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銀河の序

2018.03.28 05:08

https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/10459786 【芭蕉筆の銀河の序を刻んだ句碑が立っている芭蕉園】 より

芭蕉園 は昭和29年廻船問屋敦賀屋の跡地に芭蕉直筆の銀河の序を刻んで句碑にし、その周りを庭園として芭蕉園と名づけたとのこと。

芭蕉園 には1689年(元禄2)7月、俳人松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中、出雲崎に立ち寄り、「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を残したことを記念して芭蕉筆の銀河の序を刻んだ句碑が立っている。

 松尾芭蕉が門人曽良を共として諸国を歩いた「おくのほそ道」は、元禄2年(1689)3月7日に江戸深川を出発。7月4日に、西生寺から野積を経て午後4時ころ出雲崎の大崎屋泊(芭蕉園前)に到着。ここで「銀河の序」を発表している。昭和29年、廻船問屋敦賀屋の跡地に地元郷土史家佐藤耐雪が芭蕉真筆の銀河の序を碑に刻んで句碑にして小園地に建てて芭蕉園と命名している。 良寛も芭蕉を称えて詩を詠んでいる。

  是の翁以前此の翁無く 是の翁以後此の翁無し  芭蕉翁、芭蕉翁 人をして千古此の翁を仰がしむ。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12595647221.html 【「おくのほそ道」をいろいろ考える~芭蕉はなぜ「銀河の序」を載せなかったのか?】 より

(新潟県出雲崎)

【原 文】

鼠(ねず)の関(せき)を越(こ)ゆれば、越後(えちご)の地(ち)に歩行(あゆみ)を改(あらた)めて、越中(えっちゅう)の国(くに)市振(いちぶり)の関(せき)に到(いた)る。この間(かん)九日(ここのか)、暑湿(しょしつ)の労(ろう)に神(しん)を悩(なや)まし、病(やまい)おこりて事(こと)をしるさず。

  文月や六日も常の夜には似ず  荒海や佐渡に横たふ天の河

【意 訳】

鼠の関を越えると、旅も出羽から越後へと変わり、越中の国・市振の関に着く。

この間九日、暑さと雨に生気を失い、病も起こり、道中のことを記さず過ごす。

  文月や六日も常の夜には似ず  荒海や佐渡に横たふ天の河

「おくのほそ道~越後路」の章の部分である。

読んでの通り、芭蕉は新潟県の部分を大きく省略している。

しかし、芭蕉は「おくのほそ道」とは別に「銀河の序」というものを書き残している。

これは新潟県出雲崎での旅行記と言っていい。

おそらく、当初、これを「おくのほそ道」に掲載する予定だったが、推敲の上、辞めたらしい。

【原 文】

北陸道(ほくろくどう)に行脚(あんぎゃ)して、越後(えちご)の国(くに)出雲崎(いずもざき)ちいふ所(ところ)に泊(と)まる。

彼(かの)佐渡(さど)がしまは、海(うみ)の面(おも)十八里(じゅうはちり)、滄波(そうは)を隔(へだ)て、東西(とうざい)三十五里(さんじゅうごり)に、よこおりふしたり。

みねの嶮難(けんなん)の隈隈(すみずみ)まで、さすがに手(て)にとるばかり、あざやかに見(み)わたさる。

むべ此嶋(このしま)は、こがねおほく出て、あまねく世(よ)の宝(たから)となれば、限(かぎ)りなき目出度(めでたき)島(しま)にて侍(はべ)るを、大罪朝敵(たいざいちょうてき)のたぐひ、遠流(おんる)せらるるによりて、ただおそろしき名(な)の聞(き)こえあるも、本意(ほんい)なき事(こと)におもひて、窓(まど)押開(おしひら)きて、暫時(ざんじ)の旅愁(りょしゅう)をいたはらんむとするほど、日(ひ)既(すで)に海(うみ)に沈(しずん)で、月(つき)ほのくらく、銀河(ぎんが)半天(はんてん)にかかりて、星(ほし)きらきらと冴(さえ)たるに、沖(おき)のかたより、波(なみ)の音(おと)しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腸(はらわた)ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草(くさ)の枕(まくら)も定(さだま)らず、墨(すみ)の袂(たもと)なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍(はべ)る。

  あら海や佐渡に横たふあまの川

【意 訳】

北陸道を旅して越後の国・出雲崎というところに泊まる。

かの佐渡島は、海上約72キロ、波を隔てて、東西約140キロに横たわっている。

山々の険しさ、隅々まで、手に取るように鮮やかに見渡せる。

本来、この島は、黄金多く出て、広く「世の宝」として、限りなく目出度い島であるが、大罪人や朝敵とされた人が「島流し」にされた島となり、「佐渡」と聞くと、ただただ、おそろしい感じがする。

それはこの島にとって、本意ではない事に思える。

窓を押し開き、しばらく旅愁に浸っていると、太陽は早、すでに海に沈み、月ほの暗く、天の川は中空にかかり、星がキラキラと光っている。

沖から波音がしきりに聞こえきて魂が削られ、はらわたちぎれるごとく、悲しくなり、眠ることも出来ず、墨衣の袂を絞るほどに涙を濡らしこぼした。

  あら海や佐渡に横たふあまの川

実に「名文」である。

このような名文をなぜ「おくのほそ道」に入れなかったのだろう。

研究者などさまざまな人が説を唱えているが、私の考えをぜひ聞いてほしい。

それは、〈文月や六日も常の夜には似ず〉を活かすためだった。

この句はあまり評価されていない。

〈荒海や…〉があまりに名句の呼び声高く、霞んでしまった感がある。

私は、芭蕉がこの〈文月や…〉の句を気に入っていて、「銀河の序」の文章を入れてしまうと、〈文月や…〉を入れる余地がない、と判断したのではないか。

実際、この文章はすべて「佐渡島」のことを書いている。よって〈荒海や…〉の句の為に存在する文章と言っていい。これを入れてしまうと〈文月や…〉の入る余地がないのである。

〈文月や…〉は、七夕の前日(文月六日)に詠まれた。

句意は、文月(七月)だな~、明日は七夕だ…。そう思うと、その前日の六日でさえも夜空が美しく感じるな~。というものだ。

な~んだ、大した句ではないではないか…、と考える人もいるのではないか。

実際、正岡子規はこの句を「悪句」と断じている。

子規は『芭蕉雑談』の中で、『芭蕉家集』は殆んど駄句の掃溜(はきだめ)にやと思はるる程ならんかし。

「芭蕉句集はほとんど駄句の掃きだめだと思う」と述べたあと、〈文月や…〉の句や幾つかの句を上げ、拙(せつ)とやいはん、無風流とやいはん。「下手くそで、詩情がない」と断じている。

が、これについて森澄雄さんがこう反論している。

正岡子規は、その『芭蕉雑談』(明治26年)でこの「文月や」の一句を芭蕉の悪句の例としてあげている。

写生的要素のないこの一句の「六日も常の夜には似ず」が単なる理屈に見えたにちがいない。

だが、その革新の功、写生説は別としても、いかにも明治の開化と興隆期の書生流の明晰でなしとげたこの革新者の、しかも当時二十七歳の子規に、この孤心のほのめきが、果たして見えたかどうか。

(略)

芭蕉は長い旅の疲れの孤心の中に、その(七夕の…)前夜の天の川や星のまたたきを仰ぎながら、何かほのめくような遠い思いを感じていたのかもしれない。

―森 澄雄『俳句のこころ』―

澄雄さんはここで「孤心のほのめき」と述べている。

この「弧心」とは、旅に生きる孤高の心であり、「ほのめき」とは、ほのかな華やぎで、

旅に生きる孤高の心に灯ったほのかな華やぎである。

澄雄さんは、明治の書生気質の、まだ27歳の子規に、この「弧心のほのめき」が見えなかった、だから、この句の良さがわからなかった、と言っている。

私なりに補足させてもらえば、芭蕉はこの句の中に、自身の老い、を見たのだ。

随行者・河合曽良の随行日記を読めばわかるが、越後路は炎熱の旅路だった。

宿泊でも苦労していて、加賀に於いて、芭蕉も曽良も体調を崩している。

考えてみれば、越後路の旅は、今の暦で言えば7月下旬から8月上旬…、1年でもっとも暑い時期といっていい。

その炎熱の、しかも海沿いの道を芭蕉はひたすら歩いた。

よく倒れなかったものだ、と思う。

私も夏休みを「おくのほそ道」踏破の旅に使ったが、二回ほどダウンし、途中で断念したことがある。

「おくのほそ道」によって芭蕉は寿命を縮めた、と主張する人もいるが、もしそうならば、「炎熱の越後路」こそ芭蕉の寿命を縮めた最大の要因であろう。

疲れ果てた芭蕉は、(暦の上ではすでに秋となった)七夕前日の満天の星空の下、わずかな夜涼を感じた時、自身の「老い」をも感じたに違いない。

老いてゆくわが身と、永遠なる天の川…、その星空の華やぎが、芭蕉の旅人の心を切なく癒してくれたのである。

きっと、この〈文月や…〉の句は、芭蕉の旅人の心と、その衰えに沿った句で愛着があったのだろう。

それゆえ、名文「銀河の序」を削ってでも、この句を入れたかった、と私は思うのである。

私は去年の「おくのほそ道講座」で、今度の七夕の前夜に、夜空を見上げて、この句を呟いてほしい、と力説した。

そうすれば必ず(一定の年齢を経た人であれば…)、その人の心に「弧心のほのめき」が宿るはずである。