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東松浦郡史 ①

2018.03.28 06:09

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より

                            松代松太郎著

第一章 

肥前国名の起原

 第四十三代元明天皇は奈良朝始めの天皇であるが、和銅六年五月天皇詔らせられて、幾内七道諸国郡郷の名は好字を選ばしめ、其の郡郷に産する所の銀銅の礦物より草木禽獣魚蟲に至るまで、具に種別を詳記し、且つ土地の肥瘠、山川原野の名称遺跡、また古老の相傳舊聞異事等、細大漏すことなく史籍に載せて具秦せしめられた、これ即ち風土記であって、逐次に諸国より奉獻したものである。其の現存するものは常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の五ヶ国の風土記のみで、実に重寶なる史乗である。

 肥前風土記に載収するものを見るに、肥前ノ国はもと肥後ノ国と合して一国であった。往昔第十代崇神天皇の御宇に肥後国益城(マシキ)郡朝雄名(アサクナ)峯に.土蜘蛛打猴(ウチサル)、頸猴(ウナサル)二人のものがあつて徒衆一百八十余人を師ゐて、良民を脅かし皇命に捍ひて地方を乱せしゆゑ、朝廷勅して、肥ノ君等が祖健緒組(タケヲクミ)を遣りてこれを討伐せしめられしが、賊徒誅滅してのち、国内を巡りて民情を観察し、八代郡白髪山に到りたるに、日既に暮れはてたれば山中に露営を張った。然るに其の夜虚空に閃々たる火光見えしが、縹々として自然に降りてこの山に落ちしが恰も燎火(カゞリビ)のやうであつた。健緒組驚き怪みてことの次第を朝廷に具して、臣辱くも聖命を奉じて、遠く西戎を討って梟賊を誅戮せしは、一に稜威(ミイヅ)によるものなることを奏し、また燎火降下の異事をも詳しく聞え上げければ、天皇勅して宣はく、奏聞するところのことは未だ曾て聞かざるところである、火の降れる国なればこれより火ノ国と謂ふべしとて、如ち健緒組が勳功を賞して火ノ君健緒純の名を賜ひ、頓てこの国に遣はして治めしめられた。

 また第十二代景行天臭熊襲を誅して、筑紫ノ国を巡視して葦_北火_流ノ浦(日奈久か)より放出して火ノ国に幸す。海を渡るに日没して夜冥く方途明かならず、忽ち火光ありて遙に行く手を視る、天皇舟人に勅して直ちに火処を指さしむ、果して崖に着くことを得た。天皇宣はく、何と謂へる邑ぞ.国人奏してこの処は火ノ國八代郡火ノ邑なりと、但し火のよって起る故を知らず、天皇群臣に向ひて、その燎は人の火にあらず、火ノ国と號くる所以は今其の由を知ることを待たりと、喜びける。

 第四十四代元正天皇の養老四年五月の撰なる日本書紀には、景行天皇十八年五月壬辰朔、葦北より船を発し火ノ国に到る、是に於て日没し夜冥くして岸に着くところを知らず、遙に火光を視る天皇宣はく何れの邑なるぞ、国人対へて曰く、これ八代縣(アガタ)豊ノ村なりと、また其の火処を尋ねて何人の火在るぞと、然るに遂に其の主を得ず、こゝにおいて其の人火に非ざるを知る、故に其の国を名づけて火ノ国と謂ふと云へり。

 風土記、書紀共に同時代の作である、其の謂ふところも亦略類似す。抑々九州は皇国発祥の地なるも、神武天皇東征後は国家創造の際で、容易に皇威遐陬に及ぶの暇がない。それで九州の地では、南に熊襲、北には今の筑前沿岸地方に、後漢書、魏志に見る如く委奴(イド)国以下幾多の豪族割拠の状を呈した、されど火ノ国なる国號の如きものを見ざりしが、景行天皇西征の挙あるに及び西陬の地漸く王化に霑ひて秩序ある境土となり、天皇巡狩の跡多くの事蹟を残してゐる、火ノ国の名の如きも、確かにこの頃よりの称なること疑ふまでもなきことである。

 火ノ国は後に前後二国に分立した、然るに火の字に更ふるに肥の字を以てせるは、本居宣長も曰へる如く、元明天皇和銅四年の詔に、諸国郡郷の名は好字を用ひしめしかば(前出)、この時よりなるべしと。さもあるべきことである。

第二章

 松浦郡の名称

                                            

 風土記に、昔、気長足姫尊(オキナガタラシヒメミコト)新羅を征伐せんと欲し、この郡に到りて、玉島ノ里小河の側に御食(ミケ)し給ふや、皇后針を勾げで鈎を為りて、飯粒を取りで餌となし、裳(モスソ)ノ糸を抽きとりて*(ツリイト)となし、河中の石上に登りて鈎を投じ祈りて宣はく、朕西方に財(タカラ)の国を求めんと欲す、若し事成り凱歌を奏することを得ば、河魚鈎を呑めと、しばらくにして竿を挙げ給ひしに細鱗魚(アユ)を獲させられた。時に皇后宣ひて希見物(メヅラシキモノ)梅豆羅志なりと。因て時人其処を號けて梅豆羅(メヅラ)ノ国と云ひ、今訛りて松浦ノ郡と日ふ。

                                                  是を以て其の国の婦人、四月上旬に至るごとに、鈎を河に投じて年魚(アユ)を捕ふ云々と。書記にも全く同様に記されてゐる。

 延喜民部式に、肥前国は基肄、養父、三根、神崎、佐嘉、小城、松浦、杵島、藤津、彼杵、高来を管すと、之に依りて見れば、肥前ノ国は、平安朝の初期頃約一〇〇〇年前には、松浦の外に十郡を管治せることが分る。

 古事記、国造本紀及び漢土の書にて図書編等には、末羅とし、魏志には末盧、武備志には馬子喇とも書してゐる。こゝに年代の上より事の齟齬するは、国造本紀に末羅国造、志賀高穴穂ノ朝ノ御世、穂積ノ臣ノ同祖大水口(オオミナクチ)ノ足尼ノ孫矢田稲吉定賜国造と、志賀高穴穂朝は第十三代成務天皇の御代である。然るに気長足姫即ち神功皇后は、第十内代仲哀天皇の皇后である。されば皇后の事蹟は成務天皇の末羅ノ国造を置きし後であれば、マツラなる名称が果して皇后の事蹟によりて起因せしものなるか、はたまた成務天皇の国造設置の時であるか、或は其の以前よりの名称であったか、余は末だ之が判断に窮するものであるが、されど恐らく前二説の音なるか、或は其の時代を去ること遠からざりし頃からの名称ならん、両書共に後世の作なればこの錯誤を生じたのであらう。

第三章 

国造政治時代

国造本紀によれば、火ノ国造=瑞籬(ミヅガイ)ノ朝崇神大分(キタ)ノ国造ノ同祖、志貴多奈彦(シイタナヒコ)ノ命ノ兒、遅男江(チヲエ)ノ命ヲ定メ賜フ国造ニ。また末羅ノ国造=志賀高穴穂ノ朝御世成務穂積ノ臣ノ同祖大水口ノ足尼ノ孫矢田ノ稲吉ヲ定賜フ国造ニ。葛津立(フヂツタチ)ノ国造藤津=志賀高穴穂ノ朝ノ御世、紀ノ直(アタヒ)ノ同祖大名草彦命ノ兒、若彦ノ命ヲ定メ賜国造とす。

 これ我が肥前(肥後をも含む)と、松浦地方に於ける地方官補任の嚆矢である。抑々国造は神武天皇即位二年、珍彦(ウヅヒコ)を倭(ヤマト)ノ国造に、劔根をば葛城(カツラギ)ノ国造と定められた、実に我国最初の官職である(中臣、齋部の如きは職名であって官名でない) 此の後次第に其の補任があって、しかして其の職を子々孫々世襲することが、恰も後世の大小名の制に似てゐる。

 第三十六代孝徳天皇郡県の制を布き給ひ、かやうの族制政治を廃し新に国司郡司を補任せらるゝや、其の郡司には従来の国造及び其の子孫中資性よく事務に堪ふるものを挙げて、大領小領に任じた。(大領小領共に郡の長官であっての大小によりて其差がある)こゝに国造は制度上全く廃絶に帰するに至つたけれども、国造なるものは依然として存し、これ等は其の国の神事を掌り、朝廷よりは国造田なる扶持の給與を受けて居たが、平安朝に入りて次第に衰へ、たゞ後世に及びたるは、出雲ノ国造千家、北島、紀伊国造紀氏、阿蘇ノ国造阿蘇氏、尾張ノ国造千秋氏のみなりと云ふのである。

 次に国造増置の略表を掲げて参照に供しやう。

国造設置の時代 国数

第一代  神武天皇 九

第十代  崇神天皇 一一

第十二代 景行天皇 七

第十三代 成務天皇 六三

第十四代 仲哀天皇 二

第十五代 応神天皇 二一

第十六代 仁徳天皇 七

第十八代 反正天皇 一

第十九代 允恭天皇 一

第二十一代 雄略天皇 三

第二十六代 継体天皇 一

未 詳 一〇

合   計 一三六

 常時我が松浦地方に関する史談の散見するものを抄出すべし、されど主としで、今の東松浦郡及び其の附近に起りたることをのみ記すであらう、以下総て之に做ふものである。

  一 海松橿媛(ミルカシヒメ)

 昔、郡の西北に土蜘蛛なる賊があって、名を海松橿媛と云って凶暴の振舞が多かった。偶々景行天皇が熊襲征伐の途次火ノ国地方を巡狩せさせられた時、陪従の臣大田屋子を遣はして誅滅せしめられたが、其の時霞四方に立ち罩めて物のあやめもわかざる程であった、是より其地を名づけて霞ノ里と曰ひ、後泄訛りて賀周(カス)ノ里と云へりと、風土記に見えて居る。今の唐津村見借(ミルカシ)の地がそれである。書紀には、景行天皇十二年紀元七四二筑紫の賊が叛いたので、親征して之む討伐し給ひ、十八年都に凱旋し給ふにあたり。三月筑紫ノ国を巡狩して、始めて夷守(ヒナモリ)(日向国諸県郡内)に到らせ、四月熊ノ縣(肥後国球磨郡)に到りて弟熊を誅し、同月海路より葦北に出で、五月葦北より火ノ国八代縣豊ノ村に着き給ひ、六月高来郡(肥前国高来郡)より、玉杵名邑(肥後国玉名郡)に渡らせ土蜘蛛津頬(ツツラ)を誅し、それより阿蘇(肥後国内)に到り、七月筑紫の後国(ミチノシリ)(筑後)御木(みけ)に幸し高田行宮(三池郡)に入らせ給ひ、次ぎて八女ノ縣(筑後上妻下妻二郡)より、八月的(イクハ)ノ邑(筑後国生葉郡)を経て、十九年都に還幸し給ふとの、記事がある。

 この書紀の記事は正史に現はれたる史談である、されど天皇西征の頃は文字の記録すべきものなく、後世の記述にかゝるものなれば、正史たりとて史実の脱漏誤記なき能はず、それで風土記の録するところが却って地方の事情を明にする点も鮮くないから、天皇巡狩の跡も正史の傳ふる外に多少の事蹟も存するのである。また親しく其の地に足跡を残し給ふ外に、特に陪従の臣属を遣りて士賊を討ち、庶民を安堵せしめられしこともあるであらう。されば天皇御巡国に際し、一隊の軍兵を派して、松浦半島の一角に蟠居して民衆を害ふ梟賊に討伐を加へられしこと風土記に載するところ全く否定すべからざることである。

  二 神功皇后

                           

 書紀第九巻神功皇后の條を略記すれば、皇后は第九代開化天皇の曾孫気長宿禰(オキナガスクネ)王の女にて、母を葛城ノ高額(タカヌカ)媛とまうし、仲哀天皇の二年立ちて皇后とならせられた。幼にして聡明叡智容貌壮麗であれば、父王これを異み給ふたほどである。皇后天皇に従ひ筑紫に居らせられたが、八年九月群臣に詔して熊襲征伐の軍議を開かせられた、時に皇后神託を得て、熊襲の服せざるは新羅の後援あるが故なれば、先づこれを討たば熊襲は自ラ服従するであらうと、天皇之を聴き給はずして熊襲を撃ちて、勝たずして九年二月橿日宮に崩じ給ふた。皇后は天皇の神教に徒はずして早く崩じたまひしを傷み、更に斎宮を小山田邑(橿日の近地山田郷)に造って、三月、武内宿禰、中臣烏賊津(イカツ)をして神を祭らしめ、新に神託を請ひて、然る後古備臣ノ祖鴨別をして、熊襲を撃たしめられたが、久からずして征定せられた。

  

 荷持(ノトリ)田村に羽白熊鷲なるものがある、人となり強健勇武にして皇命に従はず、毎に人民を盗略して危害を加ふることが度々である。そこで皇后羽白熊鷲を撃たんとて、橿日宮より竃山(宝満山)の麓である松ノ峡(チ)ノ宮に遷らせられた、時に瓢風忽然として起りて御笠飛揚して地に墜ちしが故に、時人其の処を號けて御笠(御笠郡今筑紫郡内)と曰ふに至った。次で層増岐(ソソギ)野(雷山麓)に至りて、土賊羽白熊鷲を撃ちて滅ぼし、左右に宣ひて熊鷲を得て我が心安しと、因って其の処を號けて安(ヤス)(夜須郡)と名づく。転じて山門(ヤマト)ノ縣(筑後)に至りて土蜘蛛田油津(タブラツ)媛を誅戮せられた。

 夏四月壬寅朔甲辰、北ノ方火ノ前ノ国松浦縣に到りて、玉島河に*(イトヘンニ昏)を垂れ給ひて征韓の挙を卜し給ひ(今は垂綸の石は、河中に埋没す)、皇后其の神教の験あることを識しめされてより、橿日ノ浦に詣りて、髪を解き海に臨みて、吾神祇の教を受け、皇祖の霊に頼り、滄海を渡りて躬ヲ西を征せんと欲す、これを以て今頭を海水に濮(ソソ)ぐ、若し験あらば髪自ヲ分れて両つとなれと、即ち髪を海に洗ぎ給へば髪自ラ両分す、皇后便ち分髪を上げ結ひて髻(ミヅラ)となし、男装して士気を鼓舞し給ひ、特に海神底筒男(ソコツツヲ)、中筒男、表(ウハ)筒男の三神を船に祭り、秋九月諸国をして船舶を集め兵を練り、吾瓮(アベ)(糟屋郡相ノ島か)の海人、磯鹿(同郡志賀島)の海人をして海路を偵察せしめられた。適々皇后懐胎の御身なりしかば、石を取りて腰に挿み神に祈りて事竟り還りて、この土に産まんと、其の石今恰土ノ縣の道の邊(糸島郡深江附近の海岸)に存してゐる。そこで荒魂(アラタマ)を祝ぎ於きて軍の先鋒となし、和魂(ニギタマ)を請ふて王船の鎮めとなさせらる。冬十月和珥(ワニ)ノ津(対馬上県郡)より発し給ふたが、順風孕帆艫楫を労せずして新羅に着せらる、王は其の軍旅の威容に恐れ戦慄してなすところを知らず、面縛叩頭して出で降り、天長地久我が飼部(ミムマカヒ)となり、船柁を乾さずして毎年貢献を怠ることをなさじと、又重ねで誓を立て、東に出づる日更に西より出づるも、阿利那礼河の水逆流するとも、河石昇りて星辰となるとも、春秋の貢献は怠らざるべしと、困って皇后は杖つける所の矛を新羅王宮の門側に樹てゝ、以て後葉の證左となさせられた。

 新羅王波沙寝錦(ハザムキン)(王名につき異説あり)は、微叱巳知波珍干岐(ミシコチハトリカムキ)を以て質となし、金銀綾羅*(イトヘンニ兼)絹を奉り・八十船に載せて官軍に従はしめた。これを以て新羅王其の後八十船の調貢を奉るを例となす。因って内宮家(ウチツミヤケ)を定め、大矢田宿禰に留めてこの国を監せしめられた。皇后筑紫に凱旋して、十二月誉田(ホムダ)天皇(応神天皇)を御出生し給ふ、時人其の産処を號けて宇瀰(筑前粕屋郡宇美)と云ふ。皇后群臣を率ゐて穴門(長門)の豊浦宮に移り、先帝の喪を収めて海路より京畿に向はせ給ひ、*(鹿の下に弓耳)阪(カゴサカ)、忍熊(オシクマ)二王(皇后の異腹子)の乱を平げ、應神天皇の攝政たること六十九年、壽一百歳、四月十七日崩じ給ひ、十月狭城(サキ)ノ盾列(タテナミ)ノ陵に葬り奉った。

 皇后は、羽白熊鷺を層増岐野に撃ち給ひしが、今筑前糸島郡肥前小城郡に跨る雷山は、別称層増岐山といひて、往昔士賊の據り籠つたところで今に山上山尾の層増岐野に皇后の遺趾が多い。それより師を反して山門ノ県に田油津媛を誅し、再び火ノ前国松浦縣に到り給ふた。雷山即ち層増岐山の西麓は、今東松浦郡七山村である。玉島村はなほ其の西隣に接続すれば、皇后の松浦縣に入り給ひしは、地理明なるこの山間の険路を犯して、玉島川の畔に出で給ひしものなることを察することが出来る。また皇后巡狩の址には、或は御笠、或は安、或は梅豆羅、或は恰土県の遺跡(糸島海辺に存する皇后の腹帯石)などの史跡何れも正史に記載してゐる。然るに肥前風士記には、逢鹿(アフカ)驛(今の湊村字相賀)は昔、気長足姫尊新羅を征伐せんと欲して出でます折から、此の道筋にて鹿あり、これに遇ひ給ふ因りて逢鹿驛と名づく。また登望(トモ)驛(今の呼子村字大友、小友)は、昔、気長足姫尊此処に到り、留まりて男装をなし給ひ、御臂の鞆(トモ)をこゝに落し給ひしより鞆驛と名づくと。

 東松浦郡湊村八阪神社縁起の中に、湊浦は往昔鰐(ワニ)ノ浦といひ、神功皇后三韓征伐の時軍船を数多碇繋せられしより、湊の称をなすと傳ふ。

 同村字神集(カシハ)島住吉神社縁起に、本社はもと弓張山に鎮座のところ、元禄七年同島宮崎に遷座せり、本殿は神功皇后三韓征伐の時数日間御滞留あらせられ、諸神を神集めし給ひ、干珠満珠の二宝を納められし神社なり、この故を以て神集島といふと。

 同村大字屋形石字土器(カハラケ)崎の土器神社記に、気長足姫尊三韓征伐の時戦勝を祈り、土器に酒を注ぎ海神を祭り給ひし所とて、後世小殿を建立して、気長足姫を祀り土器神社と称すと.

 同郡鏡村鏡神社一ノ宮縁記中の一節に、九月九日の祭日は、肥前国松浦にて御鏡を納め給ひ、天神地祗に祈誓をなし給ふの日なり。今其の鏡大明神の霊地なり。此時天神地祗奇瑞を顕はし給ひ、異国降伏のしるしを得させ給ふにより、末世の今までも、九月九日の祭礼怠ることなし云々と。

 書紀古事記には、風土記以下地方相傳の傳説は、更に一つの記事さへ見なければ、これらの傳説は全く牽強附會の説となすべきか。書紀には十月和珥ノ津を発し給ふとするのみにて、これに註するもの和珥ノ津を對馬の和珥津とし、たゞ御発行前に吾瓮の海人磯鹿の海人をして海洋を探らしめられたのみである。これによりて察すれば、橿日ノ浦より直ちに對馬に御渡航ありし如くなるも、恰土郡に於ける腹帯石、松浦の玉島川の事蹟は既に同書の認容するところであって、共に唐津海岸の地である。曩に皇后松浦の地を訪ひ給ひしは、渡韓地の地形を察知せんがためであらう、さもなくて徒に玉島河に*糸昏を垂れて吉凶を判んぜんがための目的ではあるまい。且つ橿日浦にて、皇后髪を海に浸して両分し給へりと云へる紀の記事も不自然の感がある、寧ろ玉島河の清冽掬すべき淡き河中にて試み給ひたるこそ自然であらう。されば四月、皇后一旦松浦より橿日に還御ありて、軍旅を帥ゐて再び松浦沿岸を傳ひて、恰土郡に腹帯石のことあり、次で玉島河にて分髪吉凶卜定の儀あり、九月鏡町にての戦勝祈祷の挙あり、逢鹿、湊、神集島、土器崎、鞆と唐津湾岸を西北に辿りて對馬海峡の最狭地点たる鞆より、十月韓地に向はせられ壹岐對馬を経て、新羅に入り給ひしと考ふるは無理ならぬ推定と思ふ。また當時小形の艦船にて、冬季北風荒ぶ玄海を横ぎりて橿日浦より直航せんには、忽ち怒涛船腹を噛むの恐れがある、然るに松浦湾岸より加部島、加唐島、壹岐、封馬の大小の諸島を辿りて直北の韓土に向はゞ、恐るべぎ構浪を受くるの難を免るることができる。かやうに史談的記録より考察しても、実際の航路の安全より見るも、皇后の発船地は唐津湾岸よりせるものなりと断定するを至當とせん。

    玉島河につき詠める古歌

           

 萬葉集五巻に、、山上(ヤマノヘ)ノ憶良(オクラ)といへる人松浦の玉島河に遊びて、鮎つるあまをとめ子を見るに、花容をらびなく柳眉こびをなせば、誰が家の子ぞと云へど、答へざりしかば歌よみて遣はしたるに。

        

 あさりする蜑(アマ)の子どもと人いへど

       みるにしらへぬうま人の子を  憶 良

返し 玉島の此川上に家はあれど

       君をやさんみあらはさず有き    海人おとめ

                                   

 まつら川かはのせひかり鮎つると

       たらせるいもがもの裾(スソ)ぬれぬ 憶 良

返し 松浦河七瀬のよどによどむとも

       我はよどまず君をしまたん  海人をとめ

 憶良は筑前守たりし時松浦に遊びたるものにて、今より大約一千二百年許り前の人にて、神功皇后征韓の頃よりおうよそ五百年許り後也の人で、其の時代の歌聖柿本ノ人麻呂、山邊ノ赤人、大伴ノ家持(ヤカモチ)等と共に名を恣まゝにしたる歌人である。

三 島君(セマキシ) 百済の武寧王

 第二十一代雄略天皇の二年秋七月、百済の池津媛、天皇の寵召あらんとする時にあたり、石河ノ楯との間に淫行があつたので、天皇怒り給ひて、大伴ノ室屋大連に詔して、来目部(クメペ)に命じて男女の四肢を木に張り縛して、仮床の上に置きで燔殺せらる。超えて五年夏四月、百済の加須利君(盖鹵王)は池津媛の惨死の情を傳へきゝて惟へらく、女人を貢ぎて釆女(ウネメ)となすは禮でない、既に我が国名を失ふに至った、今後は決して女人を納るゝことあってはならぬとて、王弟軍君(コニキン)を諭して、汝よろしく日本に往きて、天皇につかへまつれと。軍君は君命を奉じて日本に行かん、願はくば上君の寵嬪を賜へと、加須利君これを納れて、孕婦を軍君に與へて孕婦既に産月である、若し渡航の途に分娩したらんには、何処に至るとも一船に載せて速に故国に送還せよとて確く約束して袂を分った。六月朔日、孕婦果して航途筑紫各羅(カカラ)島にて男兒を産む、仍で島君と名づけ、船を艤して島君を百済に送る・これ後の武寧王である。百済の人はこの島を呼んで主島(ニリムンマ)といった。秋七月軍君は無事京師に入り、天皇に奉仕し忠節を励み、家門栄え子女五人を設けた。

                        

 百済新撰に云へるに、辛丑ノ年、盖鹵王は弟*王昆硯支君(コニキシ)を遣りて大倭に向で天皇に奉侍せしめ、以て先王の好を修めしめたと。

 當時、百済、高句麗、新羅の三国を称して三韓と称へた、これ朝鮮はもと漢江を界として南北の二部に別れ、其の北部を朝鮮と云ひ、南部は三国鼎立して、馬韓は西にあり(今の忠清、全羅二道の地)辰韓は東にあり(今の慶尚道の東北部)辨韓は其の西南にあり(今の慶尚道の西南)これを三韓といったのである。後に国土の廃合ありたるも三韓の名称は我国人間に忘れられなかった。神功皇后の征韓以来、我国に貢献奉侍怠ることなく、中にも百済は他の二国が不信反復常なきと異なり、一意誠実を表して違ふことなきを期し、曩きには應神の朝阿直岐・王仁の如き儒者を貢し、百般の文物工芸を傳へ、後には欽明の御代仏教を傳来したるが如き、或は齋明天皇の頃には質子を送りて二心なきを誓ふなど、彼我の交通修好は敦厚であった。かやうに百済は時に或は釆女を貢つり、または学問芸術に勝れたる人物を送つたので、軍君の来朝も亦其の一である。

 各羅は今は加唐と書し名護屋村の内に属する一小島で、水産豊かに住民衣食に安んじ、壹岐を南に距ること四里、名護屋城址を北方に三里の海中に位置して、往昔三韓交通の航路に當れる一島にして、松浦古来略傳記に、加唐島の津守無足二人、足軽二人と見ゆ。萩野由之氏の大日本通史に、各羅島を筑前志摩郡韓良となすも、韓良は博多湾口の一地にして島をなさず、されば余は加唐島を以て各羅島と推定するを至當と思ふ。

  四 大伴狭手彦と佐用姫

 松浦といへば佐用姫を思ひ、佐用姫といへば松浦を聯想する程、彼は山紫水明の郷に麗はしき詩的物語りを遺せるが、今は諸書に散見する記事を抄出略叙して、彼の女と其の對手たる狭手彦の面影を窺ふであらう。

風土記に、鏡渡(カヾミノワタリ)は郡の北方にあり、昔、檜隈廬入野宮(ヒノクマイホリヌノミヤ)にしろしめす武少(タケヲ)廣国押楯(ヒロクニオシタテ)天皇の御宇に大伴狭手彦ノ連を遣りて、任那(ミマナ)ノ国を鎮め兼て百済ノ国を救はしむ。命を奉じてまかり下りて比の村に至る。即ち篠原(シヌハラ)村に嫂(ツマト)ひして弟日姫子(オトビヒメコ)と婚を成せり、容貌きらきらしく特に衆人に絶(スグ)れたり、分別の日に鏡を取りて婦に與ふ、婦悲に堪へず涕泣して栗川(今の松浦川)を渡るに、與ふるところの鏡の緒絶えて川に沈めり、困りて鏡ノ渡と名づく。

                

 また褶振峰(ヒレフルミネ)は郡の東にあり、大伴狭手彦連(サテヒコムラジ)船を発して任那に渡るとき、弟日姫子こゝに登りて褶を以て振り招きたれば、褶振峰と名づく。然るに弟日姫狭手彦連と相分れて、五日の後人ありて夜毎に来り寝に入り、暁に至れば早起して帰る、容姿狭手彦連に酷似す、婦怪みにたえず竊かに績麻(ウミヲ)を以て、其の人の襴(スソ)にかけ、麻のまにまに其の往くところを尋ねて、この峰の頂の沼の邊に到りたるに、寝ねたる蛇(オロチ)あり、身は人にして沼底に沈めり、頭は蛇にて沼堤に臥せり、忽ち人と化(ナ)りて即ち歌ひて曰く、

   

志努波羅能(シヌハラノ:篠原) 意登比賣能古表(オトヒメノコヲ:弟姫子) 佐比登由母(サヒトユモ:眞一夜) 為弥弖牟志太夜(ヰネテムシタヤ:率寝時節) 伊幣爾久太佐牟(イヘニクダサム:家将下)

 時に弟目姫子の従(トモ)の女走りて、事の次第を親族に告ぐ、即ち衆人を発(ヤ)りてこれを看るに、蛇と弟日姫子ともに亡せてあらず、ここに其の沼底を見るにただ人の屍あり、各々弟日姫の骨と謂ふ。即ち此の峰の南に墓を造りて納め置く、其の墓今にあり。書紀には、第二十八代宣化天皇の二年十月壬辰朔、天皇は新羅が任那に寇するを以て、大伴金村ノ大連に詔して、其の子磐(イハ)と狭手彦とをやりて、以て任那を助く、この時磐は筑紫に畏まりて其の国政を執り、以て三韓に備へ、狭手彦は往きて任那を鎮めかつ百済を救ふ。また第二十九代欽明天皇記に、二十三年八月天皇大将軍大伴連狭手彦を遣り、兵数を領せしめて高句麗を伐つ、狭手彦乃ち百済の計を用ひて高勾麗を破る、其の王、墻を踰えて逃る、狭手彦勝に乗じて宮殿に入り、盡く珍宝貨賂七織帳(ナヽヘノオリモノ)、*屋(トバリ)を得て還り来る(*屋は高麗城の西の高楼上にあり織帷は高麗王の内寝に張れり)

十訓抄には、我国の松浦佐夜姫といふは、大伴狭手九が妻なり、男、帝の御使に唐土へ渡るに、捨時なりし故、松浦より唐土に帰りしが、二僧は川上ノ里に観世音一体を彫刻し、また傳登嶽にて追善をなし、卒都婆を建て帰りぬ、其の後一宇を建立して、天台宗傳登山惠探寺と號す、後世この寺廃絶したるを再建して龍雲寺と云へり、これ佐用姫の菩提寺なりと云ふ。

 第四十五代聖武天皇神龜四年、貞女佐用姫の霊石と化せるを、萬代の亀鑑ともなるべしとて、神祇に祀らしめ、田島神社の末社となし奉りぬ。

按ずるに、佐用姫の記傳は奇異の傳説を以て彩粉せられたる、一種の話題であらう。されど狭手彦が勅命を奉じて韓半島に渡航せしことは正史に既に明なることで、其の渡韓の途を唐津湾頭に取りしことは、地理が実際を証明して居る、また松浦の地にて佐用姫と婚媾せしことも事実であらう、或は姫を都人とするは信ずるに足らない。姫が別離に臨みて山上に登挙して新夫を追慕せしことは、人情の然るべきことにて事実であらう、今日にても、山村僻邑にては、親信有縁の人の別離には、之を郊外に送りて地の利に據りて惜別の情を盡すのである。其の他神変不可思議の説話は、唯其の女性の濃厚なる情愛を審美的詩的に形容粉装せるものに過ぎないのである。

 さて篠原村の所在に就きては、柳園随筆などには、鏡村字梶原地方と推断するが如くなるも、これ或は姫の従女が山上より馳せ降りて、事の急なるを人々に報じ、直ちに衆人を催がして登攀せし様より考ふるときは、山密をる梶原を篠原と考ふるも誤りをさが如くなるも、招底に残存する白骨を見て姫の革骸なりといひねる鮎より寮すれば、山麓より登攣して直ちに発見したるものとするは、余りに不合理である、この間多少の日子を費したるや明である。然るに姫は曩に鏡ノ渡即ち粟川(松浦川)を渡って居る。されば姫は梶原以外の地より夫を追ひ鏡山に登り、船影を没したれば田島神社縁記に云へるが如く、更に追跡して北方四里の加部島傳登嶽に到りて、愛惜の情に堪へずして悶死したのではなからうか。今郡の東南隅巌木村(キウラアギムラ)字笹原(ササバル)には長者屋敷(佐用姫の生家長者の屋敷跡)の古跡がある、篠原(シヌハラ)は笹原(サゝハル)と訓みを同うすれば、いつの世よりか篠原を笹原と称するに至りしものであらう。且つ地理上より寮するも、狭手彦は今の筑前より肥前に入り天山南麓を辿り、肥前の国府(佐賀市の北郊)を経て、篠原村に入り松浦河畔を北に唐津湾頭に出でしものであらう。されば余は篠原は梶原にあらずして、飽くまで笹原と信ずるものである。

 加部島の望夫石の故事は、漢土に存する傳説を附會したものであらう。袖下抄、田島神社縁記の外には、古書に散見せないやうである、且つ風土記の如く色彩多き書にも之を見ざるは、恐らく後世の作話に過ぎないものであらう。

    佐用姫を詠める古歌

 遠津人まつらさよ姫つま恋に

     ひれふりしよりあへる山の名   「萬葉集」 山上憶良

                 

 山の名といひつげとかも狭(サ)夜姫が

     此山のへにひれをふりけん    「萬葉集」 後人の追加

 海ばらや沖ゆく舟とかへれとか

         ひれふらしけんまつらさよ姫     同

 

 まつらがたさよ姫のこがひれふりし

         山の名のみや聞つゝをらん      同

 

 鰭ふりし昔の人の面影も

         うつる鏡の山の端の月        定家

 

 蝉の羽の衣に風を松浦潟

          比禮振山の夕涼しも         細川幽齊

 第四章

 国司政治時代

 族制政治は孝徳天皇の朝に至りて廃絶して、新に国司制度なる局面は開展せられた。抑々国司なる官職の史上に見えたるは、第十六代仁徳天皇即位六十二年夏五月、遠江国司の上表に大井河流水の状を奏して居る、これ国司の称の史乗に見ゆる始めである。第二十一代雄略天皇七年八月、吉備ノ上ツ道ノ臣田狭を任那の国司に拜し。第二十二代清寧天皇の朝に、播磨の国司山部ノ連ノ先租伊與ノ来目部ノ小楯を遣はし云々のことがある。第三十二代崇峻天皇の朝には、河内の国司が補鳥部萬(トトリベヨロヅ)が死状を奏し、聖徳太子の憲法十七條中第十二には、国司、国造に官姓を歛することなきを戒め。第三十五代孝極天皇二年冬十月、国司に政治を慎むべき旨の勅があった。第三十六代孝徳天皇大化元年八月、新に東国等の国司を拜し、二年正月畿内の国司郡司を置きしより、次第に諸国に及ぼし。終に第四十二代文武天皇の大宝元年(紀元一三六一)に至りて其の制度が大に整備した。要するに国司の拝任は孝徳天皇の朝に、勅命を以て一般的に設置せられたものである。左に国司制度の略表を記してみょう。

大 国         上 国         中 国         下 国

守一 従五位上   守一 従五位下   守一 正六位下   守一 従六位上

介一  正六位下  介一 従六位上

大椽一 正七位下

少椽  従七位上  椽一 従七位上   椽一 正八位上

大目一 従八位上

小目一 従八位下  目一 従八位下   目一 大初位下   目一 少初位下

史生三         史生三        史生三         史生三

大 国 十 三

上総、常陸、上野、大和、河内、伊勢、武蔵、下総、近江、陸奥、越前、播磨、肥後

上 国 三十五

山城、攝津、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、相模、信濃、美濃、下野、出羽、加賀、越中、越後、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、紀伊、阿波、讃岐、伊予、筑前、筑後、肥前、豊前、豊後

中 国 十一

安房、若狭、能登、佐渡、丹後、石見、長門、土佐、日向、大隅、薩摩

下 国 九

和泉、伊賀、志摩、伊豆、飛騨、隠岐、淡路、壹岐、對馬

郡にも上郡、中郡、下郡、小郡の差別があって、是により郡司の員数に多少の別がある。

大領ー少領(長官)、主政(判官)、主張(主典)、これを総べて郡司と称し皆それぞれ職田を給して居た。

そこで我が肥前ノ国司が史乗に見えたるは、續日本紀三十三巻吉備眞備の傳に、天平勝宝二年(紀元一四一〇)筑前ノ守に左遷し、俄かに肥前守となすと云ふにあるやうである。其の後天平勝宝六年四月庚午、外(ゲ)従五位下黄文連水分(キプミムラジミマクリ)肥前ノ守となって居る。天平宝字元年(紀元一四一七)五月乙卯肥前介一人を加へ、同三年五月壬午従五位下県犬養宿禰吉男肥前ノ守となった。其の彼次ぎ次ぎに其任命があったが、本朝年代紀に肥前守道成は、後一條院長元九年(紀元一六九六)卒去した、其の後は肥前国司として書に散見するところ稀であるが、暦仁二年(紀元一八九九)肥前守家連云々と、鎌倉時代の東鑑に見えて居るけれども、勿論平安朝中頃以後は、国司に何等の權威はない。則ち平安朝中頃京師にては藤原道長の子頼通攝関であったが、実に當時は政弊の極度に達して居た時で、藤原氏は世官世職の悪風を開き、驕奢安逸に耽り、ただ家門の繁栄をのみ計りて政治を顧みず、地方長官たる国司は全く疎外し去られ、兵刑は弛びて不逞の徒**し、財政は紊乱して売官行はれ、成功(各地の富民は財を納れて其の功により官を申請す)とか、重任の功(国司の任期満つるに臨み奏して再任を請ひ其の代償として費用を献じ造営等に備ふ)などの弊習起り、甚しきは當時近畿の百姓の半は官人であったこと、或は東国のものにて夫婦栄欝を買はんとて上洛して、川原院に宿りで夜鬼に咬殺されたとさへ傳へられて居る。されば中央と地方との聯絡は絶えて、京師より発する巡察使(視政官)勘解由使(カゲユシ)(国司更代の時の検察官)も行はれず、また毎年地方の国々より、中央政府に往来する四度の使である、朝集使(国司が次官以下の官吏の功績を録して中央に報告するもの)貢朝使(調の目録を持参して入京するもの)税帳使(調庸の予定案を持参するもの)計帳使(前年度の国衛の決算報告を持参するもの)の制も廃れたから、地方諸国では国司は貪婪暴戻にして百姓の膏血を搾り、国司は倒るゝところに土を掴むとさへ云へる俚諺さへあった。されば院宮諸王領以下の所領の掠奪侵犯行はれ、其の上荘園(租税免除地)日々に増加して朝廷は財政難に陥っても如何とも為すの力なく、国司の任免貶黜のことも意の如くならず、地方は全く混乱状態となった。我が肥前国司の任免も或はこの頃より、紊乱するに至つたにちがひないと察せらるるのである。

   一 藤原廣嗣

 藤原廣嗣は、鎌足の孫宇合(ウマカヒ)の長子である、容貌魁偉、才幹ありて学芸に長じ、博く典籍を渉猟し、また佛教にも通じ、武芸に達し兵法にも造詣がある、其の他天文陰陽の書、管絃歌舞の技能共に精微を究むる故に、松浦廟縁起に五異、「一、髻中に一寸余の角あり、二、宇佐八幡と碁を囲む、三、善馬を持つ、四、善馬に劣らぬ馬丁を有す、五、京都九州間を朝夕に往還す。」七能「一、身体端厳なれども屈伸自在、二、学問内外に通ず、三、武芸に練達す、四、歌舞に長ず、五、音楽に精通す、、天文陰陽の学に通達す、七、妻室の美貌稀なること」の特徴があると賞揚して居る、勿論五異七能は廣嗣を神化するために讃美せるものではあるが、異材であったに違ひがない。天平中従五位下に叙し大養徳(ヤマト)守を経て同十年(紀元一三九八)大宰少弐となった。當時朝廷には吉備眞備僧玄昉唐より還り仕へて寵遇何れも渥つく、眞備は右衛士督を経て大学ノ助中宮ノ亮である。玄昉は僧正となりて宮中道場に出入して寵遇日に盛んで、時に沙門としての行に乖離することも多く、屡々説法といって宮*(モンガマエに韋)に出入した。廣嗣之む悪みて玄昉を排斥せんとしたけれども、天皇これを聴許し賜はなかった。廣嗣太宰府赴任の後其の妻は京師に残って居たが、玄昉その容色の美なるを知り之を姦さんとした、妻之を太宰府に告げしに、廣嗣大に憤怒した。廣嗣また眞備とも不和で、曾で廣嗣を見て人に語っていへるに、この人、必ず世の患をなすであらうと、それで二人の間の感情は大に離反して深き溝が出来た。

 天平十二年廣嗣上表して政事の得失を指げ、天地の災異を陳べて、玄昉、眞備を朝廷より除かんことを請ひし表文がある、されど此は後世の偽作なるが如くなるも.其の詞を記して参考としやう。

 臣聞天子有争臣七人、不失天下、諸侯有争臣五人、不失其国、是故三王御国、恐有過而不聞。五帝冶世、懼患言之不達、或懸旌進善、或置木召謗。伏惟陛下、乃神乃聖、克文克武、重華放勛、何得間然、可謂黄河一清、幸逢聖運也、但聖人千慮、或有一失、頃小人道、君子道消、上下情隔、民不安堵、加以昊天告譴嗟若丁寧、未聞極言、君子之道、豈若期哉。臣家開闢以来、及至今旦、鼎食累世、冠蓋相連、恩賞超於呂鶴、栄寵類於伊周、覆載之恩死而不朽、豈如荊軻感旦之恩、燕報讎、張良思五世之寵、為韓滅秦而巳、雖触龍鱗不敢不陳。臣聞、皇之不極、謂之不*(是韋)、時則昊天示変丁寧、君上若改過修徳、転禍為福、知而不改、天則罰之、然則天平五年至十一年、並六箇歳、太白経天、案劉向五紀諭曰、太白少陰、弱不得専行、故以己未為界、未得経天而行、経天則晝見、其占為兵、為大臣、為民主強国弱主、弱国強臣、勝主此之攻占可畏也、去天平十一年十一月二十七日、太白晝見、在心度、日正午時、見未申上有芒角、最可畏之、穂在申日、心為天王海内主故置積卒而衛己、五星極此度而有変者、主者悪之、雖魏晋末代、君臣同牀時未有太白少陰在心上而晝見也、天平十一年正月二十九日災可畏、太史所知故不復陳、二月二十九日夜半、地震粛墻之内、又詳太史所奏、故不煩重、十二年二月陰獣登樹、奪陽鳥之巣以五行傳按之、恐有誠入牢君位乏象上平、臣愚一奥。識記曰胡法域国亡、頃者備法漸窺、最可レ畏也、何則結集正教之日、十地菩薩、四果聖人、咸集一処告誓言、従此結果以後、一言一字、不得増減、然則増者失音、減者迷律、傳内律教、禁断箸正五位色、而今僧正玄恒著紫*(イトヘン ひも)袈裟、一項違正法、令諸僧尼漸染邪道。豈如此乎、又諸如来三乗教中、未曾聞流及僧侶制僧尼有罪、即若使耳、而今玄昉私制邪律、流放僧尼、内挟舐糠之心、外曜指廉之威、佛昉法之賊、莫甚於此、又出家人者、離出国家、如牢獄、棄捨妻女、如著枷*(金巣)、不得蓄養奴婢牛馬、

*(酉古)酷酒屠肉、耕作商費、而今玄昉蓄養奴婢、興作舎宅聚積財宝、醸酒屠肉、作農商侶、一同白衣、法滅之弥扇、外道之跡頓起、一何悲哉、又出家人者、一切衆生大導師、故堅制威儀、以導三有、又僧正者佛法綱紀、法之興廃、縁此一僧、然此僧無頭陀安居種種威儀、而香花飾身、愛著女色、宛如白衣、無戒有情、又十地菩薩非肉眼之所能見、坐禅静慮之処、非婬欲所縁之境、然許説現身値遇十地菩薩、矯言証坐禅道、昔聞大天汗穢正教、今見玄昉欲絶法綱、遂至令全身丈六佛眼流涙、矯下賤女子偽称弥勤、豈非法滅之相哉、臣愚二矣。金光明巌勝王経説曰、由諸天護持、亦得名天子、三十三天主分力助人王、若王作非法、親近悪人、三十三天衆咸生忿怒心、天主不護念、余天咸棄捨、国所重大臣、朽横而身死、悪鬼来入国、疾疫遍流行、若有*(言 )狂人、當失国位、由斯損王政、如象入花園、頃歳賢臣良将、零落殆盡、百姓死散、里社為櫨、疾疫流行、殆無虚蔵、嗟乎興発之機、係此一時、可不恐哉、臣愚三矣。我朝之為国也、光宅日本、臨長安而竝明、包括萬邦、対唐王以爭雄、但唐王恒云、天無両日、地無二王、無唐則日本、無日本則唐、豈有東帝西帝者乎、遂挟姦心、窺我上国者、歳既多也、*(クサカンムルニ最)爾新羅、虎狼爾心含會稽之恥、蓄勾踐之怨祈躊群望構禍国家。者、日亦久矣、北狄蝦夷、西戎隼俗、狼性易乱、野心難馴、往古已来、中国有聖則後服、朝堂有変則先叛。其為俗也、子報交敵、孫酬租怨。但以畏陛下之威武、服聖朝之文数、匿爪牙於毛中、*(  )羽翼於鱗下、縦令朝堂有肝食之急、邊城有蜂火之警、豈有忍父祖之宿怨忘子孫之甘心哉、頃者賢臣已歿、良将多亡、四隣具聞、八表共識、當今之務、練習五兵振威四海、先*(言争)後実、災変或視能崇賢選士、撫慰萬邦割郤庸祖簡易庶務復八柱之已傾張四維之将絶、然則遠粛近安、民豊国富、太平之基、華戎共欣、康哉之歌、朝野同音、豈可偃武棄備、将士解体、修徐偃之仁義、従蹈楚之許謀乎、兵法曰、天下雖安、忘戦必危、勿恃彼之不来、恃我有備而待也、然解郤兵士、出売牧馬、抑止射田、若斯事條、未見其可、臣愚四矣。玄昉掌中有通天之理、直達中指、傳聞唐相師曰、當作天子、玄昉竊負此言覬覦宝位、*(火火ワ火)螢惑 陛下、欺詐后宮讒間蕃屏之族令朝廷無維城之固、放逐棟梁之家、令左右絶忠良之臣屡出酷政令天下積怨於陛下、挙動大役、令萬民疲弊於興作、偃武棄備、令国家忘戦、愛養死士不畜萬金之資、所有行事一同文種滅呉九術、従五位上守右衛士督兼中宮亮近江守下道朝臣眞吉備、邊鄙孺子、斗*(竹カンムリニ肖)小人、遊学海外、尤習長短、有智有勇、有辨有權、口論山甫之遺風、意慕趙高之権謀、所謂有為姦雄之客、利口覆国之人也、亦作玄昉左翼而蔽陛下明徳、臣熟視二盗、契為此目、雖陛下撫育恩超同位、而進退周旋、猶如餓虎、先知二盗必有大求、若不早除、恐貽噬臍之憂、大公曰、涓水不塞、将成江河、両葉弗去、将用斧柯、夫視日月之光、不為明目、聴雷霆の動、不為聡耳、所謂上智者、居高堂之上知日月之次序見瓶水之中、知天下之寒暑、臣請賜尚方剣芟夷二盗省除苛政、以扶傾運、誅無忌而謝呉王、楚子故事、戮晁錯而賜七国。漢帝上策、臣愚五矣。臣聞鴟*(号鳥)山鳥、猶惜毀巣、況乎我国家宗廟社稷、與日月競其照臨、與天壌齊其始終然為玄昉姦賊、吉備凶竪所謀、豈不哀哉、忠臣義士、以何面目、戴天蹈地乎、廷屈師傳、朱雲高士、折檻匪罪、漢成明徳、幸照盆下納臣愚息所謂蒭蕘之言、聖人猶擇、天下幸甚、表入不省。と。

 兎角に、廣嗣は何かの形式によりて朝廷に献言したには相違がない、それでも時の聖武天皇御聴許がなかった。九年廣嗣終に反旗を飜すに至った、軍営を筑前遠河郡に造り、*(火逢)烽(ノロシ)を置き、兵員を徴募せしが、西海の諸国これに應じ集る、依て廣嗣は三道より官軍を拒がんとして、自ら大隅薩摩筑前豊後の兵合せて五千余人を率ゐて、鞍手道より進軍し、弟綱手は筑後、肥前の軍勢五千余騎を以て、豊後路より進み、多胡古麻呂は田川道より進撃を謀り、廣嗣の兵勢一時は侮るべからざる形勢があった。

 朝廷にては大に驚き、直ちに従四位上大野東人を大将軍となし、、紀ノ飯麻呂を副将軍とし、軍監軍曹各四人に、東海、東山、山陰、山陽、南海五道の軍一萬七千人を発して、廣嗣を討伐せしめられ更に援兵として従五位上佐伯常人、従五位下阿部虫麻呂等に、隼人二十四人竝に軍士四千人を率ゐて発せしめられた。又筑紫管内諸国の官民に勅せられて、逆人廣嗣もと凶悪詐謀に長ずれば、其の父式部卿常にこれを除かんとせしも、朕これを許さず掩護して今に至った、然るに頃日京にありて親族を*陥するなどの非行ありたれば、遠く筑紫に遷して改心を期せしに、計らざりき彼擅に狂逆を企て人民を擾乱するとは、其の不孝不忠の行は実に天地に違背し、神明の責罰忽ち至りて滅びんこと朝夕に迫って居ることは、前に既に勅符を以て筑紫に報ぜしところなるも、逆徒これを途に要て遍く知らしめずと云ふことであるから、更に勅符数十條を発して諸国に散布せしめしゆゑ、之を見るものは直ちに其の顛末を知れ、もし廣嗣と同心共謀のものも、改心悔悟して廣嗣を斬殺し蒼生を安んずるものには、白丁には五位以上に叙し、宮人には等に従ひて其の位を進め、若し身殺さるゝものには其の子孫を賞するであらう、忠心義士報国の念あるものは速かに事を決行せよ、また大続発のことをも普く知らしめよとて、騎士に命じて官符を各所に散ぜしめられた、又国別に彿像を造り経巻を写さしめて、乱徒鎮撫の祈請を行はしめられた。かくて東人等進みて豊前に入り廣嗣の将にて豊前ノ国京都(ミヤコ)郡の守備をなせる小長各(ヲハツセ)ノ常人等を斬り、登美、板櫃(イタビツ)、京都三所の軍兵一千七百六十七人を捕虜にしたが、京都郡大領である*(木若)田勢威呂は五百騎を以て、中津郡擬少領なる膳東人は八十人、下毛郡擬少領なる勇山伎美麻呂、築城郡擬少領佐伯豊石は七十人を以て各々迎へ降参した。

                 

 十月廣嗣兵一萬を率ゐて豊前国企救(キク)郡板櫃河に到り、自ら隼人軍を具して前鋒として進み、木を編み筏を作りて将に河を渡らんとしたが、佐伯常人、安倍虫麻呂は弩を発して防戦せしに、廣嗣退きて河西に陣した、常人等軍兵六千余騎を率ゐて河東に對陣し、隼人等をして呼ばしめて、逆人廣嗣に随ひて官軍を拒ぐものは、罪科妻子親族にも及ぶものであると、廣嗣の兵矢を放つものがない、常人また廣嗣を呼ぶこと十度なるも猶之に應へなかったが、少時にして廣嗣馬を陣頭に進めて云へるに、勅使来ると聞くそは何人なるか、常人答へて、勅使衛門督佐伯太夫、式部少輔安倍太夫であると、廣嗣始めて勅使たることを知れりと、馬より下りて再拝して云へるは、廣嗣敢て朝命を拒むものでない、唯朝廷の乱臣二人を誅せんと請ふのみ、若し苟も朝廷に抗することあらんには、吾天神地祇の誅罰を免れぬであらう、常人詰りて、果して然らば勅符を賜はりて太宰ノ典(スケ)以上を召されしに、何とて至らずして兵を動かして背叛したるは何の故なるかと、廣嗣語窮して答へず馬に乗りて退いた。

 廣嗣配下の隼人三人は河を泳ぎて東岸に至り官軍に投じ、それより隼人廿人及び兵十余騎相継ぎて降参した、そこで衆潰走して兵勢頓に頽れしが、廣嗣愈々事のならざるを知り馬に乗り西走し、肥前値賀島より船を発し、東風に帆を上げ数日にして一弧島を見る、舟人指してこれ耽羅島(朝鮮全羅道の済州島)なりと、然るに西風忽ち起りで船進まず、廣嗣驛鈴を捧げて、我はこれ国を思ふの忠臣である神霊猶吾を棄つるか、乞ふ神冥吾を加護せよと、鈴を海中に投じたるも、風波彌々甚しく船漂蕩し、還って再び値賀島に着き、上陸して東行せしが長野村に至りて、進士安倍黒麻呂のために捕へられ、東人等戦掟を奏聞した。

 十一月詔を下して之を斬る、詔書未だ到らざるに、東人は廣嗣湘手の兄弟を松浦に誅したが、これ今の玉島村大村神社の邊なるかのやうである。明年正月余黨竝に生虜の罪科を決して、杖、徒、流、死などに処せられしもの三百余人、始めて乱治平に帰するに至った。然るに廣嗣の霊屡々禍をなす、十七年勅して玄昉を筑紫に貶して、観世音寺(太宰府にあり)を造営せしめ、十八年六月工成りて玄昉慶道師となり輿に乗り殿堂に入るや、忽ち彼を空中に捉提するものありて影を失ふたが、後日に至り玄昉の首、藤原氏の菩提寺である奈良興福寺の唐院に落ちたといふ。これ恐らくは廣嗣の残黨が玄昉の不意に乗じて迅雷の勢を以て之を刺殺し、廣嗣の遺恨を報じたることを、かやうに言ひなしたるものであらう。また眞備は次ぎの第四十六代孝謙天皇即位二年に筑前ノ守に左遷せられ、次で肥前守に轉ぜられたが、彼れは廣嗣の霊を慰むるため松浦に至り、鏡村に鏡官二ノ宮を建立し(一ノ宮は神功皇后を奉祀す)玉島村の墓邊に知識無怨寺を剏立した、これ即ち今の大村神社である。

 長野村、続日本紀十三巻に、捕獲賊廣嗣於松浦郡値賀島長野村云々。元禄圖繪に松浦郡に長野村あり。値賀島の内か不明(太宰管内志)長野なる地は、今の西松浦郡大川村の一字なるが、廣嗣平戸の邊に上陸して東行の際、或はこの地にて捕へられ、約四里計りの北方海岸の玉島にて東上の途中寧ろ殺すに如かずとして斬殺せられしものとすれば、地理上然るべきやう肯定せらる。

 色都島(シツシマ)、また続紀に、廣嗣之船従智駕島発風波甚、遂著等保知焉色都島(トホチカシツシマ)云々、元禄図絵に五島のうちに獅子村あり、是シツをシシと唱へ訛りたるにあらざるにや(太宰管内志) 

 橘浦、松浦廟本緑記に、遂吹著小値賀島次還来松浦橘浦云々、田平と長板との間に立花と云ふ処あり是在るべし、海を隔て平戸に對へり(太宰管内志)

 馬部(マノハマリ)、鏡神社より西方約五里の海岸に、値賀川内あり今値賀村の内に属するが、恰も其の中間に佐志村字枝去木の内に馬部といへる土地がある、口碑に。廣嗣遁走の際馬を深田に乗り入れ遂に捕へられしところと。地理より察すれば、これまた理なき傳説にもあらざるやうである。序に附記しおく。

 値賀島の名は、古事記、風土記に見えしを始めとす、後、三代実録二十八巻に、貞観十八年合肥前国松浦郡庇羅、値嘉両郷、更建二郡、號上近下近、置値嘉島云々。また日本後紀に、弘仁四年新羅人一百十人駕五艘船、著小近島與土民相戦、即打殺九人捕獲一百一人云々。小近島は平戸の西南方に在って、今も猶小値賀島と称へ、長崎縣北松浦郡内に属す。されば値嘉島と称するは、今の五島、平戸地方の総称である。

 太宰府、往時外蕃諸国の来航は、必ず筑紫に至るを以て、大化より数世以前に此に鎮所があって一には来航の便を計り、一には邊地防守の備へとした。文武天皇の大宝の頃より太宰府と称し九国二島(壱岐対馬)を管轄せしめたが、廣嗣の乱ありてより天平十四年之を廃して、九州一円に国司の制を布いた、今其の府の官制を記せば、

 主神(九国一般の神祭を掌る、相當正七位下の卑官なるも、敬神の古義によりて、順次は帥の上に列す)

 帥(長官)(親王の官に擬せしが、中古以来権帥を以て大臣等左遷の官とし、事務を行はしめた)。

 大貳、少貳(次官)、大監、少監(判官)、大典、少典(主典)、史生等以下の諸官がある。