東松浦郡史 ③
http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より
三 元寇と松浦地方
今を去ること六百五六十年前に、元国が巨萬の軍を送りて入寇せしことは誰も知って居ることであれば、先づ其の概要を記して事の次第を叙し、然る後に松浦地方に関して起りしことを述ぶるであらう。
元の世祖忽必烈(フビライ)は、高麗が其の属国の姿となるや、次で我国をも服属しやうと欲し、第九十代亀山天皇の文永五年高麗王を介して、左の如き国書を我に贈りて通交を求めた。
上天眷命、大蒙古国皇帝、奉書 日本国王朕惟自舌小国之君、境土相接、尚務講信修睦、況我祖宗、受天明命、奄有区夏、遐方異域、畏威懐徳者、不可悉数、朕即位之初、以高麗无辜之民、久瘁鋒鏑、即令罷兵、還其彊域、反其旄倪、高麗君臣感戴来朝、義雖君臣、而歓若父子、計 王之君臣、亦已知之、高麗朕之東藩也、日本密通高麗、開国以来、亦時通中国、至於朕躬、而無一乗之使、以通和好、尚恐、王国知之未審、故特遣使持書、布告朕志、翼自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海為家、不相通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其図之、不宣。
至元三年八月日
かやうな無礼極まるものであるから、時の執権北條時宗怒りて使者を追つかへし、其の後使者度来りしも悉く之を郤け、九州の防備を厳にし開戦に決した。
それより亀山天皇の御子にて後宇多天皇の文永十一年、大兵を発して對馬壹岐を侵掠し、進んで肥前・筑前に寇した、少貳経資、大友頼泰、菊地隆泰等は九州の武夫を糾合して、防戦苦闘したが、たまたま暴風起りて敵艦多く破れて、夜にまぎれて逃げ失せた、これを文永の役といふ。
この後元はまた使者を遣はし我に服従を逼ったけれども、時宗は却って愈々心を決し其の使を斬り防備怠りなく、更に進みて高麗を伐たんと企てしが、彼は我が逆撃に先だちて、弘安四年(紀元一九四一)五月元の一軍は朝鮮を経て高麗の兵を併せて、壹岐を掠め、博多に迫った。我が将河野通有等奮戦して敵艦に跳り入りて其の将を*(テヘンニ禽)にし、七月敵の別軍十余萬の勢も至りて前軍と合して容易ならざる兵力となったが、またも暴風雨大に起りて賊船多く覆没破壊し死者算なく、少貳景資等勢に乗じ残兵を追撃し、賊を肥前鷹島に殲滅した、之を弘安の役といふのである、さてこれより松浦地方に関することにうつるであらう、但し諸書に見えたる記事を抄出して、別々に記さん。
高祖遺文録に。文永十一年蒙古国より筑紫に攻め寄せ来りて、對馬のかためをなしてゐた對馬尉等逃げければ、賊は土民の男をば或は殺し或は生取にし、女をば或は取集めて手をとうして船に結び付け、或は生取にし、一人も助かるものがない。壹岐に寄せても亦同様であった。奉行入道豊前々司は逃げ落ちた。松浦黨は数百人打たれ、或は生取にせられたが、賊の寄りたる浦々の百姓共皆壹岐對馬のやうなうきめに蓬ふた。
日蓮註畫讃に。十月十四日壹岐島に押し寄せ、守護代平内左衛門景隆等城廓を構へ禦戦すると雖も蒙古乱入して景隆自殺す。二島の百姓等男は或は殺され或は補へられ、死は一所に集められて手を徹して船ばたに結び付けられ、虜はれざるものは一人も害せられざるなく、肥前松浦黨数百人も、或は伐たれ或は虜となり、この国の百姓男女等も壹岐對馬の如く災害を蒙った。
古寇記に。肥前松浦黨数百人或は戦死し或は俘となり、里民害に遇ふこと二島(壹岐對馬)のやうであった、また「鎮西要略」には、諸将の寇を禦ぐことを挙げて云へるに、壹岐・松浦・今津・博多などに到りて防戦した。この松浦と称するは如ち肥前松浦郡であって、則ち賊の肥前沿海を寇するを知るべし斯の時に方りて、松浦の族黨已に繁衍し分れて数十家となる、松浦・波多・石志・神田・佐志・相知・有田。大河野・峰・山代・八竝・値賀。紐指・鷹島・鶴田・鴨打・木島・黒川・清水・吉永・手方・志佐・吉野・宇久・早岐・御厨・小佐佐・伊萬里・津吉・諸氏を世にこれを松浦黨と称し、西方の巨族となった皆西肥壹岐の間に居て、蒙古来寇の時各々其の衝に當って防戦せざるはなし、たゞ恨むらくば其の姓名功績の傳はらざるを。
伏敵編に。弘安四年元軍十有余萬大挙して来侵したる時、松浦黨の山代栄(又三郎)志佐継(次郎)は壹岐に戦ひ、相知比・石志兼・宇久競は肥筑の間に転戦し功を立て、或は戦死し或は傷つきたりと鎮西要略に。弘安四年辛巳、蒙古の大軍襲来す、夏六月、元蒙古の阿刺罕(アラカン)・苑文虎上将となり、忻都(キント)・洪茶丘(コウサキウ)次将として数千艘の舟師を遣はし、以て我国を伐つ、其の兵幾百萬なるを知らず、壹岐・對馬・松浦・平戸・筑前の北海に襲来し、舳艫相含みて千里の空を蔽ひ、鉾戟天に輝き渡る様は鎮西にては未だ異狄の斯くの如き軍粧を見ず。小貳・大友・島津・菊地・以下鎮西の侯伯三十二人及び中国・四国の軍兵、太宰府に参集するもの二十五萬騎で、宗像・香椎・立花。多々良濱・青柳・筥崎・博多・名島・鳥飼・赤坂・生松原・百路原・今津・今張・姪濱・松浦・平戸に至る、東西数十里の間に陣を張りて、蟻の列を作るがやうである。七月二日松浦黨・彼杵千葉・高木。龍造寺等数萬騎を以て、壹岐島瀬戸浦に戦ふ、賊は舸上の高楼に登りて火箭鐵砲を放ちて大に防戦す、我が軍これがために死創を被るもの若干なりと。
元寇の役につきては、我が東松浦郡内に住したる松浦黨の輩が、勇戦奮闘したることは前記諸書抄出によりて概略を知るに足れど、蒙古寇記に云へるやうに「たゞ恨むらくば其の姓名功績の傳はらざるを」、と、実に其の言へる如くにして記録なきを遺憾とするものである。しかして當時唐津地方沿岸の警固の物々しさと、修羅の巷となりしことは、宗像より平戸に至る海岸に数十里の間長蛇の陣を張りたるを以て推想するに足る。
四 東寺と松浦の荘
元弘元年(紀元一九九一)京都東寺は其の領地肥前松浦の荘が、所定の納米をなさず専横放恣のことありたれば鎌倉、幕府に訴願を起して其の処決を仰がんものをとて、左の如き訴状をなした。
東寺文書に。最勝光院所司等謹んで言上す、急ぎて御奏聞を経させられ、綸旨を武家に成し下され、六波羅御施行を鎮西に申し成し、厳密に御沙汰を経させられんことを欲す。當時領肥前松浦荘の地頭等、正中元年以来本家寺用米を抑留す、其の咎軽からざる事。
右當荘は往古寺領なり、寺用百貳十石其の沙汰致すの地なり、而して異国要害のため地頭等一圓管領す云々と。然りと雖も本家役寺用米に於ては、更に懈怠なきのところ、近来恣に寺用を捍げ寺務遷替の間、厳密の沙汰に及ばざるにより、彌々闕怠す。其の咎遁れ難きものなり。爰に正中元年、最勝光院を以て東寺に附せられ、六箇鄭重の御願を始め行はれ、官符を関東に成し進められ、殊に公家武家の安全を祈り奉るべきの由其の御沙汰あり、関東御施行の上は、早く綸旨を武家に下され、年々懈怠なく向後寺用を妨ぐることなきやう、厳密の御沙汰経させられ、急速に裁断に預りたく、粗言を上ること如件。
元徳三年四月日 (元徳三年は元弘元年と改元す)
右の文書によれば唯松浦として松浦の何地なるや不明なれど、當地方の武家政府の配下たる地頭等が我まゝ勝手を振る舞ひて、本家本所を無視したる、當時の地方の状態が目前に視らるゝ如き心地がせらるゝのである。
五 松浦氏
肥前守源鎮信入道泰岳(式部卿法印たりしゆゑ平戸法師ともいふ)は、前肥前守隆信入道道可が男にて、累代の先祖肥前国松浦郡に住し、松浦黨の随一として太宰少貳の被官である、入道道可八代の祖肥前守興栄のとき、平戸の城を構へて移り、當国に勢威を振ふ。
其の家系に。河原左大臣源融公の末葉。奈古屋二郎源授、その子源太夫判官久始めて松浦の郡に住す、その子直下松浦源四郎太夫と名のり、御厨の庄七百五十町の地、久より譲り與へらる。其の子峰五郎枝、これより四代の間峰と名のる、枝が玄孫答松浦源五郎と名のる、これより世々松補と名のる、其の子肥前守定、その子肥前守勝、その子を肥前守興栄といふ。
然るに世に傳ふる所は大に異なり、凡そ肥前国の侍に、上と下との松浦ありて其の種姓各異なり先づ上松浦と云ふは、嵯峨天皇の御子源融公の玄孫渡邊源五鋼が曾孫、松浦源太夫判官久が末葉である。久、肥前団松浦の守護と成って宇野の御厨の執行を兼ね、子孫打続きて唐津・伊萬里・有田・山代・久原等の地を領し、皆一字を以て名とした、鎮西の国人にて一字を名のるの輩は悉く此の後である。又下松浦といふことを、平戸松浦とも云ひて、是は陸奥六郎の押領使安倍頼時の男、宗任法師の後胤である。宗任源頼義朝臣に降りて、死罪一等を宥るされて肥前国に流さる其の子孫打続いて平戸に住して下の松浦と称す、これ肥前守鎮信の先祖である云々と、諸書に見ゆ。
されども古記を考ふるに、上松浦の人々多くは一字を名のる源氏もあれど、又二字を名のる源氏もある。下松浦にも一字を名のる源氏があって、上下松浦ともに、近頃は安倍氏を見ざれば、宗任の後なる下松浦の流如何なりしにや、後にはそれも亦源氏を名りしものにや。松浦系図を見るに、授より勝まで十一代の中皆一字を以て名とす、興栄より後は皆二字を以て名とするは如何なる故にや。
系図に融の大臣より授に至るまでの世嗣不明なりといふ。新編纂図には、融の大臣の男大納言昇、昇の二男武蔵守仕、其の子箕田源氏苑、其の子渡邊源五綱。綱が子源二別當久、これ鎮西松浦の祖なりと云ふ。東鑑には、寛元三年十二月廿五日、松浦の執行源授を召籠あらる、是れは上野入道日阿が所領の守護にて、鶴田五郎源馴と肥前国松浦庄西郷の内、佐里村・壹岐の泊牛牧等争論の事に付て、授、非據の余り無実を構へ申すに依りてなり云々と。これ系図に謂ゆる、名古屋二郎授のことならん、然らば系図に授が孫久より松浦に住すと云ふも不審、授既に松浦の執行たり、総て遠き世の事詳かにし難き事共多ければ、只その疑をかくるのみ。
其の後少貳家滅びて、松浦家は大内氏に随ひ、道可入道の時に至り、天正の中頃、又龍造寺隆信に随ふ。同じき十年對馬国の兵船壹岐国に押し寄せて、国人日高主膳正を随へんとす、主膳正同甲斐守、宗が軍勢を打ち破って松浦氏に加勢を乞ふ、入道軍勢を率ゐて押し渡り、己が兵を分って要害を守らせ、終に壹岐を併合するに至った(道可娘を日高主膳正が男孫九郎にめあはせしとなり。)同十五年豊臣関白筑紫の地を平げ給ひし時、道可が息男鎮信入道降参せしかば本領を安堵し、十七年二月廿七日式部卿法印に任じた(鎮信が入道せし事いかなる故にや審ならず。関白に参りし時に入道したるにあらすや)朝鮮の軍始まりて一方の先陣を承り、彼処此処に戦ふこと凡七年慶長三年太閤薨じ給ひて本朝に引き返す。同四年閏三月六日隆信入道道可卒す、七十一歳。翌五年関ケ原の役起るや、小西攝津守行長の諜状に應じて平戸法印、兵船に取り乗って長門国下関に至り鎮西の人々此処に會合して軍評定をなす、大村氏の異見に随ひ、人々爰より本国に漕ぎ戻す、天下悉く徳川氏に属して後、法印も恙なく本領を安堵せらる(六萬三千石) 按ずるに平戸法印大阪に馳せ上り、伏見城を攻めし由、家忠日記追加を始め、関ケ原の事を記せし諸記に見ゆ、唯関ケ原記に記す所、本文の如し、本領安堵せし上は諸記皆誤れるにや、若し松浦が勢伏見城を攻めしならんには、大阪に在り合ふ兵、奉行等にかり催されて打ち立ちたりしにあらずや。
年六十六歳にて慶長十九年に至りて卒す、子息肥前守久信慶長七年年三十二歳にて父に先き立ち卒しければ、其の子壹岐守隆信祖父に継で肥前守に任ず、隆信の嫡子肥前守鎮信父に継で(六萬千五百石此の両代皆父祖の名を名乗る如何なる謂れにや)、舎弟に所領を分つ(猪左衛門信貞千五百石左内某五百石と云ふ)
以上は総て藩翰譜の文を取りて要を記せるものである
九州軍記には、永禄十一年五月龍造寺隆信は、平戸ノ守護松浦民部大輔を旗下に属せんとて、彼の地に押し向ふ、民部大輔この事を聞きて、大友家に加勢を乞ひければ、大友より同国波多尾張守、筑前国小田部大鶴等平戸に指向ふべしと催促ありけり、隆信この事聞きて加勢の来らぬ先に、松浦を攻め落さんとして永禄十一年四月廿九日に、松浦が領内に働く、松浦堪へ兼ねて伊萬里と云ふ所に打ち出で、散々に攻め戦ふ、同国唐津城主波多尾張守は、兼て松浦方にて有りけるが、俄に野心を起して龍造寺に與力しければ、松浦忽ちに打ち負けて、漸くに小舟に取り乗って平戸城に引き籠る、隆信続て寄すべかりしを、迫門(セト)を渡るべき舟なくして延引す、後に松浦も龍造寺が勢におされ、伊萬里千町を隆信に差し出して旗下となる。
肥前守鎮信の後、棟(タカシ)・篤信・有信・誠(サネ)信・熙・曜(テラス)・詮・原をる當主に及び、家門繁栄して伯爵の礼遇を受けて居る。松浦黨の後に現在繁栄せるは同家のみで、草野・披多氏は何れも三百年前に滅亡したのである。
六 草野氏、
筑後地鑑により草野の系図を尋ぬるに、其の先きは奥州厨川の城主安倍宗任、肥前松浦郡に配流せられ、小値賀島に居る、其の末葉に及び、頼朝公筑後に於て山本・御井・御原の内三千町を賜ふ、乃ち草野ノ庄吉本村に城く、よりて草野氏を称す云々。
鎮西要略によれば、関白道隆-太宰帥文家-太宰帥文時-中将文貞-太宰大貳季貞-貞永に及ぶ。貞永は筑前守高木・草野・北野・於保・益田・成道寺等の祖となる。貞永の子を太郎大夫宗貞と云ひ、宗貞に宗家・貞家・永経の三子あり、永経の子に永平なるものあり、筑後守兼松浦の鏡社宮司職となる、適々其の家筑後の鹿塚(?)にあり。松浦に居住する井上・赤氏(?)・上妻は草野の支流である。其の一族の旗章には日の足を以てす云々。
前二記何れを正しきとも云ひ難けれども、筑後国より松浦に移りたるは事実であって、文治二年十二月十日(紀元一八四六)肥前ノ国鏡社の宮司職のこと、草野次郎大夫永平を以て定輔すと東鑑に見えて居る、また筑後地鑑に、永平其の兄と同時に松浦郷を賜はりて領地せしめらる、其の苗裔は今の松浦黨これなりと。
鏡神社々記に。鏡大明神社殿、内裏より御造営あり、後奈良院の御宇改めて勅額を下し給ふ。社領松浦郡草野庄を附せらる、高二萬五千石也、九月九日の祭日に毎年市立つ、諸侯より一州二疋の馬を献ぜらる。社の境内八丁四方なり、方一里の間下馬下乗なり、所々の境界を標示する所を八丁塚と云ふ。宮殿・七堂・大伽藍・惣廻廊・釈迦堂・毘沙門堂・不動愛染両明王・其外末社の数多し。鐘楼門・山門・二王門・一・二・三の華表・御供殿・普請方諸役三百廿人、大宮司草野陸奥守源鎮光復姓して後藤原となる、草野宗瓔迄二十代の元祖なり、往古は社僧領一萬石、大宮司領一萬石、下社官十八人大宮司より扶持す、其後草野威勢強くして一圓に所領となり、社僧法印、政所坊・宮路坊・御燈坊・御供坊・転法院を始めとして、草野家よりの賄となる。草野氏は鏡宮並に無怨寺宮の大宮司なり、戦国の役に戦敗して、今は僅に社僧二坊社司二人となりぬ。
松浦古事記の中にも、鏡神社のこと記せるが、其の一節に、御供米三百石、従波多氏御寄進也神主草野宗瓔、大村鬼ケ城主二萬五千石云々と。
草野氏は鏡大宮司として二萬五千石を食み、今の玉島村往時の大村なる鬼ケ城に城塞を横へて勢威を振ひ、松浦黨と伍して覇を競ふたのである。
建久五年七月廿日(紀元一八五四)、将軍源頼朝は武運長久を祈請するために、御鎧・劒・弓箭等を肥前鏡社に奉納せり、偶々大宮司草野大夫永平訴訟の事に依って、代官を鎌倉に差遣せしに、其の日大蔵丞頼平を奉行となし、奉納品を受授せしむ。後寛喜四年(貞永と改元す、紀元一八九二)鏡社の社人高麗の沿海を漂掠したることは、前既に述べたるところであって、何れも東鑑に録して居る。
足利尊氏後醍醐天皇に叛き奉り、敗れて一旦九州に落ちのぴ、再び軍容を整へで西国の兵を率ゐて東上した。この時草野氏も其の麾下に属して攻め上つたが、建武三年三月二十七日(延元と改元す、紀元一九九六)、天皇之を避けて叡山に幸し給ひしかば、六月五日尊氏の弟直義は山門を攻め、少貳頼尚及び鎮西の大軍は横川・篠峰に向ひ、日々戦を挑み、三十日頼尚及び筑紫勢は死を堵して摶戦したが、肥前国鏡大宮司草野右近将監季永は、名和伯耆守長年を討ち取りて抜群の功績あるよし、鎮西要略に見えて居る。鎌倉幕府創立以来武家政治の世となりて、こゝに一時後醍醐天皇の建武中興の治世を見たりと雖も、再び破綻の悲運に會したる時であって、大義名分など考ふるの暇なかりしか、将たまた意ありて朝敵尊氏の勢力の下に参集せしにや、當時この地方は京都方の政令に服して居た。
天正元年十二月(紀元二二三三)、龍造寺隆信佐賀城を出馬して松浦地方征伐の途に上り、神代刑部大輔長良其の臣神代對島守三瀬大蔵・逢瀬・杜以下数百騎の勢を引き具した。松浦の鬼子岳城主波多三河守鎮先づ降服し、其の臣八並武蔵守・福井山城守を案内者となしければ、彼等を先頭とし獅子ケ城(厳木村にあり)、を攻めしに、城主鶴田越前守世に勝れたる武士にて、数日間良く防戦す、鍋島信生先陣に立ちて、鎗を奮ひ士卒を励まして戦ひしが、鶴田支ふること能はずして兜を脱ぎて出で降った。頓て彼は草野征伐の先陣を命ぜられ、獅子ケ城には龍造寺河内守・馬渡主殿介を加番として留まらしむ。
かくて唐津に年越えをなし、軍旅中のことなれば除夜の儀式といふ事もなく、只陣中の将卒に酒を給はりしけるが、偶々折しも漁夫共鰤を献ぜしに、今日のお肴は是に如くものあるべからずとて即ち之を調理して将士に給はり醉をすゝめられき。この古例によりて龍造寺・鍋島家の上下のもの今に至るまで、除夜には鰤を庖丁するに至った。
翌天正二年正月朔日、龍公の下知にて鏡大宮司の居城鬼ケ城を攻伐した、城主草野鎮永は侮り難き武将なればとて、鶴田兵部少輔・八並武蔵守・神代對馬守・三瀬・大蔵・千葉・原田を一陣とし、其の総帥には信生公を當らしむ、城中防戦甚だ力めしかば、久納平兵衛傷き斃る。日暮るに及びて漸く軍を収む、同三日龍造寺兵庫頭・同左馬太夫・勝尾勝一軒等、雨と注ぐ矢玉の中を猛虎の狂へる如く、獅子の吼るが如き勢にて奮闘して、一ノ城戸を攻め破り火を放ちたるに、鎮永終に支ふること能はずして筑前地に落ち延びた、原田上総之助は鎮永が子なりければ、急ぎ城に迎へて、龍造寺氏に和平を請ひ、倉町信俊が次男三平を鎮永の養子と定む、こゝに於て唐津地方平定すと(肥陽軍記)。
當時鎮永は草野庄三萬石を食むと云へるが、豊臣秀吉九州征伐の挙あらんとするや、天正十四年二月、肥前の国士龍造寺以下豊公に内通の使を東上せしめたが、其の使者郷国に帰るの際、諸士に分ち與へたる書辞は何れも同様であって唯宛名を異にするのみであつたが、草野に與へられたるものは。
為一札差上、水崎和泉、殊太刀一腰馬一疋到来、悦思召使、抑島津御退治之事、毛利右馬頭、雖被仰付候、始羽柴備前少将、羽柴中納言、其外追々、被差遣人数侯、為九州見物、殿下三月一日被御動座候、然者十月廿日之間之儀候條、無卒爾之儀、堅固之備尤候、彼逆徒等悉可被刎首候間、各依忠節色、被成御褒美候、尚黒田勘解由可申候也。
二月十八日 中務少輔殿
秀吉(當判)
されど草野氏は豊公に對する誠意を缺きたるため、其の忌諱に觸れて家門滅亡するに至った。鎮
永の墳墓は玉島村字南側・功岳寺にあり。
功岳寺に於ける草野永久の碑銘の一節に、芳野執行法印宗信曰く、當今諸国変らず宮方に属し、筑紫に於ては菊池・松浦・鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星云々。元弘三年八月二十九日入道圓種軍功に依り綸旨を賜ふ云々。草野太郎永平・同種守・同貞永・同四郎入道圓種・同四郎武永・同永治・同長門守永久・同中務太輔鎮永・同鎮信・同鎮恒云々と。然るに鎮西要略には延元々年、草野右近将監季永が名和長年と討ち取りて抜群の功績あるよしを述べて居る。何れを信ずべきか迷ふところなるも、功岳寺の碑銘は同寺住持の手になるものなれば、或は人間の弱点として、味方に對する見解は有利に扱ふものであれば、叛賊尊氏に属して忠臣長年を撃ちしと云ふは、心苦しきところありて彼の碑銘を生むに至りしにあらざるか、識者の教へを待つものである。但し碑文中の入道圓種は季永なるべし、年代と合致すればなり。
七 波多氏
波多氏は鬼子岳(キシダケ)城に占據したる松浦黨の領袖である。抑々鬼子岳は今の北披多村にあり東方の山尾は相知村に跨って居る、山の東方は松浦川の本流流れ、西は波多川注ぎきて、山は丁度其の中間に位して居る、(慶長年間寺澤志摩守の松浦川改修前までは、松浦川と波多川は全く別流にて海に注ぐ)この両河の谿谷こそ東松浦交通の要地であって、佐賀方面よりは松浦川伊萬里方面よりは波多川の沿岸に出でざれば、唐津湾頭に出づること能はざるもので、即ち鬼子岳の位置は東松浦郡の死命を制すべき要害である。當時に於ける城塞を構ふ地としては無上の形勝地である。然るに波多氏に関する記録の存するもの乏しく、偶々之を見るといっても、一々信を措くに足るもの鮮少なると、且つ断片的なるは恰も草野氏に於けるそれと同一である。今は唯諸書に散見するものを列記して、少しく愚見を所々に加ふることゝせん。
其一 鬼子岳城主のこと
當城主は、嵯峨天皇第十二の皇子正二位左大臣融公の末葉、奥州の住人阿倍常陸之介源頼時、永承六年(紀元一七一一)後冷泉院の朝、大将軍を望みけれども其の事叶はずして、常陸介謀叛す。源頼義勅命を蒙りて討伐せしが天喜五年九月(紀元一七一七)頼時終に敗亡した。頼時の子貞任宗任といへる兄弟、源頼義の嫡男八幡太郎義家父子と戦ふこと九年、終に義家賊を平げ、囚虜宗任を九州に流せしが、寛治五年(紀元一七五一)赦免の恩命により、直ちに肥前国下松浦の地を領す、子孫繁栄して松浦郡竝に壹岐に其の族所領を有するに至った。波多氏十七代の主は三河守親といひ、幕の紋二ツ引き両に三星である。この紋章には故事がある、左大臣従一位に昇進の時、勅して月の輪の印を賜はる、其の後裔地方に下りて、月の輪をかたどりて二引き両を用ひ、三公の響きを以て三星を附したのである。波多氏の第一祖融公は、弘仁十四年(紀元一四八三)御誕生、淳和天皇の天長元年右大臣に任じ、清和天皇貞観十四年八月左大臣に昇進、宇多天皇の寛平元年輦(クルマ)を勅免せられ、同七年八月(紀元一五五五)薨去す。十七代三河守の時には、平戸・大村・日高・五島・志佐・有浦・呼子・値賀・佐志・鶴田を始めとして、末葉三十六人繁延するに至った。
波多氏の十六代に嫡男なく、嫡女有馬殿を聟とし、其の継嗣波多の家督を相続した、これ即ち三河守親である。内室は龍造寺山城守隆信の息女である。二男有馬家を相続し修理太夫と號す、其の子は左衛門ノ佐なり、有馬は肥後国菊池の末葉である。松浦黨の旗頭波多三代主の次男呼子兵庫頭清信より、六代兵部少輔清友源平の乱に討死す。同十五代松浦讃岐守清、嫡男呼子美作守清次、嫡男呼子平右衛門、其の子七兵衛、二男十右街門清久、其の子を孫右衛門といった。
天正の頃龍造寺と有馬と合戦の時、波多勢有馬方へ與力し、有馬小勢にて戦場を引き上げ、龍造寺の軍勢追馳け、波多勢防戦のところ、薩摩勢有馬の後詰して島津の軍大将川上左京、龍造寺の本陣に切り込み、隆信を討取る、これより隆信の一類等は、波多が龍造寺の女婿なるに翻って敵と成りしことを大に怨むに至つた。
以上は松浦記集成の記事
西肥前唐津城主波多参河守鎮(後親といふ)妻女を矢へるよし、龍造寺隆信聞召及ばれ、御姫を遣はさるべきよし仰せられた。参河守大に悦び、其の臣八並武蔵守を遣はし迎へ申さんとするに、御姫俄かに病に罹りて九死一生の態である、八並いひけるは、某御迎に参り宜敷帰るべきにあらず、若し御姫病死し給はんには、殉死すべしと。然るに當家の臣橋野将監其の心情に感じ、同じく御逝去あらば共に自害せんと誓ひしに、殊の外御快癒にて、波多家に御輿入れありしは上下の悦ぶところなり。其の後波多実子なくして、隆信の子政家の生むところの孫太郎を養ひて、波多家をぞ継がせける。
以上肥陽軍記の所載
阿倍宗任を嵯峨源氏の後とするは非なり。阿倍氏は其の先きを第八代孝元天皇の皇子大彦命に発して居る、第十代崇神天皇の朝に四道将軍の派遣があって、大彦命を北陸に、其の御子武渟河別(タケヌカハワケ)を東海に、道主命(第九代開化天皇の御子彦坐王の子)を丹波に、吉備津彦(第七代孝霊天皇の御子)を西道にやりて、以て詔して、教を奉ぜざるものを伐てと、かくて各々其の任に就きしが、大彦命の後裔は東北地方に繁延して、近江には佐々貴君あり、駿河に河倍臣あり、其の族分れて陸奥臣・安積(アサカ)臣・柴田臣・信夫臣・會津臣・*(ケモノヘンニ爰・さる)島臣・磐城臣等となり、第三十七代齊明天皇の朝に、越(コシ)ノ国守として蝦夷・粛慎(ミシハセ)を征服したる、阿倍引田此羅夫も亦この後である。其の後阿倍氏は世々陸奥に居り、頼時の祖父忠頼は俘囚長(俘囚とは内地人の蝦夷に居る者)となり、父忠良は陸奥の大椽となり、頼時父祖の業に籍り、勢強大にして奥六郡を領し、第七十代後冷泉の朝に乱をなし、事破れて其の子宗任源義家に輔へられ、筑紫松浦潟の残月を眺むるに至つたのである。
然るに上松浦は嵯峨源氏の流れを汲めるもの繁延し、下松浦値賀島を本として宗任の子孫勢を得しと云へるに、松浦集成記には、十七代参河守の時には、平戸・大村・五島地方にも其の一族栄えて云々とす。これによりて考ふれば、最初こそ源氏と阿倍氏の勢力範囲こそあれ後には或は混淆錯綜するに至りしものならん。
其二 鬼子嶽城主のこと(別記)
鬼子嶽城主は、元明天皇の和銅元年三月入部、葛原親王の孫である、村上天皇の御代三十五萬石永仁四年伏見院の御代大小の諸士三百四人、足軽七百人所々村々にあり、永仁三年四月大友宗林切取一萬八千石、弟上総佐・崇光院の御宇永治三年十一月源膃切取、葛原王子十八代の孫波多伊勢守入部、後醍醐天皇の嘉暦二年、嫡男丹波守・次男小田原大雄山最勝寺了菴大和云々(松浦古来略伝記)
按ずるに松浦古来賂傳記は、訛傳甚だ多くして最も信を措くに足らざるものである、されど録して参考に供するのみ。抑も葛原親王は桓武天皇の皇子にして天皇は元明天皇より約七十余年後の主上である。然るに城主を葛原親王の御孫と仮定すれば、淳和天皇か仁明天皇頃の人である、元明天皇と云へるは仁明天皇の謂か、されど和銅なる年號は元明天皇の年號なり、事理更に明でない、また、崇光院は北朝の主上であって、其の頃は貞和・観応の年號は存するも、永治なる年號はない、永治は元年のみにて改元となり、二年とか三年とかの年代はなく、崇徳天皇の年號に當る、崇光院時代より二百年前である。村上天皇の御代三十五萬石云々、當時は食禄石高などの称呼はない、石高などの称は漸く織豊時代よりの称なり、以て松浦古来略傳記の価値を推知するに足る。
其三 鬼子嶽城のこと
波多家の先祖源仕、六孫王経基の旗下に属し、朝敵征伐の為に向ひしは、權ノ亮平純素九州に攻め入りし時である。仕倩々考ふるに、追ふべき図を追はざれば、必定続て寄すべき故にこそあらんと、豊前国若松浦に幕をうたせ、南の山に斥候を出して野営をなし居たるに、案の如く其の夜の暁ごろ、遠見のもの純素に告げけるは、敵兵近づきたるものゝ如し、月影の中に夥しき軍兵の動揺を見ると、純素思へらく敵軍よも此処に陣営すとは思料せざるべし、不意に立つて勝敗を決せんとて、頓て陣容を調へ山に據りて鳴をしづめて敵を迎へた。右少将好古朝臣は道に敵ありとも知らず、馬をはやめける所に、純素が勢前後より包囲して鬨を上げたるに、官軍これに恐れて如何はせんと途を失ひぬ、純素この状を見て、二萬五千余騎を五手に分けて余さじと攻め立てたり。官軍の先陣右衛門佐慶幸・大蔵ノ允春実両勢合せて五千余騎側目もふらず戦ふた、其の隙に好古朝臣陣々を手分けして士卒を下知しければ、味方勢を恢復して入り乱れて戦ふ。斯かる所に柳ヶ浦には源ノ仕、昨日敵の引き退きし時、其の勢に交りて松夜刃・友夜刃といふ忍びの者を二人まで敵の陣へ遣はして、事の様を窺はしめけるに、其の夜亥刻過ぎて友夜刃立ち帰りて、純素が勢若松浦に陣したるよし注進しけるに、羽林次将相図の刻限を違へて、宵よりひそかに出陣し給ふと、必定路次にて軍あるべし、如何あらんと不審に思ふところに、又丑ノ刻計りに松夜刃走り帰りて、軍の次第を物語る、箕田急き大将六孫王の御前に参りて、しかじかの様子をまうして、則ち多田満仲を大将軍として馳せ向ふ忽ち仕に追ひ立てられ、純素終に黒崎へ引き退き、其の後追々一統或は打ち死にし、或は自害し大将純友播州にて捕はれ、都に引かれけるが、途中にて病に死す。既に九州平定の後、大小の神祇に奉納し修理等ありたり。其の後多田満仲肥前国主たらんことを望み給ひけれども、再び九州に下り給はん隙なく、後に源頼光肥前守に任じ、九州に下り給ひぬ、源仕は武蔵守に任じ武州箕田に住す、其の子箕田源氏ノ宛、父母早世して渡邊佐衛門佐固の養子となる、これ渡邊綱なり、其の子名古屋治郎二男松浦源太夫判官久なり。
鬼子嶽は、往古鬼住みしといふ所である。其の古を尋ぬるに、長元四年四月(紀元一六九一)平忠常下総国にて謀叛を企て、源頼信に亡されし時、稲江多羅紀といふもの、信州福原に住居せし野武士であったが、忠常に味方せしに、不運にして忠常亡び、多羅記身を隠すに所なく、此処に来りて耕作を業とし、夜は立木を相手に剣術を試み、野繋ぎの馬を盗みては是に乗り居たりしが、其の子に鬼子嶽弧角といふものあり、飽まで強力にして、所々を押領し、或は押入強盗をなし、神変不審議の凶賊である。この孤角に随ひし族凡そ三千人、其の中に夫々の役名を附し、大名と肩を竝ぶるの様であって、其の横暴劫掠甚しく国守の手にも及ばざれは、都に訴へ早く軍勢を下さるべしとて、度々注進ありければ、月卿雲客評議まちまちにて、早く討手を下さずば、近国をなやまし大事に及ぶべし誅伐せずんばあるべからずと、先づ其の軍将の人選をなしけるに、往昔伊吹山より大江山の賊徒退治の例にならひ、當時の英雄渡邊源太夫判官久こそ、曾祖源吾綱にも劣らぬ器量ありとて、評定忽ち一決して、孤角退治の宣旨を蒙り、時日を移さず肥前松浦郡にぞ向ひける。
判官源久は三千余騎を引き具して、先づ豊前筑前の間にも此処彼処に、悪黨多かりけるを誅戮して松浦郡千々賀村(鬼塚村内)に着しければ、鬼子嶽の梟酋孤角は斥候を放ちて其の勢の多寡を窺はしむ。寄手の勢は心静かに兵糧を蓄へ軍容を整へ、鬼子嶽の麓に押し寄せ山上を窺ふに、敵も兼て覚悟をなしたることにて、乱杭・逆茂木を透き間もなく配設し、山腹に掻楯(カイダテ)を置きて其の背に射手と思しきもの百騎ばかり鎧の袖をつらね、弓のはづを竝べ鼻油引て待ちかけたり、山塞に籠れる賊徒千余騎と聞えしが、皆徒ち立ちの勢にて騎馬は一騎も見えざりき。楯を叩きで閧の声を上るとひとしく山谷も崩るゝばかりに城中よりも鬨を合せたり、矢がかり近く成りたれば、矢尻を揃へてさんざんに射る、寄手の先陣二百余騎すこしもひるまず、楯を竝べわめき叫んで攻め登り、逆茂木を忽ち抜き払ひ、掻楯に押し寄せたり、山上にも弓を打ち捨て、雙方打物取って斬り結ぶ、賊徒は元来強勢の暴ばれもの、寄手は弓馬の掛け引きの達者、追ひつまくりつ火花を散らして戦ふたり、然れども未だ勝負も見えざれば、其の日の陣は相引きとなる。翌日早天に押し寄せて城塞を見れば、一つの人影だに見えず城中は寂莫として鎮まりたり、寄手は思へらく、敵は必定叶はずと思ひ夜中に何処ともなく遁げ落ちつらん、何くまでも追撃せんと掻楯の崩れたる処まで押し寄せたるに、大木茂みて是ぞと思ふ道もなし、石壁を構へ岩を切り抜き、大手には石の扉をしめて、押し寄すべきやうもなかりしに、かゝるところに相図の太鼓を打って、塀櫓より大木大石を投げ懸け投げかけ、寄すべき様もなかりしに、源太夫久は懸かれものどもとて士卒を励まし、一方に血路を開きで遮二無二に強襲を試み、城中よりは潮の湧くが如くに押し出し、大将孤角大あらめの鎧を着し、長刀掻い込み顕れ出で、源太夫久を見かけ、縦横無盡に打ちかゝれば、久少しも後れず太刀振り翳して斬り結ぶ。大将の戦に何かは猶豫すべき、我も我もと揉み立て、終に本城に攻め入りしに、賊徒進退度を失して遁げ惑ひ、勿論嶮岨の鬼子岳なれば逃げ延ぶべき道もなく、数十丈の谷底に落ち重り、己が太刀にて貫かるるもあり、或は岩角に骨を砕き微塵に成って死ぬるものもある。狐角は次第に手許狂ひて終に久が打ち下す太刀を受け外づして左の肩先を切られければ、叶はずとや思ひけん、風を食って逃げ出せしを、久撓まずまっしぐらに追ひ詰めて、松浦川の邊にて終に孤角を討ち取った。今其の所を鬼塚と云ふ。首は都に送り、骸はそこに埋む。それより捕虜を引き連れ城塞に登れば、小童女の泣き声譁びすし、其の身上を糺すに、一人の女涙ながらに云ひけるは、我等は一人も賊徒の妻子にあらず、彼等のために此処に奪はれ来り、夫婦妻子の中をも引きはなされ、情なく朝暮酒宴の相手になり、憂さ年月を送り、あはれ神佛の御加護にてこの事都へ聲えよかしと祈らぬ日とてはなく、今日まではかなき命を長らへて、斯かる時節に逢ひ奉ることの有り難さよと、十五六人の女ども手を合せて伏し拝みけるにぞ、竝み居る武夫も鎧の袖を絞らぬものなかりけり。かくて捕虜の内重立つ三人と狐角の首級を先き立て、都に凱歌を奏しける。帝叡慮を安んじ給はせ、久は御感状に依って松浦郡を領し、久安三年(紀元一八〇七)松浦郡へ下りぬ。比の源太夫判官の神霊を、彼杵(今長崎県内)今宮大明神に祀る、仰ぐべし尊むべし。(松浦記集成)
この傳記は甚だ華やかにして、恰も実況を見聞せし人の筆になるが如き心地す、見る人心すべきものならん。さて承半天慶の乱は、東に平将門の反あり、西に藤原純友の乱ありて、天慶三年(紀元一六〇〇)純友敗れて伊予を脱して九州に走り、太宰府を陥れて財寶を奪ひ、勢威遠近に震ふ。四年五月右近衛少将小野古追捕使に、太宰少貳源経基次官として陸路攻め向ひ、藤原慶幸・大蔵春実等は海上より赴き、博多津に奮戦して賊船八百余艘を略取し、死傷数百人を出して賊徒離散し、純友は扁舟に乗りて伊予国に帰り、警同使橘遠保に射殺せられしは同年六月で、七月遠保は純友及び其の子重太丸の首を京師に送り、其他黨類たる紀文度・山城椽藤原三辰等斬られ、尋て賊魁桑原生行は源経基の手に捕はれ、三善文公は播磨に捕へられ、藤原文元は但馬に斬られた。また。綱の祖任は武蔵守に任じ。其の父宛は箕田に住し箕田源氏と称すと、扶桑略記・尊卑分脈などに見ゆ。しかして平純素などの賊将の名を見ず、或は藤原純友のことなるか、されど純友は橘遠保に射殺せられて、播州にて捕へられしやうにもあらず。また宛と綱は尊卑分脈によれば、父子にして同人でない。其の他不審の点多し、記して疑を存す。