力を使わないこと。
大東流だけでなく合気道などではよく「力を使わない」と表現されます。
「脱力」や「抜き」や「削ぎ」、「相手の力を使う」とか、あるいは「気」であるとか、各流派や道場により得意とする力を使わない技術があります。
その独特の技術や考え方は、先人の方々によるたゆまぬ研鑽と研究の精華と言えます。
元来、日本の体術は剣術が元になっています。
「脱力」や「抜き」はもともとが剣術の技術で、膝や股関節を「抜く」ことで自分の重さを力化したり、相手の力とぶつからないことで相手の力を抜いたりします。
大東流にしても武田惣角という剣の達人が伝えたものなので、当然その流れの中にあります。
天山道場の大東流も同じように力を使いませんが、しかしそれは「脱力」でも「抜き」でもありません。
ただし支える身体と技術があってこそであり、それだけでは成り立ちえません。
また力を使わないから筋力は無くてもいい、なんてことはなく、筋肉運動である以上は筋力を鍛えなくていいわけがありません。
プロレスラーみたいな強靭な筋力があった上でそれを使わないのと、そもそも筋力が無い人が使わないのでは歴然とした差があります。
そもそも「力は使わない」と言ってる各武道の達人クラスの人たちが、1日何千回も何万回も重い木刀を降っていたりするのはなぜなのか?
それはそれが必要だからです。
ただし鍛錬(筋トレ)をやるにもその人の適性、方法と手順があります。
最初から重いものをブンブン降っていては結局力に頼った動きしかできなくなるからです。
まずは基礎的な身体を作ること、感性を磨くことが肝要で、一般的な筋トレでは逆効果になってしまいます。
大東流の場合は基本技を稽古することで、技術とともに必要な肉体の鍛錬をしていきますが、実はこれがちょいとやっかいです。
何せ、力を使わない稽古なので”身体ができてくる”までは、まるで稽古した気がしないし鍛えている気もしないのです。
だからこそ女性や子供でも肉体的には全く無理なく稽古できるのですが、やった気がしない稽古を続けるというのは精神的に辛いもので、飽きやすい子供さんにはなかなか難しく、まさしくオトナの趣味とも言えるかも知れません。
そして大東流は「脱力」でも「抜き」でも、ましてや「気」でもありません。(もちろんその技術は内包してはいますが)
年齢や経験とともに変わる肉体と感性。
それに合わせて稽古の主眼は変わり、技も変わってゆきます。
常に「今」であり、昨日の自分ではありません。
実に終わりのない稽古ですが、言い方を変えればそれは一生楽しめるということでもありますね。