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東松浦郡史 ⑭

2018.03.28 06:59

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より 

一、五歩一鮪網魚取立直段之事、

 一、諸浦鮪網二歩五厘之事、

 一、千鰯運上之事、

 一、問屋之事、

 一、長崎梅野新左衛門二歩五厘懸り之事、

                御領分惣浦中

 かく津々島々のものまで郷方百姓に附和雷同して、右の如き要請をなすに至って事態は益々大を致した。横目穀取大庄屋の七人は先の郷方の貼箋を剥ぎ取らんとせしに、松原中以ての外の喧擾を惹起し、鯨波を揚げて七人に迫りければ、大庄屋等は穀取横目に向ひて、かくては事態面白からず且つは新に貼箋さへ見るに至りたれば、一應奉行所の指令を仰ぐこそ然るぺけれと、四人の人々実にさこそとて城下に急いだ。之を見るや再度まで凄調を帯びたる群集の喊声は天に響きて、それ密探なるぞ遁すな投げ突にせよとて叫めき立ちければ、大庄屋中の一人之を制して、汝等かゝる至重の所願を果さんとして集合しながら、徒に思慮もなく擾乱すること勿れ、萬一にも御家人に對し聊たりとも過失あらんか、汝等の所願全く水泡に帰すべし、苟も事を済さんと欲せば慎重細心ならざるべからず、千丈の堤塘も螻蟻の小穴より崩潰することを知らずやと、群集始めて鎮静した。

 一方城中にての評議には、かゝる形勢にては百姓の大群何時城下に乱入し如何なる狼籍椿事に及ばんも計り難ければとて、先づ弓・鐵砲・鎗・長刀・鎧・兵糧・松明など総ての武備を修め、要所の警備には廿二日より、小林郷左衛門組子を率いて大手口に備へ、渡口には古市四郎右衛門、大渡り口には剱持嘉兵衛、札の辻には青山三郎右衛門・落合某、町田口には石原平右衛門・都築内蔵太、名護尾口には松野尾才蔵・同源五衛門等を配置して防備怠りなく、総家中一統にも令して號砲五発を聞かば甲冑を帯して大手口に勢揃へをなすべし、また足軽中には三発の號砲を聞かば直ちに馳参すべしと。

 さてまた松原の群衆は廿三日も午を過ぐるも、彌々金鐵の如く団結堅固に一寸も引く模様なかりければ、出張警戒中の横目・穀取より群衆の動静を逐一報告し、大庄屋中より古館直助・櫻井理平・大谷治吉三人のもの城下に至りて巨細の注進をなせしが、此の上にも大庄屋一統の盡瘁によりて解散帰村せしむべしとの事ゆえ、三人の大庄屋も同日午後九時頃松原に急ぎ還った。さるにても彼等を四散せしむべき名案とてもなくして屈托せしが、豊後国日田代官所より警固の士派遣の由聞えければ、流石に九州統轄の大權を把持せる郡代所の噂聞えければ、當藩當局者も之を憂へ其の以前に処理を済さんとて、各々肺肝を砕きて凝議の未一策を立て、玉島谷口方面幕領の庄屋一統を証人とし大庄屋一統身命を賭して百姓群衆の願意を貫徹せしめんとの條件により、解散帰村せしむべしと、廿三日午前四時幕領庄屋中へ交渉に及びければ、直ちに承引を得るに至り、其の上同庄屋中より群衆に對し右の次第を傳へければ、彼等群衆は言へるに、一同異議とてはなけれども、後日の確証として書跡を得るに非ざれば退散し難しと、横田太左衛門之に應へて曰く、唐津御領はいざ知らず當御領其の外何方にても右体の書類は、上を蔑視する仕儀にて憚多ければさる慣例を聞かず、依りて余等一同之を確保すべし、若し其の上にても願意貫徹せざることあらんか、唐津領大庄屋中の屋宅を蹂躙するか、或は焼討劫掠を行ふか、また大庄屋一統を眞先に押し立て強訴するか勝手たるべしと。然らば幕領庄屋一同當藩領大庄屋一統立會の上誓言せらるべしと、依つて幕領庄屋惣代横田太左衛門を証人とし、當藩領大庄屋残らず参列して、廿四日午前一時各組村より百姓二人づつの惣代を出さしめて、右の趣誓約確保せんとする折柄、群衆中の二人茶を沸かさんとて松の落葉を拾ひ、他の一人松の枯枝を折り取りければ、出張中の藩吏及び鏡村郷足軽等追つ取り巻きて彼等を捕縛したれば、忽ち二萬五千四百六十九人の群衆大動揺を惹起し、竹槍・鳶口其の他の獲物取りどりに鬨を作って、恰も潮の湧くが如く又百雷の一時に落下するが如き猛勢を以て、彼等を奪還せんと肉迫したれば、一大修羅場と化せんとするの危機実に一髪である。この光景を観取したる大庄屋等は今は身を死地に投ずるに非ざれば、此の難関を救済すべからずとて、廿九人の大庄屋身を的にこの雲霞の勢を支持し、中に機智に富める一人身を挺して彼等百姓の捕はれし地点に馳せ行き言ひけるは、かゝる時変に際會し枯木五本十本伐採するとて何かある、然るに纔に松の枯枝を折り取りたるため大事を招き給ふか、若し御家人のうち些の怪我にてもあらんか忽ち大禍源を生まん、能くよく思慮あるべしと切言しければ、始て彼の三人を放還して事態漸く鎮静に帰した。廿四日午後一時頃二萬五千余人の群集は蜘蛛の子を散らすが如く四散して、それぞれ帰村の途に就いた。さて群集解散の急報として前田善右衛門・向林八・麻生太吉三人の大庄屋は飛ぶが如く城下に馳せ、残留の大庄屋は幕領庄屋一統へ謝辞を述べ、同日午後二時それぞれ退散し、代官所に至りで一同帰村すべき旨届け出でしが、代官一統より其の勤労を謝し猶君公も御満足に思召さるゝ旨を傳へ、帰村の上に更に残らず百姓ども帰村せしや精査し、明日中に其の旨届け出づべしと、大小庄屋一統同日黄昏頃各自家路に急いだ。

 廿七日惣庄屋一同再び城下に會合して、松原に於て群衆との誓言に就き代官所奉行所と数回の折衝を重ねしが、郷村関係官吏は閉門を命ぜらる。廿九日に至り庄屋一統より左の書面を奉った。

  御願方に就き百姓ども虹ノ濱松原へ罷出候節、願出御取上被遊候上、永川・起帰り砂押・水洗之儀結構に被仰付難有仕合に奉存候、併永川類之儀は御領分一統に行罷出候百姓ども、其分にて引取候儀及難渋何分引取不申候砌に至り、日田御役人様間もなく濱崎へ御出之噂も有之、御領中甚難儀之趣度々申聞尚又日数相重り候程奉恐、私共身分に引受難儀千萬之至前後途を失ひ、仲間及談判候は箇様之首尾に行當り、最早致方も無之後日我々如何様之難儀に相成共、願之内相残候箇條追て御勘辨之上可被仰付候旨被仰渡候に付、相違有之儀には無之候間、此段仲間共請に相立身命に懸け、何分共願申立可遣候、此儀は拙者共上を憚候儀に付、上に對し決定之請合と申候ては無之候得共、御役儀は勿論身命を差出候上は、慥に相心得引取候様に、一組より百姓両三人呼出可申談と相談仕、百姓共段々申談候へ共一向無言にて罷在候間、此上は無是非儀ながら御領庄屋中へ相頼み、彼方より談呉候様、百姓共存志相知可申と察候間、彼方庄屋中より右之趣篤と申談候処、百姓より申候には御尤に候得共何分手印の墨付にても無御座候ては、一同安心不仕候段、及難渋候に付、御領庄屋中申候は、箇様之墨付は唐津御領は不存候得共、何方迚も同前之俵にて、御領杯之役筋にては何分之儀候共、右体之墨附と申儀は上を憚り役方より遺候者にては無之、其代には拙者共証拠に相立可遣候、若御願筋不相立候はば右之訳に付大庄屋中を先に立御願申候様にと申談候処、御領庄屋中御領分大庄屋中三ツ金輪に御座候て被仰聞下候様にと、百姓共申候由横田太左衛門申開候に付、我々相談には兎にも角にも引取候儀を専一に存、前後考候次第に不至百姓望之通受合、竝に御料庄屋惣代に横田太左衛門を請人に相立候、依之百姓納得仕不残引取申候、右之通御座候に付、願方之儀私共請持罷在候得共、御催促申上候には無御座候得共、受持罷在候上は安心不仕。無是非右御願候て御内聞奉伺候以上。

    卯七廿九日          御領分大庄屋共

 右の嘆願書を差し出せしに、郡奉行所より大庄屋惣代六人を召喚して、代官列座にて左の申渡し書があった。

 百姓共差出候願書之内、永川並砂押水洗引方之儀、此間格別致勘辨遣し、相残候願之儀は箇條多事に付、追て致勘辨可遣と申渡候処、永川掛り等無之村は右相残も願之内一統へ掛候願筋不相済候故、罷出候場所引取兼候に付、其儀は其方共引受にて為引取、候由、就夫右之勘辨之儀其方共相願侯、依之相残候願之内別紙之通に、四條は向後令用捨可遣候、其外之儀は難致勘辨願に候間、右之趣可申渡候。

  向後令用捨可遣品

一、蔵納之節俵毎に差抜米之儀、俵毎に差戻申附候事、

一、家居根山運上指免候事、

一、諸浦鮪網二歩五厘掛り之儀差免候事、

一、買上楮直段左之通相増候事、

   上楮一貫目に付銭二拾匁増

   中楮一貫目に付銭拾五匁増、

   下楮一貫目に付銭拾匁増、

  右之通可相心得候。

 右の趣を庄屋一統より百姓一般に達したるに、表面は服従の体を装ひしも内心には不満措く能はず、此処彼処に會合して此の上は予約の如く、大庄屋居宅を焼き払ふか、或は直願すべきかなど協議怠りなく、時を移さず再び松原へ大集會を企てんとするの形勢容易ならざれば、大小庄屋一統は八月五日城下に集會し、またまた七日に左の願舌を提出した。

   乍恐奉願候事、

一、御蔵米廻方先記之通御取可奉願候、

一、干鰯御買上並長崎新左衛門問屋口銭請御免奉願候。

 右は此度御領分惣百姓願方に付、於松原願出差出候上にて御書付御渡被遊候後、引取候様に仕候訳は、此間は我々口上書指上候通に御座候、然処重て四ケ條御用捨被成下於私共難有仕合奉存候、此上御願難申上御座候得共、於私共身分前後に行詰り殆當惑仕候、其故は惣百姓存志私共引受奉願呉候筈と存罷在候様子に御座候、打捨召置候ては往々私共取扱決て相成申間敷と奉存候、右之仕合に付不得止事乍恐右ニケ條奉願候、私共身分之儀此節之大事に當り兎や角申上候筈には無御座候得共、人情之難捨を以不顧重罪又々私共より奉願候、此儀御勘辨被成下右願之通被為仰付被下置候はば、重々難有仕合可奉存候、依之乍恐以書附奉願上候以上。

    卯八月七日          御領分大庄屋共

  御代官御役所様

 右の願書を差し出し六人の大庄屋は代官玄関口に控え居たれば良々ありて代官衆罷り出て先に差し出せし願書を却下し、直ちに登城したれば、六人の大庄屋も彼等一同の集會場に引き取り、斯くと一統に報告したれば、一同進退茲に窮り、曩に松原にて百姓への誓約にも反することであれば、各々痛心沈思に耽りけるところに、七日午後十時頃郡奉行より密使来りて、六人の大庄屋を招き密談数刻の上、上意軽がろしく飜すべからざる懇諭により、六人のものも詮方なく退出したるが、其夜も明けて八日朝代官所より即刻願書進達すべき旨内意ありつれども、未だ再議容易に決せず、其日も昼夜熟議を疑らし、九日朝又々願書を提出申請するに至った。

  乍恐奉願候事、

一、御蔵納米廻方先規之通御取方奉願候

 右者此度惣百姓より願書差上候上にて、御書付御渡被遊其後引取候訳は、此間申上之通に御座候、猶又四ケ條御用捨被成下、於私共も難有仕合に奉存候、併私共前後當惑仕候訳、惣百姓存志何分私共より預受呉候筈に奉存候様子に付、打捨召置候ては往々私共取扱決て相成間敷と奉存候、右之仕合に付不得止事乍恐右之一件奉願候、此節私共兎や角申上候筈には無御座候得共、難捨置訳を以不顧憚、又々私共より奉願上候、此儀御勘辨被成下願之通被為仰付被下置候はゞ、難有仕合に可奉存候、依之以書付奉願上候以上。

    卯八月九日           御領分大庄屋共

 御代官御役所様

 右の願書は九日午前九時提出せられたるが、同日正午十二時代官所より、百人町郷組を以て達せられしは、即刻御用の筋あれば郡奉行所へ例の六人(古館直助、桜井理平、富田才治、前田庄吉、日高喜助、大谷治吉)同道にて出頭すべしと、召により至れば、両奉行六代官列席して、左の申渡し文書があった。

百姓共相願候蔵納之節桝廻之儀、其方共猶亦相願候霜降之儀は、御所替之節承合之趣百姓共存志とは相違致し、當時にては霜降之儀難相分候得共、今年より令勘辨霜降薄く可為取斗候其上尚又勘辨を以廻俵斤量分別歩之通相定候、此儀は廻俵之節不足米有之候得ば、其欠米高を以て斤量置俵にも差米致可為難儀事に候、右斤量分之儀は先規無之事に候得共、別段を以左之通に相定候

  廻俵斤量分け方之覚

一、拾参貫目より拾参貫八百目迄

一、拾参貫九百目より拾四貫参百目迄

一、拾四貫四百目より以上

 右之通三はへに致し廻侯て欠米有之時は、其高を以一はへ限りに差米可致侯。

 干鰯買上並長崎商人問屋之事、 干鰯御買上並長崎新左衛門問屋之儀に付相願候趣は、是迄難儀之筋不相知、尤願等も不致侯故為申付事に候、相障事に候はゞ前々之通干鰯買に成候はゞ、旅船へも売候儀勝手次第に可致候、御用に候はゞ直段相定候上にて買上に可相成候、新左衛門問屋之儀は右之者方へ申遣相止候様に可致候、暫之間可有候。

 右の二様の諭達は六人の大庄屋拜受退引の上、早速に他庄屋集會場に還り一統に披露せしかば、皆々体服着用の上拜讀して感涙に咽び、本城の方に打ち向ひて一向に君恩の優渥なるを拜謝し、勇躍して居村に帰還した。同十日地方役人小川茂手木・代官松野尾嘉藤治の二人は、官を没し閉門に処せらる。さて又大小庄屋は勝ち誇りたる凱旋の勇将の如く、居村一般の住民に諸願貫徹の段達しければ、挙郡等しく君公の仁政に感激し、郷家は野外に舞踊し、津々島々は船端を叩きて謳歌し、和気歓楽の声は山海に充溢して、泰平の幸先を祝福した。

 傳へ云ふ、この松原大集団の挙は、當時百姓の困苦を救はんとて、平原村庄屋富田才治の計によるものとて、群集解散の後彼は虹林の一角にて斬に処せらる。百姓之を悼みて義人として景仰し、私に之を祭祀して其の威霊を慰め、虹林の西端満島口の平原地蔵尊及び其の該躯を歛めたる今の玉島村字平原の才治様シャーリサマと云へるは、それなりとぞ云ふ。

 公は安永四年九月四十一歳にして致任す。子なかりしかば松平但馬守宗恒の次男式部忠鼎(タダカネ)を養ひて世嗣とした。

  第二代 忠 鼎

 忠鼎は明和四年十一月朔日初めて第十代家治将軍に謁見す、時に年二十四歳。やがて叙爵し、父が致任せし日に家封を襲いだ。この時代は明和八年の藩内大動乱鎮静の後を受けたれば、所謂雨降って地固まるの態にて、無事平穏の世態であった。安永八年八月十二日御奏者の事を承る。

  第三代 忠 光

 忠鼎の嫡子織之助忠光は、天明五年秋初めて十代家治将軍に拝謁を許され、従五位に叙せられ式部少輔に任じた。時恰も天明の天災続発の頃であって、上には田沼意次幕政を紊りて幣政頻りに臻り、天の時地の利人の和よろしからざるの時である。父に襲ぎて藩治に臨みしが、文化九年(紀元二四七二)封を忠邦に譲った。

 唐津町の南郊に雄嶽山といへる一小丘がある、丘上茅茨生ひ繋げれる間に、玉垣の石柱も算を乱して打ち倒れたる哀残の草裡に、公忠光の墓表は、大理石を欺く計りの美くしき花崗石造なるが、寂然として宇立して居る。塔身高八尺五寸前幅三尺三寸側幅三尺二寸五分、石笠の被風は厚一尺高四尺六寸各幅七尺、基礎の初階は蓮臺にして高一尺二寸幅各々五尺四寸、次階は高二尺幅各々七尺、下階は二石を以七組み立て高二尺一寸五分各幅一丈八寸を劃す。

 碑の前面に、故唐津城主水野織部正諱忠光公三位とし、碑の右側に、先考幼称織之助、叙爵称式部少輔、後改称和泉守、致仕改称織部正、浮屠追號曰、徳照院叡嶽宗俊大居士と、其の左側に明和八年辛卯八月二十日生江戸三田賜邸、文化十一年甲戊四月四日終於江戸青山別墅、享年四十四歳以四月十六日葬於下総山川新宿村萬松寺塋次、今奉遺命*(ヤマイダレニ坐)衣剱於肥前唐津城南雄嶽、以表石云。

   文化十二年乙亥三月       孝子忠邦謹記

  第四代 忠 邦

 忠邦は幼名を於菟五郎越中守と称す、號して松軒と示ひ後に菊園と改む。忠光の第二子として寛永六年六月二十三日江戸西久保の邸に生れ、文化九年五月家封を継襲した。世々唐津六萬石を食みしが、當時唐津を領するものは老中の列に加へざるを以て先規とせり。然るに公は閣老として天下の大政に干與せんことを熱望せしが故に、文政元年幕府に請ふて遠州濱松に移った。其の當藩にあるや七年の歳月を算す、されど治績に関する記録を見ず。八年五月大阪城代となり、翌年十一月京都所司代に転じ、十一年西丸老中に遷任し、天保五年三月本丸老中に補せられた。

 同十二年第十一代家齊将軍薨じて十二代家慶将軍立つや、之を輔佐して鋭意治を図り、所謂天保の改革なるものを断行した。公もと資性厳峻にして仮借するところなし、先づ君側の小人林忠英・水野忠篤・美濃部筑前守の三權臣を退け、改革の端緒を開き、享保寛政の勤倹制度の厲行を踏襲して時弊の救済に力め、かの将軍家日光社参の大礼の如き、三代将軍以家の廃典を再興し其の功を以て金麾を賜はり、次で奢侈品製造竝に其の購求使用を禁じ、女髪結ひを停止し、治安風俗に害ある著作出版を取り締り、市中の私娼を放逐し、士気を鼓舞し武芸を奨励す、更に外国の事情を察して、文政八年の外国船打攘ひ令を改め、総州印幡沼を開鑿し、江戸大阪十里四方に於ける旗本の領地を公収して、他に転封せしめて幕府の財政を理するなど改革着々として成りしも、其の作すところは宜しきも過劇直行たるを免れず、ために士民の怨恨を買ふに至った。

 嘗て水戸烈公の国にありて諸政改革の意図あるや、先づ側用人藤田虎之助をして江戸に出で、十三條の伺を為さしむ、依って虎之助越州忠邦の邸に至りて烈公の命を傳へ謁を請ふ、越州は公務鞅掌多端なれば暫く待たれよとて書院に控へしめ、暫時にして越州来り見る、侍臣襖を開けば衣裳整然として直ちに虎之助の前に座し、相去る讒に三尺許にして一揖して問ふて曰く水戸殿御安泰にて目出度存ず今日の御用の由何事なるやと、虎之助頓首して曰く、寡君国政を改正するを以て予め台命を請はんと欲す、越州曰く善し之を陳ぜよと、そこで虎之助先づ一案を提して此の事請願するを得べきや如何、越州答へずして其の次を問ふ、虎之助更に一案を陳じて此の事宮家に制規あるや否やと、越州答へず更に其の次を問ふ、虎之助また一案を述ぶる越州答へざること初の如く、其の次を問ふて積て十三ケ條に止まると告ぐるに及び、越州始めて對へて曰く、第何條は請願許可を得て後に従事すべし、第何條は幕府の制規に触るれば別に思考して再び上申せん、第何條は請願を煩はすに及ばず杯と、虎之助が陳べたる十三條を次第順序を追ふて一も錯らず明瞭に答へ終りて後、今日は好き折柄旁々緩話も致したけれども、公見の者重沓して其の暇なければ請ふ許容せよ、水戸殿に宜敷と云ひ放ちて俄然座を立ちて入る、其の風釆堂々として覚えず粛然たらしむるものがあった。 

 同十四年閏九月十三日事を以て職を免ぜらる。是より先き将軍平生の膳部に煮魚を侑むる毎に嫩薑を添ふるを以て例とせしが、特に其の美味を感ずる程にもあらざれば、之を嘗むることあり又味はざることもあった、一日将軍膳に就き煮魚を御し俄に嫩薑を思ひ、給仕のものに取り落せるにや尋ねけるに、其の者答へて曰へるに、何の日の発令に自今嫩薑禁止の目ありしにより、農家は其の令に服し作り出さゞるによればなりと答へ上げければ、将軍頭を傾け不審して蔬菜果瓜の類其の季節に及ばざる者を強て造り出さば.一は以て奢奢侈の漸を開き、一は以て有生に益なければ之を禁ずること然るべしと越州が建議により、其の道理に當れるを以て之を許可せしと雖も、嫩薑の如き膳味を添ふる者まで禁絶せしとは思はざりしと云へるを、姦人等之を聞知して、今回の諸政改革は悉く将軍の意中より出でたるものでなく、中間に於て越州の取り計らひて将軍の関知せざることもありたるを測知し、其の隙に乗じて之を離間すべき端を発見し、陰暗の裡に策を廻らし陥策に腐心す。偶々将軍日光社参の時越州扈従に列せざるの時を好機として熟謀を遂げ、其の帰城するも未だ之を発せず、陽に之を褒賞して懈らしめ、然る後機を相して之を行ひしかば、其の謀計的中して遂に罷免せらるゝに至った。弘化元年再び閣老に補せられしも、其の威權亦昔日の如くならず、二年二月職を辞す。九月に至りて在職中不正行為ありしとて加恩地一萬石本地の中一萬石合せて二萬石を別封せられ、蟄居に処せられしが、四年二月十六日其の病危篤に及ぶや、幕府其の譴を解く、同日卒去せり、其の実既に十日に易簀せしものであった、下総国山川萬松寺に葬る。越州の末年哀むべきものあり、されど彼の奉公は病ましきものあるにあらず、急激の改革に對して侫者の反噛に遭ひたるものである、之と當藩に関せずと雖も其の前身は比の地の出である。

   八、小笠原氏 

          文政元年(二四七八) 明治二年(二五二九)

  其一、小笠原氏祖先の偉勲

 小笠原氏は、清和源氏の流れを汲める新羅三郎義光より出づ、義光は伊予守頼義の第三子である、兄陸奥守義家と共に後三年の役に功あり。義光の曾孫遠光甲州加々見の地に居り加々見次郎と称す、其の兄武田信義と共に源頼朝を助け平民を討ちて功を奏し信濃守に任ず。其の子長清甲州小笠原の舘に生れたるを以て、加々見氏を改めて小笠原氏と称し、父と共に平氏を討ちて又功あり、承久の役には中仙道口の大将となる、父の職を襲ぎて信濃守に任ず、是を小笠原氏の始祖となす。子孫世々信濃の守護となりて同国深志の城に居り名将家と称す、其の名竹帛に垂るゝもの世多く之を知る、長清より十五世の孫大膳太夫長時の代に至りて、武田晴信と兵を交へ遂に敗れて會津に走り蘆名氏に寄る、其の後織田氏が武田氏を滅ぼす時、深志の城を以て木骨義昌に與ふ。幾何ならずして織田信長其の臣明智光秀の為に弑載せられ、信濃の地守りを失ふ、長時の子右近大夫貞慶其の隙に乗じ、舊臣を糾合して深志の城を取り、父祖の遺業を復す。是の時に當り徳川・上杉・北條の三氏交々兵を出だして信濃の地を争ふ、貞慶其の間に介して獨立すること能はず、或は上杉氏に属し或は北條氏に味方し、竟に徳川氏に徒ふ、後又志を豊臣氏に通じた。其の徳川氏に属するや嗣子幸松丸出でゝ氏に質となり、其の長臣石川数正の家に寄る、数正が徳川氏に背きて豊臣氏に降る時、幸松丸を伴ふて行く、蓋し数正貞慶と窃に謀を通じたのである、幸松丸元服を加ふるに及び、秀吉其の偏名を授けて秀政と名け兵部大輔に任ず。豊徳両氏が小牧役後和を講ずる時に至り、秀吉亦徳笠両家の怨みを解かんと欲し、貞慶をして徳川氏の附庸たらしめ、且つ家康の孫女をして秀政に妻はさしむ。夫人は家康の故の世子信康(岡崎三郎)の嫡女にして、其の配織田氏の生むところである、是れより秀政は徳川氏に随属した。

 天正十八年(紀元二二七三)小田原の役に、貞慶豊臣氏の命を受けて兵を関東に出だす時、豊臣氏の逃臣尾藤知定を伴ひたるの故を以て、罪を蒙り領地を奪はる、然れども秀政は徳川氏の姻戚たるを以て、連累の罪を免るゝことを得た。次で徳川氏が北條氏に代りて関東を領するに及び、秀政を下総の古河に封じて二萬石を食ましめ、関ケ原大捷の後二萬石を加へて信州飯田に移封す。慶長十八年に至りて同国松本に転封して復二萬石を加増す。松本は元の深志であって、秀政の為めには祖先以来世襲の領地なるを以て、特に之を授けられたのである。元和元年大阪の役に、秀政兵を率ゐて天王寺口を攻む、軍監藤田信吉の為に組まれて戦機を誤り、慚憤措く能はずして遂に奮戦して死す。秀政に八男二女あり、長子忠修・次子忠眞・三子忠知・四子重直・五子忠度・六子長俊(一に長氏)及び二女は夫人徳川氏の生む所であって、家康の為には外曾孫に當る、故に公及び台徳(秀忠)大猷(家光)の両公、諸子を眷遇すること極めて厚し。長子忠修(信濃守)は父と共戦死したから、次子忠眞(大学助)をして秀政の遺領を襲がしめ、忠修の遺子長次(幸松丸)及び三子忠知には別に釆地を授けらる忠知は即我が小笠原家の始祖であって之を天眞公となす、重直は出でて羽州上山の城主松平重忠の嗣子となる。長女は家康の養女となりて阿波侯蜂須賀至鎮に嫁し、次女は秀忠の養女となりで肥後侯細川忠利に嫁ぐ。余子は忠眞の為に養はれ、或は其の家臣となる。

 天眞公は初め虎松と称す、幼より秀忠将軍に仕へて寵遇せられ、長ずるに及び壹岐守に任じ、信州川中島井上に於て五千石の地を賜ひ、書院番頭を経て大番頭となり、後奏者番を兼ぬ。寛永九年(紀元二二九二)三萬五千石を加へ豊後の杵築に封ぜられ始めて諸侯に列した。これより先き徳川氏細川忠利を豊前より肥後に転封す、豊前は九州の咽喉であって枢要の地なるを以て、特に其の鎮守の撰を重んじた。是に於て公の兄右近将監忠眞を播州明石より、豊前小倉に移して十五萬石を與へ、公の姪信濃守長次を播州龍野より豊前中津に移して八萬石を與へ、公の弟松平丹後守重直を攝津三田より、豊後の高田に移して三萬七千石を與へ、公も亦杵築に於て四萬石を受け、一家兄弟の領するところ総べて三十萬石に過ぐ、亦盛なりと謂ふべきである。徳川氏が斯の如く小笠原一家に特恩を加へたる所以のものは、秀政父子の戦功忠死を追賞するに由ると雖も、亦一には其の姻戚たるの故である、故に徳笠両家の関係は宗支の如き親みあり、これ我が明山公(長行)が幕府の末路危急存亡の秋に當り、成敗利鈍を料らずして進んで難局に立ち、鞠躬盡力斃れて已まんと欲し、一身に関する毀誉褒貶の如きは措て顧みざりし所以である。

 正保二年天眞公封を三州吉田に移し五千石を加へらる、公に五子あり、長子山城守(長矩始め長頼)に封地を傳へて四萬石を領せしめ、三千石を三子長定(数馬後丹後守)に、二千石を四子長秋(外記)に分ちて幕府に仕へしむ。二子忠敦(出羽)五子長一(彦次郎)は早く死す。山城守奏者番を以て寺社奉行の職を兼ぬること十三年、卒して長子壹岐守(長祐)嗣立す、子なし、弟佐渡守(長重後に長亮)を養ふて封を襲がしむ、佐渡守は五代将軍綱吉の時に寺社奉行を歴て、京都所司代職に補せられ令聞治続あり、従四位下侍従に叙す、尋で老中職に挙げられ、一萬石を増して武州岩槻に移さる。六代将軍家宣の未だ世子たる時に、西丸附となり一萬石を加へられ、家宣立ちて将軍たるに及び復職せしも、幾何ならずして致仕して封土を次子壹岐守(長寛後に長*(ニスイニ煕))に傳ふ、長子長道(兵助)父に先ちて卒したるを以てなり。将軍家宣の薨ずる時薙髪して峯雲と號し、城北幡ヶ谷の地に隠棲す、壹岐守封を襲ぎ幾何ならず遠州掛川に移され、嗣子なし、族子山城守(長庸)を養ふて子となし、其の女を以て之に配す。城州公嗣立して早世す、長子能登守(長恭)遺封を襲ぐ、年末だ幼にして、封内に小変あるの故を以て奥州棚倉に移さる、蓋貶配せられたのである、然れども租額を減ぜず。卒して長子佐渡守(長堯)嗣立す、之を南萼公と称す、公賢明にして能く士に下り民を恤む、幕府重く用ゐんと欲し奏者番となし閣老の侯補に擬するも遂に果さず、父老今に至るまで其の徳を称してゐる。

  其二、第一代長昌、

     第二代長泰、

     第三代長會(オ)、

     第四代長和(カヅ)

 長堯の嗣子壹岐守長*(王爰)父に先ちて卒す、其の弟主殿頭(長昌)を立てて嗣となす、如ち明山公の父親にして霊源公と称す。材徳竝び高く勤倹下を率ゐ、力を農桑に盡して士民其の恩澤に浴す、封を襲ぎて幾何ならずして我が唐津に移さる、蓋し幕府の恩典に出づと云ふ、時に文政元年にして実に小笠原氏當城の第一祖である。越えて六年九月廿九日卒して、江戸駒込龍興寺に葬る。遺子明山公幼にして嗣立すること能はず、羽州庄内侯酒井左衛門尉忠器の弟鎌之助(長泰)を迎へて嗣君となし、其の封を襲ぎて佐渡守に任じ後壹岐守と改む、其の後壹州公疾ありて藩政を視ること能はず、致任して養子能登守(長會)に封を譲る。公実は一族弾正少弼長保の次子にして霊源公の外甥である。天保七年二月十九日江戸に没し、同く龍興寺に葬った。養子佐渡守(長和)襲ぐ、公は郡山侯松平保泰の九男である。天保十二年丑年正月二十三日卒して、當地瑞鳳山近松寺に葬る。

 同寺境内の乾の方に當りて幽厳なる塋域がある、是ぞ佐渡守長和永眠の霊区である。方形の切り石を以て畳める塀割は、東方に面して、幅員約四間側幅約六間の囲壁をなし、相應しき木造の唐門を構ふ、之を入れば後側に近く、幅一丈二尺側一丈六尺計りなる石の玉垣を設け、冠木門造りの石門がある、表に三階菱の定紋を彫み背に唐草模様を刻せる石扉を備ふ。内庭は悉く石を敷き列ね、其の中央に碑塔鎮座す。碑面に祥鳳院殿前佐州大守端巌崇輝大居士の法號を見る。塔身高五尺二寸方二尺三寸の方塔にして、頂は四方より斜に刷り上げて中央に一尖角を残す。臺礎は三階にして、上階は方三尺七寸高一尺七寸、次階は方五尺一寸高一尺五寸、下階は二石を以て造り方六尺五寸高一尺あり。外壁の左隅に接して、一間半に二間弱の面積を有する土造作りの祭器庫ありて、総て結構を盡してゐる。

 歴代藩公の墓碑の此の地に存するものを見るに、実によく時代思潮の反影表徴を示すものであって、寺澤、大久保の碑塔は、徳川幕初の雄大なる封建的思想を寫出し。土井・水野の碑石に至りては、形体漸く小にして技工を弄して、幕府中頃の太平の風韻を帯び。小笠原氏の墓碑に至りては、前者に比すれば塔身倭小なるも、精緻巧麗なる点あるは遙に前者の及ぶところでない、世は十二代将軍の時代にして華飾の風行はれ、また漸く世事多端ならんとするの時であれば、巧怜なる表徴を現すは、また面白き對照と云はねばならぬ。

   其三、第五代 長 国

第五代佐渡守長国は賢之進と云ひて、実は松本侯松平光庸の次男なりしが、入りて長和の嗣となり其の遺領を襲ぐ、これ我唐津最後の藩君として維新廃藩の時に及んだ、公に関する事柄は次節長行公の條にて略々之を知ることが出来る。明治十年四月二十三日卒す、壽六十五歳、東京下谷区谷中天王寺に葬る。