Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

東松浦郡史 ⑯

2016.03.28 07:05

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より

 同年六月廿一日老臣前場景福罪あり、其の職禄を剥ぎで致仕せしむ、是れより先き景福暇を乞うて三社に賽せんと欲し(藩制士人の妄りに他邦に行く事を禁じ士人をして金を醵し當箋を以順次に太宰府天満宮、筑後の高良明神、肥後の清正公の参詣を為さしむ之を三社詣と称す)、發程の日領内相知村に泊し、村中の婦女を集めて盛宴を張る。公當時屡命を下して風規を厳にす、後此の事を聞き以為らく法の行はれざるは上に居るもの守らざるに由る、是れを以て痛く懲らさゞるべからずと遂に世の命をなせり。景福執政の首席に在りて自ら風紀を破る、其の罪因より軽しとせず、然れども其の犯す所に至りては亦重しとせず、而て公は平素老臣を待する事極めて渥し、然るに平素の意に反して此の厳譴を加へしは、蓋し亦他に故あるのである。公の先世数代の君皆他家より来りて笠家の統を継ぐ、故に概ね事を宿老の臣に委ね身は垂拱して成を守るの風がある。公の国を監するに及び自ら事を執りで励精治を図り、.舊来の積弊を釐革す、故に久しく権威を振ひし老臣及び荀且偸安を事とする有司等は、窃に之を喜ばず、往々国帑の空乏等に託して其の盛意を沮みしかば、公の意常に楽まず、加ふるに先に廃嫡論の江戸藩邸の中に發生する報あるを以て、公は東上して其の害を除かんと謀りしも、亦老臣等に支へられて其の意を果さず、景福に内意を含め代りて東上せしめんとせしも、又事に托して意に應ぜず、故に中老福田直興をして東上せしむるに至った。偶々景福罪を犯すに會す、是に於てか公は又一身の利害を顧みず、奮て此の宿弊を一洗せんと欲し、遂に此の英断を施したのである。而て廃嫡論の主張者たる疑ひある足立兵左衛門・岩崎源兵衛を江戸より召して糺明せしも、其の要領を得ざりしかば、九月に至り鳥羽信徳を密使として江戸に遣はし、其の事情を探ぐらしむ、信徳は多賀高寧の實弟にして、當時在府の家老西脇勝善・用人多賀高景とは叔姪姻戚の関係あり、故に其の事を探査するに便宜を有するを以てなり、信徳江戸に到り、佐州公に謁して詳しく公の赤心の存する所を愬へしが、佐州公の疑惑も亦氷解し、其の黨類を糺して足立・岩崎及び吉倉唯一、青木呉平の四人を幽屏せしを以て、全く無事に局を結ぶを得た。是れより宿老及び有司皆公を畏れて、敢て其の命に抗するものなければ、公も益々力を国事に展ばすを得た。故に公をして尚ほ数年間唐津に止まらしめば、其の施設計画する所大いに見るべきものありしならん、然るに間もなく東上して幕府に擢用せられ、専ら意を藩政に注ぐ事能はざりしは、士民今に至るまで憾みとするところである。公は斯くの如く景福を厳譴せしかども、其の罪軽くして其の罰重きを憫む故に、翌年正月其の子小五郎に世襲の禄五百石を與へて先手物頭と為し、後江戸に召して寵任せしは、父の意を慰むる深衷なりしと云ふ、又廃嫡の主唱者たりし四人も一時は罰せられたれども、公は少しも意に介せず閣老となりし時、第一に此の輩を抜きて要職に用ゐしかば、闔藩公の處置の公平なるに心服し、今に至るまで其の善政の一に数へてゐる。

 同年九月有司に命じて封内の農商より祠官僧侶の徒に至るまで、盡く自家の利害藩政の得失並に其の希望の事を記して、目安箱に投ずることを示達す、目安箱とは従来、城濠に沿ひたる街頭に備へ附けし投書函の事である。今其の令一たび下りてより、封書を目安箱に投ずるもの前後数百千通の多きに及んだ。公自ら一々之を検閲するに讒誣非望に渉る説多き中に、名護屋村の里正松尾兵左衛門・直太郎父子の述ぶる所、公の意に副ひ、特に検見の弊を述ぶること最も適切なりしかば、公大に之を嘉みし、是の歳十一月古城を登覧せんと名護屋に到りし時父子を召し見て、懇に賞詞を與へ爾後尚ほ見る所あらば忌憚なく建白せんことを諭し、且つ物を賜ふ(筆架、注水壺及び菓子皿)。公は其の封事を検閲して、其の行はるべきものと認めたるものを抜萃し、十一月中旬之を郡宰に下附し、且つ誨告を加へたり。

 文久元年二月十九日(紀元二五二一)、米三千俵金百参拾両を農民に、米百五十俵金廿両を市民に施し、別に米三千俵を農民に百五十俵を市民に貸與して年賦返納せしむ、其の出す所通計米六千三百俵金百五十両にして金は則ち内帑より支出せるものとす。是より先き比年水旱の害ありて五穀登らず民菜色あり、公深く之を憫み賑恤する所あらんとし、屡々吏を戒めて冗費を節せしめ、又自ら勤倹下を率ゐて貯蓄に勉めたるを以て、其の効忽ち顕はれ、政を施す事僅に三歳にして此の盛擧を見るに至った、民皆蘇息の思ひをなして其の仁徳を謳歌し、歓聲相傳へて四境に達す。同月寺社奉行職のもの宗旨改法を釐革せんと欲し、其の方案を備へて稟請す、公之を閲して其の方案中僧侶の為に不便利なるものあるを察し、翌月に至り書を中老近藤祐記に與へ、奉行職のものに諭して訂正せしめらる。

 是の歳二月城下釜屋堀にて大砲を改鋳す、公亦内帑を發して其の費に供した。従来我唐津には城附の大砲十門及び幕府より預かる所の大砲二門あり。城附の大砲十門のことは寺澤氏の記事中前既に述べしところであって、共に寺澤氏以後の城主四氏を経て、遂に小笠原氏に傳へられた。公が唐津を治めて沿海の武備を修むるに及び、其の發砲を試みて粗製實用に適せざるを知り、私に書を長崎奉行岡部駿河守長常に寄せて改鋳の事を謀る、奉行其の適例なきを以て決すること能はず、幕府に稟請して萬延元年正月公許を得た。よりて公は藩士坂本次郎右衛門を長崎に遣はし、勝麟太郎、下曾根甲斐守に就きて製砲術を學ばしむ。次郎右衛門其の業を研究する事数月業を終へて唐津に帰り、翌文久元年二月始めて改鋳に着手して、三月下旬漸く四門(十八ポンド野戦砲一門、六斤野戦砲一門、十五ドヰム臼砲一門、十九ドヰム臼砲一門)を改鋳し、翌月一日領内妙見浦(今の西唐津)にて新製砲の發射を試み、公其の場に臨み自ら火を點じて之を検した。

 同年三月又例によりて長崎を巡視す、今回の行は路を轉じて、伊萬里・有田及び波佐見を経て彼杵に出で、帰路亦之を過ぐ、佐賀侯故らに吏を派して其の道路を修繕せり、蓋し公に敬意を表せしものなりと云ふ。

 同年四月江戸に参勤し、四日唐津を發し五月十六日(一に十七日とあるは誤り)江戸に着せしが、其の發程前一日左の達示を老臣及び郡宰に下せり。

 文武之儀近来一同に相励令満足候、無程致参府候に付而者留守中之儀、懸り役々共致心配候儀者勿論之事に候得共、一統之處も此上無心緩致出精、猶是迄相達候條々も堅く取守候様可被申達置候事、

     酉 四 月

 昨年中申達候儀有之、郷町役人之向其外共、品々目安差出中に者心得に相成候儀も有之奇特之事に候、此旨懸り役人共より夫々へ申達置候様有之度事。

     酉 四 月

 此の示達こそ公が唐津に於ての施政上最終の訓達である、其の後江戸に居るも藩政を改良して士民を休養するの念は、造次も胸臆を離るゝことなく、屡意見を老臣等に致して既往の改革を守ることを勉めしめ、且益々改良を図らしめしも、東西遙に懸隔せる事であれば、其の意を十分に達することが出来なかった。尋て幕府の為に擢用せられたるが故に、天下の事を以て自任し其の頽勢を挽回せんと欲し、東奔西走して寝食を安んずるの暇がない。公の唐津を治むる僅に三年、其の懐抱する所を十分に施すこと能はざりしと雖も、其の年期少くして其の効果の擧りしもの多きは、今人の唱ふるところである。

 公東上して櫻田の藩邸に入るも、佐州公は翌年瓜及の期まで尚ほ江戸に留まるを以て、公は邸中の別殿に住居し謙譲して復た藩政を裁理せず、唯子たるの道を守るのみである。然れども曩に施設計画する所、遂に解頽せんことを惧れ、在国の朱門公子(修理長光)に消息を寄する毎に屡其の意を致すと雖も、公子も亦當時閑散の身なれば、充分に其の意を賛襄すること能はざりしは遺憾である。

 文久二年三月佐州公暇を得て封に就く、五日江都を發し四月十二日唐津城に入る。

  三、幕政参與時代

 六月朔月在府の諸侯登営して将軍家に謁見す、公亦父君に代りて席に列せしが、式了りて将軍家更に藩侯を黒書院に召し、時勢を救済し忠誠を抽きんずべき旨の沙汰があった。是に於て列侯建白するもの多かりしが、公も亦数條の意見を記して之を呈した。

 乍恐以書取奉申上候、近来不容易御時勢に付、御政事向格外御変革被遊度厚思召之段蒙上意難有事存候。何哉御裨益に相成候事も哉と日夜焦思苦心仕候得共、素より短才無智之私何も心附候儀無之候得共、御下問之御盛徳を無に仕り候而者、却而怨入候間、愚存之次第左に奉申上候、一、公武御和熟御眞實之思召より、絶而久敷無之  御上洛被 仰出 天朝之被為仕候御至情、左も可有之奉感服候、然處右被仰出を伺、首を傾け額を蹙め嘆息 仕候族有之何故に御座候哉、愚考仕候處御至情之段は至極結構に御座候得共、太平久敷相續是迄之弊風無益之手数のみ夥敷、既に先年日光御参詣並 和宮様御下向之時すら、御道筋之百姓共不残人足に罷出、業を廃し田地を荒し、中には粮米不足餓死之者不少目も當てられぬ有様之由、實に歎かは敷事に候のみならず、上の御用度は勿論諸侯の入費、天下之疲弊幾百萬といふ事を知らず、千萬人之怨嗟皆御一人之御身に帰集仕候、右等之儀相考候處より、難有き被仰出を伺、却而蹙額仕候儀と奉存候、豊太閤時代東照宮御上洛の節殊の外御急にて、日々二十里余之御旅行十日を不出して御京着之由承り、諸事御簡易の程思やられ候、此節柄格別之御手軽世人の意表に出候に御調相成候はヾ實に御中興御開き之基本と奉存候へ共、萬一此上天下之疲弊を相増し候はゞ、乱従是生じ可申此度之、

 御上洛、御安危の分れ目誠に御一大事と奉存候、何卒断然と厳確に御規定御座候様仕度奉存侯。

一、人君之至極大切なるものは位に而御座候、易之繋辭にも聖人の太寶を位といふと相見候、其位を保ち候は、柄權に而柄權を維持するは賞罰に御座候、賞罰當を得れば權不招して帰し、賞罰當を失へば權忽去申候、權なくして位のみあるを空位と申て位なきも同様に候、左れば賞罰は如何にも公明正大に無之而は人心帰服不仕候、乍恐近来御賞罰往々姑息に御流れ被遊候様人々申居候、右申上候公明正大之御處置を被為失候而は、此節御改革の御手始と申、最御大切之御儀と奉存侯、何卒此上公明正大に御所置有之。誰が承り候而も御最至極に奉存候様被遊候はゞ、天下の人心も自然帰服仕り、御治世萬々歳と奉存候。

一、世上益々奢侈に募り虚飾を衒ひ、物価之貴さ事は古今に比なく、上下共困窮極り乱を思ふより外無之、四海困窮天禄永終之警語可懼事に候、かゝる時節なまなかの御改革に而は、迚も御立直し出来不申、断然と御憤發諸事萬端元和・寛永以前之御制度に復させられ、猶弊之由而来る根本を御糺し、其根本より被遊御改定度奉存候、大學に物有本末と御座候而、事一物之上にも必本末有之候、本を得る者之盛に末を逐ふ者之衰へ候は自然之理にて誰も存知候、然る處是迄致改正変革者是ぞ根本と存込精力を盡して取行ひ候両も不成就、偶然成就せし様に而も其人死する歟其役を去候得は忽互解仕候、是何之故に候哉、畢竟根本と見込候處實之根本に無之故に候、眞實之大根本を得て大変革被遊候はゞ、事之不成譯は決して無之、唯根本之御穿鑿肝要と奉存候。

 右陳腐迂濶之鄙見不顧恐奉申上候段、萬死難遁奉存候、献芹之微衷御哀憐一通り御覧被成下候はゞ難有奉存候、不敬之御科は如何様被仰付候とも、可奉甘心候、誠恐誠惶頓首頓首

    文久二年壬戊六月 日

              小笠原図書頭長行

 斯の建言は公が幕議に関して献替せし發端にして其の擢用せられし端緒も亦蓋し之より啓く。七月二十一日奏者番を命ぜらる、奏者番の職たる謁見及び進献の儀式に與るに過ぎない、固より要職にあらずと雖も、閣老及び参政の候補者たるを以て特に其の撰を重んず、而て公が世子の身を以て此の栄撰を蒙りしは、希有の特典である。是の時幕府は安藤對馬守信正(磐城平侯)、久世大和守廣周(関宿侯)、内藤紀伊守信思(村上侯)、本多美濃守忠民(岡崎公)の諸閣老前後踵を接して退き、水野和泉守忠精(山形公)、板倉周防守勝静(松山侯)脇坂中務大輔安宅(龍野老侯)の諸氏閣老に擧げられ、尋て一橋家(徳川刑部卿慶喜)後見職となり、越前老侯(春嶽慶永)総裁職となり、弊政を革新し武備を振張せんと欲するに會す。故に先には将軍家諸侯を會同して自ら直言を求むるに至った、而て公の名望元より世に高く、又衆に先だって時事を痛言せしを以て遂に擢用せられたのである。公奏者番の職に居ること一月余、其の弊風の甚しきを目撃して黙止するに忍びず、且益々時事に感ずる處あるを以て、上書して其弊風を改めんことを乞ひ、又施政姑息に流れず勇断の處置あらんことを乞ふ。かくて間もなく奏者番の廃せられたるは、幕府も當時革新に汲々たる際なれば、公の建議によりて速決せられしならん。

 閏八月十九日若年寄に任ぜられ職俸五千苞を賜ひ、同廿七日聖堂及び醫學館等の掛りとなる。聖堂及び昌平黌の事務は、従来若年寄の所管に係ると雖も、主司多くは林氏(大學頭)に一任して顧みず、故に學閥の弊益々長じて育英の路自然に杜絶する傾きあり、公の職に就くや屡聖堂に詣り其の弊を認め釐革せんと欲す、間もなく閣老に栄轉せしを以て果さず。然れども後に秋月種樹が若年寄格。學校奉行に抜擢され、鹽谷世弘・安井衡・芳野育等の宿儒が學官に登用せられしは、公の建議推薦に基くと云ふ。

 九月十一日老中格を命ぜらる、時に将軍家近日上洛の筈なるを以て、老中亀山侯松平信義と共に留守の命を蒙る。同月十四日職俸米五千苞を加へ合せて壹萬俵を賜ひ、同月廿七日役邸として常盤橋門内磐城平侯(信正)の役邸を賜はる。

 同年十月朔日外国御用掛となる、同十三日儀伐に槍二條を携ふるを允さる、蓋し大藩の世子を除くの外、二條槍を携ふるは特典とす。是より公の一擧一動は邦家の休戚に関するに至った。