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奥の細道・越後路

2018.03.28 04:22

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno28.htm 【奥の細道(越後路 元禄2年6月25日~7月12日)】 より

 酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望*。 遙々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百丗里と聞*。鼠の関*をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関*に到る。此間九日*、暑湿の労に神をなやまし*、病おこりて事をしるさず 。

文月や六日も常の夜には似ず(ふみづきや むいかもつねの よにはにず)

荒海や佐渡によこたふ天河(あらうみや さどによことう あまのがわ)

6月25日:酒田を出発。門人達(不玉父子・徳左・四良右・不白・近江屋三郎兵・加賀屋藤右衛門・低耳等)が船橋迄見送り。3時頃鶴岡に到着。丸や儀左衛門宅に投宿。夜になって雨。

6月26日:晴。鶴岡を出発。午後3時頃、温海町に到着。鈴木左衛門宅に投宿。昼過ぎから小雨、夜になって大雨。

6月27日:夜来の雨は止む。芭蕉は馬に乗って鼠ヶ関経由で旅を続ける。新潟県岩船郡山北町にて落ち合う。ここに一泊。時々小雨。

6月28日:朝のうち晴。やがて雨。午後4時頃、村上市に到着。菱田喜兵衛に城内で会う。久左衛門 (伊勢長島時代の曾良の知人。吉兼に着いてきた伊勢長島の商人という)宅に宿泊。

6月29日:天気快晴。村上藩筆頭家老榊原帯刀より百疋 (1/4両=現代の貨幣価値では約3万円程度か)与えられる。帯刀の父榊原一燈(一燈は俳号、曾良 が伊勢長島で遣えた伊勢長島藩主の三男で松平良兼。村上は筆頭家老榊原家に婿入りしていたが、貞亨4年7月29日に没 。曾良が、この旅に芭蕉に同行した理由のひとつがこの一燈への墓参だったと言われている。)の墓参り。宿に帰って冷麦を食べる。午後2時過、久左衛門と瀬波へ観光。帰ると喜兵衛・山野から届け物。友右から瓜、喜兵衛夫人から干菓子の贈答あり。

7月1日:時々小雨。朝門人ら尋ねてきて、皆で榊原帯刀の菩提寺泰叟院参詣。午前11時頃、村上を立つ。午後1時頃、中条町に到着。次作を尋ねる。大変もてなされる。次市良宅へ泊る。時々雨強く降る。夜強雨。

7月2日:8時頃中条町を出発。村上市の菱田喜兵衛方から七郎兵衛宛の書状は不通。昼より晴。午後5時頃新潟着。ここに宿泊しようとするが追込宿という下級の宿しか空いていないという。

7月3日:快晴。新潟を出発。馬代が高いというので徒歩。4時頃、弥彦に到着。宿を取って後、弥彦神社に参詣。

7月4日:快晴。午前8時頃、弥彦を出発。午後4時頃出雲崎に到着。夜中強雨。

7月5日:夜来の雨朝まで降る。午前8時頃、出雲崎を出発。途中雨が降り出す。柏崎に行き大庄屋である天屋彌惣兵衛宅では宿泊を渋られたかして不快ゆえ取って返す。家人はあとを追ってきたが、相手にせず出て行く。小雨のなか、午後5時頃、柏崎市米山町俵屋六郎兵衛宅に宿泊。

7月6日:雨上がる。昼に直江津へ到着。聴信寺に予め書状をやっておいたのに忌中といっていい顔をしない。取って返すと、石井善次郎が追ってきたが戻らずにいた。が再三再四呼びに来るし、雨は強くなるので一旦戻る。宿は、古川市左衛門宅にする。夜、「文月や六日も常の夜には似ず」を発句に句会。

7月7日:雨降り続く。出発を見合わせていると、聴信寺から再三に亘って迎えが来る。夜、佐藤元仙宅にて「星今宵師に駒ひいてとどめたし」を発句として句会。ここに一泊。昼の内少し止んだ雨が夜中には強雨になる。

7月8日:雨止む。出発したかったが、左栗<さりつ>が熱心に乞うのでごちそうになる。午後3時過ぎ、上越市高田に至る。池田六左衛門を尋ねるが来客中なので、寺を借りて休む。細川春庵より招待状が来たので、そこで句会。六左衛門宅に投宿。

7月9日:小雨時々。歌仙あり。

7月10日:時々小雨。中桐甚四良宅へ招かれ歌仙。夜になって帰る。

7月11日:快晴。猛暑。午前11時頃、高田を出立。名立町には書状が不通であったので、そのまま能生町。夕刻能生町着。玉屋五郎左衛門宅に一泊。月が出る。

7月12日:天気快晴。能生町出発。次ぎに続く。

文月や六日も常の夜には似ず

 明日は七夕。天の川では二つの星が一年に一度の逢瀬を楽しむ。今夜はその前夜だがすでにして常の夜とは違った雰囲気を感ずる。7月6日、 新潟県直江津での作。この後、芭蕉一行は、高田の医師細川春庵亭に一泊して、「薬欄にいづれの花を草枕」の句を残す。

直江津にある「文月や六日も常の夜には似ず」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん) 

荒海や佐渡によこたふ天河

 これも最も人口に膾炙した芭蕉の代表的な句の一つ。元禄2年7月7日、新潟県直江津での 佐藤元仙宅での句会での発句として掲出されたもの。ただし、この夜、芭蕉が滞在していた直江津界隈は朝から雨で、夜になっても降り止まなかったらしいから、芭蕉は天の川を見ていない。とすればそれより以前に作ったものを この夜発表したということであろう。そこでこの近日の天候を見ると連日雨で、七月四日の夜に少し星が見えた。だから、この夜出雲崎でこの句は構想されたものであろう。

 夏の日本海は波も静かで「荒海」ではない。また、天の川は対岸から見て佐渡島には「横たわらない」。佐渡と本土に横たわる日本海は、芭蕉の心象風景の中では「荒海」であったらしい。それは、 順徳上皇(1221年)、日蓮(1271年)、日野資朝(1332年)、世阿弥(1434年)など実に多くの流人が佐渡に幽閉されたことによるのかもしれない。そこに「横とう」天の川は、これら流人と芭蕉とのコミュニケーションパスでなくてはならなかったのであろう。

「荒海や・・」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)

酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。:<さかたのなごりひをかさねて、ほくろくどうのくもにのぞむ>と読む。北陸道は現在の国道とほゞ同じで、新潟・富山・石川・福井を結ぶ。

遙々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百丗里と聞:<ようようのおもい・・、かがのふまで130りときく>と読む。加賀の府は金沢のこと。そこまで520kmもあると聞けばさまざまな思いが胸に迫ってくる。

鼠の関:出羽と越後の国境の関所。山形県鶴岡市鼠ヶ関。この日、6月27日 。

越中の国一ぶりの関:<えっちゅうのくにいちぶりのせき>と読む。実は市振は越中ではなく越後である。現新潟県糸魚川市市振である 。

此間九日:実際には16日かかって越後路を通過。

暑湿の労に神を悩まし:<しょしつのろうにしんをなやまし>と読む。「荒海や・・・」の句のような、大作をものしながらここの記述は短い。曾良『随行記』にも芭蕉が病んだ記述が無いことから、「病おこりて」の記述は嘘らしい。柏崎や直江津では芭蕉の待遇について手落ちがあって気分を著しく害した。そのためにここでの記述が省略されたのである。門人たちの心得が悪かったか、芭蕉への尊敬の念が薄く、後世新潟は大損をした。 売れ行き障害

全文翻訳

酒田では、名残を惜しんでつい長居をしてしまったが、ようやく北陸道の旅路についた。

加賀の府金沢まで五百二十キロと聞けば、その旅路のはるけきこと、万感胸に迫る。鼠の関を越えて、越後に入り、そこを過ぎれば越中の国市振の関へと至る。この間九日。暑さと雨の難に精神は疲労し、加えて体調を崩す。ために、記すべき記録を持たない。

文月や六日も常の夜には似ず

荒海や佐渡によこたふ天河