東松浦郡史 ⑮
http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より
其四、長行公
一、幼壮時代の公
壹岐守長行(ミチ)は、藩君たるに至らざりしも、五代長国の養嗣子として藩政に関り、殊に幕末史中の一異彩であれば、稍其の記傳を詳述するであらう(小笠原家文書に拠る)
明山君字は国華又の字は伯華山、明山は其の號である(封内の領麾巾山一名鏡山と称す鏡は明なり之に拠りて號となす)幼名を行(ミチ)若と称し後敬七郎と改む。文政五年壬午五月十一日唐津城本丸に生る、霊源公の長子にて、嫡母は元の唐津侯水野忠光の次女にして、生母を松倉氏となす。公の生まるゝ翌年即ち文政六年九月二十六日、霊源公江戸外櫻田の藩邸に於て下世す。この時公をして遺煩を襲がしむるを當然とす、然れども事情の存するものありて襲封を得ず、是れ公の為に不幸に似たれども、後年徳器成就して大名を天下に擧げたるものは、亦之に由ると謂はざるべからず。當時公が先考の遺領を襲ぐこと能はざりしは、公尚幼にして公役に服すること能はざるが為である、幕府の制に我が唐津藩主となるものは、同国島原藩主と隔番に長崎巡視の職を負ふを以て、毎年一回必ず長崎を巡回し、其の動静を視察して、幕府に報告せざるべからず、故に若し幼主にして其の職務を執ること能はざれば.他国に轉封せざるを得ず、然るに公の先祖久しく棚倉を領し租額六萬石の名あるも、領土各地に分割せられ(城附奥州常州の内にて三萬五千四百十七石羽州村上郡の内にて壹萬九千七百二石豆州君澤四方両郡の内にて四千八百八十余石)。収入時に由りては実額に充たざることあるを以て上下共に疲弊を極むるに至った、加ふるに数年前東西懸隔せる数百里の唐津に轉対せしを以て、其の移轉の為に費すところ貿られずして国帑益々空乏を告ぐ、比の際復他に轉封するときは、国帑遂に支へざるに至らんとす、故に或は他より長者を迎へんと欲し、或は轉封の憂に逢ふも血統の幼主を立てんと欲し、藩論紛々たりしも、有司遂に他より長者を迎ふることに決し、乃ち庄内侯の介弟を迎へで嗣君となし、公の生れしことは秘して幕府に告げず、長く廃人となし、城内二ノ丸の西館に置き(西御住居と称す、叔母徳姫の居る東御住居に対して云ふ)藩士小川正直(源左右衛門)等をして保育の任に當らしむ。公十二歳の時天保四年天休公(佐渡守長泰)病ありて公務を奉ずる能はず、闔藩の士民公の聡明にして且つ先君の血統なるを以て継嗣に立てんと切望す、困りて季父長光修理(藩人呼んで朱門公子と称す)老臣百束持雄(九郎右衛門)等公を伴うて東し、濱松侯水野忠邦に就いて斡旋を乞はんとす、當時侯は閣老の職に在りて、公の嫡母水野氏の兄たるを以てなり、侯は姻戚引援の嫌を避け却って力を盡さず、公を延見するに及び其の尚幼冲にして、且つ躯斡の短少なるを相て岳牧の任に堪へずと思ひ、一首の和歌「君が家の梅の立枝はしらねどもあるじ顔にも見えぬきみかな」と詠じ、長光等に與へて継嗣の事は望むべからずとの意を諷した、是を以て長光等は事の遂に成らざるを察し、翌年に至り公を伴うて空しく帰邑するに至った。かくて公は世子に立つことを得ず、庶子の待遇を受けて久しく蟄居し、二十一歳の時天保十三年江戸に移りて、深川高橋の藩邸中に在る一小亭(背山亭と號す)に住み、数人の侍者を使役し、一ケ月僅に拾五両の給養金を受くるに過ぎず、故に尋常の人ならんには少しは不快の感も起すべき筈なるに、幼より藩の督學村瀬文輔・大野右仲に就いて文學を修め、江戸に移りて後は當時の碩學松田順之(迂仙)朝川鼎(善庵)等に師事して、聖賢の道を聞き文藝の事を學び売れば、天性の温良恭謙なるに加ふるに徳教の化及びて、一毫の憤懣不平の気なく、他家より迎へたる数代の藩主に仕へて孝悌の道を盡せしことは、普く人の知るところなるのみならず、其の師とする處の朝川・松田等の碩學に事ふるにも、亦善く恭敬の誠を致したのである。又公は名門の出なるに能く布衣の交りを結びしかば、當世智名の士羽倉用丸(簡堂)、藤田彪(東湖)、鹽谷世弘(宕陰)、安井衡(息軒)、野田逸(笛裏)、川北里熹(温山)、藤森大雅(弘庵)、斎藤馨(竹堂)、田口克(竹州)、西島*(車兒)(秋航)の徒を始めとして門下に候するもの陸續踵を接す、故に令名嘖々として遐邇に鳴り、或は信陵君に此し、或は田中侯本田正寛の弟正訥・高錫侯秋月種殷の弟種樹を併せて三貿公子と称するに至った。又小笠原の二敬と称するときは、兒童走卒も才學に富みたる賢公子であることを知る。其の二敬と称するは公の通称敬七郎にして、安志侯小笠原長武の子貞大も亦敬二郎と称し才名高かりしを以てなり。然れども公は却て其の名の高さを厭ひ、自ら箴戒の辞を作りて怠慢の情を制するに至りしは、其の謙徳の程を知ることが出来る。公は又其の蟄伏せる時に於ても武技の研讃に怠らず、所謂文事あるものは必ず武備あるの心を忘れなかった、最も騎射の術に長じたり、また高島舜臣(四郎太夫)、江川英武(太郎左衛門)、に就いて泰西の砲術を講究した、加之藩邸の士を督励して武技を練修せしめたることは、一時士林に傳唱せし公が自作の合江園濱武記(園は深川高橋の藩邸内に在り)に明である。
嘉永六年(紀元二五一三)六月米国の水師提督ペルリ浦賀に来りて互市を乞ふや、朝野の間和戦の利害開鎖の得失を諭ずるもの甚多し、公以為く身に官守なく言責なしと雖も、是れ国家の大事黙止すべからずと、同年七月意見を記して、當時外交の議に與かれる水戸中納言齋昭に贈りて、幕聴に達せんことを乞ふ、頗る長文に渉れば其要領のみを揚げん。
上略 説者或曰、宜互市、或曰、利決戦、二説紛々未知孰勝、而言互市者十居其八、長若奮謂今 之言互市者、非暗必怯、今之言決戦者、非暴必愚、何則互市之害遅而大、決戦之害速而小、遺大害而懼小害、是固不可従也。雖然人心未固、器械未備、而倉猝開兵端、一戦敗衂、使無罪生霊陥塗炭、遂踵満清覆轍、是亦不可不深慮也。然二者皆其末也、蘇軾曰天下之患莫大於不知其然両然者、不知其然而然者、是拱手而待乱也、夫軾以水旱盗賊權臣専制不為憂、而以不知其然而然為憂者何也、天下之事有形者易制、無形者難治、今彼虎狼鋭牙利爪以摶噬人、是信可畏也、然人欲補之則井可以陥検可以*(金従ホコ)若雷霆則不然聲可聞也、而目不可見也、目可見、而手不可捍也、今蠻夷交侵、邊鄙不寧、其勢雖若可畏是虎耳、是狼耳、天下之禍亦有若雷霆者也、紀綱廃弛、風俗頽敗是耳、夫欲肥技者必先冀其根、欲治外者必先和其内本薄而末厚、内乱而外治者、未之有也。長若有四策、請試陳之一目、定国是国是己定、則民知所嚮、管子云禮義廉耻国之四維、四維張乃君會行、四維不張国乃亡、謂先定国是也、當今之時亦須張四維奮士気以為国是。二日擧賢才所以国之廃興存亡者、職由人才有無国之有人才猶燈之有、膏魚之有水也、然世衰事繁、必任法為治、任法為治、則賢者無所用、其賢能者無所用其能、賢能不用則人才必屈、是自然之勢也.孟子曰不信仁賢国空虚、豈不然乎。三日敦教化、夫飢思食、寒思衣、人之常情也、寒焉而不服盗之服、飢焉而不食盗之食、可欺不可誣、可殺不可辱者、教化使然也、宜敦教化以固人心。四曰去浮華、今世外有強梁之冠、内有鼠竊之盗宜精器械厳守備以制之、而其費幾百萬、非節用不可為也、節用之要在貴實用、貴實用須先去浮華、世之説節倹者、皆曰、悪衣服菲飯食抑末也、長若竊察近代之風俗徴求促急、而諸侯困弊、賦斂過重而民無所告訴、浮文虚飾、相競成風、貨賄公行、姦史悩人、是財之所靡也、是之不問而衣食之察、記曰放飯流*(又又又又酉欠)而問、無歯決是之謂不知務若先去浮華則諸侯與百姓財自足、末有其子富而其父貧者、未有其下足而其上不給者、故曰節用在去浮華。吁此四策雖似迂遠、亦厚木和内之一術也、内已和、本己厚、則墨賊英夷之徒、雖竝侵邊徼、焉足懼乎、若夫製大銃築*(石馬交)*(工鳥)造大艦、其人倶存、長若不贅辯也 下略
以て公の意志が何の邊に存せしかを知るべし。公は是より益々邊釁を豪へて、翌年七月幕府が堀織部正利熙・平山謙次郎・水野正左衛門等をして、煆夷樺太の由を巡視せしむるや、侍臣村瀬文輔・長谷川立身を平山に托し、其の従者となして北地の動静を観察せしめた。
外交のこと日に困難に国前非なるの時、眞に国家の難を救ふの人材を要するのである、我が明山公は實に衆望の帰する所である。然れども公は庶子である、上之を擧げ下之を推すものありと雖も、直に執政に登庸することは當時の制度及び事情の許さざる所である、依って藩の世子に立て然る後閣老に推擧せむとするに至った。この間を斡旋盡力せるものは、内にありては老臣西脇勝善(多仲)及び藩士尾崎念(嘉右衛門)、大野右仲(又七郎)にして、外にありては鹽谷世弘(甲蔵)、安井衡(仲平)、藤森大雅(恭輔)、田口克(文蔵)、勝野某(豊作基山と號す、幕臣阿部次郎の臣)等の碩儒である。然れども其誌澁滞した、そは當主佐州公尚公より齢二歳少きに、父子の義を結ぶは不倫たるのみならず、他に斯の如き類例の稀なるを以てなり.而て佐州公の意固より料るべからず、其の實父たる松本老侯の意も亦料られず、萬一其の議中途に發露して其り意に逆ふときは、斧*(金?カマ)の刑を免かれざるのみならず、累ひ公に及ばんとす。故に其の議を建つるものは極めて之を秘し、窃に手を盡して其の類例を他に捜索せしに、幸に酒井家小濱侯に其の例あるを發見した是に於て徳島の儒臣片山某をして其主阿波侯松平齋裕を説かしめ、高知の儒臣安岡某をして其の主土佐侯山内豊信を説かしむ、二侯は有力の諸侯であって、殊に阿波公は徳川の連枝にして文恭公(十一代将軍家斉の第二十二子)又我が笠家と姻戚の関係あるを以て、期の事を處理するには最適當の人なればなり。二侯異議なく同意し、書を佐州公に寄せて公を継嗣に立つることを説き、且つ阿波公は柳営に於て面のあたり佐州公に説いた、佐州公其の説を容れ、在府の老臣多賀高寧(長左右衛門)、百束持盈新、西脇勝善を召して之を謀り、且つ其の類例あるやを問ふ。三老臣も亦其の議に賛同し、退て類例を調査し、先に勝善等が窃に探ぐりし酒井家の例を得て献ず、依て其の議始めて決し、安政四年八月三日(紀元二五一七)公を一門に列することを幕府に聞す。(曩に公の出生を幕府に告げざりしを以て是の時の届書には小笠原茂手記二男小笠原敬七郎此度一門引き直す云々とあり茂記は一門修理の養子である)、公既に継嗣となるに決す、佐州公老臣と議して多く侍臣を附せんと欲し、持盈なして其の意を傳へしむ、公益々卑謙し書を持盈に與へて固辭した。
同年九月十八日佐州公は公を養子となすことを幕府に請ひ、同月廿一日之が允許を得た、これ公が三十六歳の時である。公の継嗣問題斯く速に結了せしは、幕奥の老女歌橋なるものが曾て公の詩を台覧に供せしことあるも、其の一因ならんと云ふ。
同年一月朔日佐州公に従ひ始めて登営して将軍家に謁す、是の日下馬場に控へたる諸藩士公の儀仗を望見し、これ他日の閣老なりと、當時公が名聞の高きことを推して知るべきなり、同年十二月十六日従五位下に叙し図書頭に任ず。
是に於て公の為めを計れる諸碩學及び有志の徒は、公を閣老に推擧して初志を貫かんと欲し、土佐老侯(豊信後に容堂)も亦幕府をして公を擢用せしめんと欲し、先づ其の器度を試みんと欲し、使を遣して公を其の邸に招く、公事に托して行かず、乞ふこと再三に及び遂に行く、老侯宴を設けて公を饗す、酒酣にして公を罵って曰く、内憂外患交々起り幕府の危急存亡の秋なり、卿等の如き譜代恩顧の徒は、朝暮余輩国主の門に伺侯して主家救治の策を問はざるべからず、然るに屡々位を遣はすも尊大自持して遽に来り見ざるは何ぞや、と杯を擲ち席を蹶って奥に入る、使者皆愕然たり、一人進み出でゝ謝して曰く、寡君今日の事臣等其意を解する能はず、想ふに酔後の妄行深く咎むる勿れ、明旦改めて不敬を謝すべし、請ふ速に駕を回せ、公泰然として封へて曰く、是等の些事何ぞ意に介するに足らん、僕も亦既に酔へり若し晩餐の用意あらば願くば一箸を下すを得んと、徐ろに之を喫して帰る。明日侯閣老某を訪ひ、告げて曰く、図書頭器量常を披く用ゆべしと、依て推薦すること頗る勉む、然れども當時尚舊例古格に拘泥すること甚しく、徳川氏開封以降諸侯の世子にして老職に擧げられたるもの稀なるを以て、其の議沮んで行はれない。侯が招宴の翌日公に寄せたる書を揚ぐれば。
昨日は御来駕被下候處爾来御安全奉雀躍候、主人酔中之振舞別而御目撃御驚愕被成候と奉存候、是則容堂先生之本色若し倨傲不敬御○○被成候はば、如此無禮者御遠けにて可也、若し又足下量如大海御叱罵無之候はゞ、不相更接謦咳可申候、僕性強頑大抵如此御座候大笑抛筆、
念七
御頼之拙筆差出申條不一。
事の沮格斯くの如くなりしかば、藩中末流の輩は遺憾に思ひ、其の目的を達せんには佐州公を退隠せしめて、公を當主に仰がんと窃に企図せしものありて、先づ人を以て佐州公の實父松本老侯を諷諭せしに、侯は之を不快に感じて拒絶した。ために佐州公と公との交情自ら隔意を生ずる傾向あらしかば、藩中公の志を得るを以て己の不利となす小人は、其の隙に乗じて公の地位を動かさんと謀り、陰に大殿黨と若殿黨とに分れて相闘ぐの悪弊を生ずるに至った。而て當時公は、公の人と為りを知らざるものより、誤りて水戸派の人なりと称せられたるを以て大老井伊直弼(掃部頭)の為に大に忌まれた、故に大殿黨の一派は井伊氏の勢力を籍りて其の目的を達せんと謀りしかば、公の地位極めて危かりしも、偶々井伊氏の斃るるに會し、其の禍を免れしは幸であつた。一時期の如き悪弊を生じたれども、佐州公は元来温良の君である、公は亦前述の如く義父祖に能く仕へ、殊に佐州公に仕ふることは所生に仕ふるにも過ぎたりしかば、遂に佐州公の意も和ぎて、父子の情好益々親密となるに至った。
二、藩政を見る
安政五年二月(紀元二五一八)佐州公の名代として唐津に帰り藩政を執るに至る、二十八日江戸を發するに臨み、佐州公自書を裁し在邑の老臣前場景福・百束持盈・高畠蕃綱・大八木住仁に與へて、政事を公に委任することを以てす。四月十一日唐津城に着す、公先に国を出でしより十七年にして帰国す。士民其の令徳を仰慕すること久し、是に於て相慶して賢公子行若君果して我が君たりしと、歓極まりて涙を流すものさへあった。十二月三ノ丸の練兵場(俗に御見馬場と称す)に於て江戸より率ゐ来れる従臣をして西洋流の兵式調練をなさしめて闔藩の士人をして陪観せしむ、蓋し舌兵法が時勢に適せざるを示し、武備の忽にすべからざるを示せるものである。
同月十九日唐津城を發して長崎を巡視す、奮例に循ふものにて、二十二日長崎に着し、奉行及び目附等と會見し初見の式を済まし、翌日長崎を發し廿六日唐津に帰る治政の第一着手は、同年五月臣下に左の諭達を下して、俸禄の二割引及び役米役金の引高を宥免し、且文武の業を励まし、直言*(言黨)議を求むるなどの善政を施した。
我等事乍不肖
大殿様為御名代當表へ罷越追々及見聞候處、彌々上之引米にて家中一同難渋深察入候、譜代恩顧の家の子、無據義と者乍申、有様為致難澁侯事、
御先祖へ對候ても實不本意之至に候、然る處時節柄厚く致勘辨艱苦相凌致精勤呉候段誠忠感入候也。近来世間何となく騒々敷、公邊にても御事多々にて不容易時節、別に海防筋長崎有事等、武備心懸無之而者不相成事故、如何様とも致遣存候得共、勝手向不如意にて何分不行届残念此事に候、依之従當年手取二割竝役米役金丈之處、先差免候、尚追々差含候儀も有之候間、此上共上下致一和共々艱難相凌、
御先祖へ對し益忠勤相励可申候、且又文武者国之元気に候間、難澁と乍申不相替致出精呉候様頼入候。惣じて上下之情隔候事、第一治国之大害に候間、我等過者勿論其外心付候儀者、口上書取何れにても不苦、聊も無包隠眞直に可申聞、君臣一致肝要之事に候、此義大殿様にも探御心配被為仕、我等より宜敷申達候様兼々被仰付候、猶委細者家老共より可申聞也
前述の如く、公の先代掛川より棚倉に轉封せらるゝや、租額六萬石の名あるも、實収之に充たざることあり、故に従来の臣下を養ふこと極めて困難ならしかば、禄制を変革して其の称呼の額と實際支給の額とに著しき差等を立てた、例へば知行百石を與ふと称するも其の給する所は左の割合である、但し高禄のものは其の減額の割合多きも、少禄のものは其の減額の割合が少ない。
食禄百石を與ふるものに渡す割合
一、大豆 六斗
一、糯米 参斗
一、玄米 六石貳斗五升参合
但十二ケ月に割り毎月五斗二升一合宛渡すものとす。
一、同 七石零八升
但是は四人扶持として亦十二ケ月に割り前項の石数に加へて渡すものとす。
計
大豆 六斗
糯米 参斗
玄米 拾参石参斗参升参合
外に
一、玄米 参石参斗参升参合
但是は二割引米と称し毎年二期代金にて渡すものとす然れども勝手向不如意の場合には引上げ切りとなすことあり。
右の如く實際の支給額を減少せる上に、安政二年江戸大地震のため藩邸改築等の用度多きを以て之せ償ふため二割り引米となす、或は毎年二期代金にて支給することあるも、亦米価の見積り低廉なるを以て、被給者の為には甚不利益とす、故に減額をなしたる代りに、家屋の修繕等は一切藩費となし、従僕の給料及び薪炭紙薬の価の如きは、或は其の金額を給し、或は其の幾分を補給し得失相償はしむるの割合となし、又家老用人番頭等の重職には、別に役米を給する制ありと雖も、要するに他藩の禄制に比すれば減額最甚しきものとす、公常に之を憫む故に、先づ當時引き上げ置きたる二割米及び役金を宥免せしものなり。また七月には諭達を發して、藩士をして文武の業を励ましむ。屡々領内を巡廻して、善行あるものと農業に励精するものを視察し、褒賞奨励せしこと尠からず。毎年秋冬の交、水旱虫害に罹りて稔穀鮮少なる時、農民上申して納税を減ぜんことを請ふや、吏を發して之を踏査す、之を検見と云ふ、其の検見を為すや吏極めて多く(二十三人)儀式荘厳に過ぎ、村吏は吏の意を迎へて供奉極めて厚く、動もすれば其の減じて得る處費す處償はず、加ふるに巡視の吏と村吏と結托して奸をなし、民其の弊に耐へない。公之を察し是の歳十月寒威凛烈の日突然二三の侍臣を率ゐて柏崎村(今の久里村の内)に至り、検見の場に臨みて其の實況を目撃して吏を戒め、後検見のある毎に自ら巡検し、或は窃に侍臣を遣はして其の情況を視察せしめた、吏これより畏れて奸をなさず、儀式簡易に供奉減ず、民大に喜ぶ。十二月廿五日には諭達を發して、臣下の窮乏を救へり。公の唐津を治むること満三年の間、屡右の多き達示を出して言路を開き、文武を励まし勤倹を奨め、窮乏を恤むことを勉めしのみならず、自ら奉ずること極めて薄く、常に麁服を着麁衣を用ゐ、監国世子の身を以て後殿の使令に供するもの僅に数人に過ぎず、其質素なること背山亭に住みたる時の生活に異ならず。政務の余暇には儒臣を招きて、近侍及び藩士の學を好むものを集めて経史を講論せしめ、自ら其の席に臨みて聴聞し、課業終れば茶菓若くば酒肴を出だし、共に胸襟を披いて世事を談じ、時に或は夜を徹するに至る、又屡志道館(藩校)、演式場に臨みて授業の實況を閲覧し、勉励衆に超ゆるものは不次に擢用し、或は臨時に褒賞を與へしかば、闔藩翕然として文武の業を励むに至った。
同六年正月公は醫學館に臨み授業の實祝を覧て、學頭保利文溟を召して奨諭した。従来藩内に橘葉館と称する醫學校ありと雖も、微々として振はず、公常に其振作を期せり、故にこの事ありたり。爾後屡其事に與る醫師を召して奨励す、是より醫學大に振ふに至った。五月五日西洋流の練兵術を學ぶ者を蒐め鏡山の巓に於て調練を為さしめ、訓示を與へて士気を励ませり。十一月例に依りて長崎を巡見す。十二月藩士に金を恵みて其の窮乏を救ひ、文武の道を奨め品行を謹むべき等を訓戒した。
同七年正月五日城下の富商山内小兵衛、公が屡善政を施して領内の士民其の徳澤に浴するを感じ、金百両を献ず、公之を嘉納した。其の後又名護屋村山口久右衛門の献金、其の他富豪の金を献ずるものあり、公其の志を賞せり。然れど濫りに使用せず、多くは窮乏を賑恤するの資に供せり。閏三月長崎を巡視す、三日唐津を出で九日帰唐す、蓋し是の歳三月三日大老伊井直弼(掃部頭)水戸浪士の為に刺されて死し、物情騒然たり、故に巡視の期を早めたのである。帰路領内畑島村(今の鬼塚村の内)にて、山田村(同上)の農岩助の祖母ふき女を召し見て、其の壽を祝し手づから物を賜ふた。ふき女今茲百歳尚ほ矍鑠たり、曩に手作の米一苞を献ず、公は銀及び物を賜ひて之に酬ひ、且つ司農の吏(郡代)として慰撫せしめた。五月ふき女疾みて臥すと聞き、近臣数人を従へ岩助の家に至りて其の疾を問ひ、ふき女が常に用うる咽管を取りて、自ら莨葉に火を點じ之を與へ、且金員醫薬を恵めり。公は老人を遇すること極めて渥きこと斯くの如く、其の領内を巡回する毎に、尊卑の別なく老人を召し見て物を賜ふ。七月領内の長壽者を具申せしめ、八十歳以上には木錦一反、九十歳以上に木綿二反を賜ふた。