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東松浦郡史 ⑧

2018.03.28 06:38

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より 

一六、再征の挙

太閤は西下のことなからしも、諸軍名護屋に集まりて再び*(奚隹)林半島に向った、これ慶長再征の役であって、二年正月十日先鋒加藤清正等朝鮮に入る。されど明韓の兵は前敗に鑑みて、既に楊鎬、麻貴等を将とし大挙して南緯に殺倒した。我軍亦兵站運輸等の事由によりて深く敵地に居ることが出来ず、主として泗川・南海・竹島・梁山・釜山・蔚山・順天などの慶尚・全羅両道の要地に転戦するに過ぎなかった。この役中海軍は韓将元均を閑山島に破りて幾何か前敗の雪辱戦をなしたが、陸軍は清正の蔚山籠城、泗川に島津義弘の奮闘の如き、最も目覚しき武者振りをなした位である。さる程に三年八月十八日太閤壽六十二を以て薨じた。十月八日遺命征韓陣中に達して師を還さしむ。是に於て公の雄図遂に挫折し、残すところのものは唯、其の雄名を彼の地に布き、西海の一角松濤寂然たる古城址の残骸を留むるに過ぎない。但し国民の對外雄飛の意気及び一種の奮闘的精神を作興したるは鮮少でない、如ち徳川初期に於ける国民が、明より馬来地に活躍せしに徴するも明である。

 

    第七章 藩政時代

 一、寺澤氏(文禄四年2255  正保四年2307)

    第一代 廣 高

一、公の出身

 志摩守寺澤廣高は松浦黨割據の後を承けたので、殊に機隙の乗ずべきものあらば、波多氏の残黨事を構へんとするの時であれば、政治の統一民心の帰向を計るの苦心は容易ならざるものがあった。加ふるに割據時代の風習として自然の地形を利用して、胸壁を高くし険阻を憑みたれば、生産厚生の道交通利用のことなどは、第二の問題として顧みられざる時代である。公が唐津を領するや、民其の堵に安んぜず人未だ和するの時にあらずして、多端の秋と云はなければならぬ、公はかゝる世態に処するの大任を負ふて當藩鎮に臨んだのである。果してこの重任は公の如き名君によりて見事達成せられたのである。

 抑々其の出身に至りては、武内宿弥の後胤紀ノ淑望の末裔である。初め淑望美濃国に住し、其の後裔別れて尾張国にも住居した、両国の寺澤を姓とするものは悉く其の後胤なりと云ふことである。公が父君は尾張国の住人にして廣正といひ藤左衛門と称せしが、織田氏に仕へて越中守と更む。天正十年本能寺の変に主君信長明智が毒刄に斃るゝや、豊臣家に仕へて其の釆地を大和国に受けた、多門院日記に、寺澤越中守は日本国の七奉行にて、六萬石の知行取り、太閤一段御目を掛け召仕はれ候ふ八人の内なり、と、これに依って考ふれば其の非凡の人材たりしことを知ることが出来る。豊公征韓の役に肥前名護屋に本営を築くや、廣正は西下して嗣君廣高を訪ひて陣営を巡見し太閤の雄図を偲びしが、偶々病に歿して文禄四年正月十四日茶毘に附す。其の墳墓今猶唐津町浄泰寺境内に残って居る。

 公は幼名を忠二郎と呼びしが、一名を正成と云つた。父に継ぎて豊公に仕へ、西駆して九州に島津氏を討ち東伐して小田原に北條氏を囲む、常に豊公に随従して武功を建つること度々なりしが、天正十七年従五位下に叙せられ志摩守と称した。太閤が征韓の役を起すに當りては、名護屋陣営に至りで、最初は総軍艦御船奉行の要職にあり、其の幕営を本城の東方にて打椿といへる名護屋湾頭の一要地に構へ、快腕を振ひて軍船の統轄進退に些の渋滞を来すことなく、且つは軍気の振粛に間然するところなからしめた。頓て部下の貔貅を統督して鶏林の野に敵を駆逐し、虎伏す荒野に戈戟を枕に寒月に嘯き、櫛風沐雨の苦を嘗め功を樹つること切りにして、この間兵馬の間に奔患出入すること実に前後七年であった。

 某氏が新聞紙上にて「噫々舞鶴城址」なる記事に、志摩守が朝鮮出陣を否定して居るが、余りに勇断のほどに驚き入る。

 今少しく其の辨を為さん。公が朝鮮出陣は恐らく慶長再征の役中のことゝ覚ゆ、そは文禄の役には名護屋城にて忠勤を励みしこと太閤記などにも録し、また長崎奉行として文禄元二三年頃は、基督教及び通商上に對する政策につきて折衝したることは日本西教史にも記して居れば、渡韓奮戦の暇は或はなかりしものではあるまいか、されど再征役に出陣したることは、中外経緯傳・朝鮮陣古文・朝鮮日々記・清正記などを見ても分明する(以上諸書中より一々抜萃摘録するは煩雑に亘れば之を略す)また慶長二年太閤が教禁の令を長崎奉行の次官に処理せしめしことは、志摩守が名護屋或は長崎に居らざりしことを証明するものにして、何れは渡韓中なりしとも思ふことが出来る。

 されば野史の記述と太閤記などのみを見て、志摩守が朝鮮出陣を否定するは早計と云ふべきではなからうか。

 是より先き波多参河守朝鮮出陣中、鍋島直茂に属して獨り熊川に駐まりて怯*(リッシンベンニ匡)の振舞ありたりとて、太閤の激怒に逢ひて、封邑を奪はれて筑波山の謫居に配せらるゝや、公は其の後を襲ぎて唐津を賜はるに至つた。

 薩南の島津氏に伊集院右衛門大夫入道幸侃と云へる家臣ありて忠勤の誉高かりし士なるが、如何なる故ありしにや、慶長四年三月島津義弘の子忠恒は伏見の客館に於て之を誅しければ、幸侃が郎黨憤然として兵を以て忠恒に迫らんとした、徳川家康は使を忠恒に遣はして助援せんとしたので、大事に至らずして止みしが、忠恒本国に帰るに及びて、幸侃が子源二郎忠棟父の横死をきゝて、日向国庄内ノ城に立ち籠り城壁を固めて島津氏と戦ふた。同七月家康は山口直友を使として、鏃二千暑衣百領を忠恒に給ひ軍状を犒ひ、九月また志州公廣高をして島津氏に應援せしめ、更に又直友を下向せしめて、主従の間に調停の労を取らしめて和睦を行はしめた、忠棟遂に降りて事和平に帰したので、徳川氏が公に對する好感鮮少でなかった。

 慶長五年(三百余年前)関ケ原の役には、公は予で石田三成の為すところを喜ばざると、徳川氏との情誼止み難き関係ありし故によりて、遂に東軍に應じて関ケ原に會戦するや、東軍は兵を分ちて上杉、佐竹の東北勢に當るの軍兵もあり、南宮山及び大垣の西軍に備ふるの貔貅もあつたが、公は関ケ原の會戦に参加し、総大将徳川家康及び福島正則・黒田長政・細川忠輿・井伊直政・本多忠勝・松平忠吉・京極高知・加藤嘉明.田中吉政・筒井定次・藤堂高虎・生駒一正・金森長近・古田重勝・織田有楽・有馬則頼・分部光嘉等と七萬五千余騎を以て大阪方に當り。殊に公は京極・藤堂等と軍陣を列ね轡を並べて奮闘し、勲功抜群であった。當時の陣容を知らんには参謀本部版日本戦史に其の関ケ原陣図を載するものに明かである。かくて家康大阪城に入るや、十月十五日諸将の論功行賞を行ひ、食禄加増の恩典に浴せしもの百十五名であつて、上は加賀の前田利長の百十九萬五千石より、下は尾州小河の水野分長の一萬石に及んだが、十萬石以上の諸侯は三十人にして、公は天草四萬石の加封によりて拾貳萬参千余石を領し、天下諸侯中第廿六位の領域を有する侯伯となるに至った。

 この役に島津義弘は大阪方に属して戦敗れて薩摩に遁れ帰りしかば、家康は島津の挙を怒り討伐の令を下した。然るに義弘の長兄龍伯(義久)は福島正則によりて、義久何等異心を抱くものにあらず舎弟義弘が所行は奇怪の事である、されば義弘帰国すると雖も面會を許さずして櫻島に幽閉したれば、御下知により如何とも厳科に処せんとて、徳川氏に情を陳し、又一方には我が志州公に依りて哀を請ひたるが、其の書状を見るに、

 依遠邦其以来無音打過候、本慮の外に候、然らば今度御弓箭之成立、惟新(義弘入道して惟新と云った)罷下巨 細致承知候、惟新事最前御談合之御企曾不被仰聞由候、殊内府様(家康)御厚恩之儀雖無忘却候、内府様如御存知、奉對秀頼様、永々可抽忠節為証跡度々霊社上?(誓書の意か)上置候、其筋於無相違は可同心仕旨、御奉行衆承知に付、君臣之道難默止任其意候由申條、勿論我々事御懇之儀聊不存念候、弥心底不可有別儀候、比等之段被聞召分候様、御取合憑存候。委曲は彼使可申達候恐惶謹言。

    十月二十二日               忠恒在判

                            龍伯在判

     寺澤志摩守殿

             人々御中

 かくの如く薩南に雄を称せし島津氏も、辞を低うして特使を志州公に派遣したれば、公も亦其の情を憐み厚く徳川氏に周旋するところありしが、果して其の憤りを解き征伐の令を撤せしめ、終に南薩六十萬五千石の封土を全うすることを得せしめたのである。薩摩の大を以て猶公に依って謝を請ひしが如く、公が徳川氏に重んぜられ、又諸侯に敬せられし一端を見ることが出来る。

 慶長十九年大阪冬ノ陣にも徳川方に参加し、寄手の南方軍に属して、八町目口より、井伊直孝・松倉重政・榊原康勝・桑山一直・古田重治・脇坂安元・松平忠直等と共に、兵員合せて一萬七千一百人を以て奮戦したるなど、徳川氏に盡すところ甚大なるものがあった。

 寛永三年八月十九日従四位下に昇叙せられた、かくて鎮西の雄藩として列侯の間に伍して一歩も譲ることなきに至った。

二、唐津城築営

 鬼子岳城は郡の南方北波多村にあり、懸崖削立して容易に登攀すべからざる天然の嶮崖たる絶頂に築かれたれば、守るに易く攻むるに至難の金城鐵壁で、波多氏累代の居城である。然るにかゝる山城険塞に據るは、築城術幼稚なる時代には必要のことなりしも、天正頃より築城術に一大発達をたると、又時勢の進運はかゝる不便の地に割據するを許さゞるに至った。加之鬼子岳城は波多氏滅亡の時、其の家臣が火を放ち烏有に帰せし後なれば、公は先づ田中村(北波多村内)に仮城を構へて之に居り、一方唐津城を造営したのである。

 抑々唐津の地は唐津湾頭を圧して要害の地たるのみならず、また西海の海港を制扼し、進んでは鵬翼を海外に伸張し、退ては国防上の一要地となすに十分なるものであった。當時既に外舶の本邦沿海に出没するもの漸く多く、苟も心を弛ぶべき時にあらず、公夙に之を洞察して、其の領域に於て、一は以て生産の中心地となり、一は以て交通八達の地として、又以て海港制圧の便益の上より、百年の據城を構ふるの地唐津に若くものなきを見て、慶長七年より同十三年に至る七星霜を経て終に唐津城の結構を遂ぐるに至った。遮莫第二代兵庫頭が、正保元年六月(二七〇余年前)隣藩黒田氏と協力して唐津湾内に於て黒船焼討の快挙を見る、この事の是非は自ら別問題として、若しそれ曩に志州公が海岸を隔つる三里の田中村に本城を営みたらんには、この際機宜の措置を失したるは必然の事なるは、この挙の成り行きに照して燎然たるものがある。また寺澤氏断滅後一年を隔てゝ唐津を宰領した、大久保忠職(タダモト)公の治績を弘文院学士林恕が録せるものに、「補西海九州鎮護職、備外国不虞之変」云々と。また弘文院学士林叟は、第二代大久保忠朝のことを記すに、「鎮西海一方之藩、監外国不虞之変」と云へるは故あることである。実に公が據城をこゝに卜せしは、内政の便宜のみに非ずして、對外政策の意衷を寓せしこと云ふまでもない。公の領有天草郡富岡城の築営も亦海淵を利用せること、全く唐津本城と其の規を一にす、公が心を致すところ、其の意気壮にして旦つ周到なるを窺ふに十分である。

 もと當城の地は満島山と称し満島に接続せし一小丘隆地であって今の二ノ門一帯は丘脚の砂濱なりしが。其の東麓を開鑿して松浦川の河道を変じ、之をこゝに疏通せしめて現状の如くならしめ以て城廓を築設したのである、それで二ノ門以東は近年まで鏡神社の産土地として、川の東岸地帯たりし舊史を存して居た。

    城廓の結構   

 本 丸 高十九間  (東西三十七間 南北六十五間)

 天主臺 石垣高六間 (東西十一間四尺 南北九間五尺)

 二ノ丸       (東西三十九間 南北百四十五間)

 三ノ丸    (東西二百六十五間 南北二百五十間)

 下の曲輪   (東西六十間 南北八十間)

 矢 倉     九 ヶ 所

 城門口     五 ヶ 所(大手、西ノ門、北ノ門、埋門、水ノ門)

 慶長二年豊太閤より名護屋城を賜はりたれば、當然築城の際には、其の建設用材中、二ノ丸門扉・冠木矢倉・大手門・本丸・天主臺の石材、其の他石壁の角石等は、名護屋城の用材を移せるものにて、大正四年夏唐津城址中学校敷地より、名護屋城用の丸瓦拾枚余の発見をなす。もと満島山には七社を祀りしが、當時左の地に奉移鎮祀せらるゝに至った。

 天神社  大石丸隈に移しそれより天神山と號す

 松浦不動尊  唐津東寺町聖持院持佛堂に移御せり

 八幡社    満島に移御す

 津守観世音  同 前

 熊野權現   大石山に移御す

 英彦山権現  同 前

 草野不動尊  聖持院に移御す

 右七社には累代、年穀米壹石宛寄進せらる。

 城の左右の海汀に青松遠く駢列して弧線を画けるは鶴九皐に翔くるの観あれば、舞鶴城の名がある。松浦河口海汀に濱して、松籟海風に琴し、千鳥群れ居し白砂の渚、公によりて魏然たる城廓聳え、井然たる市区の発達を見るに至つた。

 唐津と云へる地名は、何時の頃よりの名称なるや明かならざるも、外国渡航の要津たる意義あることは疑ひなきところであって、往昔神功皇后の征韓の船出もこの地方なるが如く、第廿一代雄略天皇の朝百済王弟軍君(コニキシ)は来朝の途、唐津港の西方加唐島にて其の妃に男子を生ましめ。第廿八代宣化天皇の御代には大伴狭手彦この地より船を発して渡韓せしなど、上古にありては三韓交通の要地に當って居たのである。さて外国をカラと称することの起原は、第十代崇神天皇の御宇に韓半島の大伽羅新羅の両国三己紋(サンコモン)の地を争ひて、大伽羅国の使者蘇那曷叱智(ソナカシチ)来朝して、其の地を献じ鎮将を請ふ、朝儀よりて鹽乗津彦を遣はして鎮将となす、後世外国を伽羅即ち唐(カラ)と称するは遠く此に起因して、後世廣く海外諸国を唐と唱ふるやうになった。平安の朝の中頃の作なる和名抄などにも、松浦郡には庇羅・大沼(ヲゝヌ)・値賀(知加)・生佐(伊岐佐)・久利の地名は存するけれども、唐津の地名を見ず。漸く徳川時代頃の著述によりて唐津と云へる地名を散見するやうだ。風帆藻には、唐津は初め地切といふ、水島(満島)とは同所の川向ひの市町と云ふ、同所にて天正十四年三月六日、松浦刑部太輔と畑三河守と合戦の事あり云々と。之に依て考ふるに、今の唐津町は近代まで地切と称せられたるやうだ。九州軍記などには唐津岸嶽城主など云へる唐津は、廣義の唐津なるが如く、狭義の唐津即ち今の唐津なる称呼としての唐津は、志摩守が唐津城を築きて城下の発達するに及びて、称へられし名称であらう。廣義に云へる唐津の地名も到底平安朝時代以後の称呼たるは疑なきところであらう。

 この地名考につきて某篤学の士が、新開紙上にて「噫々舞鶴城址」なる記事中に左の如き意見を発表せられた。

 唐津の地名の事、東松浦都史にも「今の唐津は、或は志摩守が今の唐津城を築きて城下の発達するに及びで称へられし名称にあらざるか」と云って居るのは私も賛成する。されど九州軍記などに唐津岸嶽城主など云ふ事あるに対し、「廣義の唐津なるが如く云々」と同書に説いて、其の末に「廣義に云へる唐津の地名は、平安朝以後たること疑ひなきが如く云々」と云つたのは私は首肯し難い。彼の九州軍記や野史などの、既に江戸幕府以後に成ったものに唐津岸嶽城主などあるは、寺澤氏の唐津城成りて後のものであるから、唐津城ありて後の名称を前にめぐらして称へたらしい事、私は前にも云つた通りと思ふ。

 いかに廣義と云っても岸嶽までも唐津名の内とせんはあまりに廣汎にすぎる様に私は思ふものである。

 さて唐津と云ふ称の最も古いのは、唐津焼に就いて歴史が一番古いものの様である。それで唐津焼の祖は、後柏原天皇の頃の五良太輔、呉祥瑞であるから、唐津築城に先だつ事八九十年前に唐津焼の名が世に高くなつて居るのである。此の唐津なる名は磁器の異称として疾くに関西に廣がってゐた事、窯業史に依って知るべきである。そして其の唐津なる地点は何処であったかと云ふと、松浦潟と云ふ海が、どの邊を云ふかと云へば漠然たるが如く、唐津と云ふ名も、今の唐津一帯の海岸を云つたのであらうと思ふ。寺澤氏は右の事情によれる唐津の名が既に世に知られた上で城廓を築いたものだから、撮って以て城邑の名に冠らしたものであらうと私は思ふのである。

 茲に某氏の懇切なる御示教に對して少しく之が辯明をなしたいと思ふ。

 唐津焼沿革文書(中里敬宗氏の所録)

 抑々唐津焼陶器の原因たるや、神功皇后三韓御征伐御勝利にて、質入新羅高麗百済三韓王の代として三子を携、本州東松浦郡草野郷(玉島村内)に御凱陣の上、同郡上場(ウハバ 今の佐志村以西)と唱ふ地内佐志郷内に置給ひ、武内大臣は三子を新羅太良冠者・高麗小次郎冠者・百済藤平(フヂヒラ)冠者と呼玉ふて、新羅太良冠者を置き玉ふ所を太良(ダイラ)村、高麗小次郎冠者を置玉ふ所を小次郎冠者村、百済藤平冠者を置玉ひし所を、藤平(フチヒラ)村と今以て唱来り(三子の名は世々同称すと古史に在り)高麗小次郎冠者居住の地へ陶器竃を建立し陶器を製造し、神功皇后へ献納す、(小次郎冠者村地中より今以て掘り出す陶器を佐志山焼と唱ふ)之れ皇国の陶器製造最初の地とす。故に伊萬里焼迄を唐津焼きと云傳ふ。然るに往古東松浦郡秦郷後に波多郷鬼子嶽城主に秦三河守なる者在り、八代にして断絶し、其の跡嵯峨源氏にて波多氏を称し、数十代連綿と相続す、亦鏡宮の社務職草野郷鬼ケ城主草野氏数十代相続して、波多草野の両家は舊家なりしを、共に文禄三年豊公に被没収、右秦氏前代に、高麗小次郎冠者裔孫を鬼子岳城邊に被転移、又波多氏中前代に小椎の地に被移何れも陶器焼竃を建立ありて陶器製造、此年間製造の陶器を古唐津と唱ふ(鬼子岳小椎の地中より陶器今以て掘出すことあり)

 豊臣秀吉朝鮮御征伐の砌、前領波多草野の両氏を被没収、其地を以て寺澤志摩守を封ぜられ波多氏別館、波多郷田中村島村城に住居に相成、慶長年中今の唐津城築立に相成転移の後、城の西方字坊主町へ陶器焼竃建立に相成、前件小椎より私先祖中里又七を坊主町へ被移候。文禄の役豊公名護屋御滞陣中御好に付、陶器献上し、其例を以て徳川幕府に同様、右陶器献上したる事とは成りき。

 寺澤氏正保四年被没収幕府領になりても、右陶器は幕府へ献上仕居候中、慶安二年大久保加賀守封地に成、二月城受取に成り、亦延寶六年松平和泉守封地に成り、七月十日入部。此時に當迄、又七二代中里太郎右衛門三代甚右衛門相勤。元禄四年土井周防守封地に成、六月三日入部。此時代坊主町陶竃を方今の唐人町へ被移、右三代甚右衛門及四代太郎右衛門相勤。寶暦十三年水野和泉守封地に成、五月十五日城受取臍み。五代中里喜平次及六代太郎右衛門相勤。文政三年小笠原主殿頭封地に相成、六月廿三日城受取、九月十六日入部。七代中里荘平及八代の私迄代々の領主扶助米を被與、献上陶器製造仕、往古高麗小次郎冠者傳ふる所也。傳法を不失陶器古製の正統相続罷在候、且又陶器は献上の外売却する事は代々堅く禁じ来候。

 明治十七年十月

                    東松浦郡唐津村士族

                      高麗小次郎冠者遠裔 中里敬宗

 某氏の御説では、余が鬼子嶽を廣義の唐津に加へたることゝ、唐津なる地名が平安朝以後たること疑なきが如しと云へることを批難して、鬼子嶽を九州軍記等に唐津と云へるは、唐津城下成りて後其名称を前にめぐらして称へたのであって、如何に廣義と云つたとて鬼子嶽までも唐津名の内にせんとはあまりに廣汎すぎると云ひ、其の断案として、唐津と云ふ称の最も古いのは唐津焼に就いて歴史が一番古いものの様である、それで唐津焼の祖は後柏原天皇の頃の五郎太輔祥瑞であるから、唐津築城前八九十年前に唐津焼の名が高くなって、唐津の名は磁器の異称として関西に廣がつてゐる事、窯業史に依って知るべきであると云って、猶唐津と云ふ名も、今の唐津一帯の海岸を云ったのであらうと思ふと結諭して居られる。

 余は中里氏の唐津焼沿革文書に就きては、所々愚見を有するものであるけれども、大体に於て異議なきのである。先づ某氏は唐津焼に就きての歴史が、唐津地名の一番古いものであって唐津焼の祖は五郎太夫祥瑞と断案して居るかの様であるが、如何なる古書古文書に據られしか知らねども、恐らく窯業史に依られしものにあらざるか、窯業史なるものは左程に金科玉條たる史籍であらうか、左程に考証せられて執筆したる典籍であらうか、又同氏が唐津焼と云へるは、何処にて焼きたる陶器を指摘して云へる焼物であらうか。

 中里氏の唐津焼沿革には、神功皇后の時を起原として居る、其の正否は今俄に速断する史料を他に有せざれど、沿革中に云へる小次郎・藤平・大良などの地は、現在切木村内にありて海岸を距ること一里半内外の山村である、しかも今日にても其の竃跡より陶器の破片などを得ることは、余も実際知れる処である。其の後小次郎冠者の子孫が鬼子嶽小椎の地に移住して窯業に従事し、現に其の地より陶器を掘り出すと云ふ事であって、其の正確の年代を審にせざれども、唐津町小字坊主町の竃開きは、志州公築城後であれば、鬼子嶽小椎にて陶器を焼きしは其の以前の事である、少くとも某氏の謂へる五郎太夫が窯業を営みし時代は、鬼子嶽小椎でなければならぬ、然るに某氏は唐津地名として唐津焼は最も古きものとして居れば、唐津なる地名は同地方にも承認せねばならぬ。実際中里氏文書によりても、小次郎にて焼きしを佐志山焼と云ひ小椎鬼子嶽にて焼きたるを古唐津と云って居る。同氏は漠然として、唐津焼をなせし地名さへ挙げずして、鬼子嶽地方を廣義なる唐津とするを否定して居るは遺憾の事である。いったい唐津と云へば、往昔外国渡航の要津たりし港であった事は誰にも分る話である。某氏は唐津と云ふ名も、今の唐津一帯の海岸を云ったのであらうと云って居るが、沿岸とは凡そ何程迄の内陸を意味して居らうか、左様の漠然たることは誰でも知って居ることであって説明を待つ迄もなき事である。廣い意味で附近一帯を唐津と云ったとて何の非理なる事があらうか、直ちに本文より解して唐津鬼子岳城主など云へる唐津は、廣義の唐津なるが如くと云つたとて何の間違ひがあらうか。現に福岡とか佐賀とか云って、其の近郷近在を指して通用してゐる言葉でないか、実際鬼子嶽には古唐津焼を焼いたではないか。唐津焼の起原は既に五郎太夫以前なること諸書にあり余が考証した訳けではないが後段唐津焼のところにも、一寸他人の説を拝借して書いて居る。窯業史外にも一覧の要がある(古今陶甕攷工芸志料等)。中里氏の文書を信據すれば、神功皇后時代よりと云はねはならぬ、古今陶甕攷などには孝徳齊明天皇頃としてゐる。何れにせよ唐津焼きを為せし土地は、寺澤氏以前にありては、海岸を距ること一里半乃至三里位も隔つたところである。然らば焼物はあつても唐津焼と云ふ名称は、唐津坊主町に開窯せしよりの名称であって夫れを前にめぐらして称へたと云ふか、折角の唐津地名考の御断案が論據を失ふことゝなる。

 猶また余が平安朝以後たるは疑なきところであらうと云つたのに、同氏は首肯し難しと云って居るが、余が断案は、平安朝時代の和名抄に唐津の地名が見えぬから、其の以前には唐津の地名はあるまい。それで其の後でなければならぬと思ふからである、何故余はかく漠然と云ひしかと云へば、鎌倉時代か、足利時代か、織豊時代か、何れの時に起りし地名かを浅学にして未だ探究することが出来なかつたからの事である。例令ば五郎太夫時代を以て始めて唐津地名の起源とすればとて、そは足利時代の末の事なれば、平安朝以後といったからとて、何の間違って居る訳ではあるまい。余は某氏の駁論を感謝すると雖も、余の説が間違だとはまだ思ふ事は出来ぬ。但し余は未だに唐津地名の起原の正確なる年代を知らず。

   三、所領と家臣

  ○所 領

 寺澤氏初は八萬三千石を領有せしが、慶長五年の事あるや徳川氏に黨して、関ケ原に奮戦して勲功顕著の故を以て、天草四萬石の加増ありたれば、都合十二萬三千石を知行することゝなった。筑前国怡土郡(糸島郡内)に貳萬石を所領せし次第は、往年博多町は幕府の直轄地なりしが、慶長十九年筑前国主黒田侯は、基の所領恰士郡貳萬石を以て博多町と交換のことを幕府に請ひて許さる。志州公はこの事を知り、己が所領の薩摩国出水郡は土地遠隔にして、知行甚だ不便なるの故を以て、新に幕領に帰せし恰土郡と其の交換のことを、公儀に願ひ出でて許可ありたれば、こゝに當時の唐津藩鎮は、今の東松浦郡と西松浦郡の一部(波多津村、黒川村、南波多村、大川村)に熊本縣下天草郡、福岡県下怡土郡(糸島郡の一部)に亘れる地域を領することになった。

 元和二年の検地石高は、拾五萬七百七拾六石七斗五升九合を算す、これ各地に墾田開拓をなせし結果である。其の内訳を挙ぐれば、

  一、八萬貳千四百拾六石四斗壹升六合      松浦郡

  一、貳萬八千参百六拾石参斗四升参合      怡土郡

  一、四 萬 石                天草郡

   合 計    拾五萬七百七拾六石七斗五升九合

     此の配分

  四萬貳千貳百貳拾参石八斗参合      御蔵納

    掛官 陰山庄右衛門     地田新介     岡島治郎兵衛

        吉村弥介     高畠長右衛門     竝河三郎兵衛

        山中勘四郎     堀田金左衛門     田伏彌五左衛門

        以 上  九 名

四 萬 石 (天草分)                   御 蔵 納

残 額 六萬八千五百五十貳石八斗七升六合          家臣の食禄

   ○家臣と食禄 天草分を除く

一、三千石   (赤木村、久保村、長野村にて)  關主水

一、二千三百八石五斗七升  (半田村、満吉村にて)岡島治郎左衛門

一、二千石   (宇木村、新木場村、瓜ケ坂村、竹村にて) 中村藤左衛門

一、千九百石一斗 (川上東村、笠椎村、平尾村、見借村にて) 熊澤三郎左衛門

一、千五百九拾九石九斗八升 (波戸村、切木村、鹽鶴村、轟村にて)尾藤惣左衛門

一、千五百石(稗田村、岸山村、徳居(スヱ)村、佐里村にて)今井新右衛門

一、千二百石三升 (長石村、神有村、行合野村にて)澤木伊助

一、八百六十石(長部田村、田代村、浦村、馬部(マノハマリ)村にて)石川三左衛門

一、八百石六斗三升 (鹿家村、大浦村、田代村、大園村にて)佐々小左衛門

一、八百石(佐志村、納所村、福井村にて)谷崎助兵衛

一、同   (一貴山村、牟田部村、轟村にて) 竝河三郎兵衛

一、同   (木場村、鹿家村、吉井村、重橋村にて) 今井十兵衛

一、同   (重橋村、平原村、鹿家村、吉井村にて) 片岡九郎左衛門

一、同   (長野村、瀬戸村、松国村にて)  三宅藤右衛門

一、七百九十九石九斗七升

  (鳩川村、長倉村、梶山村、久里村、大良村、値賀村、鶴村にて) 川瀬小右衛門

一、七百八十八石八斗二升 (千々賀村、養母田村にて) 中江新八

一、七百三石     (平原村、今村、打上村にて)  山田将監

一、六百三十九石  (久里村、諸浦村にて)    林又兵衛

一、五百六十石   (横田村、大黒川村、打上村にて)  石川理兵衛

一、同   (福井村、星賀村にて)  細野半右衛門

一、同 (平原村、横田村、野田村にて) 福永六良右衛門

一、同 (吉井村、平原村、石志村、上平野村、成淵村にて)古川八右衛門

一、五百石 (松浦郡田中村にて)  山路甚五右衛門

一、四百八十石  (吉井村にて)  仙石十太夫

一、同   (福井村、平原村にて) 川越傳左衛門

一、四百五十石  (長石村にて)  島田庄右衛門

一、四百二十石  (伊岐佐村、井手野村、水留村にて) 有浦伊兵衛

一、四百十八石四斗八升 (濱久保村、仁田尾村、上倉村、納所村にて) 和田杢之丞

一、四百石   (山道村、石室村にて) 井形伊左衛門

一、同     (千々賀村にて)    友田佐兵衛

一、同     (双水村にて)     太田八郎右衛門

一、同     (福井村にて)     吉田庄之助

一、同     (一貴山村にて)    井手七右衛門

一、同     (怡土郡田中村にて)  佃 與三兵衛

一、四百石   (松国村にて) 荒瀬八兵衛

一、同   (平原村、佐志村にて)中島平右衛門

一、同   (濱久保村、佐志村にて) 並河兵右衛門

一、同   (平原村、筒井村、中里村、小次郎村にて)林又右衛門

一、同   (横田村・菖蒲村、濱ノ浦村にて) 陰山庄右衛門

一、同   (鳩川村、石室村にて)  天野外記

一、同   (山田村、横野村にて)  熊澤五郎右衛門

一、同   (横田村、石原村にて)  関善左衛門

一、同   (今村、八尋嶺村、長田村、轟村にて)尾藤久左衛門

一、同   (福井村・竹有村、濱ノ浦村にて) 澤木茂左衛門

一、同   (入野村、絃巻村にて) 渡邊又右衛門

一、同   (松国村、筒井村、菅牟田村にて) 池田市左衛門

一、同   (長野村、井野尾村にて) 中川左近

一、同   (横田村、大黒川村にて) 石川右門三郎

一、同    (畑河内材、眞手野村、志気村にて)古江權右衛門

一、同    (大野材、原村にて)  佃 八郎兵衛

一、同    (横田村、伊岐佐村にて) 建部 兵左衛門

一、同    (怡土郡田中村、座河内村(ソソロカハチ)にて) 中島與左衛門

一、三百九十六石七斗三升(原村、田代村にて) 武藤喜兵衛

一、三百六十石     (馬場村、主屋村にて)松島次右衛門

一、三百五十一石六斗一升(呼子村、丸田村にて) 小川平蔵

一、三百五十石    (馬場村、湯屋村にて)  柴田市郎右衛門

一、三百六十石    (福井村、星賀村にて)  石川吉左衛門

一、三百石     (屋形石村にて)     中川八郎左衛門

一、同       (伊岐佐村にて)     今井十兵衛

一、同       (伊岐佐村にて)     磯野九兵衛

一、同       (横田村にて)    戸田長太夫

一、同       (同)        池田勘右衛門

一、同       (長野村にて)    田中平兵衛

一、同       (平原村、佐志村にて)福永長介

一、同    (石志村、浦村、八床村にて)美野部五郎右衛門

一、同     (菖蒲村にて)   陰山彌左衛門

一、同    (水留村、久保村、普恩寺村にて) 入江太郎右衛門

一、同    (轟村、内野村にて)  戸田加左衛門

一、同    (一貴山村、納所村にて)  国枝清左衛門

一、同    (瀬戸村、湯野尾村にて)  佐藤市右衛門

一、同    (田代村、畑河内村にて)  西川彌次右衛門

一、同    (平原村、板木村にて)   古郷孫兵衛

一、同    (吉井村、波多津村にて)  佐藤孫六

一、同    (平原村、千々賀村、煤屋村にて) 川岸茂右衛門

一、三百石  (大曲村、畑島村にて)  青岡九郎右衛門

一、同    (平原村、柏崎村にて)  明石善兵衛

一、同 (山田村、山道村、鶴村、福田村にて) 岡部權兵衛

一、二百九十九石九斗  (山田村、大久保村(岩野)にて)古川傳右衛門

一、二百九十九石八斗  (瀬戸村、畑河内村、藤平村にて)山路角兵衛

一、二百九十九石三斗三升(伊岐佐村、横枕村、久保村、中里村、屋形石村にて)大竹嘉兵衛

一、二百七十石二斗一升(長部田村、荒瀬村、梅崎村にて)松村伊右衛門

一、二百五十石  (切木村にて)  突 若狭

一、同      (石志村にて)  横井九左衛門

一、同      (同)      巽 勘介

一、同      (中山村にて)  壽 庵

一、同      (山田村にて)  澤木七太夫

一、同      (平原村にて)  市橋九郎兵衛

一、同      (田頭村、佐志村にて)大屋九右衛門

一、同      (高瀬村、大野材にて)山口藤蔵

一、二百石    (尾形石村にて) 岡原彦兵衛

一、同      (横竹村にて)  杉山清三郎

一、同      (鹽鶴村にて)  中川才右衛門

一、同      (丸田村にて)  岡 安右衛門

一、同      (値賀河内村にて) 吉田仁兵衛

一、二百石    (諸浦村にて)  大津孫十郎

一、同      (長倉村にて)  田崎彦左衛門

一、同      (絃巻村にて)  田代彌五左衛門

一、同      (納所村にて)  川合八右衛門

一、同      (入野町にて)  瀬井三右衛門

一、同      (木場村にて)  池田新介

一、同      (同)      檜次郎四郎

一、同      (中山村にて)  荒川平左衛門

一、同      (水留村にて)  蒲野藤五郎

一、同      (井手野村にて) 渡邊庄五郎

一、同      (大川原村にて) 山田四郎右衛門

一、同      (立川村にて)  川合七郎右衛門

一、同      (徳居村にて)  土井重之丞

一、同      (同)      横野源右街門

一、同      (大野村にて)  安井仁左衛門

一、同      (同)      松田五左衛門

一、同      (伊岐佐村にて) 松本仁蔵

一、同      (同)      中路市兵衛

一、同      (柏崎村にて)  中野傳右衛門

一、同      (同)      上月八介

一、三百石  (大曲村、畑島村にて)  青岡九郎右衛門

一、同    (平原村、柏崎村にて)  明石善兵衛

一、同 (山田村、山道村、鶴村、福田村にて) 岡部權兵衛

一、二百九十九石九斗  (山田村、大久保村(岩野)にて)古川傳右衛門

一、二百九十九石八斗  (瀬戸村、畑河内村、藤平村にて)山路角兵衛

一、二百九十九石三斗三升(伊岐佐村、横枕村、久保村、中里村、屋形石村にて)大竹嘉兵衛

一、二百七十石二斗一升(長部田村、荒瀬村、梅崎村にて)松村伊右衛門

一、二百五十石  (切木村にて)  突 若狭

一、同      (石志村にて)  横井九左衛門

一、同      (同)      巽 勘介

一、同      (中山村にて)  壽 庵

一、同      (山田村にて)  澤木七太夫

一、同      (平原村にて)  市橋九郎兵衛

一、同      (田頭村、佐志村にて)大屋九右衛門

一、同      (高瀬村、大野材にて)山口藤蔵

一、二百石    (尾形石村にて) 岡原彦兵衛

一、同      (横竹村にて)  杉山清三郎

一、同      (鹽鶴村にて)  中川才右衛門

一、同      (丸田村にて)  岡 安右衛門

一、同      (値賀河内村にて) 吉田仁兵衛

一、二百石    (諸浦村にて)  大津孫十郎

一、同      (長倉村にて)  田崎彦左衛門

一、同      (絃巻村にて)  田代彌五左衛門

一、同      (納所村にて)  川合八右衛門

一、同      (入野町にて)  瀬井三右衛門

一、同      (木場村にて)  池田新介

一、同      (同)      檜次郎四郎

一、同      (中山村にて)  荒川平左衛門

一、同      (水留村にて)  蒲野藤五郎

一、同      (井手野村にて) 渡邊庄五郎

一、同      (大川原村にて) 山田四郎右衛門

一、同      (立川村にて)  川合七郎右衛門

一、同      (徳居村にて)  土井重之丞

一、同      (同)      横野源右街門

一、同      (大野村にて)  安井仁左衛門

一、同      (同)      松田五左衛門

一、同      (伊岐佐村にて) 松本仁蔵

一、同      (同)      中路市兵衛

一、同      (柏崎村にて)  中野傳右衛門

一、同      (同)      上月八介

一、二百石   (野田村にて)  須磨七左衛門

一、同     (平原村にて)  佐々才兵衛

一、同     (吉井村にて)  関 茂兵衛

一、同     (同)      吉川勘兵衛

一、同     (同)      高畠半兵衛

一、同     (福井村にて)  石川次太夫

一、同     (松原村にて)  古橋源太夫

一、同     (同)      坂崎助左衛門

一、同     (濱久保村、見借村にて) 松本平八

一、同     (畑河内村、見借村、名場越村にて)堀池與平次

一、同     (大久保村、枝去木村、中里村、小加倉村にて)堀田金左衛門

一、同     (加倉村にて)  戸田角左衛門

一、同     (石志村、濱竹村にて) 九里庄兵衛

一、同     (石田村、諸浦村にて) 廣瀬七兵衛

一、同     (千々賀村、中尾村にて)吉田半右衛門

一、同     (大川原村、後河内村にて)木村權左衛門

一、同     (田野村、絃巻村にて) 岡村市十郎

一、同     (柏崎村、仁田尾村、入野村にて)安田作兵衛

一、同     (大曲村、赤木村、原屋敷村にて)奥村五郎兵衛

一、同     (田代村、煤屋村にて) 林久右衛門

一、同    (福井村、波多津村にて) 井口太兵衛

一、同    (柏崎村、古里村にて)  高原久右衛門

一、同    (久里村、原屋敷村にて) 津田與惣左衛門

一、同    (徳居村、田中村、山彦村にて)吉村彌介

一、同    (中山村、千束村にて)  佐藤作左衛門

一、同    (吉井村にて)      佐藤庄内

一、同    (普恩寺村、座河内村にて) 岡部善右衛門

一、同    (有浦下村、煤屋村にて)  松倉猪之介

一、同    (田頭村にて)      熊澤久助

一、同    (横野村にて)      山下吉十郎

一、百九十九石九斗六升(長部田村、田頭村、楠村にて)田治見勘太郎

一、百九十壹石四斗四升(大杉村にて) 鳥養掃庭

一、百六十七石四斗八升(花房村にて) 岡崎治郎兵衛

一、百五十三石二斗七升(石志村、曲川村にて)松本安太夫

一、百五十石   (本山村、丁切村にて) 佐牧助右衛門

一、同      (中里村にて)     中山勘四郎

一、同      (平原村にて)     佐藤孫太郎

一、同      (徳居村にて)     山路彦四郎

一、同      (屋形石村にて)    中村吉蔵

一、同      (平昌津村、梨子河内村、田代村にて)山原作右衛門、

一、同 (平原村、立川村、曲川村にて) 吉田市介

一、同     (唐川村、内野村にて) 佐野彦十郎

一、同    (長部田村、丁切村にて) 高畠長右衛門

一、百貳十九石九斗三升  (見借村にて) 松井孫三郎

一、百貳十石  (重河内村、中浦村にて) 酒井傳兵衛

一、百十三石八斗九升 (丸田村にて)   岸田彦左衛門

一、百三十七右七斗六升 (寺浦村にて)  井上角右衛門

一、百壱石壱斗八升   (山田村、小加倉村にて) 祖父江權之丞

一、百五石     (牟形村にて)  西川長左衛門

一、百石     (有浦下村にて)  安田仁兵衛

一、同      (同)       細井源之丞

一、同      (田代村にて)   岡平吉

一、同      (納所村にて)   山田次郎太夫

一、同      (重河内村にて)  中野掃部

一、同      (大杉村にて)   鳥養助之丞

一、同      (石志村にて)   吉川九介

一、同      (伊岐佐村にて)  松本牛右衛門

一、同      (横田村にて)   武藤七右衛門

一、同      (平原村にて)   佐藤助八

一、同      (同)       大工喜左衛門

一、同      (同)       梶原九右衛門

一、同      (同)       塗師屋九郎右衛門

一、同      (同)       戸田太郎兵衛

一、同      (見借村にて)   深海善太夫

一、同      (同)       陰山孫左衛門

一、同      (佐志村にて)   鳥養助兵衛

一、同      (中里村にて)   竹内新左衛門

一、同      (平原村、石志村にて)村尾仁介

一、同      (下平野村、長倉村にて)大工佐兵衛

一、同      (田中村、竹有村にて) 長瀬孫右衛門

一、五十石    (馬渡島にて)    北村善左衛門

一、同      (石志村にて)    鳥養柏庵

一、四十石四斗  (普恩寺村にて)   向島某

一、百石     (加部島にて)   加部島神領

一、同      (新木場村にて)  近松寺

一、五十石    (有木村にて)   東雲寺

一、同      (枝去木村にて)  浄泰寺

一、三十石    (同)       龍源寺

一、二十石    (同)       醫王寺

    以 上