の業績には砂防林の造成、飢謀に備えての二万俵勝探、庄内藩の財政建て直しや他藩への支援、貧民救済などがある。また海船5~6隻を駆使して、全国各地と交易を盛んに行った。物流交易についての光丘の考え方の基本には、「有るところの物は無いところへ、無いところへは有るところから」がある。

 

 やがて本間家は、一千町歩を越す大地主に成長した。文化三年(1806)の全国長者番付表「大日本長者鑑」に、出羽の本間家はべスト16位にランクされている。ちなみに東の大関(東の首位)は三井八郎右衛門であり、西の大関は鴻池善右衛門であった。

本間光丘

光丘(四郎三郎)

鐙屋(あぶみや)

 鐙屋は酒田三十六人衆の一員であり、代々町年寄としての重責を勤めてきた。古絵図によると、旧鐙屋邸は本町通りから松原道を挟んで大エ町まで達しており、『 日本永代蔵』 に、表口30間(50メートル)、裏行65間(120メートル)とある記述も、あながち誇張でないことがわかる。旧鐙屋邸は当酒田への移転以来、本町通りで同一の場所に位置する唯一の廻船問屋遺構である。酒田町年寄として鐙屋家が古文書に出てくるのは、元和五年(1619)からである。このころ村井・永田らが、一時町年寄を退役し、これと交替するかたちで加賀屋・鐙屋が登場してくる。  安倍親任が著した『 筆濃餘理』 には、

 「安倍惟孝云、酒田の鐙屋惣左衛門三十六人は、文書を多く持ち伝える。おおかた、産物・交易の書通にて、志村時代(志村伊豆守光安)慶長の頃のものにてこれ有り、と云えり。この古文書を、その後焼失して、今更考証を失するを恨む」とあり、酒田の鐙屋が、佐渡の川村文書を多く持ち伝えていたことや、産物交易業、すなわち廻船問屋を営んでいたことを伝えている。元和二年(1616)12月15日から、同5年4月3日までの間に町年寄の永田家が退転し、村井家もこのころには姿を消した。そして両家に代わって、鐙屋・加賀屋が新たに町年寄として登場してくる。

 元和八年(1622)9月、酒井忠勝が信州松代10万石から庄内13万8千石に移封され、鶴岡に居城を構えた。当初は亀ケ崎城を居城にしようとしたが、酒田は三十六人衆の治める自治都市的要素が強かったことから、鶴岡を選んだともいわれる。亀ケ崎城には忠勝の伯父に当たる松平甚三郎久恒を城代としておいた。

 寛永十五年(1638)ころの二木家文書には、加賀屋・鐙屋・上林の名が町年寄として随所に現れる。町年寄三人は重立といわれ、年番であり、苗字・帯刀が免されていた。また年頭の挨拶として、藩主にお目見えすることができた。町年寄の任務の主なものは、① 人馬の差配、②町方御用銭の割元、③御城米船の出船小奉行、④御城米の最上川下し、⑤鶴岡への遠奉行、⑥ 土居薙(堀の俊喋や草刈り)、⑦高札の警固、⑧ 夜廻り火消し、⑨ 参勤交代時に、仮替船二艘を清川まで仕立てることと、その警固、⑩巡見使や他国の大名が酒田を通過する際、本陣・脇本陣を勤める、⑩町の治安維持、などがあった。また古くから、亀ケ崎城内武器の封印には、町年寄も立合っていた。このことは、非常時における酒田町の警衛、あるいは戦時の際の出兵を意味するものであったと考えられる。鐙屋が米問屋・蔵宿としての地歩を強力に固めていったことを示す一例として、宝暦六年(1756)前後ころにおける広範な蔵宿業務をあげることができる。鐙屋家が受持った代表的な蔵宿としては、① 山形藩松平和が守蔵宿、②新庄藩戸沢上総か蔵宿、③上ノ山藩松平山城守蔵宿、④ 米沢藩上杉大妙頭蔵宿、⑤東根松平大和守蔵宿、⑥吉原堀田相模守蔵宿などがある。

 鐙屋家の出自については三つの説がある。一つは鶴岡の大宝寺城大手橋渡り初めの際、十人の子福者であった鶴岡の年寄弥兵衛夫婦に、最上義光から「轡屋」という屋号を贈られたが、七番目の子供に「鐙屋」の屋号が与えられ、それが酒田に分家したとする説。