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東松浦郡史 ⑩

2018.03.28 06:47

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より

第二代 堅 高

  一、政 治

 廣高の長子忠清(又忠信とも云)慶長十六年従五位下に叙し、式部少輔と称せしが、不幸にして父に先ちて卒す。よりて次男堅高は、寛永四年十二月(紀元二二八七)志摩守隠居の後を受けて家を襲いだ。これより曩き堅高慶長年中徒五位下に叙し兵庫頭と称した。寛永十三年家老熊澤をして左の布達を行はしめて、政治の緊縮を計った。

 覚

一、村や組合御定に付て惣庄屋相定候、萬事惣庄屋申渡候儀少しも相背く間敷候、不依何事申付候御用之儀如何様なる事に條共、先づ相調可申候、若し急に贔屓仕候者は、其の以後理非の穿鑿仕様可申開候事。

一、惣庄屋役儀之事今迄の外に、其の村の高百石令用捨候、一ケ月に三度宛組合の村々へ廻り、其の村の庄屋へ萬事油断不仕候様に可申渡候、若し小百姓壹人にても無断つぶし候はゞ、惣庄屋並に庄屋も曲事に可申付事。

一、株田起し候儀時分延引候はゞ、惣庄屋より其の村々庄屋へ催促仕、耕作・根付、置仕付、草水致油断御年貢未進仕候はゞ、曲事可申付候、並に脇庄屋何事によらず申談候儀は、惣庄屋に可相尋候、附、公儀御用の儀は不及申事。

一、御免定の儀下札出候ば、其の日小百姓共にも不残可申聞候、物成下平均其の年の立毛に應じ善悪甲乙無之様に、其の村の庄屋百姓中寄合均し可申候、若別に申分有之候はゞ、組中の惣庄屋へ申聞可相済事。

一、立毛善悪の相應にならし申す上は、百姓不依大小若し未進仕候はゞ、為に其の村中皆済可仕候、此儀兼てより組中にて、惣庄屋村々庄屋百姓に堅く可申聞候、不得止に於ては曲事可申付事。

一、御年貢納所仕候儀、組中の百姓若見合だまり申候はゞ、其の村の庄屋へ申聞、其の上にて惣庄屋へ可申聞候、見隠候はゞ可為曲事事。

一、御普請所大分の所は、他組より越夫可申付候、組中の村として罷成る儀に候はゞ、常に繕可申候若し捨置及大破候はゞ可為曲事事。

一、酒肴菓子に至迄村々にて売申間敷、並に諸商人煙草売りれんしやくけ壹人も村中に入申間敷候、若入候はゞ組合中より見付次第、惣庄屋へ相届可及其沙汰事。

一、神事祭り他村より客人一切呼申間敷侯、最も費へ成る儀令停止候事。

一、百姓縁邊の儀、其の村々庄屋に相尋ね契約可仕候、祝言の砌別に祝儀可仕と存候はゞ、*(魚昜スルメ)一對魚類の肴少し野菜此外遣ひ候はゞ、其の村々庄屋可為越度事。

  右の條々少も相背に於ては曲事可申付候、此外至其時分申付候御法度の儀、諸事可守其の旨

者也、仍如件。

   寛永十三年丙子年八月二日

                    熊澤三郎右衛門

                       各庄屋宛

  二、天草島原の乱

 不幸にも寛永十四年其の所領天草に於て天主教徒の乱が起った。抑も其の起原は慶長以来幕府天主教禁止の法令を布きしも、其の余黨猶西陲の地に潜みて教法を修するものありしが。法禁益々厳なるに及び欝勃たる彼等の信仰心は、其の抑圧に反噛を砥ぎ一大騒乱を惹起し、十月に至りて遂に其の徒集りて島原城主松倉氏の領内原城に立て籠つた。始め肥前島原に矢野松右衛門・千束善右衛門・大江源右衛門・山善右衛門・森宗意といふ五人のものありしが、彼等はもと小西行長の家士にて朝鮮の役にも戦功あり、小西は元来天主教徒なりし故、これ等の輩も其の教を信奉し、小西没落の後は肥後天草郡矢野村・千束村に来住せしが、常に宗門再興の希望の念を絶たざりしが、嘗て天草上津浦に住ひし一宣教師が国外に放逐せられし際に、末鑑といふ書一巻を留めしが、其の書中に予言せるは、今後廿五年を経ば天より一人の神童降りて教旨を再興すべし、其の人習はざるに書を能くし言はざるに眞意を悟らざることなく、其の時天空紅に枯木花を綻ぶべしと。恰もかゝる天瑞あるの際、天草大矢野の庄屋益田甚兵衛が子四郎(後に時貞)といへる拾六歳の少年があった、予言するところの人物に違はずと、即ち宗門再興の時節到来せりとて、之を戴き愚民を煽動したから、忽ち聚来徒黨するものが多かった。時に島原有馬村に耶蘇の画像を掲けて崇拝するものがあった、代官村田某聞て驚き画像を奪ふて焼棄した。又同村内に三吉佐内と云ふものがあって、宗門の長者であることが聞えたから、之を搦取り島原城に送りて誅戮した。それで宗門の輩大に激怒し、代官を殺し狼籍至らざるところなく、其の黨愈々猖獗にして、遂に天草の一揆と合同して四郎時貞を大将とし、三面懸崖を以て擁せらるゝ天嶮たる有馬氏の舊居原城に立て籠り、天下の大兵と雌雄を争ふに至った。

 さて松倉長門守重次江戸勤番にて不在なる故、之が鎮圧も容易でないから、佐賀侯鍋島、肥後侯細川氏に應援を求めしも、両家とも東勤中のことであれば、鍋島の留守役諌早豊前三千余騎を率ゐて其の領内苅田ノ庄に出陣し、細川越中守の留守役清水伯耆等四千余人を以て肥後国川尻に陣を張ると雖も、當時の大法にて隣国に如何なる変事があるとも、幕府の命なくして国境より兵を出すことが出来ねば、空しく形勢を傍観する外なかった。又鎮西の目附豊後国府中の住牧野傳蔵・林丹波へも注進せしに、追って下知に及ぶまでは大法の如く守るべしとありければ、其の間に乱徒は益々跋扈を逞ふするに至つた。

 天草島や富岡城には、堅高其の家人三宅藤兵衛(城代三千石)中島與左衛門・古橋庄助等を置き、柄本村へは石橋太郎左衛門を居らしめた。此の程有馬村に切支丹宗徒の一揆起り、天草の土民等の之に黨するよし聞えたれば、三宅藤兵衛大に驚き、如何なる大事に及ばんも計り難しとて大矢野上津浦へ討手を差し向け、事大ならざる前に鎮定せんものをとて、総勢三百余人に銃五十挺を持せて至らしめんとせしに、地侍等の言に一揆等追々多勢となり、大矢野・千束そうそう島、柳之瀬戸に至るまで悉く其の黨に加りしと云へば、我等僅の人数を遣されて自然敗軍に及ばゞ、併せて本城をも奪はるべきか、且つ當地の地形をも確めずして、人数を分つことは心元なきことならずやと云ひければ、三宅も之に賛し、先づ近郷を警めんとて百姓の妻子を人質に取り置き、十一月の初に唐津表へ注進しけるに、領主兵庫頭在府中であれば、老臣等集議の結果抽籤により富岡に援兵を遣はすことゝなり、即ち岡島七郎右衛門・澤木七郎兵衛・原田伊織・並河九兵衛・林又右衛門に足軽大将八人を副へ・十一月五日唐津を発船し、四十八里の海路を経て七日富岡に着船した。然るに一揆等は上津浦に屯集するよし聞えければ、翌八日富岡より五里を隔てし「イデ」と本戸へ出兵するやうに決せられた。此の本戸・島子の邊は本より宗門の輩の巣窟であれば、其の郷民等予め唐津の兵應援すべきことを知り、此の要地を渡すべからずとて、密に其の黨と牒合し、寺澤勢へは一揆に加はらざる体を示し、時宜を計りて各自家に火を放ちて裡切りすべしと約束して居た。寺澤勢はかゝる計略あることは夢想だもなく、皆其の人家に陣を取り、土人を集め其の向背を糺問せしに、皆云へるに、上津浦のものども使を遣はし一味せざれば押寄せて殺戮せんと申越したけれども、此の邊のものは藩公の恩誼を蒙ること浅からざる故、今更いかで反旗を飜さんやとて使の者を追ひ返せり、其の後彼等襲来せざるは御出勢を恐れしにやあらん、願くば島子へも一将を遣はされなば彼地のものも力を得て、上津浦の輩いよいよ恐縮すべしと、さあらぬ体に申立てければ、寺澤勢はさもあるべしとて、三宅藤兵衛配下の士並河九兵衛・林又右衛門・同小十郎・中島與左衛門・古橋庄助・国枝清右衛門・大野助右衛門等二百余人に銃六十挺を授け、明る九日島子へ打ち立せた、又柄本村へ加勢として足軽大将一人、亀ノ川へも同じく二人を出した、これ皆其の村々より應援を請ふたからである。かく処々へ出勢を請ひしことは、本戸の兵力を減ずるが為めであったことは後に思ひ合せられた。

 さて本戸の郷民より上津浦の一揆へ、機乗ずべきなり約の如く押寄せらるべしと通ぜしゆへ、十三日を以て一揆等島子に寄せんとしけるに、島原より四郎時貞兵五千人を率ゐて助勢せんとて上津浦に着した。これは寺澤勢の天草出陣を知りて、長崎を襲はんとする方略を転じて、先づ間近の寺澤勢を殲滅せんとて上津浦に押し渡ったのである。因て十四日未明に島子を襲はんとて、島原勢は濱手に、天草勢は山手に配置し、島子の郷民はみな上津浦の渚に陣を張りて暁を待つ。さて時刻に及んだから一揆等一度に鬨をつくって押寄せけるに、島子の寺澤勢は土民等と侮りで油断しければ、匆卒のことに周章狼狽して騒ぎ合へるに、一萬余人の一揆等縦横に突撃したれば、寺澤勢算を乱して収集するところなく、島子の民は我家に火を放ち、島原よりの應授軍は四郎時貞が下知によりて、本戸の道を扼して應援を絶った。時に一揆等兼ての謀にて婦女童子一人毎に、白布白紙の旗三本を持せ、一本は背にさし二本は左右の手に持せて擬兵を配したから、山野悉く敵兵の雲集するやうである。寺澤勢は全軍敗れて山河の別なく踏破して柄本村方面に走った。中に並河九兵衛・林又右衛門・同小十郎・大野助右衛門等は踏み止まりて花々しく最後を遂げた。四郎時貞は之に乗じて本戸に攻め寄せたるに、足軽大将の並河・渡邊・関・柴田・島田等銃卒を指揮して、瀬戸口に防戦したれども、後詰めの兵島子の敗を聞きて進まず、兎角する間に敵は後軍を山背より廻らしめ、本戸の郷民は其の家々に放火し前後より狭撃せしゆへ、寺澤勢大敗して佐々小左衛門・川崎伊左衛門・細井源之丞・今井九兵衛・同十兵衛・佃八郎兵衛等戦死し、敗残の兵は僅に富岡城に免るゝことを得た。

 さて富岡城は城廓の内甚だ狭隘なれども、要害堅固の名城なり、殊に矢狭間毎に砲門を備ふれば防戦の設備も亦缺くることないわけだ。十一月十四日の夜に本戸より引き返せし、足軽大将並河・渡邊・関・柴田・島田並に在城中の三宅古橋等俄に籠城の策を決し、本戸の残兵其の他を収容して敵の襲来を待ちかけた。一揆は五日の後即ち城内の防備整ひたる頃である、同月十九日に、四郎時貞一萬二千余の兵を以て此の城を攻囲し、強襲によりて城を陥れんとせしに、城兵は大小の銃砲を乱発して拒戦し、暫時にして賊徒二百余人を仆す、賊之に恐れて囲を解いた。廿二日に至り四郎等は楯、竹束を数多用意し来り攻めしに、本丸の伊勢殿丸は並河太左衛門・島田十郎左衛門守備せしが、賊徒此処に攻め寄するを見て銃丸を雨の如く射放ち竹束を打ち倒し、数多の敵を射止めたれば、賊徒進むことを得ず、裏手に廻りて水の手を断ちける故、城兵一時は水に渇したけれども、益々勇を鼓し度々城外に突撃奮闘したれば、賊徒屈して大矢野村に退却した。然れども城中兵鮮くして追撃の余力なければ、空しく追討使の来るを待つ外ない。

 一揆等島原の城下に火を放ち、有馬村原城に拠有し、天草の乱徒と應呼し形勢容易ならざれば、豊後府中駐在の目附より幕府に達せし警報十一月九日江戸に至るや、直ちに板倉内膳正重昌、目附石谷十蔵を彼の地に遣され、松倉長門守及び日根野織部正も速に所領に帰り、若し一撥にして松倉が一手にて平定せざる時は、同国のこと故鍋島信濃守・寺澤兵庫頭よりも加勢をなすべし。又細川越中守(肥後)立花飛騨守(柳川)・有馬玄蕃頭(久留米)等は在府中なれども府中目附より警を傳へられなば、其の手兵を出して速に應援すべき旨を命ぜられた。さて板倉重昌即日発足するや、柳生但馬守宗矩其の適任ならざるを悟りて将軍家光に謁して、之を諫止せんとしたれども、事後れて甲斐なかった。十八日大阪に着し二十二日発船して晦日豊前小食に至り、十二月朔日肥後高瀬に達し、豊後府内の目附牧野傳蔵以下と和會し、又近国諸大名の家司等も出で迎へ下知を待ちければ、内膳正重昌は兼て肥前肥後の兵を以て討伐すべき旨の命を蒙り居れば、鍋島・有馬・細川の各家へ出勢を促し、三日肥前神代(クマシロ)に至り、五日島原に着し松倉が城島原に入り、六日朝より松倉を先導として原城に向ひ、八日有馬堀ノ内に着陣した。一方には牧原傳蔵・林丹波等は細川肥後守・寺澤兵庫頭と共に天草の形勢を探知せしも、一揆悉く原城に移りて隻影だにも見えず。

 一揆等の根據原城には籠城手配怠りなく、四郎時貞を総大将並に本丸の大将となし、蘆原忠左衛門・渡邊傳右衛門・赤星主膳・馬場休意・會津宗印以下十三人時貞の羽翼と在りて、二千余人にて本丸を守り、二ノ丸には有馬掃部頭等五千余人守備をなし、三ノ丸には堂崎對馬・大塚四郎兵衛等凡そ三千五百余人を配す、其の他各所の出口要地に配備せし軍ども総勢二萬三千余人と称し、此の外婦女童幼凡そ一萬余人を擁した。九日愈々幕軍最初の原城攻撃を始む、十日には松倉・有馬・鍋島勢攻め立つると雖も味方却て死傷多くして退却した。それより連日立花勢をも加へて押し寄せ奮闘するも更に利あらず。賊徒の形勢容易ならざれば、十二月二日幕府は松平伊豆守信綱・戸田氏鐵に島原出陣を命じた、三日伊豆守等江戸を発す、其の兵千五百余人である。このこと江戸老臣より島原の軍営に通ぜしが、同月廿九日其の報到達した。翌十五年正月二日伊豆守一行が有馬の地に到るよし聞えしかば、板倉内膳正は其の陣所へ諸将を招き、今度伊豆左門の両人此の地に到るよし、若し両人大軍を催ふして強襲を行ひ比の城を陥れんには、内膳は勿論各自面目なかるべし、今は猶予すべきにあらず、以前の策戦を改めて短兵急に肉迫せん。幸明日は元旦に當れば敵も油断やすべけれ、其の虚に乗じて一気に攻略せんにはと、諸将悉くさもあるべしとて一議にも及ばざれば、其の夜中に軍令を定め闇に紛れて敵城に忍び寄り、竹束を付て暁を待ち、有馬兵部大輔を先陣とし三ノ丸の堀際まで押し詰め、鬨声を揚げて攻めかゝりしに、城中には案外の備へありて、投松明(ナゲタイマツ)を投じ其の火光に依て弓銃を放ち、大石巨木を転墜し、或は苫に火を付て投下し、又は大竹を尖らして投げ突にするなど、あらゆる手段を以て寄手を防ぎ悩しければ、寄手之に怯みて旗色振はざれば、内膳正此の体を見て眞先に馳せ向ひ金の釆を打ちふりて、松倉・有馬の勢を励ますとも躊躇して進まざれば、内膳正もだし難く今は是までとて、手勢ばかりを引き具して堀を渡り、出丸と三ノ丸の間なる数十丈の塀を登り、越さんとせしに、城兵も大将と見ければ争ふて討ってかゝり、家臣等も此を先途と闘ひ已に城中に入らんとしけるに、偶々敵の投下せし大石内膳の兜の眞甲を砕きしも、屈せず登挙しけるに、銃丸再び乳下に命中して其の儘倒れんとせしを、家人赤羽源兵衛・北川又左衛門・小林九兵衛其の身も已に重傷を負ひながら、主人の屍を肩にし塀を下りて本陣に返し、石谷十蔵も亦傷廿八日に延期し廿七日早朝に戸田氏鐵が陣所へ諸将の集合を命令した。然るに廿七日諸将戸田の陣所へ集り明日の軍議を為せる半、午前十時過ぐる頃井楼の番人はげしき声を挙げて鍋島が手より城乗り取りを始むと叫べば、伊豆守自ら井楼に走り上りで之を確め。かくては鍋島が手より不意の突撃ありたれば猶予すべきにあらず、此の勢にて攻めかくべしと下知しければ、諸将各陣所に馳せ帰った。鍋島信濃守は拙者手のもの粗忽なることを仕出し、さてもさても笑止なりと云ひながら、直に出丸に詰めかけ士卒に向ひてとてもの粗忽に乗り崩せと下知した。鍋島が陣は敵の城壁に最も近い、此の日の朝城内寂然として物音なきを怪み、出丸の塀へ竊に上りて差し窺ひけるに、城内には一人の隻影だにない、後に水野の手に補はれし賊の言によれば、同夜寄手に夜襲を為さんとて妻子の方へ往きて休息するものあり、海草を採って食料に供せんとて海手へ忍び下るもありて、城中の持口頗る油断なりしと。かくて諸勢息をもつかず攻め立てたる中にも鍋島・水野・黒田・有馬・細川・等武功著しかりしが、鍋島は軍令に背き一番乗りしたるは近頃粗忽なる曲事とて、信濃守及び其の手の検使たる榊原飛騨は、後に公儀より各三十日許閉門を命ぜられた。二十八日さしもの頑強の一揆も落城した。此の両日の戦に諸軍の死傷するもの、細川勢に二千余人、黒田勢に二千三百余人、鍋島勢に八百四十余人、有馬勢に六百余人、立花の手に五百余人、松倉の配下に百廿余人、小笠原手下に百七十余人、松平丹波守の手に百六十余人、水野の勢に五百余人、寺澤の配下に三百四十余人、戸田勢に四十余人、松平伊豆守の手に百十人にて、総計七千六百八十余人にして、其の中討死したるもの千百五十余人を数ふ、又諸軍の討取りし一揆の首級男女老幼共に一萬五千余人又は二萬とも云った、されど其の数一々確なりとは云ひ難い。一揆の首級は城前の田中へ獄門にかけ、総陣の柵木の上下を尖らし首を突き立て並べられしものも夥しかった。後に伊豆守の命にて西坂に埋めしめ、號して有馬塚と云つた、但し四郎時貞及び大矢野三左衛門・有江監物の首級は長崎に送りて、大波戸へ梟首に附した。

 兇徒既に誅滅に帰したから、三月朔日には城内の小屋建物を焼き払ひ、寺澤・有馬両家に命じて石壁を毀壊せしめ、追討の諸軍各凱旋して比の月中旬には残りなく引き払った。松平伊豆守・戸田左門は同月九日天草を立ちて長崎に赴き互市場を検察し、肥前名護屋・唐津を巡見し、福岡博多を経て小倉に至りし時、幕使太田備中守の下向に會し、諸将を此に會し台命の趣きを傳へて功過を沙汰し、其の軍法に背けるものは江戸に至り旨を請ふべしとて、六月鍋島・榊原着府の時前述の如く籠居を命ぜらる。島原城主松倉長門守重次は所領六萬石を没収せられて、美作国森内記に預けられ、且つ重次が政治宜しからざりし科により、同七月内記が宅にて斬に処せらる。又唐津城主寺澤兵庫頭は天草四萬石を削られ、其の余の八萬有余石を知行せしめられしが、兵庫頭之を遺憾とし、後正保四年十一月(紀元二三〇七)江戸浅草海禅寺にで自殺せしゆゑ家運遂に断絶の悲運に遭ひしは口惜き事どもである。其他諸将の動功に對しては感状を賜ひしに過ぎなかった。

 兵庫守堅高の墓碑は、唐津町近松寺境内に存して居る、花崗岩の自然石にて、塔身高八尺六寸、面幅三尺三寸、厚一尺四寸、基礎は高七寸・幅三尺六寸に三尺の一枚石であって実に総体の構造粗悪極まるものである、碑面に孫峰院白室宗不居士と刻し表面に正保四年十一月十八日とす。