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ZIPANG TOKIO 2020「農林水産省 日本食文化テキストより【日本食の歴史】」

2016.11.26 15:00

福岡県うきは市つづら棚田

宮崎県高千穂町(天岩戸)栃又の棚田

熊本県水田

長崎県平戸島棚田

山口県東後畑棚田

広島県北広島町田植

岡山県八塔寺

京都府美山田んぼ

京都府美山稲穂(実るほど・・・)

岐阜県下呂市馬瀬

岐阜県恵那市坂折棚田

長野県飯田市上村(下栗の里)

石川県輪島市白米千枚田

長野市中条栃倉棚田

長野県千曲市姨捨棚田(田毎の月)

静岡県賀茂郡松崎町石部棚田

群馬県真沢の森棚田

山形県川辺町大蕨棚田

秋田県藤里町横倉棚田

岩手県大東町山吹棚田

青森県水田稲作

青森県垂柳遺跡と砂沢遺跡

青森県津軽平野垂柳遺跡

青森県弘前市砂沢遺跡


和食様々





【日本食の歴史】


日本食の歴史 アジアのなかの日本食 日本食といえば、誰もが米を思い浮かべるだろう。確かに朝鮮半島でも中国でも、あるいは東南アジアの国々でも、米が食べられているが、とりわけ日本では米が重要な位置を占めてきた。そして日本でおかずといえば、今でこそ肉の消費量は増えたが、やはり魚のイメージが強い。こうした米と魚は、基本的には東南アジア・東アジアというモンスーンアジアの大きな特徴で、高温多湿なことから稲作に適するとともに、これには大量の水が必要で、そこには魚が棲むことから、米と魚の文化が生まれた。 これに対して、西アジア・中央アジアおよびヨーロッパなどでは、寒冷乾燥な気候であることから、麦作が盛んで小麦が主な食料となっている。これには牧畜が伴い、乳を出す牛や羊などが飼われることから、肉と乳が組み合わされた食生活が営まれた。米は脱穀して精米すれば、そのまま粒で食べることが出来るが、小麦は外皮が剥がれにくく粉食とするほかないので、パンやナンあるいは麺となる。これらを食事のメインとしながら、牧畜による肉と乳製品を利用するため、麦と肉の文化が展開をみた。 そして米と魚の文化では、魚を発酵させた魚醤や大豆を用いた味噌・醤油などの穀醤が調味料となり、麦と肉の文化においては、肉や骨を煮込んだスープとクリーム・バター・チーズなどが味付けの主体となっている。ただ中国大陸では、北部には麦と肉の文化が広がるが、南部では米と魚の文化が基本であった。このため日本の食文化は、中国大陸南部の延長線上に位置するものと見なすことができる。 こうして東南アジア・東アジアの稲作地帯では、米と魚が食文化の中心となったが、これに動物性タンパクとして、ブタとニワトリが加わった。いずれも牧畜の動物のように、乳を出すメリットはないが、ニワトリは卵を産むため広く利用された。ニワトリは中国南部・ラオス北部の山岳地帯で家畜化が始まったと考えられるが、かなり早くからユーラシア大陸全般に広がり、西の麦文化の世界へも広まった。 またイノシシの家畜化によるブタの飼育もアジアでのことと思われるが、ブタは放っておいても回りの草や廃棄食料などを食べて育つため、ニワトリとともに稲作労働の傍らで簡単に飼うことができる。これらは魚とともに、米の飯の重要な菜となったが、日本では、かなり特殊な事情が生まれた。おそらく稲作の伝来とともに、日本でもブタの飼育が行われた形跡が認められるが、このブタが途中から欠落していった点が注目される。その意味で、日本の米文化は、アジアのなかではかなり特異なものとなったといえよう。 その理由や事情については、後に触れることとするが、また一方で、今日の日本の領域全てで、稲作が行われていたわけではない。つまり日本列島全体を、米文化が覆ったわけではなく、北海道と沖縄には稲作が及びにくく、むしろ古代以降の日本が排除してきた肉文化が豊かに発達した地域であった。この南北二つの地域は、すでに古代から密接な関係にあったにも関わらず、日本に組み入れられるのは明治すなわち近代以降のことであった。 こうした歴史的事情を踏まえた上で、米という私たちに非常に親しみの深い食べ物を中心に、日本における食の歴史を眺めていくこととしたい。それゆえ、米以外の食物にも注意を払いながら、稲作以前および南北の問題についても、充分に眼を向けつつ、歴史のなかの日本食の全体像を見つめ直していきたいと思う。 日本食形成へ道のり 日本食の起点 日本列島が今日のような形になったのは、氷河期が終わった縄文時代以降のことで、それ以前の大陸と地続きであった旧石器時代から、人々が住み着くようになった。その時期については、さまざまな議論があるが、早ければ7~8万年前、確実なところでは3万年前とされている。ただ低かった気温のため植物性食料への依存が難しかったことから、いきおい動物性食料が重視された。それゆえ人々は、マンモスやオオツノジカなどの大型獣をはじめ、そうした自然界からのさまざまな食料を入手し、日々を生き抜いていた。 しかし温暖化が進み、海面が上昇した縄文時代になると、植生もかなり変わって、ドングリなどの木の実の食用が可能となった。そうした食料の安定化は、人々に時間的余裕を与えるところとなり、道具の工夫や発達を促し、土器の製作が行われるようになると、煮炊きがいっそう容易なものとなった。つまり加熱によって味覚のみならず、解毒や保存にも大きな効力を発揮するようになった。とくに長時間の加熱は、灰汁を除くことで木の実なども食べやすくなり、食物の範囲は急速に拡大した。 こうして縄文時代においては、狩猟などによる動物食よりも、植物性食料が重要な役割を果たすようになった。かつては食用植物の栽培つまり農耕は、弥生時代以降のこととされていたが、近年では縄文時代においても農耕が行われていたことが確認されている。縄文時代の始期については、近年では一万数千年前とされているが、ほぼ4~5000年前の縄文中期頃には農耕が行われていたものと考えられている。 すでに、この時期に一部では、おそらく焼畑によって稲作も行われていたようであるが、主要な生業となるには至らず、縄文晩期になって、ほぼ疑いなく朝鮮半島経由で水田稲作が、北九州付近に伝わった。これは弥生時代に入って、かなりのスピードで本州や四国・九州へと広まっていった。ただ弥生水田は、青森県にまで及ぶが、これは海路によるものと思われ、基本的に本州東部・北部には、その形跡が薄いとされている。ちなみに弥生時代については、かつて400年前後続いたと考えられていたが、近年では一千年近いとする説が有力視されている。 いずれにしても弥生時代に、米を中心とした食文化の形成が日本で始まったことになる。米は、非常に生産効率が高いばかりでなく、食味が豊かで栄養価に優れ、かつ保存にも適した優秀な食べ物であった。こうして新たに始まった米を中心とする食文化が、その後の日本食の歴史に、最も大きな影響を与えた。そして米は、「はじめに」で触れたように、水田稲作の一環として、稲とセットになる魚の保存法であるスシとともに、ブタの飼育という文化を伝えたものと思われる。 まずスシについては確証があるわけではないが、稲作とともに水田漁業による魚を用いたナレズシが伝来した可能性が高く、琵琶湖に残るフナズシなどを、その名残と考えることもできる。すなわち魚を米飯に合わせて圧力を加えることで発酵を促し、熟成による旨味を引き出すとともに、長期の保存を可能にするもので、やがて、この原理を適応しつつ改良を進めて江戸前の鮨が出現したことになる。 またブタに関しては、弥生時代のイノシシと考えられていた動物の骨が、近年では、多くがブタのものとされるようになり、稲作の受容とともに、ブタの飼育が行われていたことが指摘されている。つまり弥生時代の米文化は、東南アジア・東アジアの場合と全く同様に、米と魚の組み合わせに、ブタという肉が付随したものであった。ただ『魏志』倭人伝などでは、死者の喪などの際に肉食が忌避されている点に留意すべきであろう。 いずれにしても、米を中心とした日本食という観点から考えた場合、水田稲作を全面的に展開し始めた弥生時代こそ、まさしく、その起点であったと考えて疑いはない。ただ、弥生時代の水田稲作は、必ずしも米という食料を、全ての人々に行き渡らせたわけではなかった。つまり弥生時代でも、米以外の食料も重要な位置を占めており、ブタの飼育などを考え併せれば、今日のものとはかなり異なっていたとしなければならない。 日本食の形成 その後の古墳時代には、王たちの巨大な墓が造られるようになるが、これには高度な土木工事が必要で、水田造成に共通する技術との関連性が高い。さらに王権に基づく集団的な労働力の動員が可能となったことに加えて、この時期におけるウシやウマの移入が、水田の発展に大きな効果をもたらした。しかも米は優秀な食品で、備蓄性が高いことから、社会的な富と見なされ、租税として人々に賦課されるようになった。やがて大和政権による全国統一が進んで、大化の改新を契機に、古代律令国家が成立すると、その政策においても米が非常に重要視されるところとなる。 栄養価の高い米は、古代人に力の源と見なされており、力餅や力ウドンという言葉が象徴するように、力の源となる米の加工品には特別な位置が与えられた。主税と書いて「チカラ」と読むのも、そうした事情によるもので、最も重要な租税は米であった。それゆえ古代国家は、畑地は無視して水田のみを口分田として人々に与え、租すなわち米を最も重視した。それは土地政策にも如実に現れ、百万町歩開墾計画や三世一身の法・墾田永世資材法を発布し続けたのである。 そして日本では、米の生産のために肉が犠牲とされた。古代国家の最盛期の天武天皇4(675)年には、いわゆる肉食禁止令が出されている。しかし、これは単なる仏教による禁令ではなく、その前後の状況や他の法令から判断すれば、米作りのための方策で、動物の肉を食べると稲作が失敗するという観念に基づくものであった。これは、先に見た『魏志』倭人伝の災いがあった時に肉を断つという伝統を引くもので、重要な願い事つまり稲の豊作のためには、肉を食べないとする思想の実現であったと考えられる。 いっぽうで米は、尊い聖なる食べ物としての位置を確立し、祭祀のなかで重要な役割を果たすようになる。現在でも、正月をはじめ村々や家々での祭祀の際に、米は大切な捧げ物で、米から作った餅と酒は欠かすことができない。また天皇が執り行う新嘗祭・大嘗祭などの国家祭祀においても同様で、天皇が毎年皇居の水田で、春には田植えをし、秋には稲刈りをする様子は、しばしば新聞・テレビでも報道されている。 こうして日本では、米のために肉を否定したが、やがて肉は穢れと見なされ、米が聖なる食べ物として、社会的に受け容れられていくことになる。これが東南アジア・東アジアの稲作を受容しながらも、それらの地域とは非常に異なって、ブタを伴わない米文化を成立させるところとなった。それゆえ動物タンパク摂取の観点からは、肉の代わりに魚が重視され、最も典型的な形で米と魚の食文化が発達を見たのであり、鮨に象徴されるように魚食に特化した食事パターンが一般化したのである。 さらに米を重視した古代国家においては、調味料も今日の日本食に近い状況が形成されつつあったことが窺われる。国家機構の食事を預かる大膳職という部署には、醤院がおかれたが、ここでは味噌や醤油の原型となる醤の管理が行われていた。先にも述べた魚醤は、日本へもかなり古い時代に入ったものと思われ、古代の『延喜式』などには、肉醤も見えるなど、一般的な調味料であった。しかし醤院で厳重に管理されていた醤は、明らかに穀醤で、極めて貴重な調味料として意識されていたことが窺われる。 このように古代においては、その頂点をなす国家レベルで、米を食事の中心とし、穀醤を主要な調味料とするような今日の日本食に近い味覚体系が、次第に形成されつつあったと見なしてよいだろう。 食生活の現実 しかし国家の最高レベルでは、米を中心にいわば日本的な食事体系が整いつつあったが、食生活には極度な階層差がつきまとうことも忘れてはならない。確かに肉食は、穢れたものとして社会的に遠ざけられていったが、その本格的な排除にはかなりの時間を有したし、弥生時代のところで論じたように、米も人々に充分な量を供給できたわけではない。むしろ米は税として農民から吸収されたという事実は重く、かつ米はどこでも作れたわけではない。なかでも日本で好まれる温帯ジャポニカは、適度な水と気温を必要とするため、基本的には水田が必要であった。 米作り=水田と考えるのは、あくまでも私たちの常識でしかなく、実は地下に含まれる充分な水量があれば、畑地でも稲作は可能である。東南アジア・東アジアでは、水田以外に畑地でも稲作が行われており、極端な場合には焼畑でも米が作られている。これは熱帯ジャポニカとされる米の種類で、日本でも縄文時代に部分的に見られた稲作は、これを用いていた可能性が高いが、弥生時代以降の稲作は、基本的には温帯ジャポニカが主流で、水田を前提とするものであった。それゆえ古代国家は、水田のみを重視したのである。 こうした日本での温帯ジャポニカ栽培は、先にも述べたように適度な水と温度管理を必要とするため、一歩それらの歯車が狂えば、たちまち凶作となって食料不足を惹き起こした。このため古代国家は、そうした場合に供えて、農民には畑作も推奨し、麦で命を繋いで米を租税として納めるよう指導している。あくまでも米を中心として、魚食を組み合わせた食事は、国家の官僚である貴族や地方役人である豪族、あるいは中央の大寺院の僧侶や神社の高級神主たちのものでしかなかった。 多くの人々にとっては、米は貴重な食料であり、麦や雑穀もしくは芋などが身近な食べ物であった。もちろん穢れるとされる肉も、これを無視しては動物性タンパクの摂取に難しかった。もともと古代の殺生禁断令でも、禁止されたのはウシ・ウマ・サル・ニワトリ・イヌのみで、イノシシとシカは対象とはなっていなかった。肉をニクと読むのは音読みで、日本語としての訓はシシに過ぎず、イノシシ(猪)・カノシシ(鹿)・カモシシ(羚羊)は、古来から日本人が食べ続けてきた肉であった。 しかし殺生禁断令以降、次第に肉が穢れたものと意識されたところから、イノシシやシカも穢れの対象となり、基本的に口にすることは避けられていった。ただ米の生産力が厳しかった段階においては、多くの人々に肉食は不可欠で、広く食されていた。もちろん貴族や都市民の一部にも、肉を好む人もおり、京都にもシシ肉が販売されるルートさえ成立していた。いわゆるシカの紅葉鍋・イノシシの牡丹鍋・ウマの桜鍋など野獣食の伝統は、鍋という調理法を別とすれば、かなり古い時代にまで溯ると考えて良いだろう。 ただ古代に始まった肉食の禁忌は、水田の開発と生産力の増強が進んだ中世という時代を通じて、徐々に社会の下層まで及んでいく。基本的に中世末期頃には、広く社会的に米飯を中心に、魚を添え野菜などを伴う今日に至る日本的食生活が完成をみる。 これに呼応するように、中世を過ぎて近世に成立した江戸の幕藩体制は、経済的には石高制という形で、ほとんどの経済価値を米で表示するという世界的にも特異な社会システムが誕生をみた。また近世においては、肉を食べると眼が潰れるとか口が曲がるとかいう俗信を生み出したが、社会の一部では薬喰いや鹿食免などと称して、肉食が行われていたことも忘れてはならない。 日本食文化の充実 大饗料理 日本古代における料理様式については、史料的に不明な部分が多く、その内実を知ることができない。こうした料理は、日常の食事とは異なり、祭礼などの儀式の際に最も手の込んだ食べ物が神仏に捧げられるもので、一定の様式を伴うと考えなければならない。その意味においては、神々への神饌を起源と考えてよいが、今日に見られる神饌には、明治初年における神道祭式の変更が大きな影響を及ぼしている。 もともと神饌は、食べ物を神に捧げた後に、祭祀に携わった人々が神と共に食べるものであるから、すでに調理を済ませた熟饌が基本となる。しかし明治以降は、食材そのままの生饌中心に改めたため、古い形式が分からなくなってしまった。もちろん春日大社や談山神社などの神饌から、一定の形式を窺うことができるが、すでにこれらには朝鮮半島を経由して入ってきた盛り物や仏教による彩色の影響が顕著で、それ以前の姿については不明とするほかはない。従って日本で最も古い料理様式は、神饌料理であったと考えられるが、その詳細については明確に出来ないのが現状である。 現在知りうる範囲で、最も古い料理様式が大饗料理となる。大饗料理は、藤原氏など高位の貴族が、大臣に任じられた時や正月などに、天皇の親族を招いて行う儀式料理である。ただ、この時代は料理といっても、生物や干物などを切って並べたもので、味付け自体は、自分の手前に置かれた四種器と呼ばれる小さな皿に、塩や酢あるいは醤などを自ら合わせ、これに浸けて食べるだけであった。これは料理の最も原始的なもので、それぞれが餃子のたれを好みに合わせ作って食べることに似ている。 東南アジアなどで食事をすると、必ず食卓には何種類かの調味料がおかれてあり、それぞれが自分の好みに合わせて味を調える。韓国でも必ずコチュジャンなどがおかれるほか、サムゲタンなども、古い店では食べる直前に塩・コショウを自分で調整する。またギリシャなどでは、ワインビネガー・オリーブオイル・塩・コショウの四つがおかれており、サラダドレッシングは、自分で好みに合わせたものを作るのが常識となっている。まさに大饗料理も同じ発想であった。 また大饗料理では、料理の皿数は必ず偶数で、手元には箸と匙とが置かれている。匙は朝鮮半島では定着を見たが、日本では大饗料理に取り入れられたものの、一般に使用されることはなかった。しかも大饗料理は、身分によって料理数は異なるが、盤上一面に並ぶ様子は、朝鮮半島に韓定食に似ている。このほか、小麦粉を練って油で揚げた八種唐菓子が添えられることなどからも、明らかに大饗料理は、朝鮮半島経由で入った中国料理の影響が著しいことが分かる。 こうした大饗料理は、古代の上層部で行われた料理様式であるが、古代国家が律令という中国の法律体系を模倣したように、儀式料理についても同様に中国のスタイルを真似て完成させたものであることが明らかである。ただ大饗料理にも、一部ではあるが日本的な特色を見出すことができる。それは切るという調理で、この頃から料理人を庖丁人と呼んだことに象徴される。また庖丁上手とは料理がうまいことで、切り口の冴えが料理の出来映えを決した。 例えば美しく切った刺身が美味しいのは、するどい片刃の庖丁で魚肉の細胞を壊さずに切断することによって、肉汁の旨味を逃げ出させないという調理が施されたことになる。日本の神饌の特徴は美しく切ったものを、その切り口を見せながら重ね上げるのに対して、朝鮮半島などの盛り物は、食品そのものを串などで積み上げるという点が異なる。大饗料理は明らかに中国の影響を受けたものであるが、そこには庖丁で美しく切ることを強調する日本的な特徴を読みとれるのである。 精進料理 大饗料理以後のまとまった料理様式としては、禅宗の僧侶の間で行われた精進料理がある。平安時代末期には、奈良仏教や天台宗・真言宗に対する不満が高まり、真剣に仏教を志す僧侶のなかには、中国での仏教修行を試みて南宋などに渡るものが少なくなかった。当時の中国仏教界では、禅宗が最も重要視されており、そこでは肉食忌避の思想に基づいた精進料理が主流であった。 しかも、この精進料理は、唐代に西方から導入された水車動力によって、製粉技術が著しく高まり、粉物の大量供給が可能となっていた。いうまでもなく精進料理は、仏教徒が肉を断つため、味わいとしては肉に近いものを口にできるような工夫が凝らされている。つまり植物性食料を濃い味の動物性食料の味に近づけるためには、小麦粉や大豆粉などに植物油や味噌などインパクトの強い調味料を合わせる必要があり、整形の容易な粉食が大きな前提となっている。ただいずれにしても、味覚の調合という意味において、精進料理が料理技術に飛躍的な進歩をもたらしたことに疑いはない。 しかも精進料理は、僧侶自らが調理にあたるため、彼らは仏教修行のみならず、料理技術も習得した。こうして中国で禅宗を学んだ僧たちは、日本に帰って禅院を開くなどして修行するとともに、そこで精進料理を広めた。そうした禅僧たちの代表として栄西や道元などが名を残した。なかでも道元は、『赴粥飯法』『典座教訓』といった書物を著し、精進料理そのものに関する記述はないが、食事の意味や禅院における料理当番の役割などについて言及している。おそらく道元は、日本で初めて仏教の立場から、食べるという行為について、深い哲学的な考察を行った人物でもあった。 こうして鎌倉期から南北朝期にかけて、精進料理はめざましい発達をみせたが、その代表例については、『庭訓往来』十月状返に詳しい。ここでは点心類として「鼈羮・猪羮・砂糖羊羹・饂飩・饅頭・索麺・碁子麺」など、菓子として「柑子・橘・熟瓜・煎餅・粢・興米・索餅」など、汁として「豆腐羮・雪林菜、並薯蕷・豆腐・笋蘿蔔・山葵寒汁」など、そして菜に、「煮染牛房・昆布・烏頭布・荒布煮・黒煮蕗・蕪・酢漬茗荷・茄子酢菜・胡瓜・甘漬・納豆・煎豆・差酢若布・酒煎松茸・平茸雁煎・鴨煎」などが見える。 ここに特徴的なように、精進料理は、穀物粉を用いたものや、さまざまに味付けられた野菜類・菌類のほか、果物類が主体となっている。そしてスッポン・イノシシ・ガン・カモなどといった動物名が示すように、植物性食料を鳥獣肉に見立てて、それに近い味を出すところに特徴がある。こうして肉食への願望を、調理技術によって満たそうとしたのが精進料理であり、先にも述べたように、その実現には高い技術力が必要とされた。 こうした料理技術を蓄えていたのは、当然のことながら禅院の僧侶たちであった。彼らは広い意味で料理人であるが、その伝統的な呼称である包丁人ではなく、調菜人と呼ばれた。あくまでも魚鳥を扱うのが庖丁人で、調菜人は精進物を料理する僧侶の仕事であった。ただ本格的な精進料理は、禅院でも重要な茶礼などの際に供されるものであったが、こうした調菜人は、精進料理のうち饅頭などにも作ることから、単に禅院だけに止まらず、贈答などに用いられた点心類の製造にも携わったものと考えられる。 いずれにしても中国からの移入によって成立をみた精進料理は、初めは禅宗の寺院内部で発達をみたが、やがてその高度な調理技術は、一般にも広まるところとなって、鎌倉期以降における料理文化の展開に大きな役割を果たしたとみてよいだろう。 本膳料理 もともと武士は、大饗料理の催した貴族の従者で、その振舞として芋粥に預かったという話が、芥川龍之介の小説『芋粥』で、その原話は平安時代の『今昔物語集』に見える。つまり初期の武士は貴族のいわばボディガードであったが、やがて貴族の権力を凌駕し、平清盛の平氏政権や源頼朝の鎌倉幕府が成立をみて、武家が政治の表舞台へと躍り出ていくこととなる。これに呼応する形で、武家も独自の料理様式を模索したが、その完成にはかなり長い時間を要した。 鎌倉時代には将軍によって垸飯という料理が振る舞われたが、これは貴族の大饗料理の一部を切り取ったに過ぎず、武家の文化は貴族の文化の後追いでしかなかった。なお鎌倉幕府は、初めは関東を中心とした地方政権とも見なすべきもので、南北朝期に後醍醐天皇が一時政権を奪取したが、基本的には南北朝を統一した室町幕府によって、武家が実質的な全国の支配者になったと考えて良い。まさに武家の料理文化も、この室町時代に新たな様式としての本膳料理が登場をみることになる。 この本膳料理は、大饗料理の儀式的要素と精進料理の技術的要素とが組み合わされたもので、ここに本格的な料理様式が成立をみた。しかも膳を用いて、七五三という奇数の膳組を基本とするところから、極めて日本的な要素が高いとみなすことができる。すなわち中国では、大饗料理のように卓に料理が盛られて、その皿数は偶数であったが、本膳料理では銘々に膳が用いられ、奇数の料理を据えて、箸のみが使われるようになった。ちなみに膳は、朝鮮半島・沖縄で使用されており、椅子を伴わない座居の文化を基礎とする地域に広まった。 本膳料理の構成は、酒を中心とした献部と食事を主とする膳部とからなり、膳には汁が伴っている点が注目される。そして儀礼的要素が強い式三献に始まり、初献・二献・三献と続いた献部のあと、七五三の膳という膳部に移り、与(四)献以後、一七献あるいは二一献という献部が再び続いて全てが終了する。こうした本膳料理が供される御成などの饗宴では、後半の献部ごとに能が演じられ、全体が終わるまでには、夜を徹することになる。 室町時代以降の非常に盛大な饗宴には、こうした本膳料理が供されたが、これは大饗料理と同様に、前々から作りおかれた。従って儀式料理としての性格が強く、膳や皿の一部には金銀での装飾も施され、華々しい雰囲気のなかで食事が楽しまれた。まさに新しい日本料理が出現したことになるが、奇数の膳形式に限らず、料理内容についても、日本料理の原型が完成をみた。つまり本膳料理に伴う汁に象徴されるように、その出汁の基本にカツオと昆布が用いられている点に注目する必要がある。 こうした出汁の完成は、三陸以北とくに北海道で取れる昆布を前提とするもので、非常に広域な商品の流通網が、この時期に成立していたことを示している。またカツオ節の登場も室町時代のことで、まさに今日の日本料理の基礎が、本膳料理によって確立したことになる。そして、こうした料理発展に伴い、その技術を伝承し磨きをかける料理の家が成立をみた。つまり武家料理流派の誕生で、旧来の公家系のそれを伝えた四条流に加えて、大草流・進士流・山内流など武家の料理流派の家々であった。そこでは故実や作法を含む料理技術が追求され、それを秘事口伝という形で伝えたが、その一部がそれぞれの流派内で料理書として残ったのである。 懐石料理 先にも述べたように、本膳料理は儀式用であり作り置きが当然であったため、料理そのものは豪華でも、冷めた状態で食べなければならなかった。これは真に美味しい料理を味わうというよりは、儀式のなかで、それぞれの身分に応じた料理を食することに意味があった。すなわち本膳料理が供されるような儀式の場では、身分秩序が重要な要素を占め、振る舞われる料理数や座席の位置関係が大きく作用した。身分によって料理内容が異なるのは、大饗料理ではより著しく、それは自らの社会的位置関係を物語るものであった。 こうした堅苦しく延々と続く本膳料理ではなく、その一部の美味しい部分を、自由に楽しもうとして発展をみたのが、懐石料理である。従って懐石料理は、本膳料理の一部を切り取ったようなものであったが、基本的には料理を楽しむということに力点が置かれている。しかも懐石料理は、茶の湯の発達に伴うもので、茶会でお茶を最も美味しく楽しもうとする精神から生まれた点が重要であろう。とくに茶の湯は、禅院の茶礼と関係が深く、精進料理の系譜にも繋がっており、味覚面のみならず精神面も重視された。 もともと茶会では、闘茶すなわち賭け茶が流行するとともに、茶そのものよりも酒が優先される場合も少なくなかった。そこに精神面を重んじた珠光や武野紹鴎らが出て、茶の湯の形が整えられていったが、茶会の最後に行われる酒宴の場である後段を、戦国時代後期に千利休が切り捨てることで完成をみた。一汁三菜程度の料理を基本としたが、茶の湯では一期一会という精神が強調されたことから、その場その場での出会いを大切にするという精神が、料理そのものの内容にも大きな影響を与えた。 すなわち懐石料理で、季節性を重んじて旬の素材にこだわるのは、そうした理由からであった。さらに、その茶会の一時を大切にするため、食器にも心を配り、盛り付けにも気をつかった。こうして季節感のみならず色鮮やかな料理や食器の配置、合理化された作法によるもてなしのほか、料理を味わう空間のしつらえにも最善を尽くした。もちろん暖かいものを暖かいうちに戴けるように、料理を出すタイミングにも充分な計算が施されている。こうして世界的にも評価の高い懐石料理が生まれたのである。 なお懐石の語は、利休の時代には用語としては使われず、むしろ会席の方が一般的であった。ところが近世後期になると、後にみるように大都市には高級料理屋が出現し、そこで会席料理が供されるようになる。しかし、この会席料理は茶の湯とは無関係であった。より正確にいうなら、戦国時代に成立した懐石料理から、茶の湯の要素を切り捨てたのが、近世の会席料理とみなしてよい。つまり数人が料理屋に出かけて注文し、会席という形で酒を飲み歓談しながら味わう料理が、会席料理であったということになる。 懐石の故事とは、禅の修行僧が温石を懐にして身体を暖め空腹を凌いだという逸話に由来するもので、茶事で供される軽い食事を懐石と称したことに因む。これは江戸も元禄期に入って広く読まれた『南方録』に見える語で、しかも利休が語ったことを記したとされる同書は、現在では偽書であったことが指摘されている。従って、やや紛らわしい話ではあるが、戦国時代に生まれた茶の湯に伴う料理様式を懐石料理とし、近世後期に出現した料理屋で供されるものを会席料理と呼ぶこととしたい。



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力・出典  (順不同)


農林水産省 〒100-8950 東京都千代田区霞が関1-2-1 電話:03-3502-8111(代表)
日本食文化テキスト作成共同研究会 日本食文化テキスト抜粋.「日本食の歴史・・・原田信男 氏著」
公益財団法人みやざき観光コンベンション協会 〒880-0811 宮崎市錦町1番10号 宮崎グリーンスフィア壱番館(KITENビル)3階 電話:0985-26-6100 FAX:0985-26-6123 

宮崎県 〒880-8501 宮崎県宮崎市橘通東二丁目10番1号 TEL(0985)26-7530 

 北広島町観光協会 〒731-1533広島県山県郡北広島町有田1122(道の駅舞ロードIC千代田管理棟内) TEL:0826-72-6908 

 一般社団法人 長野県観光機構 〒380-8570 長野市南長野692-2長野県庁内 TEL:026-234-7200   

(一社)長崎県観光連盟 長崎県文化観光国際部観光振興課  〒850-0035 長崎市元船町14-10 橋本商会ビル8階 TEL.095-826-9407

美山町観光協会  〒601-0722 京都府南丹市美山町安掛下23 TEL & FAX : 0771-75-1906
三徳山三佛寺 〒682-0132 鳥取県東伯郡三朝町三徳1010 TEL:0858-43-2666
出羽三山神社 〒997-0292 山形県鶴岡市羽黒町手向字手向7 TEL.0235-62-2355 FAX.0235-62-2352 
南飛騨馬瀬川観光協会 岐阜県下呂市馬瀬西村1508-1 TEL 0576-47-2841/FAX 0576-47-2333
千曲市観光協会. 〒389-0821 長野県千曲市上山田温泉2-12-10 TEL.026-275-1326 FAX.026-275-3678 
わじま観光案内センター 〒928-0001 石川県輪島市河井町20部1-131 TEL:0768-23-1100FAX:0768-23-1856 E-mail: wajimaguide@gmail.com  
松崎町役場 〒410-3696 静岡県賀茂郡松崎町宮内301-1TEL:0558-42-1111FAX:0558-42-3183 
グループ農夫の会 連絡先  〒990-2464山形県山形市高堂一丁目8-35 〒990-0341山形県東村山郡山辺町大蕨109 稲村 和之 TEL・FAX 023-643-8800 mail info@group-nofunokai.jp
遠山郷観光協会 〒399-1311 長野県飯田市南信濃和田548-1 (かぐらの湯となり)アンバマイ館内 10:00~17:00 年中無休 Tel 0260-34-1071 Fax 0260-34-1132 
地方独立行政法人青森県産業技術センター 〒036-0522 黒石市田中82-9 TEL:0172-52-4311 
田舎館村歴史民俗資料館 〒038-1113 青森県田舎館村田舎館字中辻 Tel0172-58-4663
田舎館村埋蔵文化財センター 田舎館村教育委員会
邪馬台国大研究 HP
一般社団法人そらの郷 「にし阿波・桃源郷」
経済産業省 東京都千代田区霞が関1丁目3-1 電話: 03-3501-1511
一般社団法人信州いいやま観光局  長野県飯山市大字飯山1110-1 飯山市役所内TEL 0269-62-3133
富山 寿司栄
一般社団法人 地域環境資源センター
特定非営利活動法人 秋田花まるっ グリーン・ツーリズム推進協議会 秋田市上北手荒巻字堺切24-2 秋田県ゆとり生活創造センター遊学舎内 電話:018-829-5895
秋田県農林水産部農山村振興課 調整・地域活性化班 秋田市山王四丁目1-1 電話:018-860-1851
遠山郷観光協会/長野県飯田市南信濃かぐらの湯となり Tel0260-34-1071


※写真はウェブサイト制作・編集者の和食に対するイメージを掲載してあります。

皆様のご協力に衷心より感謝を申し上げます。