歴史に学び次なる大災害を乗り越えたい
https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20210315-00227367/ 【500年に一度の動乱期と感じる今、歴史に学び次なる大災害を乗り越えたい】 より
福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
繰り返す超巨大地震
東北地方太平洋沖では、大・中・小の地震がそれぞれ、500年程度、100年程度、30年程度で繰り返し起きていると考えられるようになりました。津波堆積物調査などから、東日本大震災のようなM9クラスの超巨大地震が、869年、1454年、2011年に起きたことが分かってきました。前二者は、貞観地震、享徳地震と呼ばれます。この前後には、南海トラフ地震や関東地震、富士山噴火、疫病や飢饉なども起き、時代が大きく変化しました。現代も、東日本大震災から10年、新型コロナウィルスの感染が広がる中、南海トラフ地震や首都直下地震、富士山の噴火などが心配されています。
貞観時代の疫病・噴火・地震
平安時代中期の貞観時代に、疫病が蔓延しました。病死した人たちの霊を鎮めるため神泉苑で御霊会が開かれ、これが八坂神社の祇園祭の発祥となりました。祇園祭は、最後に疫神社での茅の輪くぐりで終わります。この時期、863年に越中・越後で地震が起き、翌864年に富士山が貞観噴火と呼ばれる割れ目噴火をします。この年には、阿蘇山も噴火しました。866年には、応天門の変が起き、藤原良房が摂政に就いて摂関政治が始まります。さらに、868年に播磨国地震が発生し、869年に貞観地震が発生しました。当時は蝦夷との戦が行われていた時期で、東北の拠点・多賀城での津波の様子が日本三代実録に記録されています。翌年の870年に官吏登用試験の方略氏に合格したのが菅原道真です。「弁地震」の問いに対して、道真は、中国で張衡が発明した地震計・地動儀のことを答えて合格します。さらに、871年に震源域近くの鳥海山、874年には九州の開聞岳が噴火しています。
元慶時代・仁和時代にも災禍が続く
元慶時代になっても災禍が続きます。878年に関東地震が疑われる相模・武蔵地震が起きます。この年には、蝦夷との間での元慶の乱がおきています。さらに880年に出雲の地震が起き、仁和時代になって、887年に京都の地震と南海トラフ地震の仁和地震が発生します。このとき道真は、讃岐国の国司だったので、仁和地震の災害後対応を担ったと想像されます。890年に京に戻った道真は、894年に遣唐使を廃止します。こういった中、日本独自の国風文化が芽生えていきます。
日本海溝、相模トラフ、南海トラフなどでの海溝型巨大地震や西日本での内陸直下の地震、富士山などの火山噴火、度重なる疫病の中、応天門の変や元慶の乱が起き、宮廷政治の摂関政治が始まり、国風文化と言える宮廷文化が始まりました。
享徳地震とその後の災禍
室町幕府の力が衰えつつある中、享徳地震が1454年に発生しました。この超巨大地震の17日後には鎌倉で地震があり、さらに17日後に享徳の乱も起きて、関東一円が戦乱に巻き込まれていきました。この後、1459年から、干ばつと台風、大雨洪水、冷害、バッタの蝗害などが重なって各地で凶作となり、疫病も蔓延して長禄・寛正の飢饉が起きました。そして、1467年に応仁の乱が始まり、京の都が焼け野原になります。
応仁の乱が終わった後も、山城の国一揆や加賀の一向一揆が起きるなど混乱が続き、1493年の明応の政変で、戦国時代に突入していきました。この中、1495年に明応鎌倉地震が起きました。この地震は関東地震の可能性も指摘されています。さらに、1498年に日向灘の地震が起き、続いて、南海トラフ地震の明応地震が起きました。太平洋岸の各地で、津波による甚大な被害が発生しました。さらに、1511年には富士山も噴火しました。この間には、1502年に越後南西部での地震、1510年に摂津・河内の地震、1520年に紀伊半島や京都で被害がでた永正地震なども起き、西日本内陸直下の地震が頻発しました。
同時期、ヨーロッパでは、大航海時代を迎え、ヨーロッパから中南米に天然痘が、逆にヨーロッパに梅毒が伝わりました。また、1517年にはルターによる宗教改革が始まり、激動の時代となります。日本は、この後、戦国大名が台頭し、安土・桃山の時代へと移っていきました。
東日本大震災と新型コロナ禍を受けて
東日本大震災から10年が経ち、新型コロナ禍で世界の価値観が変わろうとしています。世界の人口増と気候変動で、食糧難などが予想される中、デジタルトランスフォーメーションやカーボンニュートラルが叫ばれ、従来とは全く異なった世界になることが予感されます。産業革命以降に人類が地球に与えた影響は甚大で、人新世と呼ぶ地質年代まで作り出してしまいました。そんな中、500年前、1000年前と同じように、南海トラフ地震、富士山噴火、首都直下地震などに見舞われたら、一体、どんなことになるでしょうか。
東日本大震災で問われた科学の限界、津波浸水地からの高台移転、液状化危険度の高い土地利用の回避、高層ビルの長周期地震動問題、再生エネルギー利用と電力の安定供給、首都一極集中の是正と自律分散型国土構造、家屋の耐震化などの自助推進、社会インフラやライフラインの耐震強化、地域コミュニティの再生による共助力向上など、進捗は芳しくありません。あらゆる人が力を合わせるコレクティブインパクトで、本気で防災減災対策を進めていく必要があります。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200611-00182716/ 【鴨長明が「無常」と感じた平安末期から鎌倉初期の感染症と災害】より
福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
お坊ちゃんだった鴨長明が無常と語った時代
前回、奈良時代から平安時代の感染症と災害を取り上げてみましたが、今回は、鴨長明が記した方丈記を通して、平安末期から鎌倉初期について見てみたいと思います。鴨長明は1155年に賀茂御祖神社(下鴨神社)の禰宜の次男として生まれたお坊ちゃんです。平安時代末期から鎌倉時代初期の激動期を過ごしました。長明さんは、人生の立ち回りが上手でなかったせいか、禰宜になることができず、最後は、日野に作った小さな方丈の庵に隠遁しました。このときに有名な随筆・方丈記を書き記し、1216年に亡くなりました。方丈記の書き出しの「行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」は、災害が続発し、形あるものは無くなるという、「無常」の心を見事に表現しています。
動乱と疫病感染の中で育った鴨長明
長明さんが生まれた翌年、1156年に、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱が起きました。源義朝と平清盛の力を借りた天皇方が上皇方を破り、これ以後、武士が台頭しました。さらに、1159年に、平治の乱で平清盛が源義朝を破り、力を付けた清盛は、1167年に太政大臣になります。この間、1160年には兵乱による災異改元が行われて、平治から永暦に改元されました。さらに、疱瘡や疾疫などによる災異改元により、1161年に永暦から応保へ、1163年に応保から長寛へ、1165年に長寛から永万へと2年ごとに改元されました。1175年にも、疱瘡によって承安から安元に改元されていて、いかに感染症が蔓延していたかが分かります。
平氏の興隆から衰亡を見た鴨長明
長明さんが大人になったとき、清盛は、日宋貿易で財を成し、その権勢は「平氏にあらずんば人にあらず」とも言われました。ですが、その後、後白河法皇との確執の中、平氏への不満も高まって、1177年に鹿ケ谷の陰謀が、1179年には治承三年の政変が起き、1180年からの6年間の治承・寿永の乱で、平氏が滅亡しました。長明が成人して見た社会は、公家と武家のせめぎあいや、上皇と天皇、摂政や関白の関係など、ドロドロして見えたのだと想像されます。ですが、方丈記ではこの種のことは殆ど触れられていません。
内乱の中で繰り返し起きた災害
この動乱の中、災害が次々と発生しました。方丈記には、都での災害の様子が克明に記されています。1177年6月3日(グレゴリオ暦、以下同様)には、安元の大火が起き、都の1/3が燃え、空一面が紅になり、公家の家も16軒が焼け、七珍万宝が灰燼になったと記されています。大極殿も焼失し、2か月後に、災異改元で、安元から治承に改元されました。
1180年6月1日には、治承の辻風と呼ばれる竜巻が都を襲いました。方丈記には、強風で押しつぶされた家や、柱だけが残った家、垣根が飛んだ家、屋根の檜皮や葺板が木の葉のように飛ぶ様子が描かれています。この2か月後、清盛は、福原への遷都を企てました。
ですが、翌年の1181年に、養和の飢饉と呼ばれる大飢饉が起きました。前年に、干ばつや辻風があって農作物の収穫ができなかったため、田舎の農作物に頼る京の都では、疫病も発生し、飢餓状態になりました。方丈記には、死臭や悪臭が漂い、都の中心部だけで4万2300もの遺体があったと記されています。飢饉の中、福原に遷都した都は再び京に還都しました。1182年には、飢饉、病事、兵革などによる災異改元で、養和から寿永に改元されました。
壇ノ浦の戦いの直後に起きた大地震
源氏が壇ノ浦の戦いで勝利した3か月後に大地震が都を襲いました。1185年8月13日文治地震です。最近の断層調査などから、琵琶湖西岸断層帯の南部が活動した可能性が指摘されています。方丈記には、地震のときの様子が、「おびただしき大地震ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋み、海はかたぶきて、陸地をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖割れて、谷にまろび入る。」「都の邊には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。」「地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。」と記されています。土砂崩れ、河川閉塞、琵琶湖の津波、液状化、家屋倒壊など、様々な現象が、見事に表現されています。
さらに、「かくおびただしくふる事は、暫しにて、止みにしかども、その餘波しばしは絶えず。世の常に驚くほどの地震、ニ・三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四・五度、ニ・三度、もしは一日交ぜ、ニ・三日に一度など、大方その餘波、三月許りや侍りけむ。」と、余震の発生状況も克明に記されています。
そして、この地震の1か月後、元暦から文治に改元されました。
23回もの改元が行われた鴨長明が生きた時代
鴨長明が生きた61年の間に、改元が23度も行われました。その内、天皇の即位による代始改元が8回、「辛酉」の年と「甲子」の年に改元する革命・革令改元が2回、災異改元が13回ありました。61年間の間に天皇が8人も代わったことも驚きですが、災異改元が13回もあり、災異には、重複を含めて、地震が2回、水災が1回、火災が2回、兵革が3回、疾疫が7回、飢饉が1回あります。疾疫の多さが際立っており、多くの人が感染症で亡くなったと考えられます。
人生の中で、都が何度も壊れ、燃え、吹き飛ばされ、遷都まで経験し、多くの人が命を落としていくのを見て、長明さんは、永続しない物事のはかなさを感じ、「無常」を訴えたくなったように感じます。これは、自然への諦めというよりは、自然と共に歩もうとする思いだと考えたいと思います。
福和伸夫
名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。