東松浦郡史 ⑨
http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より
右の食禄各村を現今の政治管区に照して、参考に供すれば、
東松浦郡
巌木村 鶴。本山。
相知村 久保。佐里。長部田。牟田部。梶山。馬場。湯屋。横枕。中山。田頭。千束。丁切。楠。
久里村 久里。伊岐佐。双水。大野。柏崎。松原。原。
北波多村 稗田。岸山。徳居。行合野。上平野。成淵。田中。竹有。志気。山彦。大杉。下平野。
鬼塚村 千々賀、養母田。石志。山田。畑島。
鏡 村 半田。宇木(有木)
濱崎村 横田。野田。
玉島村 平原。
唐津村 菅牟田。唐ノ川。重河内。見借。
切木村 瓜ケ坂。田代。大良。仁田尾。小次郎。八尋巓。中尾。長田。坐河内。湯野尾。藤平。後河内。曲川。中浦。
有浦村 轟。長倉。諸浦。小知倉。有浦下。牟形。
値賀村 平尾。大園。値賀川内。今村。濱ノ浦。普恩寺。石田。
入野村 新木場。大浦。納所。星賀。上倉。入野。絃巻。
名護屋村 波戸。馬渡。
呼子村 呼子。加部島。
打上村 赤水。鹽鶴。打上。石室。菖蒲。八床。丸田。大久保(岩野)。横竹。加倉。平昌津。
湊 村 中里。横野。屋形石。
佐志村 浦。馬部。佐志。鳩川。山道。石原、名場越。枝去木。
西松浦郡
大川村 長野。立川。
南波多村 笠椎。重橋。水留。眞手野。大曲。高瀬。井手野。原屋敷。大川原。古里。
黒川村 大黒川。畑川内。花房。
披多津村 木場。筒井。井野尾。主屋。内野。板木。煤屋。
糸島郡 (福岡県)
福吉村 福井。鹿家。吉井。
一貴山村 竹。長石。一貴山。松国。濱久保。田中。満吉。
長糸村 瀬戸。
深江村 堂ノ元。
加布里村 川上東。神有。
四、治 績
其一、封内の産業状況と公の努力
封域もと丘陵起伏して平地乏しければ、陸田によりて菽麦を作り生活の本源となす、渓間の地水田なきにあらざれど、僅かに之を補足するに過ぎざる状態である。松浦川流域土地平坦にして最も廣しと雖も、自然の放流に委棄せられて利用せらるゝことなし。されば封内山水紫明の風光に富むと雖も、生産菲薄にして蒼生肥えたるにあらず。是に於て衆民を思ふの念深厚なる公は、精力を挙げて河海を征して墾田開拓の業に従事し、苟くも谿壑海潟等の利用すべきものある時は、即ち之が治拓を計りて遺利の収拾に努め、蒼生の福利安堵に力を傾注したのである。しかも公は水利に精通し、其の細緻の設計は常に些末の遺算だに来すことがなかった。加ふるに精力恪勤なること絶倫にして、到底尋常人の企画すべからざるものがある。人夫を使役し工事を督励するに當りては、配石土工の細に至るまで一々自ら監督せざれば止まず。黒川村また怡土郡の如き六里乃至七里の行程を有する開拓工事地に、毎朝暁闇を突いて険隘の山路に駒を駆り、日出と共に人夫を督励した、或はまた好民租税の軽減を謀りて、詐譎を以て地味の劣悪を云ふ時は、自ら土壌を嘗めて肥瘠を分つなど、其の精力智見の卓絶なること実に驚歎すべきものがある。
其二、松浦川改修
現時の松浦川は、源を杵島郡黒髪山に発し、北流して松浦郡に入り、相知村にて東川の支流を容れ、西北に走りて更に伊岐佐川を合せ、鬼塚村河原橋にて波多川と會し、河幅水量共に頓に増大し、北走して半田川を呑み、河口に近づきて町田川を併せ、唐津城址の東岸を洗ふて海に入る、本流の長さ十里余りである。
志州公治藩以前の松浦川は、下流の形貌現時とは全く異りて、久里村城淵より東方の山麓に沼ひて北流し、虹林に近づきて半田川の支流と會し、今の唐津町二ノ門前を走り、埋ノ門小路下を経て海に入れり。さればにや現時の唐津村大島の漁民の祖先は、この河口小丘上翠緑滴たるばかりなる松蔭に居宅を構へしものが、城普請の頃より、同島に移されたるものなりとの口碑を存して居る。波多川はもと、鬼塚村養母田の丘脚を洗ひ、左折して和多田を経て、鍋倉山下より唐人町を過ぎ、唐津町の南郊を西走し、町田川と長松附近に會流し、衣干山麓二子より海に入る。されば水勢大ならざる二川は、二條の流域をなして幅員廣濶ならざる平地を北流し、河道の如きも自然のまゝに放置されたれば、河口より一里半余の地までは、不生産地たる河原多く、殊に雨季に洪水の難が甚だ多かつた、従って水運の利、下流平原の利用等も放置せられてゐた。
公が藩治に臨むや、最初に築城のことと相待って、二川の河道改修の大工事に着手したのである。即ち松浦・波多の二川を河原橋に合致せしめて、こゝに三角洲を作りて水勢の緩和調節を画かったから、水量豊かに油然として北に流れ、半田川を短縮して大渡にて本流に容れ、町田川の下流を断ちて材木町西詰めにて本流に會せしめた。是に於て一條の大松浦川を疏通し、河口の邊りにては河幅三百間を有せしめて、河海接触地に於ての河水の大調節を計り、又一方には自由に當時の船艦を碇繋せしむる御船入れはこゝに設けられた。今の唐津町字船宮は其の遺跡にして船手の人々の居住せしところである。この大工事のために、新に久里村は大約五拾町歩余の田園を獲得し、鏡村に四十余町歩を得、又鬼塚・唐津の両村にも数拾町歩の水田を生めりと雖も、今は明確なる地積を知るは難い。従来本流には堤防の設けがなかつたから、度々洪水氾濫の難ありしが、こゝに其の患害を一掃し、又河道整理の結果は、水量裕にして舟運の便起り、沿岸其の利益に浴すること多大にして、農産物また肥料運搬等の便益を受け、遠く明治維新後に至りて一層の余澤を及ぼし、同三十四五年の頃唐津鐵道経営前の郡の南方諸炭田の石炭は、全然この水運に依りて唐津港に搬出せられしが、今猶相知村土場よりは、軽舟によりて運送せらるゝ石炭量額も少くない。本川水運の全延長線は約五里に達せん。今や河口は年々土砂沈滞して水尋浅しと雖も、和洋の帆船数十隻を繋ぐを得て、実に三百年来地方人民の恵澤を蒙ること甚だ大なるものがある。
其三、防風林の施設
唐津の地北方玄海に面して風害少からず、歳々禾稼を傷ふこと多く、殊に鏡、砂子、横田、濱崎(以上は東松浦郡内)鹿家(糸島郡内)の諸邑被害者も甚しいので、公之を憂ひ沿海の諸邑に命じ、海に傍うで松を植ゑしむ、横幅数町、総延長参里に近し。既にして功成りければ、公は領民の或は之を伐採損傷せんことを患ひて、禁令を設けんとす。されども亦禁を軽くせば則ち之を侮り、禁を重くせば則ち民之を以て苛刑に泣かん。令を封内に発して曰く、沿海植うる所の新松数千萬株、其の中に七松あり、吾甚だ之を愛す、凡そ芻蕘雉兎の者、若くは往還の徒にして其の一を傷くる者あらば、人を殺戮したるものと同一罪に処すべしと、是に於て人々皆其の禁令を畏れた。
然れども、公は人をして其の所謂七松なるものゝ孰れなるかを知らしめず、人亦終に其の七松なるものを知るものがない。則ち植る所数千萬株、民終に其の一を損ふ者がなかつた。
依りて星霜を重ぬるに従ひ、松樹愈々繁茂し欝々として林をなし、諸邑の民今に至るまで之に頼ること至甚であって、又一方風光の明媚なる虹林を以て世に知らるゝに至つた。其の実施より愛する所あるにあらず、若し或は犯すものあるとも、こは我愛する所のものにあらず、若し果して吾愛する所のものを伐採し又根抜かば、如何でか身首を保つことが出来やうかと言はんとしたのである。人皆其の智にして仁なるに深く悦服せりといふ。
其四、田園開墾
東松浦郡
鬼 塚 村
同村字和多田小字先大石に至る間の松浦川沿岸に、堤塘九百余間を築造して、田畑を開き約拾町歩の水田畑地を得たが、元和二年九月工事成る。
鏡 村
慶長年間、松浦川の河原不毛の砂磯地を開墾して、水田四拾参町歩余を得、又河岸の堤防七百八拾八間なり、開拓地を新開と称した。
有 浦 村
有浦新田総面積貳拾八町余にして石垣堤防の総延長九百貳拾八間である。
其の他、久里・唐津両村の開拓地積は不明であるけれども、通算すれば数十町歩を下らざることは、現状の目算によりても明かである。
西松浦郡
黒川村
埋築新田地は、大字小黒川・大黒川・鹽屋の三地に跨り、総面積貳拾五町歩であって、其の内参町歩は鹽田なりしが、今はこゝも水田と化して居る。堤防、六拾参間なるが其の長さに至っては云ふに足らざれど、海底深く且つ奥行き遠く、湾口狭迫すれば、潮汐干満の流れ急にして、工事困難であったと云ふ。
福岡県怡土郡(今は糸島郡に属す)
同郡内には三十六ケ村(今は六ケ村計りとなる)貳萬八千石余の所領があったが、慶長の末年より元和三年まで数年の歳月を要して水田鹽田を埋築開拓せしこと、五拾五町参畝歩に達してゐる。
内 訳
鹽 田 参町七反歩 (福吉村大字大人)
水 田 八町七反歩 (深江村大字片山)
鹽 田 拾町五反七畝歩 (加布里村大字加布里)
水 田 四町八反歩 (加布里村神在川今の長野川改修につきて生める土地)
水 田 貳拾参町五反六畝歩 (加布里村大字岩本)
鹽 田 参町七反歩 (加布里村大字岩本)
右の外神有川(今の長野川)河道を変じて志摩郡荻ノ浦に注がしめて、灌漑の便を計ると共に約五町歩の田面を得た。今は鹽田の多くは水田と化しつゝある。
其五、天草領のこと
慶長八年天草を領有するに至つたが、同年郡中の検地を行ひ、田畑本高参萬七千石、桑・茶・鹽・網の賦課を五千石とし、合計四萬貳千石と定められた、されど普通には四萬石と称した。もと五人守護の治政以来、郡の公課は参萬石を超えざりければ、今この増石を見て民之を喜ばざりしも、ために民心を鼓舞して漁業の発達蠶業の進歩を馴致するに至ったのは、一小島王国の桃原の夢に眠りしものに一鞭を與へた感じがある。
富岡の地に袋ノ城を築く、海に臨み三會川に瀕して松原を展ずるは、唐津本城に髣髴として居る。本戸・栖本・一町田の三ヶ所に郡代を置き一切の郡治を司らしめた。袋ノ城には代番を置きて郡政を統轄せしめ、寺澤熊之助・戸田又左衛門・高畑忠兵衛・川村四郎左衛門・関主水・中村藤左衛門・三宅藤兵衛相継ぎて代番たりしが、三宅藤兵衛代番の頃、即ち寛永十四・五年天草四郎時貞の耶蘇教徒の乱起りて、藤兵街戦死す、時に寺澤第二代堅高公の頃であったが、領内にこの大乱を惹起せしは統督不行届なりとて、天草領を没収せられしことは、次で述ぶるであうら。
其六、郷 足 軽
公は藩境其の他の要地に、常住して変警に備ふる士分を置いた。初め波多氏鶴田家等の諸浪人を以て大川野村(西松浦郡大川村内)に四十人、廣瀬村(厳木村内)に十人、鏡村に四十人、和多田村(鬼塚村内)に四十人を置きしが、地方警備上効果あるを見て、其の後また鏡村に二十人、小麦原村(西松浦郡南波多村内)波多津村に十四人中原村(久里村内)に七人、次でまた怡土郡内堂ノ元に十一人、小松崎(一貴山村内)に十人置いた。其の後當藩主は大久保・松平・土井・水野・小笠原の五氏を更ふると雖も、これ等郷士は其の地方に土着して地方警戒の任に服したれば、今猶其の村里に郷士の末裔が住居を構へて居る。
其七、庄屋待遇に関すること
一、慶長十三年までは、正月二日年頭の伺候を為すの規定なりしが、其の翌年よりは同三日に参賀の禮を行ふ様改めらる。
一、江戸参勤発着の節は、八間町にて総見の儀行はるべき定めであったが、同年は満島渡口より御乗船の際に、郡内大小庄屋を満島に召して引見し、各村支配内の収穫高の壹厘を以て、其の扶持米となすべき旨仰せ渡さる。其の後発着共に大小庄屋の引見は、満島にて行はるべき慣例となった。
一、従来庄屋任用の節は、波多家の浪人または其の地の名望家を採用した、當時各庄屋は勝手向不如意の旨上達せしに、庄屋一統に高百石までの自作農を許容せられしも、庄屋共は之を不便とせしかば、組合の村里より毎年百人の合力を受くることゝ定められしが、後に大久保加賀守の時代より五十人に減ぜられた。
一、従来庄屋の職分を罷免せらるゝとも、邸宅田地は永く其の所有権を與へられたれば、惣庄屋は其の居宅の修理は自費によりしが、座敷・臺所・垣墻・湯殿・雪隱等は、其の村組合より修理すべき規定であったから、其の職務を解除せられし時は、座敷臺所等は組合に引き渡すことゝなつた。
一、元和元年検地の節に、領内一同の惣庄屋を以て組合の庄屋と定められた。従来は随時武家より直ちに地方にて任意の輩を採用したのである。
其の他庄屋に関する規定
一、衣類は絹紬まで心次第着用の事
一、佩用の具
短矛
脇差心次第
一、羽織袴を用ふる事
一、乗馬勝手次第
一、御使者差遣の節には、左の通り定めらる。
惣庄屋方へは 御歩行衆(オカチシュウ)
脇庄屋(小庄屋)方へは 御足軽
百姓共へは 御中間
一、御廣間へ召し出されし節は、惣庄屋は御廣間に着座、脇庄屋は板敷・椽側へ入り込み、焼物師・鯨突・鑓ノ柄師は末座に着席すべき定めである。
一、脇庄屋勤務の儀は、惣庄屋より差圖致すべき事、惣庄屋の勤務怠慢邪行の事ある時は、組合の庄屋より勸告督励を行ひて、悪事不正の行為これなき様各自心得ゆべき事。
其八 百姓一般に示達
公は元和年間検地を行ひたる後、度々領内を巡狩して領民の状態を視察し、苟も牧民の利害産業の改善に関する乙とは、一々庄屋百姓一般に訓諭示達して、常に啓発指導の任を怠ることがなかつた。今其の諭達事項を摘録せん。
一、田地灌漑用の水口末世に至るまで変更あるべからざる事。
一、井磧其の外用水溝道は永遠に変更あるべからざる事。
以上は百姓が干魃に際して、水諭喧嘩等なき様の用意にして至れりと云ふべし。
一、株田起しの節は、境畝の刈株一株立て置き、別に苦情等これなき様致すべき事。
(此れ境界侵害の苦が苦がしき不祥事を未前に予防するのである。)
一、畝筋は定めの通りに従ひ違反あるべからざる事。
(三百年前より周到なる公は、正條植ゑの理法によらざれば稔穀豊かならざるを戒しめられたのである。)
一、當年作主の変更をなす時は、田麦作は相違なく先主の所得たるべき事。畑麦作は當主の所得に帰すべき事、されど先主よりの所得に帰せし時は、其の半額を上納仕るべきこと。
一、作主変更の節、耕鋤其の他に施設せる物件は、其の田地に附帯すべき事。
田畑の前作者と後作者間の授受に就きても、好悪の徒は不當無理の要求をなすことあれば、之が争論を絶つには、如斯明確なる規定あれば安堵して作地変更も出来るものである。
一、百姓共各々所有田畑は入念に作業を為すべき事。
若し粗雑無精のことある時は、屹度申渡すべき旨これあるべき事。各自精励耕作に従事せば、自ら快心を覚えて家を守り国家に對し第一の忠孝と存ずべきものである。
(深耕をなさゞれば地味枯る、地味肥えざれば作物繁らず、依って公は厳しく、深耕を奨励し以て治国平天下を説く、三百年後の今日猶恥づべきものあらざるか。)
一、惣庄屋御用により出頭の節は、手仕へ夫一人づゝ其の支配村より召し連るゝ事、且又百姓共は異議なく相勤め申すべきこと。猶領分中若し如何様の儀にても乗馬の節は、傳馬の規定に據るべき事。
など、公の細心なる政治は、かくの如くして瘠せたる地味は肥饒に、狭迫せる土地は拡大せられ
て、物産豊かに民富みて太平を謳歌するに至つたのである。
五、公の性行及び墳墓
其一、性 行
公は身を持するに謹厳酷薄であって、其の性行の非凡にして超絶するところは世道人心の啓発誘掖を致し以て吾人の亀鑑となすべきもの少からざるものがある。
即ち事なければ毎朝六時には起床して八時まで家務を聴くを常とし、其の間朝餐前には必ず馬を馬場に駆りて馬術を練り、且つ清澄せる朝の大気を恣まゝに吸ひて心身を鍛え、餐後には刀槍を振ひ武芸を励みて怠る日とてはない。毎歳極寒の交三十日間は、武道の稽古に精力を傾け、射芸に練達の士をして青年武士の指導鍛錬に労せしめ、自身は捲藁にて射を試む、或は夏季に至れば銃の操法を学ばしめた。夜間武技を演ずる際には、諸士と與に粥*(米参)カユを食ひて労を慰め歓楽を共にした。
常に人に語りて曰く、夜間談笑して時を空費するは害ありて益なく、却って心身の疲労倦怠を来して其害翌日に及ぶ、これ全く休養熟眠を缺けばなりとて、左右侍臣のものにも早々にして暇を與へ寝に就かしむ。無益の座談に夜を更すの徒は三省すべきことである。
度々郡邑を巡視して領民の状態を察知し、親しく窮民を慰撫愛恤すること恰も親子の情を以てすれば、民其の徳に感泣せざるものはない。又有司に命じて備荒儲蓄の用意をなさしめ、予め水旱飢疾の難に備へたるは云ふまでもなく、租税の軽減徭役の節理など、蒼生撫恤の恩澤臻らざるところはない。
上の好むところ下之に傚ふの例に漏れざれば、自ら範を示さんとて毎食一菜を供へて、家士と共に同食し決して美味豊膏を需むることがない。元来藩域水田乏しくして陸田多ければ、麦作が主要農産である。されば公は夏時には諸士僕隷をして悉く麦飯をなさしめ、自身も亦喜んで麦食をなして敢て粗食を厭ふことがない。或は奢侈繊弱の弊風の起らんことを恐れては、常に自ら綿服を纒ひて云ひけらく、道を下民に傳へ教化を人に施さんと欲せば、自身率先して躬行実践の範を示さざるべからず、これ千萬言の口舌に勝ること幾倍ぞと。
或時公は家臣等が世情を談ずるをきゝ居たるに、大和の人某は関ケ原の役に陣歿したが、此の人無欲恬淡にして算数を辨ぜずして利益の外に超然たるところがあった、期の如きは眞に得難き武夫なりとて、一同感嘆の声を漏してゐた。公之を遮りて曰く、左様の人は所謂家産を破り身を亡ぼすの輩である、仮令よく治平十年を保つことを得るとも、一家を理し財政を整ふるところの道を知らざる徒なれば、遠からずして飢寒の災厄に逼られて武具家財を棄て、身を滅さゞる可からざる苛窘に遭着すること必然である、眞の武士たらんものは、大義の念に厚く武道に錬達するは云ふまでもなく、修身臍家治国平天下の才能なかるべからずとて、浅薄皮層の観に捕はれたる人々の迷想を説破して、武人たりとて財政の知能なかるべからざるを誨へた。
武士が戦陣に臨んで群衆に抜きんで、干戟の間に出入して虎摶龍驤の武者振りを演じたとて、それで以て殊更に奇とするには足らない、これ武士の常道を行ふたといふに過ぎないのである、須らく功名を樹て世を裨益せんとするの志あるものは、常住坐臥晏居の時と雖も克己自制の心固くして自己の慾念を棄つるの勇気あるものでなければならぬ、若し嗜好に深き習僻ある時は、必ず他に疎隔を生じ身を過ち他を損ずるの恐れがある、吾嘗て茶事を嗜むこと甚だ厚かりしも、其の弊あるを知りて今は重く之を廃絶せりと。
公は又常に何事にも用意周到である、其の逸話として、関ケ原の役に東軍の総大将家康未だ到らざる前に、部将各々地の利に據守して居た、或夜陰に諸方の陣営が俄かに擾然として騒ぎ立つたが、公は獨り前後も不覚に鼾声雷の如く寝込んで居た。それは予て侍六人と歩(カチ)の者六人をして、交番に警戒見張りをなさしめゐければ、同夜夫等のものより何の急報にも接しなかったので、かくは落着きはらって居たのである。
事或は奇警にして人耳を聳動するの挙あるなく、其のなすところ平凡なるが如きも、其の識見一頭地を抜き、言行一致して窮行実践以て範を垂るゝが如きは、言ふに易くして行ふに至難である。公は天下の侯伯として贅を盡くし華を翫ぶの身分にありながら、其の安逸華奢の誘惑的慾念を拾てゝよく其の至難の業を遂行したのである、かゝることは凡人の到底持続し実践し得べきことでない、賢人英哲にして始めて成し遂げらるゝものである。公を頌して賢君明主と称するも敢て過賞の言ではあるまい。
其二、公の終焉
寛永十年四月十一日七拾壹歳を以て卒去す、公嘗て永眠の地を鏡宮境内に需む、則ち其の意に遵ひて霊域を営む。即ち塋区百五十坪計りの長方形を為す。
塔身高一丈二尺四寸、面幅五尺、側幅四尺七寸、葱頭を有する石笠方九尺高六尺あり、臺礎は二重にして上者は高二尺五寸、方九尺九寸、下者は高二尺、方一丈九尺六寸である。銘に曰く、前志州太守休甫宗可居士、其の左面に寛永第十癸酉年、右面に孟夏四月十一日とす、歴代藩主の碑石車の最大なるものである。
公は其の藩域に於て民力により未だ土工の成らざりし海潟河原の苟も開拓埋築に資すべき地区を総て之を利用するに至った。其の面積の明確なるもの壹百六拾壹町貳反六畝貳拾六歩で、久里村唐津村にて河道変更のため得たる田園は大約百町歩に及ぶやうである、されば総面積貳百五六拾町歩余の土地は、公によりて有用生産地として拾得せられたのである。或は徒に大海に注流し、或は往々洪水の惨害を與へたる河川は、舟運灌漑の利便を與ふる河道と化せしむるに至った。彼の佐賀藩祖鍋島直茂の家臣成富兵庫頭茂安が、加瀬川を分ちで多布施川を佐賀城下に導水せしがために、同藩民は兵庫頭の徳を表頌せしこと厚く、ために其の名声は廣く世人に傳へらるゝに至った。然るに我が志州公の功績に對しては、藩民挙りて之が頌徳を為すをきかず、今は殆んど世人に忘れられたる観あるは、公のため萬斛の涙を禁ぜざるところである。
由来公の世嗣第二代寺澤兵庫頭堅高は、正保四年江戸浅草海禅寺にて自盡せしより、家運断絶の悲運に逢ひ、其の後唐津藩は譜代藩鎮の制と変じたから、転聾の藩主亦其の以前を顧るの暇乏しくまた後継の存するものもなければ祖先の遺業を大にするの由もなく、唯僅かに鏡組郷士の末裔等が毎年祭祀を怠らずして公の英霊を慰むると、黒川村民が其の遺徳を憧憬して年々祭禮を行ひて追懐の誠を致すに過ぎないのみである。