東アジアの海洋文明と海人の世界 ―宗像・沖ノ島遺産の基盤― ③
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_43_file.pdf 【東アジアの海洋文明と海人の世界 ―宗像・沖ノ島遺産の基盤―】 より
先述した『魏志倭人伝』にある文身について、宗像一族との関係について注目すべき意見がある。つまり、「宗像」はもともと記・紀のなかで「胸形」、「胸肩」、「胸方」などと記述されており、その意味をめぐってさまざまな議論がある。注目すべきは金関丈夫氏による仮説であり、胸の形は宗像氏が海人の流れを強く継承する証左であり、胸形を文身と考えるのである(金関1979;大林 1991)。この仮説の妥当性は今後の考察に待つほかはないが、『魏志倭人伝』の記載と関連して、倭の海人を宗像氏に同定するうえで極めて重要な意味をもつと考えたい。
古代以降は、とくにアワビが貢納品として重要な意味をもっていた。平安時代の10世紀初めに編纂された『延喜式』の主計寮式(巻24)によって、調(現物納)・庸(成人が労役の代わりに納入)・中男作物(17~20歳までの男子への課税)としてアワビを納めた国は壱岐島を含めて20地域に達する15)(田辺 1993)。最近、九州大学構内から発掘された大宝元(701)年の日付のある木簡には「白 □□□[]鮑廿四連代税」とある。
加工したアワビ24連(材料の鮑は264個)の代として米が貢租された。鮑よりも米が要求されていたわけだ(服部 2011)16)。
5.航海と島
⑴ 航海術と交易
海洋を越えて船で移動する航海は、大きく沿岸航海と遠洋航海に分けることができる。前者では、陸地を目視しながら航海を続ける場合で、陸地の目標物が航海の指針となる。これにたいして、陸上の目標物が視界からなく、大海を航海する場合が遠洋航海である。
すでに縄文時代から、沿岸域を移動する航海だけでなく島影を見ることなく航海する技術が発達していたことは、奄美・沖縄方面と九州とのあいだで交易がおこなわれていたことからも容易に想像できる。
さらに縄文時代をさかのぼった旧石器時代からすでに海を越えた交流があった。このことを明らかにしてくれたのが黒曜石である。たとえば、島根県の隠岐諸島と約60㎞離れた出雲地方との間や朝鮮半島、ウラジオストック、沿海州との間でも黒曜石の移動が旧石器時代からあったことが分かっている(第7図)。ただし、隠岐と出雲の航海については、標高の高い大山(1729m)を望むことができることがあり、沿岸航海の部類に入れて考えることもできるだろう。隠岐からウラジオストックへの航海に、竹島や鬱陵島を経由するルートも想定されているがこちらはまだ確証がない。
太平洋側でも、伊豆諸島のひとつである神津島と30km 以上北に離れた伊豆半島とのあいだで縄文時代以前から黒曜石の交易がおこなわれていたことが分かっている。神津島産の黒曜石は、後期旧石器時代にあたる35,000年前の東京都・武蔵野台地の野川遺跡から出土しており、海を越えた交易は縄文時代をさかのぼることが明らかとなった。このように日本では、国内はもとより周辺地域を含めて、旧石器時代人、縄文人が世界に先駆けて「海上交通」をおこなっていたのである(鶴丸ほか 1973;小田 1981)。
沿岸航法では、ふつう山タテとか山アテと呼ばれる位置確認の技術が広く知られている。もちろん、沿岸航法といえども気象や潮流の変化は航海をするうえで決定的な意味をもっていた。このため、悪天候や強風、波浪、台風などのさいには避難する港や風待ちの港が各地にあった。江戸時代、北前船による西廻り航路では、各地に風待ち港、避難港があった。さらに、全国第6図 カロリン諸島ウルシー環礁モグモグ島の女性における入墨。イルカないし魚や鋸歯文が彫られている。
ひ よりにはそうした港では日和、つまり天候を観察するための小高い丘や山があり、日和山と呼ばれた。さらに、そうした山には十二支に東西南北の方位を記した「方角石」が敷設されているところがある(南波 1988)。
遠洋航海術としては、陸上の目標物のかわりに近代的な六分儀や羅針盤を用いた天文航法や、現代におけるような衛星を用いる GPS 航法とは異なり、古代から海流や風などの海洋現象、太陽、月、星座などの天体現象、さらには海上における魚や鳥などの生物現象を巧みに組み合わせた航海がおこなわれてきた。とくに、このことが太平洋におけるオーストロネシア(南島)語族の人びとの航海術の研究から知られるようになった。オーストロネシアン(Austronesian)がポリネシアのタヒチからハワイ諸島や太平洋東端のイースター島に到達したのは紀元4~5世紀とされている。
かれらは大型の帆走カヌーで数百キロ以上の島嶼間を越えたことは明らかであり、その航海術がどのようなものであったかを知る術はない。しかし、18世紀後半の1773年、太平洋探検をおこなっていた J・クックらに同行した画家のホッジス(W. Hodges)は、ポリネシアのタヒチ島に大型のダブル・カヌー(双胴船)が集結し、戦争に出陣する準備をしていた様子を描いている。
当時、タヒチを含むソサエティ諸島ではタヒチ、モレーア、フアヒネ、ボラボラなどの島じまのあいだで権力闘争が繰り返されていた。
さらに1977年にはハワイのビショップ博物館の篠遠喜彦氏により、フアヒネ島で建設中のバリハイホテル敷地にある池から双胴船の舷側板やかじ、あかくみ、かいなどが発掘された。これらの遺物は11世紀当時のものと推定され、当時、大型の双胴船が航海に利用されていたことが実証された。
ポリネシアの人びとがハワイやイースター島に遠洋航海を通じて紀元4~5世紀に到達したのと同時期に玄界灘では朝鮮半島と九州を結ぶ海域でさかんに航海がおこなわれていたわけであり、その同時代性に注目すべきと考えている。
⑵ 伝統的航海術とみえない島
陸地がみえない外洋を航海するさいに、どのようにして洋上における位置を確認することができるのかについて興味ある民族誌的な事例がミクロネシアにある。
それが見えない島を船の左右に想定し、船が進むにつれて見えない島の方位が動いていくとする知識である。ミクロネシアではこうした見えない島をエタック島と称する(第2図参照)。ある島を出発するさいに、見えないがある方位に位置する島が船の進行とともに移動することを利用したものである。出発した島が見えなくなるさいの島からの距離は低い島の場合、約10マイル(16km)であり(Lewis 1975)、その間にかかった時間をもとにその後の航海にかかる時間と距離を推定する推測航法(dead-reckoning)が用いられた(秋 2004)。
この知識の応用編がいくつも知られている。その1例がプープナパナプ(pwuupwunapanap)である。この知識では実在する島とともに、架空の存在とおもわれる島が想定されている。それがカフルール島(Kafuruur)である。この島は実在することのない架空の島で、カミが住むとされている。(Riesenberg 1975,Gunn1980)。
第8図はカフルール島を含む航海術の知識である。
図には5つの正方形をしたプープ(モンガラカワハギの仲間とともに南十字座を意味する)が重なり合っている。このなかには、カロリン諸島に実在する島(グアム島、マグル環礁、ガフェルト島、ファイス島、ウエストファーユ島、ファララップ環礁、プルワト環礁、ウォレアイ環礁、プルスク環礁、ヨールピック環礁)と架空の存在が6つ含まれている。航海者はカヌーを第7図 隠岐諸島における黒曜石。実験考古学で、鏃を製作する準備段階のもの。
進めるさいに自船の前後左右にどのような島が位置するかを想起する。一番上の四角形のどこかにいれば、目にはみえないがガフェルト島、グアム島、トカゲの棲む島、カフルール島で囲まれた海域内にいることで、いわば閉じられた空間内で安心して航海を進めることができる。実在する、しないにかかわらず、遠洋航海では島に囲まれたなかを進むことの重要性を示したものであるといえるだろう(秋道 2004)。
それでは、沖ノ島をふくむ玄海灘から東には響灘を経て日本海へ、他方、西へは壱岐、対馬を経て朝鮮半島、黄海、東シナ海にいたる海域をどのようにして古代の航海者は越えたのか。
ここでミクロネシアの航海術の知識を援用して過去の航海の在り方を推測してみたい。第1に、亀井輝一郎氏が沖ノ島を絶海の孤島と捉える見方に疑義を提示されている。つまり、沖ノ島の一ノ岳(243m)からは天気の良い日は、宗像、壱岐、対馬を一望にできること、本土側の宗像の蔦ケ嶽(369m)から沖ノ島を望むことができることを踏まえ、沖ノ島を非日常的な場としてではなく日常性をもった神の島とみなすべきとの主張をされている(亀井 2011)。この考えには同感であるが、いずれも島から別の島がどう見えるかの枠組みで語られている。
しかし、実際の航海では場所にもよるが目的とする島が見えないことが多々ある。この点で蓋然的に重要であると思われるのは、オセアニアにおけるような遠洋航海ではないとしても、航路上で参照すべき島が想定されていたのではないかという点である。
第1は、宗像から沖ノ島(およびその周辺)経由で釜山に向かう場合、壱岐と対馬がたとえ見えなくともその位置を推定して進路を進めることができる(第9図a)。
第2は、宗像から壱岐を目指し、そこから対馬に向かう。この場合、沖ノ島が参照すべき島となる(第9図 b)。
いずれの場合も、目視できる場合は問題ないが、目的とする寄港地に向けての進路だけでなく、参照すべき島の方位がすこしずつ動くことを踏まえた推測航法が用いられた可能性があることを指摘しておきたい。
なお、ミクロネシアでは航海のさいに不慮の嵐に遭遇することがある。そうしたさい、嵐を静める呪文が唱えられる。そのさいに、嵐をもたらす元を鎮めるため、やり先に鋭いエイの尾棘を取り付けた呪具を天に向かって突き刺すしぐさをする習慣があった。嵐を鎮めるために先端の鋭い道具が用いられた点は注目しておいてよい。沖ノ島における航海安全の祭祀も何らかの嵐鎮めの祈りがなされたのではないだろうか。
第9図 対馬海峡域における航海と指針となる島じまの関係
第8図 カロリン諸島におけるプープナパナプ(Pwuupwunapanap)の知識。1から6は、架空または実在が不確定な現象。(秋道原図)
6.東アジアにおける捕鯨の伝統
⑴ 先史時代の捕鯨と壱岐ウルサン
韓国南東部の慶尚南道蔚山郡大谷里の新石器時代遺 バン グ デ跡である盤亀台遺跡は、岩面に多くの陰刻画(ペトログリフ)を残すことで知られる(朴 1995)。ここには新石器時代の狩猟・漁撈場面が鮮やかに刻まれている。
大型のクジラの捕鯨や陸上獣の狩猟を示す図像のなかに、クジラが船上から綱のようなもので結ばれている場面や、クジラの体内に銛が打ち込まれている場面がある。これらは明らかに捕鯨で銛が使われたことを示すものであり、船上には8~10人もの人間が載っていることが分かる。新石器時代、すでに集団的な狩猟的要素の強い捕鯨が営まれていたことは注目しておいてよい(第10図上部)。
のち、鎌倉時代の弁天島遺跡(北海道根室市)から出土した長さ10㎝くらいの鳥骨製容器にも、船上からクジラにむけて銛を打つ人と6人ほどの漕ぎ手が彫られている。クジラには2本の銛が突き刺さっている。以上のように、東アジア海域では銛による捕鯨漁は先史時代から連綿と営まれてきたことを知ることができる。
古墳時代をさかのぼる弥生時代、中国の史書である『三国志』の『魏志倭人伝』には、邪馬台国の支配下に「一大國」(『隋書』などでは「一支国」)が存在することが記載されている。この一支国が壱岐島にあったことは疑いえない。
壱岐島には弥生時代の大規模な遺跡がある。それが原ノ辻遺跡(弥生時代前期後半から終末期)で、島では最大規模をもつ。遺跡自体は内陸部の丘陵部にある。遺跡周辺の平坦地一帯は沖積平野が広がっており、壱岐ではもっとも重要な水田地帯であり、ここが食料生産の中心地であったことをうかがいしることができる。
実際、遺跡からは炭化籾や炭化小麦が出土している。ただし、『魏志倭人伝』にもあるとおり、「三千ばかり ややの家があること」、「差田地があって田を耕すが」、「食が足らないので南北に市糴する」とあり、当時、対馬にくらべて農耕地には恵まれていたが、水田は600haあまりにすぎなかった。低湿地では水田稲作が、台地上では畑作がおこなわれていた(横山 1990)。
原ノ辻の考古遺物として多くの利器や道具とともに、甕棺、石棺などの墓が出土する。道具類や装飾品としては、石斧、凹石、砥石、鯨骨製の鏃やアワビおこし、黒曜石製の石鏃、石剣、中国の貨泉(中国の新時代に王莽が発行した貨幣)や銅鏡、有鉤銅釧(鉤のある銅製の腕輪)、中国系の土器、戦国時代の銅剣、勾玉、トンボ玉、ガラス玉、水晶玉、碧玉製の管玉などが出土する。
動物遺存体として原ノ辻遺跡からは、クジラ、イルカ、シャチなどの鯨類、アシカのような海獣類、マグロ、イシダイなどの魚類、アワビ、サザエ、バイガイ、マガキなどの貝類が出土した。これと関連して、鉄製の釣り針や鯨骨製の銛が出ている。陸上動物としては、イヌ、イノシシ、シカ、ウシ、ウマ、ニワトリなどが発掘されている。内陸部にありながら、動物遺存体の構成からみても海とのかかわりがたいへん強い遺跡といえる。 はたほこ遺跡の北側にはほぼ西から東に流れる幡鉾川(流長約9㎞)があり、そこから東アジアでも最古とされる船着場の遺構が平成8(1996)年の発掘で見つかった。
この遺構は弥生時代中期のものであり、石積みの2本の突堤と荷揚げ場、コの字型の船ドックからなっている。突堤は両方とも長さ約12m、幅は東の突堤で上部が5.2m、下部が10.7m、高さが2m であり、西の突堤の幅は上部で4.5m、下部で8.7m、高さは1.5m である。幡鉾川は遺跡の東部1㎞で内海湾に通じており、おそらく海を越えて大陸からもたらされた交易品がここで荷揚げされ、あるいは一支國から海外へと荷が積みだされたと推定されている。原ノ辻遺跡の規模や交易品の存在からしてこの場所が一支国の中心的な集落であるとされるようになったのは1993年のことである。
注目すべきは、以上のような壱岐と九州、中国ないし朝鮮との密接な交易ネットワークの存在とともに、卜骨がおこなわれたとおもわれるシカとイノシシの骨9点が出土することである。おそらく、豊作や豊漁の祈願、島を出て交易をおこなう時期などを占う儀礼がおこなわれたものと考えられる。