東アジアの海洋文明と海人の世界 ―宗像・沖ノ島遺産の基盤― ②
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_43_file.pdf 【東アジアの海洋文明と海人の世界 ―宗像・沖ノ島遺産の基盤―】 より
上記の2つの説とともに注意すべきは、ビロウと人間とのかかわりである。鹿児島以南のトカラ列島、奄美・沖縄では、ビロウは文化的に特別な意義をもっている。すなわち、鹿児島以南ではビロウと聖地との関係を示す事例が多くみられる。たとえば、トカラ列島宝島の大間には海岸近くに八幡神社があり、そこにビロウの群生林がある。ビロウはここだけしかなく、聖地とビロウの関係を暗示させるが詳細は不明である。
おなじくトカラ列島中ノ島にも島の祭神を祀る地主大明神が鎮座し、ここにビロウが生育している。おなじく悪石島では島内各地に聖地がある。島の南東端にある女神山では、神女たちが集まり、漁に出る海人の安全祈願をした場所とされている。
沖縄でクバと呼ばれるビロウはクバ笠、団扇、水入れ、船の帆などの日常用品として用いられただけでなく、祭祀とたいへん密接な関係があった。沖縄では、う たき御嶽におけるクバは神が降臨する聖なる樹木とされた。
第3図 青島神社のビロウ群落
秋道 智彌
儀礼のなかでマユンガナシと称される来訪神はクバ製 こし もの笠をかぶって登場する。神使いの女性は扇、腰裳、敷物などをクバから作った。琉球王朝時代、最高位の きこ え おおきみ セイファ神使いである聞得大君は斎場御嶽で即位式をおこなうさい、クバで葺いた仮小屋が準備された(飯島 1985)。
トカラ列島の場合でも、聖地にクバが植栽されたのか、あるいはクバ(トカラではコバ)の叢生する場所に聖地が選ばれたのかは明確に区別できないものの、沖縄やトカラ列島ではクバの群生地が聖地になった可能性がたかい。クバだけでなく、アジア各地にみられる巨木・老樹信仰は、樹木自体の存在を所与のものとした自然信仰と考えられるからだ(李 2011)。
沖ノ島以外の周辺地域におけるビロウの生育分布状がそれほどしられていないが、以上の考察からここで提起したいのは第3の祭祀移植説である。つまり、クバを人間が祭祀目的のために沖ノ島に運んだと考える立場である。
沖ノ島をふくむ玄界灘ではこれまで数知れぬほど多くのものが漂着しており、漂流と漂着はこの地域の自然と文化を考える重要な指標であることはまちがいない(石井 1993)。玄界灘に漂着したビロウの種子が、沖ノ島に移植された可能性も完全に否定できない。いずれにせよ、国家祭祀としての儀礼のなかでクバが利用されたという史的な証拠はみられないが、国家祭祀となる以前の段階、つまり紀元4世紀以前にクバが用いられた可能性を示唆しておきたい。
3.海の神饌とアカモク
現在、世界では海洋資源の持続的な利用と生物多様性の保全が最も重要な課題とされている。2010年、名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締結国会議(COP10)には世界中から193ケ国が参加し、愛知ターゲットが決議された10)。こうしたなかで、海洋環境の
保全にとって海洋保護区の設定とその遵守が具体的な方策として注目されてきた。
海洋保護区は英語で Marine Protected Areas、略して MPAs と称される。これにはいくつかの異なった範疇のものが含まれる。国によって準拠となる法律も異なり、世界共通の定義がない。日本の場合、さまざまな法律に依拠して海中公園区、海中特別地区、保護水面、禁漁区域などの保護区が全国に数百ヶ所設定されている(八木 2009)。
もちろん現代的な課題として海洋保護区の制度を推進することは重要である。しかし本稿で注目しておきたいのは、古代からの海の聖地や天皇家による禁漁区などの文化的な意味合いの強い保護区の問題である。日本では古代・中世に天皇家が一定の領域に標を張ってその中での狩猟や薬草の採集をおこなう領域が 決められていた。こうした領域は一般に禁野と呼ばれ、一般の狩猟・採集活動は禁じられていた。また、皇室 はし かど のに献上するアユを獲る埴川(京都の高野川)、葛野川(京都の桂川)で一般人が漁撈をおこなうことは禁止されていた。持統天皇時代の689(持統3)年には摂津国で は武庫海1,000歩内で漁撈をおこなうことが禁止されていた。禁野・禁河・禁海では天皇に貢進するための資源を獲得する目的があり、一般人の出入りを禁止することで資源の保護を果たす役割を持っていた11)。
天皇家だけでなく、伊勢神宮、賀茂社、出雲大社、宇佐八幡社など有力な神社も供物や貢納品を調達する ため全国に供祭所をもち、特権的な活動をおこなっていた。宗像社の場合、中世期以降、小呂島の領有をめぐって紛争があったことはふれた。また、宗像社の祭祀や祭礼の中味については、考古学的な資料と宗像大社所蔵文書の歴史的な研究はあるが、神饌や御贄の具体的な内容やその変化についての論考はない。平安時代の『延喜式』に記載された神饌や貢納品についてはこれまで渋澤敬三氏による詳細な分析があり、網野善彦氏も神饌における海産物の重要性を指摘している(渋澤 1959、網野 1985)。
ただ、現代の宗像社における神饌について、筑紫女学園大学の森弘子氏は江戸時代から続く「宗像祭」が辺津宮でおこなわれていることに注目し、神饌としてゲバサモ(あるいはギバサ)と呼ばれる海藻(アカモク:Sargassum horneri)(第4図)やタイ、コンブなどが海産物として用いられることを指摘している(森 2011)。
ゲバサモは江口の浜で採集された海藻であり、森氏は「ゲバサモがないと古式祭りは始まらん」との情報を得ている。アカモクは江口の浜では寄り藻とされているが、海中に生育しているゲバサモは大島で現在、採集され、「玄海ぎばさ」として商品化されていることは注目しておいてよい。
ゲバサモ(ギバサ)は、ホンダワラの仲間の褐藻類で秋田ではギバサ、新潟ではナガモ、隠岐ではジンバサなどと称され、日常的にも利用されている。日本海一円で、アカモクの民俗呼称が広域にわたっている点から、おもに海藻類の採集に従事した海女文化の伝播と関連付けることもできるだろう。潜水漁については後述する。
地方によってはホンダワラをジンバソウ(神馬藻、陣馬藻)と呼ぶところもある。伝承によると、神功皇后が三韓征伐のために九州から海を渡るさい、馬秣(馬のエサ)が不足することがあった。そこで海人の勧めでホンダワラをとり、馬に与えたとされる(宮下 1974)。兵庫県豊岡市にある出石神社では、3月21日の立春祭 なのりそに神馬藻を奉納する神事がある。なのりそはホンダワラ(Sargassum fulvellum)の古名であり、前述したアカモクとは異なった種である。また、山口県から島根県石見、さらには石川県能登半島の珠洲では正月用の縁起物として飾りもの用にホンダワラを使う習慣がある。海藻に生命力や海の霊力を見いだした海人の文化をほうふつとさせる。
いずれにせよ、アカモクやホンダワラが古代から神饌として利用されてきた可能性は大きく、今後、沖ノ島・宗像大社における神饌を海の観点から精査する必要がある。これは祭祀をつかさどった宗像一族集団と漁撈活動との関係を考える重要な布石になるからである。それとともに、海洋資源の獲得に潜水活動が古くから重要であったことや、宗像一族と海人文化のかかわりを明らかにするうえで必須の課題とおもわれる12)。
4.海の交易と潜水漁
⑴ 漁撈とネットワーク
海と人間のかかわりは多様である。魚や水界の生き物と人間とが、どのようなつながりを展開してきたのか。魚を獲る技術と知恵、魚の調理や食べ方、魚にたいする文化的な禁忌や観念、漁のための組織や収穫(獲)物の分配、資源を持続的に利用するための知恵や慣行などの総体は「漁撈文化」とでもいえるものだ。
対馬から壱岐、さらに日本海へと黒潮の分流である対馬暖流が北上する。この海流は自然界の海洋生物の分布や生態のみならず、東アジアにおける人類史にとっても重要な意味をもってきた。前述したように、対馬暖流は太平洋を北上する黒潮とくらべて流速がそれほど速くないことが知られており、海を越える交流の基盤となった。
また、対馬海峡域は南から北上、ないし北から南下する回遊魚にとり重要な通過点である。このなかには、ブリ、マグロ、サワラ、シイラなどの大型魚類やイカ、トビウオ、サバ、スケトウダラ、アジなどの中・小型の水産生物、クジラ・イルカ、アシカなどの海生哺乳類が含まれる。かつてはサケも九州まで回遊してきたことが知られている。鮭神社(福岡県嘉麻市田島大隈)の存在がそのことをいみじくも語っている。
いっぽう、対馬海峡の沿岸域には温帯域に特徴的な底生生物(ベントス)が分布する。このなかには、藻場を構成するワカメ、ホンダワラ、アカモクなどの褐藻類やアマモなどの海草類13)、アワビ、サザエ、マガキ、トコブシなどの貝類、タコ、カニ、エビ、ナマコ、ウニなどの動物が含まれる。
上にあげたような多様な生物相は古来より対馬海峡域の海人によって利用されてきた。のちにふれるとおり、北部九州沿岸域や対馬、壱岐を中心とした島じまの縄文・弥生遺跡からはおびただしい数の魚骨や貝殻が出土する。しかも、それらの水産生物を採捕する漁具についても、鹿骨製の釣りばりのほか、鯨骨製の銛やヤス、アワビおこしなどが利用されていたことは注目すべきであり、後代に鉄製の釣りばりや銛などが用いられる以前、加工のしやすい鯨骨が利用されていたことは注目しておいてよい。地域は異なるが、オセアニア地域でも鉄器が導入される前は、鯨骨、貝製、ベッコウ製の道具や利器が用いられたことが知られている。以上の点から指摘したいのは、先史時代であるからといって、海の技術が現在よりも相当劣っていたとする先入観はすべからく却下すべきであるという点だ。
ここで東アジアにおける漁撈文化の特質について検討してみたい。
まず、縄文時代における漁撈活動が朝鮮半島部から北部九州にかけての地域で活発にいとなまれていたことは、朝鮮半島と北部九州とで共通した組み合わせ式の釣りばりが出土している点からも端的にうかがい知ることができる(渡辺 1985)。さらに土器や石器などの分布をみれば、海を越えた交流がいまから7,000年前の縄文時代から実現していたことが明らかとなる。 こしたか対馬の越高遺跡(対馬市上県町越高)は縄文早期末から前期初頭における縄文遺跡であり、海を越えた朝鮮半 ヨ ン ド 島の釜山市影島にある櫛目文土器時代の東三洞遺跡(B.C5500年頃~B.C1500年頃)と同様の黒曜石の遺物が出土する。いずれも黒曜石の産地は佐賀県伊万里の腰岳が中心であり、これに長崎県北松浦や壱岐のものが混在している。朝鮮半島の中南部では黒曜石を産することがないので、九州から半島部へと交易されたと考えられる。東三洞遺跡からはタイ、マグロ、サメ、ボラ、タラやクジラの骨が出土しており、活発な漁撈活動がおこなわれていたことが推定されている。
対馬における縄文土器には時代とともにいくつもの にしびら形式が存在する。轟式、阿高式、鐘ヶ崎式、西平式などのものがそうであるが、いずれもほとんどが韓国側の遺跡からも見つかっている。一方、半島から北部九州へは隆起文土器や櫛目文土器などがもたらされたことも明らかである。つまり、縄文時代から半島部と北九州とはたがいに交流があったと考えるのが妥当である(永留 1990)。
北部九州の交易ネットワークは以上みたような朝鮮半島部だけにかぎられていたのではない。さらに注目すべきは、海産貝類の出土状況である。北部九州の呼子周辺にある縄文時代から弥生時代前期にかけての遺跡から、ゴホウラ(Tricornis latissimus)製の貝輪が出土している。周知の通り、ゴホウラは日本周辺では奄美諸島以南に生息する南海産の貝である。甲元眞之氏や木下尚子氏が指摘する通り(甲元 1990;木下 1996)、南海産の貝類が九州方面に交易品としてもたらされたことはいまや疑いえないことである。つまり、九州各地で漁撈・海上交易に従事する集団が奄美・沖縄方面と交易ネットワークを取り結んでいたことになる。
交易の対象となったのはゴホウラだけではない。オオツタノハガイ(Patella optima)やイモガイ(Conusspp.)などの貝製の腕輪が北部九州各地で見つかっており、鹿児島を中継地とした南の海の世界との交流とネットワークが存在したものとおもわれる。
なぜこうした貝類が交易の対象となったのであろうか。貝が装飾品や威信財として使われる事例は古くから知られている。東アジア世界では、琉球列島産のタカラガイの中華世界への交易は著名な例である(江上1932)。タカラガイがその形状から女性器に類似していることを引き合いに豊饒性との関連を指摘する説がある。東アジア以外の世界でも、考古学や民族学的な調査から、貝類が交易品や財貨として用いられてきたことはオセアニアの熱帯・亜熱帯世界で十分に知られている。たとえば、ウミギクガイの仲間(Spondylidae)を中心とした二枚貝を用いたビーズ状の数珠、シロチョウガイ(Pinctada maxima)の胸飾り、ムシロガイ
(Nassarius sp.)の貝製胸飾り、イモガイ製(Conus spp.)の腕輪、シャコガイ製(Tridacna spp.)の円形財貨、クロチョウガイ製(Pinctada margaritifera)の財貨な
どが主要なものである。これらの財貨が島嶼間で交易品となる例はミクロネシア、メラネシアで広く知られている。また、表面が真白いウミウサギ(Ovula ovum)は魔よけ、邪悪な世界を退ける呪具として、あるいはカヌーの船首飾りとして用いられてきた(第5図)。
こうした民俗的な例を過去の先史時代に適用すべきでないとする意見がある。しかし、貝のもつ美しい色や硬さ、光沢、時間とともに変化しない堅牢性などの性質が時代を超えて交換価値を継承してきたことを蓋然的に認めてよい。貝類以外に財貨ないし交換財としてのちの時代に用いられてきたのは、いずれも金属であったことを理解しておく必要がある。
以上の点を傍証として、九州以南の亜熱帯地域からもたらされる貝類が重要な交易品となったことは事実であり、副葬品として出土していることからもその重要性を知ることができる。このように、北部九州は大陸や朝鮮半島とともに、南の琉球列島ともつながる海のネットワークを縄文時代から形成してきたことが分かる。
⑵ 潜水活動と文身
ここで注目しておきたいのは以上述べた貝類を採集するうえで、潜水活動が重要であった点である。東南アジアでは、潜水漁に長けた技術をもつ漁撈民の多くはかつて漂海民(シー・ノマッド:Sea Nomads)、ないしボートピープル(家船集団)と呼ばれた人びとであり、広く分散して居住し、漁撈中心の生活を送っている。漂海民・家船の人びとは船を恒常的な住まいとした。船が家であり、移動性の高い集団であることは明らかである14)。かれらはもともと船上で一生を過ごすが、一部はサンゴ礁海域やマングローブ地帯に杭上家屋をつくって集住生活を送る。陸上に土地をもたず、漁獲物を売ることで食料や生活物資を得て生活してきた。漁撈のなかでも、潜水素潜りを得意としており、サンゴ礁海域のさまざまな資源を利用してきた。
東アジア地域でも潜水活動が大きな比重を占めてきた。『魏志倭人伝』には倭の水人が「好く沈没し魚蛤を 捕え、文身(入墨)し亦以て大魚・水禽を厭う」とある。
潜水活動を得意としたこととともに、体に入墨を施していたことが記述されている。
入墨の習俗は世界中で知られているが、アジア地域ではとりわけオセアニアに色濃く分布している。ミクロネシアのカロリン諸島では手と腕、背中、大腿部、下腿部、性器周辺部、顔面部など、あらゆる場所に入墨が施された。『魏志倭人伝』では海人が潜水するさいのサメなどの大きな魚からの危害を防ぐためとあるが、ミクロネシアでは男性だけでなく女性も入墨を成長段階に応じて施すことがあった。また、入墨は社会の誰でもが施すことができたのではなく、社会的に上位の階層にのみ許されることもあった。美と自ら属する階層の優位性を誇示する身体的なシンボルともなったわけだ。
ミクロネシア、メラネシアにおける入墨で航海者たちが好んで使ったのはグンカンドリのしるしであった。グンカンドリが夜間は陸地において休眠することを知っていた人びとはグンカンドリをひなから飼育し、航海に連れてゆき、嵐などが起こるさいにその鳥を放ち、その向かう方向に陸があることを知る手段ともした。第6図はカロリン諸島のウルシー環礁のモグモグ島における女性の大腿部の入墨であり、魚ないしイルカとサメの歯(いわゆる鋸歯文)が彫られていることが分かる。
筆者がカロリン諸島のサタワル島における1979~80年の調査のさい、女性の大腿部に施したイルカの入墨は生まれてくる男子がイルカのように自由に海で泳ぐことができるようにとの思いがあると聞いた。また、サメの歯の入墨(鋸歯文)をした男性老人からはサメよけのためであるとの説明を受けた。島では、サメ、エイ、クジラ、イルカなどは「悪い魚」として食されることはなかった。潜水だけでなく、航海のさい、カヌーが転覆してサメの危害にあうような場合には、呪文を唱えてサメから身を守る知識が知られていた(秋道1981)。
北九州鐘崎(福岡県宗像市)の海女でも、アタマカブリ(磯かぶり)に「大」の字を黒い糸で縫いつけ、サメ除けの魔よけとすることがあった。魔よけの「大」の字は、眉間や腕などの身体部位のほか、上述の磯かぶり、イソベコ(前隠し)、アワビガネ(アワビおこし)などにも描かれた(伊藤 1990)。
第5図 トロブリアンド諸島の儀礼的航海クラ(kula)に用いられる帆走カヌーの船首