流水先不争
Facebook・近藤裕子さん投稿記事 《 流水先不争 》りゅうすいさきをあらそわず
流れる水 は 争って先に行こうとはしません。
人は 欲望や 煩悩の為に 人をかき分け 押し退けて 先に進もうとして無理が生まれます。
〈流水先を争わず〉は自然に身を任せて流れることの大切さを伝えています。
人も その場 その時 の 状況に応じて 自由自在に変化しながら 自然に任せて生きるべきという事です。
流されず されど流れに逆らわず という生き方、 大切にしたいものです。
Facebook・相田 公弘さん投稿記事
「苦」の本質は、「自分が思いどおりにしたいのに、それが叶わないこと」と釈迦は見抜いていました。
自分の思いどおりにならない場合、西洋的な価値観では、人の何倍も努力をして、自分の思いが実現するまで頑張りなさいと教え込みました。現代の日本の教育は、ほとんどがそこに立脚しています。
しかし、体をこわしたり、精神を病む人が多くなり、自分の人生が何のために存在するかが
分らないという人も増えてきました。
人は抜きん出なければならない、上に上がらなければならないと思い込まされているということに、そろそろ気がついたほうがいいかもしれません。
人は、何のためにこの世に生まれてきたかというと、喜ばれる存在になること、人間の間で、人の間で喜ばれる存在になること、そのためにこの世に生を受けました。
思いどおりにならないことが目の前にある場合に、西洋文明的な解決方法とは別の方法があります。
それは、「思い」そのものをもたないこと。
悩み・苦しみとは、「思い」を持っていて、その思いどおりにならないことを、思い通りにしようと思うから生ずるのです。
従って、悩み・苦しみは、受け容れた瞬間から消滅するのです。
生まれること、老いること、病むこと、死ぬことも、そのまま受け容れる。
そうすると、悩み・苦しみから遠ざかることができます。
悩み・苦しみを持たなくて済むことができます。
宇宙に、地球に、すべてを委ねている人、静かに淡々と暮らしている人ほど、悩み・苦しみは少ないのです。
釈迦が言った「受け容れることで楽になる」ということは、突き詰めていくと、感謝するところまでいくということになるのではないでしょうか。
今、置かれている状況そのものが、実はありがたさに満ちているのではないでしょうか。
目に見えること、耳が聞こえること、呼吸ができること、食べることができること、
自分の足で歩けること、話ができること。
ありとあらゆることを全部、受け容れた瞬間から、感謝になるのではないでしょうか。
小林正観
Facebook・ごとう 孝二さん投稿記事·「花見の言葉の由来は祓えからきている」
桜はいっせいに咲いて、一気に散る。その潔さは、武士の心に通じるものとされていました。しかし古代の日本人は、そのような見方と異なり、桜の咲き方にこのような神の訪れを感じたようです。
「稲作のはじめのたいせつな時期に、田の神が来られて私たちを見守ってくださる」と。
田の神は桜の開花とともに、人里の近くに降りてきて、花が散ると帰っていく。
こう考えた古代人は、田の神に感謝の気持ちを述べようとして桜の開花の時期に、桜の花を求めて山や野原を訪れました。
これが「春山入り」「春山行き」などとよばれる行事です。
さらに桜の花に宿る神様と過ごすことによって、身体にたまった穢れが清められるとも考えられました。古代の日本人は、桜を愛でることを神事と考えました。
そして室町時代に寺院や武家屋敷の庭園がさかんにつくられるようになると、武士たちは庭の桜を見て、「よけいなこだわりを捨てて、散るべきときは潔く散ろう」と感じたといいます。
桜の花はこのようなものだったのですね。
私たちも花見を機に日ごろの嫌な思いを祓い清めて清々しい気持ちで過ごしましょう。