東松浦郡史 ⑰
http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より
嘉永六年六月(紀元二五一四)米国の水師提督ペルリが浦賀に来りて、通交互市を乞ひしより、對外関係は復雑となり、安政五年六月(紀元二五一八)大老井伊直弼か独断専行を以て、米・露・英・佛・蘭の諸国と假條約を結び。一方には衆議を排して紀州家より家茂を迎へて将軍となし、其の政策に反對せる水戸齋昭以下を斥け、又當時幕府の措置を憤り外夷を攘はんとする尊王攘夷論は、鼎の沸くが如く擾然たれば、此等の輩を逮捕して酷刑に處し、水戸家に降りし密勅を返還せしむるに至りしかば、其の反動の為に櫻田の変に逢ふて伊井氏斃れ、安藤信正其の遺志を紹ぎて益々開国主義を執り、且皇妹和宮を請ふて将軍家に降嫁し、之に依りて公武一和を謀りしに、安藤氏も亦尊攘論者のために疾視せられて、坂下門の変に逢った、時に丈久二年正月にして、實に明山公が閣老に擧げられしも是の歳である。この歳四五月頃より国事は紛糾錯雑を極めた。公が入閣の初めに當りて第一に主唱せしは伊井大老及び三閣(安藤、久世、内藤)を迫罰し、且つ井伊氏等せ助けたる有司を黜罰して罪を朝廷に謝し天下の人心を慰めて公武一和を謀り、然して外国の事情に通ずるものを擧げて、外国の事を専任せんと欲するにあり。當時幕府の内情は閣老に人なく、一橋・越前両家は賓客の如き待遇にありて、下情壅塞して、台聴に達せず、それ公が君側の臣を去らざるべからずと慷慨し、一橋家の奮起を要望せし故である。公の劈頭第一の要望は松山侯等同意を表し、其の處分を公に委任せしかば、公は窃に有志者の意見を問ひ、罪案を起草して評議に附し、其の議決して十一月二十日に至り井伊氏以下諸有司を追罰せり。
公及び松山侯を始めとして幕府の有司は、斯く尊王の實効を立て、公武一和して對外の良策を回らすことに汲々たるに拘らず、彼の攘夷と云へる難問題は、幕府を攻撃するには尊王説にも優りたる無比の利器であれば、不逞の徒が此の利器を擁して、幕府を倒さんと企図するを防ぐこと能はざりしは是非もなき事である。是より先き京都に於ては長土の藩士及び浮浪の徒集りて京紳と結び、攘夷を唱へ陰に幕府を倒さんと謀り、気焔日に増し遂に朝議を動かすに至り、十一月二十七日の攘夷の勅旨を幕府に傳ふ。公は開港の止むべからずして攘夷の行はるべからざるを主張せしも行はれず、将軍は明春を以て入朝奉答すべきこととなった。十二月朔日公は上京を命ぜられ、十六日江都を發し舟行して二十二日大阪に著し、東本願寺に館す、一橋慶喜は陸路上京して、公と共に公武の調和を謀り、且将軍上洛の準備をなさんとし、而して公が大阪に先著せしは、攝海の警衛臺場築造の用意を為すがためである。
文久三年正月十三日急用を以て上京を命ぜられ、即日大阪を發して入洛す、同月廿二日参内拝謁して天盃を賜はる、二月朔日再び大阪に降り、臺場築造のことに力を盡くした。
同年二月十三日家茂将軍は江戸を發し三月四日入京す、公は江州土山驛に出迎ふ。将軍入洛するや、朝廷攘夷の期限を迫りければ、一橋慶喜・松平春嶽・松平容堂・松平容保等種々協議を遂げたる所ありしが、公は一篇の開国論を草して将軍に呈し、其の論末に至り、勅命と云へば事の利害得失を料らずして、只管遵奉するは婦女子の處為にして、将軍の職を盡したるものと謂ふべからず、故に飽くまでも朝廷に對して其の是非を論争せらるべし、若し是が為に朝譴に触るるも敢て意となさず、今日に於ては民命を救ひ国脈を存するの大義に著眼し、天朝尊崇の眞意を事實上に顕はすべしと痛論した。公が忠懿にして平素尊王の大義を唱ふるに似ず、断然論じて是に至るを見れば、この事たるや国家の安危存亡に関するを以て忌憚なく直言せしものである。一方江戸に於ては文久二年八月の生麦村事変に對する英国公使の要求急なり、公は斯く痛切に論じたるも其の意行はれず、そは幕府の武備解弛して強藩を威壓する實力がないからである。三月廿三日に至り公は更に一橋家に先だちて東帰し、開港拒絶の應接及び生麦償金の談判をなすべしとの命を受けたれども、其の能はざるを知り長張老侯・會津侯とに因で辭退しけるも許されざれば、止むなく同月廿五日京都を發せり、この生麦村事変の談判は公の一世の経歴中困難の任務であった。斯くて公は台命を奉じて京師を發せしに、将軍は公がこの大任に赴くを見て励まさんとにや、急使を發し二川驛に於て、公の職俸を加ふるの恩命を傳ふ、然れども公は登庸以来寸功なく、又拒絶談判の成功期し難きを以て固辭せり
四月六日江戸に著し、其の處分に就きて衆議に問ひしに諸説紛々として容易に決せず、かゝる紛議の中にも公及び外交事務に関する幕吏の意見は、長崎函館の二港を一時に拒絶することは到底行ふべからず、暫く横濱のみを謝絶し其の居留民を長崎函館の二港に移して、物議の鎮静を待ちて善後策を施すべしと決したるも、是れとて各国公使の承諾すべき望みなければ、先づ通交の先鞭者たる米国公使に對し、開港以来国内人心の動揺せる事情を述べ、曩にペルリが齎したる大統額の信書中に数年間互市を試みて、不利なるときは廃するも可なりとありしに、果して不利を蒙りたりとの口實を設け、且つ横濱は江戸に接近せるを以て開港地となし置くときは、徒に物議を招きて彼我の利益にあらざる理由を説き、彼をして承諾せしめ、然る後順次に蘭佛英等の公使に説くべしと定めたるが如し。然るに生麦村事変の償金の要求日一日に甚しきを以て、有司は償金支辨の議に傾き、遂に尾水両侯も其の議に同し、反對を唱ふるものは公及び外国奉行澤簡徳のみなり、公が反對したるは遠く京師の形勢混沌たればなり。将軍の目代心得たる水戸侯、親藩たる尾張侯は、公及び亀山侯・濱松侯の三閣老より、償金を與ふぺしとの證書を英国公使に交付すべしと逼りたれば、止むなく三閣老連署して五月八日を期限として、償金支辨の證書を交付した。然るに水戸家は京師の形勢強硬なるより、償金不支出に傾いた、當時幕臣中気慨の士乏しきを見るべし。既にして償金交付の期限五月三日に迫りたれば、公は暫時償金交付延期請求の書面を認め、之を英国艦長に移すべしとて、同僚松平・井上の二老に謀りしも、二老は病に託して登営せず、公は獨断を以て自ら其の書を裁し、五月二日夜急使を以て神奈川泊の英艦長に達せしも、却て其の違約を憤り、江戸湾に侵入せんとする形勢である、公は決然として物議を排し、八月早天蟠龍艦に乗り英艦長に面會を求めたれども拒絶して面會せず。公意らく償金を與へざるは元来曲我にあり、朝命黙止し難く拒絶せんとせしも、今は是非なし前約を履行して速に償金を與へ、然る後開港以来国内人心の激昂せる事情を明にして、開港拒絶を承諾せんことを要求するに如かず、他日償金を與へたる事に就き譴責を蒙むらば充分に其の理由を開陳し、若し聽かれずば一身を以て其の罪を負ふべしと決意し、遂に五月九月償金拾萬磅(時価二十六萬九千六十六両二分二朱余)を與へ、同時に激烈の談判を開かんとせしも、英艦長峻拒したれば如何とも為すこと能はざる有様である。一橋慶喜は京師より東帰して事を理せんとせしに、事の容易ならざるを見て将軍の後見職を辭したれば、公は入京分疏して朝意を回へさんと決心した。
公は五月十八日上京を命ぜられたるを以て、同月二十五日井上信濃守・水野癡雲・淺野伊賀守・土屋民部・向山英五郎等を率ゐて江戸を出發し、神奈川に到り軍艦蟠龍丸に乗りて發航す、是の時二警衛攝海守備の役に就く、歩騎両隊総員千七十五人雇ひ入れの英艦に搭じて従ふた。同廿九月兵庫を経て六月朔日拂暁大阪に著し、即日将軍家に謁せんと欲し、橋本まで進みしが遽に上京を差し留められ、淀の旅館(興正寺)に至り謹慎して後命を待った。是より先き一橋・水戸両家は窃かに人を京師に馳せ、生麦事変の償金を與へたるは図書頭の専断なり、彼れ兵力を以て勅許を強請せんとして海路を経て上京せりと告げければ、京師の驚き一方ならず、而て公等の一行既に伏見まで上りたりと聞えければ、益々驚き急に傳奏をして、公等一行の入京を差し止むべしと在京の閣老に厳達せしめ、尚ほ鷹司関白輔熙は夜中急使を尾張老侯慶勝に寄せ、公等の上京を止めんことを乞ふたのである。斯くて京都にては公等を違勅の厳科に處せんと欲すれども、将軍を始め幕吏は公の處置止むなきを察知するを以て、将軍は書を以て慰諭した。されど朝旨により六月十日免官となり大阪城預けとなる。是に於て城代松平伊豆守(吉田侯)衛兵を伏見に遣して公を迎ふ、儀仗は唯持槍一本を減じたるのみにて常に変らず、幕府が公を罪人視せざるを知るべし。されば家士等の出入は肯て禁制せず、城代をして歓待せしめたり。故に逼塞は朝旨を體して譴責せる一片の名義に過ぎなかった。七月八日江戸より城代に書を當て東下を促したれば、公は十日順動丸にて大阪を發し、十四日品川に著し、諸侯の儀仗を整へて桜田の藩邸に帰る、而て幕府は復た公の罪を問はず。公は屏居の後と雖も世務を忘るゝ暇なく、経済界の不振四民の困窮は、貨幣濫悪の為めである、依りて其の改鋳を行ひ古制に復するは、目下の急務なる旨の建白書を水野閣老に致し、台聴に達せんことを乞ひたるは、懇切周到時弊に的中して、経済の理を盡して余蘊なかりしも、用ゐられざりしは幕府存立民生救済の為に惜むべきことであった。
公が朝譴を蒙りて藩邸に屏居せしより、元治元年九月十六日(紀元二五二四)謹慎を解かるゝに至るまで、僅に一年有余の間には、薩英の開戦・朝議一変七卿の脱走・浪士の暴勒・長州人の犯闕・馬関の砲撃等大事変頻々として起った。元治元年十月廿三日には長州征討の勅命降下するに至りたれば、幕府は同時に中国九州の二十一雄藩に令して軍備を整へ、此の他萬石以上の諸藩に命じて戒厳せしむ。當時唐津藩主より幕府に差出せし請書を、叙記せんに、
去十三日之御奉書今二十八日相達拜見仕候、松平大膳太夫(毛利氏)追討被、仰付候に付、海路下ノ関より之二之手松平美濃守・松平肥前守へ被仰付、私儀者右之面々援兵被仰付候間、申合同所より山口表へ駆向ひ、大膳太夫父子始誅戮可仕旨被仰出、且又長防両国へ攻入候、口々割合方之儀者、御別紙之通被仰出候間、是又可申合旨、尤當月中出陣之心得に而出張、日限之儀者、尾張前大納言殿へ可相伺段。依上意被仰下候御紙上之趣奉畏候。
右御請為申上捧飛札候恐惶謹言
八月二十八日 少笠原佐渡守
水野和泉守様
牧野備中守様
阿部豊後守様
諏訪因幡守様
以て當時の有様を推知することが出来る。