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ハニートラップ

2018.03.27 04:58

Facebook・相田 公弘さん投稿記事

今日の歴史の一幕

1890年米国総領事ハリスの小間使いだった斎藤きち(唐人お吉)が川に身投げし絶命。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応3年(1867年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール使用障害となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

その後、稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体を人々は「汚らわしい」と蔑み、斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否した為、河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たく、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬るが、後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け、下田を去る事となる。お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。


https://japanmystery.com/sizuoka/okiti.html 【お吉ヶ淵】 より

明治24年(1891年)3月27日の豪雨の夜、一人の女性が下田街道沿いの稲生沢川の淵に身投げをした。その女性の名は斎藤きち。“唐人お吉”と呼ばれた女性である。

きちの生涯は、幕末の動乱期に翻弄され流転した。幼い頃に下田に移り住んで、14歳で下田一の人気芸妓となったきちであるが、安政4年(1857年)に人生を決定付ける転機が訪れる。当時下田に滞在していたアメリカ総領事のハリスの“身の回りの世話”をするよう説得されるのである。

胃潰瘍で倒れたハリスとしては看護をしてくれる女性を希望したと言われるが、幕府はこれを愛妾の要求と解釈してきちに白羽の矢を立てたのである。期間として約2ヶ月の勤めであったが(最初の3日間で一旦暇を出されるが、支度金25両のこともあってきちの側から再び世話を願い出ている)、異国人の私的な身の回りの世話をしたという偏見や、その報酬の高さ(月給10両)からくる妬みのせいか、その後きちは下田の町で「唐人お吉」と呼ばれ、迫害を受けるようになるのである。

ハリスと共に江戸へ赴いたきちは、そこで職を解かれた直後に行方をくらました。そして明治維新頃に横浜に現れ、かつて将来を誓い合った男と偶然再会して所帯を持つ。二人して下田に戻ったが、結局いさかいが絶えなくなって離縁。きちは再び下田を離れて三島の遊郭で芸者として働きに出る。数年後、蓄えを持って下田に戻り、支援を受けて小料理屋「安直楼」を始めるが2年で破綻する。その頃には既にアルコールによる障害が出始めており、生活もすさんでいき、ついには物乞い同然の身にまで堕ちてしまう。そして悲劇的な死を遂げてしまうのである。

淵から引き揚げられた遺体は引き取り手もなく、菩提寺も埋葬を拒否したため、3日間もその土手に放置されたままだったという。結局、宝福寺の住職が遺体を引き取り境内に埋葬したのである(これが現在の墓所)。死んでからまで下田の人々から嫌われ続けたきちであるが、彼女自身はこの土地を離れては戻ることを繰り返している。それを考えると、「世をはかなんで」投身自殺したとされる最期も、もしかすると彼女の本意ではなかったような印象も出てくる。

歴史の表舞台に出ることもなく、翻弄されるだけで消えてしまったようなきちであったが、突如としてその存在が人々の目に触れるようになる。昭和2年(1927年)に村松春水が書いた小説『実話唐人お吉』、翌年その版権を買った十一谷義三郎が著した『唐人お吉』を下敷きにしたサイレント映画が立て続きに公開され、彼女の名前は全国に知られるようになった。そして昭和8年(1933年)、この地を訪問した新渡戸稲造が、このお吉ヶ淵を詣でて供養のための地蔵を建立した。これが現在の“お吉地蔵”であり、またお吉ヶ淵は小公園化され、命日には「お吉祭り」と称して下田の芸者をはじめとする多くの女性がこの地を訪れて冥福を祈るようになっている。

<用語解説>

◆ハリス

1804-1878。アメリカの外交官。40代になって貿易業を営み、東洋に在駐する。かつて公務に就いていた関係から、日本総領事を希望して就任を勝ち取る。下田の玉泉寺を領事館として赴任し、将軍との謁見を成功させ、1958年に日米修好通商条約締結までこぎ着ける。条約後は下田から江戸に移り、5年9ヶ月間日本に滞在する。

アングリカン・チャーチの熱心な信者であり、生涯独身を貫く(生涯童貞であったとも言われる)。また日本の風習なども理解・賞賛しているが、唯一混浴の習慣だけは理解できないとしているなど、性的に潔癖な性格を持っていたとの説もある。

◆「唐人お吉」の映画

昭和5年(1930年)に2本続けて公開される。その後8年間に6回も映画化されており、当時非常に人気のあったコンテンツであったと考えられる。

最初にきちの生涯を書いた村松春水は、下田に移り住んできた眼科医師。きちに関する聞き取り調査をおこない、郷土誌の『黒船』に発表し、次いで単著を刊行する。(村松がきちに興味を持つきっかけとなったのはある人物との出会いであると言われるが、その人物はきちにハリスの元に仕えるよう説得した、下田奉行の伊佐新次郎であったとも伝わる)。

版権を買い取って本格的な小説にまとめた十一谷義三郎は、川端康成や横光利一と共に『文藝時代』に参加した小説家。『唐人お吉』がヒットして、流行作家となる。

◆新渡戸稲造

1862-1933。教育者。『武士道』の作者として世界的に著名。新渡戸がお吉地蔵を建立したのは最晩年であり、依頼直後にカナダへ渡りその地で客死したため、完成されたものは見ていない。