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東松浦郡史 ⑤

2018.03.28 06:26

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より 

 其七 三河守鎮が家臣

 波多氏は源久より鎮に至るまで、十七代を重ぬと云ふ。其の間の記録の存するものなくして、如何なる変遷ありしか明でない、北波多村瑞巌寺遺趾は、唯田圃の間に往時の規模の名残を存して居るが、宏壮の結構なりしことを追想するに至る、同寺は波多氏の菩提寺であった、今波多氏の墓碑五基は、其の附近の林間に苔蘇芽茨の間に、寂莫荒廃の間に存するを見る。鎮が領地は或は三十五萬石といひ、或は十萬また六萬石とも云ふ、怒らく現在の東松浦郡の状況より察すれば、精々十萬石内外に出でなかつたであらう。今鎮が家臣の名を列記して、其の管治の区域を察すべし。

  △近  親

  多久五郎源治茂       佐志将監源亮         玄蕃允

  保利播磨守藤原一休    中山安芸橘利度        木下伊予守

  岡本山城守橘是信      奈良崎周防守源光秀    神吉信右衛門尉源保利

  松尾阿波守橘眞清      米倉新七郎源和秀     岩城時左衛門源吉光

  △北面の臣

  毛利五郡九郎光稠   千 石    

  毛利四郎光本      千 石

  毛利壱岐守周源    千 石   

  秀島九郎天品(藤原姓平野を以て氏とす) 千 石

  木下大膳佐年(橘姓)   千  石

  右の五将は、平野郷に偶居し各々客分を以て對遇せらる。

 日高甲斐守藤原方秀                    有 浦        千 石

 日高左源治藤原方佐                    有 浦        三百石

 鶴田越前守                        獅子ケ城(巌木村岩屋)   五百石

 鶴田因幡守                        日在城(西松浦郡大川野) 五百石

 黒川左源太夫                       姥ケ城(西松浦郡黒川)  五百石

 清水伊豆守品       源 品(とも云へり)    清水城(鬼塚村石志)   七百石

 峯丹後守一但       平 一但           峰  (河西下郷)   三百石

 田代日向守林一      平 林一         亀非館(切木村田代)   三百石

 江里長門守天相      藤原天相       佐里館(相知村佐里)   三百五十石

 久家玄蕃秩度       橘 秩度         法行城(西松浦郡板木)  八百石

 久家祐十郎秩源      橘 秩源            同            百 石

 河副監物孟一       平 孟一          本 城(西松浦郡重橋)  五百石

 横田右衛門元秀      橘 元秀          波多城(北波多材稗田)  五百石

 青山釆女正渡吉      橘 渡吉          青山城(鬼塚村山本)   五百石

 杵島權太郎眞久      橘 眞久          杵島城(杵島郡山崎)   五百石

 杵島仁平太眞利      橘 眞利            同            百 石

 井手飛弾守度源      橘 度源        新久田城(西松浦郡井手野)五百石

 土岐伊賀守伹佐      橘 伹佐          佐里館          二百石

 米澤四郎兵衛和春     源 和春        濱田城(佐志村佐志)   五百石

 佐々木近江守*(木周)大 橘 *(木周)太   稗 田(北波多村稗田)  二百石

 下保佐内守久       菅原守久           吉志峰          二百石

 名古屋和泉守仲秀     菅原仲秀          名古屋          二百石

 名古屋林四郎仲春     菅原仲春            同           二百石

 寺澤偆平圍昌                          同           三百石

 八並武蔵守吉度      秦吉度            伊岐佐村        三百石

 値賀伊勢守森昌      菅原森昌           値賀村         二百石

 長渡又八郎信品      菅原信品         徳居(スエ)村(北波多村)百 石

 畑津平内清和       藤原清和        御嶽城(西松浦郡畑津)  三百石

 畑津左京清貞       藤原清貞            同           無 石

 鶴田太郎左衛門度平    橘 度平     筒井村(西松浦郡波多津村内)五百石

 赤木左近年秀       源 年芳         赤木村(打上村赤木)   百 石

 呼子九郎太甲光      源 甲光           呼子村          百 石

 鹽鶴八郎森春       源 森春         鹽鶴村(打上村鹽鶴)   百五十石

 向三郎武         藤原政保          馬場村(相知村相知)   二百石

 押川四郎九郎春満     平 春満        押川村(相知村押川)   百五十石

 峯五郎八通方       平 通方          川西下付         百五十石

 東多門昌春        藤原昌春           有喜村          二百石

 双水喜内相利       源 相利         双水村(久里村双水)   ニ百石

 寺田新九郡一清      橘 一清           城中住居         三百石

 寺田茂三太一保      橘 一保            同           百 石

 鴨打新郎周度       平 周度        下平野村(北波多村下平野)二百石

 鴨打忠四郎周利      平 周利            同           百 石

 大浦志摩守天扶      平 天扶        大浦村(切木村大浦)   百 石

 濃崎仲本久        平 本久          板木村(西松浦郡)    百 石

 梶山林八郎佐清      平 佐清           梶山村          百 石

 大杉千太左衛門休度    在原休度       大杉村(北波多村大杉)  百 石

 馬渡源太久森       藤原久森           梶山村          百 石

 徳居四五郎治秀      橘 治秀            同           三百石

 牟田部七郎衛門只之    源 只之       牟田部村(北波多打牟田部)三百石

 牟田部源四郎只春     源 只春         同           百五十石

 南源三部保道       菅原保道       大川野村(西松浦郡大川野)四百石

 川原勘四郎道秀      平 道秀           川原村          三百石

 赤木治部太夫彦芳     藤原彦芳       梅崎村(入海村梅崎)   二百石

 梅崎伊予守相久      平 相久           値賀村          四百石

 値賀三郎太吉渡      源 吉渡            同           百 石

 飯田彦次郎久光      藤原久光        神田村(唐津村神田)   百 石

 西浦源一郎時秀      菅原時秀            同           二百石

 庄野崎治郎周一      平 周一           庄野崎          二百石

 庄野崎四郎                            同        無 石

 中里九内覚久       橘 覚久            中里村        百 石

 堤彦兵衛知吉                       赤木村(打上村赤木) 百 石

 濃木五郎七標昌                       同         無 石

 中浦平太郎資知      菅原資知        中浦村(切木村中浦) 百五十石

 後賀馬太夫品三      不  明  原屋敷村、畑河内村(西松浦郡黒川村)四百石

 淵田祐四郎秀里      橘 秀里          立川村(西松浦郡立川)三百石

 原善四郎源佐       秦 源佐        大川野村(西松浦郡大川野)三百石

 大曲大和秀茂       不  明            大曲村       三百石

 畑島二百八之長      不  明          畑島村(鬼塚村畑島) 無 石

 星賀九郎市源度      平 源度         屋賀村(入野村星賀) 二百石

 田代大炊之介如保     藤原如保   田代村ノ内筒井館(長崎県北松浦郡)五百石

 畑島主膳之政       不  明            畑島村        四百石

   △旗 奉 行

 保利三左衛門菅原度保          城中在住         三千石

   △百人旗本(現米五十石宛)

 姓名は省施す

    △牧番津守

 馬渡島 牧番  無足三人   足軽四人

     津守  無足三人   足軽二人

 向(ムク)島  津守  無足二人  足軽ニ人

 加唐島  津守 無足二人   足軽二人

 小川島  津守 無足二人   足軽二人

 神集(カシハ)島 待二人  無足二人

 加部島      待二人  無足二人

 名護屋   津守   無足四人   足軽四人

 外津(ホカハヅ) 津守  無足二人 足軽二人

 入 野   津守   無足二人   足軽二人

 納所(ノウサ) 津守  無足二人  足軽二人

 今 福(長崎縣)津守  無足五人  足軽十人

 三 厨(長崎縣)津守  無足五人  足軽廿人

    其八 波多家掟書(松浦古事記に出づ)

一、此度触出状之趣、近頃は武士の風俗別て悪敷相成、利、法、剱之三字不用、我儘にて權威を振ひ偏く信を忘候條、侍の不成本意候、急便可相慎事。

一、変作之節百姓町家之者共、其家々相應に合力有之、且又不自愛之輩は、其家株に相離候間其組合より可被致吟昧候事。

一、近頃寺僧之面々、別て出家に不似不如法にて、以之外不届成事にて候、出家は其寺之寺役第一にて、慈悲善言可用候、此上不如法無之様、急度相嗜可被申候。

一、大小宮合、一百二十四ヶ所。

一、大小寺院、甲乙諸司、無官有官、村々院々迄、急度相慎可被申候。

  天文四乙未四月

 これにより波多氏の施政一斑を窺ひ知ることが出来るのである。

  其九 鬼子嶽城の構造(吉志峯城・岸獄城)

 城門口三ヶ所

 大手より本城まで  廿三町四間三尺

 搦手水門より本城まで 卅二町五間三尺

 大谷城より本城まで  廿五町九間

 本丸 東西五十一間 南北九十三間  矢倉数八ヶ所

 二ノ丸 東西百五十間 南北六十三間  此間に一の堀切あり 長五十二間 深十五間

 三ノ九 東西百八十五間 南北六十五間 此間に二の堀切あり 長七十三間 深二十四間五尺

 一、腰曲輪茶園ノ平(タヒラ)といふところあり、侍屋敷跡分明なり、南北八丁の所なり

 一、本城より東北に當り、少し踏み下り、水の手出水あり。

 一、城山より南に當て米ノ山あり。麓の川をスミ川といふ、里に下りて東川といふ。

 一、本城に御手水場ニッあり、所々石垣慥なり。

 一、一ノ堀切より二ノ堀切迄、長三十三間といふ。

 一、本丸の東方に三左衛門殿丸といふ所あり。

 一、大手佐里の方、搦手岸山の方なり。

 一、波多家旗本諸士在番屋鋪、佐里村にあり、舊跡頗る多い。

 一、大手門口に、馬乗馬場がある。

 當時郡の主都は今の相知村字佐里である、即ち佐里は波多氏の城下にして、旗下の人士の邸宅軒を竝べて居た、今の唐津町などは影も形もなき白砂青松の海邊に過ぎなかつた。相知村大字相知を維新の頃迄は馬場といって居た、そは波多家々臣の馬術操練所であったから其の名ある故である。

世態の転換また究まりなきものである。

   第六章 豊公の朝鮮征伐

    一、豊公の略歴

 稀世英傑豊臣秀吉の素生に就きては、諸説存すと雖も、普通の説としては、織田信長の足軽にて尾州愛知郡中村の住人である、木下弥右街門の子であって、母は同郡小曾根村の農家の女といふことである。天文五年(紀元二一九六)丙申正月朔日午前七時に生れた。父は天文十二年に没し、其ののち母は織田家の同朋筑阿弥に再嫁し、一男一女を生むだ、これ後の大和大納言秀長にして、女は徳川家康の室となつた、天文廿年彼十六歳の時国を去って、遠州久能の城主松下嘉兵衛に仕へたが、廿二年尾州清洲に赴き、織田信長に事へ、草履取の卑職より小人頭に進み、智略才幹群衆に超絶して居たから、信長の信用日に厚く、永禄九年信長美濃の斎藤氏を討つに當り、功労抜群であったから、柴田・丹波・佐久間等の宿将と共に肩を竝ぶるに至り、近江の浅井越前の朝倉を討ち戦功によりて天正元年江州長濱廿二萬石の城主となり、十年中国に毛利氏を征し、次で本能寺の事変あるや、直ちに主君の仇敵明智光秀を山崎に討ち破りて、亡君の英霊を慰め、信長の遺業を受けて、乱余の天下蕩手の業に従事した。翌十一年には柴田勝家を賤ケ岳に敗り、これを追ふて北国を威服し。十二年大阪城を築きて天下の要害を制し、同年小牧山に徳川家康と兵を構へしも之と和睦をなし。十三年四国の諸豪傑を征服し、同年関白に任ぜられた。十五年西の方九州に島津義久を攻め降し、翌年衆楽第に行幸を仰ぎて盛儀を盡し、上下の人目を一身に集め、十八年小田原に北條を征し、序で東北地方に威令を布きて、伊達政宗以下の諸侯を慴伏せしめた。そこで始めて西は九州より東は蝦夷に至るまで、天下六十余州一統に帰して、應仁乱以来百有余年の争乱は鎮定するに至った。

    二、外征の動因

 濶達豪壮の気宇を以て充溢せる英雄が、どうして国内の蕩年が出来たからと云ってそれで安逸を貪ることを為さうか、欝勃たる覇気を大陸に恣まゝにせんとするは、當然の理数である。戦国千戈の際に生長し、常に軍士を叱陀駆突し腥羶の気充塞せる天地に慣れたる彼には、片時も逸柴悠然として安居することは其の志に反するわけである。

 抑も豊公外征の企圖は、天正十五年島津征伐の頃からのことである、豊公薩摩太平寺在陣中に、連歌師深水宗方が「草も木も靡き従ふ五月雨の雨の恵は高麗百済まで」と詠じたのは、公の素懐を述べたものである。當時宗義調は對馬より来りて博多に於て公に謁したるに、公は義調に命じて朝鮮国王の入朝を促すべきやうにと、義調果して其の旨を彼の国に傳へしかは不明であるが、確かに左様の命令はあったのである。十七年宗義智、僧玄蘇を遣りて来聘を促した、十八年秋朝鮮国の使者、黄允吉・金誠一・許箴之来朝して、聚楽第に於て公に謁し国書を献じた。続善隣国寶記を見るに。

  朝鮮国王李昭、奉書

  日本国王 殿下、

  春候和煦、動静佳勝、遠傳、大王一統六十余州、雖欲逮講信修睦、以敦隣好、恐道路湮海、有淹滞之憂歟、是以多年思而止矣、今令與貴价、遣黄允吉・金誠一・許箴之三使以致賀辞自今以後、隣好出于他上幸甚、仍仇不腆土宜、録在別幅、庶幾笑留、余順序珍嗇、不宣

   萬暦十八年三月 日       朝鮮国王  李  昭

  別 幅

  良馬二匹    大鷹子拾五聯    鞍子(貳面諸縁具)

  黒麻布参拾匹  白綿紬五拾匹    白苧布五拾匹

  青斜皮拾張   人参壹百斤     狗皮貳拾五張

  狗皮心兒虎皮邊*(ケモノヘン典)皮  裡阿多介壹座   豹皮貳拾五張

  彩花席拾張   紅綿紬拾張    精蜜拾壹壷

  白米貳百碩   梅松子陸碩

   整

太闘これに答ふるの書は、

 日本国関白秀吉、奉書

 朝鮮国王 閣下、

 雁書薫讀、巻舒再三、抑本朝雖為六十余州、此年諸国分離、乱国綱廢、世乱而不聴朝政、故予 不勝感激。三四年之間、伐叛臣討賊徒、及異域遠島、悉帰掌握、竊按、事跡鄙陋小臣也、雖 然予當于托胎之時、慈母夢日輪入懐中、相士曰、日光之所及、無不照臨、壮年必八表聞仁風、四海蒙威名者、其何疑乎、依有此奇異、作敵心者、自然摧滅、戦則無不勝、攻則無不取、既天下大治、撫育百姓、憐愍弧獨、故民富財足、土貢萬倍千古矣、本朝開闢以来、朝廷盛事、洛陽壮観、莫如此日也、夫人生于世也、雖歴長生、古来不満百年焉、欝々久居此乎、不屑国家之隔山海之遠、一起直入大明国、易吾朝之風俗於四百余州、施帝都政化於億萬斯年者、在方寸中、貴国先駆而入朝、依有遠慮無近憂者乎、遠邦小島、在海中者、後進者不可作許容也、予入大明之日、将士卒臨軍営、則弥可修隣盟也、只顕佳名於三国而巳、方物如目録領納、珍重保嗇

   天正十八年仲冬 日       日本関白 秀吉

 三位京を辞去せんとするや、豊公これに諭すに、明国久しく我国に朝貢を怠れば、此を討たんとす、朝鮮王よろしく先駆をなすべしと。宗氏は柳川調信・僧玄蘇を同行せしめた、使節帰りてこの事を以て豊公の虚喝となし、何ぞ渺たる一小国にて膨大なる明国を征することが出来やうとて、国王に復奏す。調信・玄蘇は金誠一に迫りて回答を求めんとせしも要領を得ず、こゝに於て先づ頑迷無礼なる朝鮮を討たんとて、大軍を出すに至った。