東松浦郡史 ⑱
http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より
九月十六日公謹慎を免さる、昨年六月朝譴を蒙るや、幕府は之を憫み、是の歳四月謹慎を解かんことを乞しも、京紳の余憤尚ほ強くして許されず、偶々七月長州犯闕の変ありて、翌月閣老上京するに當り復た乞ふ所あり、又一方には公の臣下大野又七郎脱藩して京に入り、會藩士に周旋し、又其の紹介により二條関白の用人高島右衛門に會し、関白に分疏を依頼し、且つ幕吏永井主水正(京都町奉行)をして一橋家を説かしむ、加ふるに佐幕派たる薩州・肥後・土州。久留米等の在京留守居も、幕府のため公の再起を望み、相謀りて京紳及び一橋家に就て説く所あり、是に於て一橋家は参内して再三懇請せられしかば、朝議遂に之を容れ、八月十八日左の通り達せらる。
小笠原図書頭
不束之次第有之候に付、昨年御咎被 仰出官位被召放候處、此度幕府段々 出願無據筋も有之、格別之御憐愍を以、御咎被免候事。
但諸太夫被 仰付候事。
翌月十五日閣老諏訪因幡守より佐渡守家来に宛て、御用之儀候間明十六日佐渡守名代として、一類中一人用邸へ出頭すべしと達せらる、翌日御先手本間弾正を出頭せしめしに
小笠原図書頭
慎不残御免、前日之通諸太夫被仰付、並嫡子之通御心得候様被 仰出候。
と達せらる、是に至りて公の寃全く霽れて翌十七日壹岐守と改称す。
同月二十日水戸侯の同朋相田盛阿彌来りて、侍臣に就きて侯の密旨を傳ふ。
一、以前の通御懇意被成度事、
一、水府浪人當屋敷へ推参願出候儀も有之候はば、不包、水戸家へ通知せられたく、且願筋取揚無之事、
一、水戸家御處置之義御相談被成事、
公は侍臣をして體よく應答せしむ、蓋し此の時水戸の亡臣武田正生等は、尚ほ常総の間に出没して人民を苦しむるも、水戸家之を制する能はず、故に来りて公の意見を聴かんとし、且つ生麦村事変の償金に関し正生等が公を賣りたる事を暗に謝せんとせしなり。
一方長州征討軍総督には尾張侯慶勝命を受くと雖も、遅疑遷延して進まず、漸く十一月に至りて廣島に進發した。されば同年十月十四日公は将軍家の進發緩慢に過ぐるを歎じて、一書を裁し宿論たる貨幣改鋳の意見を併記し、水野閣老に託して窃に臺覧に供せしことあり、されば長州征伐は既に出發の前に、其の奏功乏しく幕府の威を示すに足らざりしを如るに足る。十一月朔日公解慎後始めて登営す、十三日に至り諸大夫被仰付、口宣位記を受く。
同月十二日長州侯は犯闕の三老臣の首を廣島に齎らし、謝罪状を添へて尾張総督に呈し、且つ山口城を毀ち、脱足の五卿の處分を為さんことを乞ふ。是の日佐渡守は唐津城を出馬し、十五日小倉に着す、従士二千四十三人外に船舶大小三十艘。
同月十六日尾張総督廣島に着す、十八日総督は長州服罪の事を朝廷に奏す。
同月廿五日當藩主佐渡守は、小倉駐屯の越前副総督の営に使を遣はして、強硬なる長州懲伐り建白書を呈し、同時にまた小倉藩と連合して先鋒となり、長州へ討ち入らんことを乞ふ。越前副総督は重臣本多修理をして命を傳へしめて曰く、建白書は至當と考ふるを以て更に在廣の尾張総督にも差出すべく、小倉藩と聯合先鋒と為りて討入の事は部署に違ふを以て聴き届け難しと、依て佐渡守は更に建白書を認め、百束持盈・尾崎念・長谷川久徴等を廣島に遣りて、尾張総督に呈せしも、総督は既に解兵と決せし時なれば容るゝ所とならなかった。
十二月六日公は在府の重臣多賀高景を小倉に遣はし、佐州公の起居を問ひ、且つ書を小倉侯に寄せて、父公が厚遇を受くるを謝した。翌慶應元年正月三日、佐州公は藩兵を収め小倉を發し、七日領邑唐津に帰る。
其の後長州にては過劇黨勢を制して国内騒然たりしかば、幕府は再征して*(雁月)懲すべしとて、慶應元年閏五月二十二日将軍家入京し、直に参内せしに、朝廷にては其の事情を推問せしに、将軍は毛利大膳既に服罪せるも、激徒窃に非擧を企つるあり、又外人と結託して兵器を購入するを以て不問に附すること能はずと奉答せしに、朝廷より兵は凶器にして軽卒に動かすべきものにあらず、暫く京阪の間に駐りて其の罪を糾明すべしと、幕議唯々として決せず、是の時藩府に人物なし、當時幕末の二本柱と目されたる松山侯は去年六月職を辭し、公は櫻田藩邸に蟄居す、今や阪地に在りて将軍の眞の股肱たるものなし、是に於でか松山侯か明山公の再起を要すべきなり、即ち七月二十六日公の上阪を命ずるに至る。公は時機既に遅れたるを思ひ、藩士も思慮あるものは亦起つべからずとせしも、公は国家の難に當りて成敗を料りて去就を決するを屑とせず、進んで其の難関に向った。
八月二日佐州公の長女満壽姫と合*(承包)の式を擧げらる。
八月晦日大阪蔵屋敷に着し、阿部閤老を訪ふて水野閣老等の意を傳へ、九月四日大阪城に登り将軍に謁す、老中格再勤の命を蒙る。この時英佛蘭米の公使大阪に航行して兵庫港の先期開港を逼らんとし、形労容易ならず。されど公はこの内難外憂の際、長州處分の一日も晩るべからざるを察しこの事を屡建議せしかば、将軍も其の議を容れ、外患の脚下に迫れるをも顧みず、将軍親征を闕下に伏奏せん為に大阪を發し京師に入る。此の時公は大阪に溜守居をなす。一日を隔て十七日に至り兵庫町役人より英佛蘭の軍艦九隻来泊せし旨を報ず、公は天保山沖の二軍艦に到りて、一應の尋問をなしたるも、彼我共に談判の全權委任を帯びざれば、来意を臺聞に達せし上にて確答すべしとて立ち分れぬ。然るに當時攘夷論に傾ける薩州を始め其の他非幕府諸藩は廷臣と結び朝意を動かして、飽くまで攘夷を主張し、一方幕府の長州處分の案件も急である、加之英米蘭佛四国公使は兵庫開港を厳談し、聴かれずんば兵を以て禁闕に到りて勅許を得んとす、将軍進退谷まりて職を辭し十月三日東帰せんと大阪を發す、伏見に至るや會桑一橋諸侯の諫止切なるによりて、遂に将軍も之を納れ、翌日伏見を發し二條城に入り病の故を以て朝する能はず、一橋侯更りて入闕した、将軍辭職東帰の決心は大に京紳を刺撃し、條約勅許の速に下りしも亦之に原由してゐる。此の日夕刻、公は一橋侯に陪し會桑両侯及び大阪町奉行井上主水正・目付向山栄五郎・松浦越中守と與に参内す、皇国の安危に関するを以て、是非とも正大至當の處置を以て開港の勅許を仰がざるべからずとて、世界の大勢を縷述するも、廷臣は尚ほ頑迷の議論を持して動かず、中にも公は必死となりて懸河の辯を揮ひて、反覆辯論詳悉せざるなく、遂には励聲一番斯くまで理解申請するも御許容なきに於ては、皇国のため御所を一歩も退かず、畏れ多くも一同此に割腹して天座を汚し奉るとまで強辯せられけるにぞ、然らば愈左京諸藩の士を召して衆議を聞いて裁断せんとの議に決した。時に鴉聲暁を報じ天色既に明なり。明くれば五日の早朝諸藩の名士召に應じて陸續出頭するもの薩州藩士(大久保一蔵、内田仲之助、井上大和)、久留米藩士(下村貞次郎、久徳與十郎)、鳥取藩士(安達精一郎)、桑名藩士(岡本作右衛門、三宅彌三右衛門、森彌一右衛門、立見鑑三郎、高野一郎右衛門)、福井藩士(小林資三郎)、高知藩士(荒尾騰作、喜多村彦三郎、津田斧太郎)、柳川藩士(宮川登三郎)、岡山藩士(伊藤佐兵衛、澤井卯兵衛、花房虎一郎)、熊本藩士(山田駿河)、會津藩士(野村佐兵衛、大野英馬、依田依登、外島機兵衛、上田傳次、廣澤富三郎、芝太一郎)、廣島藩士(熊谷兵衛)福岡藩士(本郷吉作)金澤藩士(里見寅三郎)津藩士(戸波明三郎、澤井宇左衛門)等三十余名を一座に會し、公卿も亦其の座に臨み、公は衆論を整理する議長として上座に構へ、兼て幕議を代表する政府委員の位置に立ち討議を開かれける。此の日幕府の奏上する所にして、議題と為したる案は次の通りである。
此程不料外国船兵庫港渡来、條約之儀改て勅許有之候様申立、若幕府に於て取計兼候はば、彼闕下へ罷出直に可申立旨申張、種々力を盡し應接仕来る七日迄為相控候へ共、何れにも御許容無之候ては退帆不仕、去迚無理に干戈を動し候へば必勝之利無覚束、假令一時は勝算有之候とも、西洋萬国を敵に引請候時は幕府の存亡は姑く差置、終には寶祚之御安危にも拘り、萬民塗炭之苦に陥り可申實以不容易儀にて、陛下萬民を御覆育被遊候御仁徳にも相戻り、假にも治国安民之任を荷候職務に於て如何様御沙汰御座候共、施行仕候儀何分にも難忍奉存候間、右之處篤と思召被為分、早々勅許被成下候様仕度、左候へば如何様にも盡力仕、外国船退帆仕候様取計可申奉存侯。
十月五日 小笠原 壹岐守
松平 越中守
松平肥後守
一橋中納言
飛鳥井中納言殿
野々宮中納言殿
此の議寒に對し諸藩士は各疑義を質し、其の意見を陳述せしかば、公は一々之を辯明説破し、薩備両藩の反對ありしも、會桑以下諸藩の賛成によりて議遂に決し、直ちに決議の趣を奏聞に及びしが、此の日夜に入りて左の勅諚を下された。
條約の儀御許容破為在候間至當之處置可致事
家茂へ
但し兵庫の開港は許されざりき。是に於て公は橋・會・桑の三侯及び井上主水正等と午後七時頃御所を退出した。されば鎖国攘夷の説は一頓挫を来し、公然開港の勅許を得て、我国をして外国と旗皷の間に見ゆるの禍を免れしめしは、抑も何人の賜であらうか、後世決して此の際當路有司の苦辛経営を忘れてはならぬ。兵庫港の差し止められたるは、薩藩の論是が根定を為したのである。同月七日松平伯耆守・松平周防守。小笠原壹岐守の名により書を送りて、兵庫港泊の外国軍艦の退去を求めしに、九日暁天までに残らず出帆した。
将軍辭去の件に就ては、橋・會・桑の三侯及び公を始め重なる幕吏は、日々二條城に登りて評議を凝らしけるが、八日に至り其の職に止まることに決した。
九日公は二條城御座の間に於て、加判の列を命ぜらる。公は前任及び再任の今日まで老中格たりしもので、當時は舊慣に泥み階級を重んず、故に正格新古大に威權を異にす、然るに公が常に正席古参の同僚に推されて、重要の地位に立つ所以のものは、其の材能衆心を服するに由ればである、こゝに愈々正格の閣老となり、十三日役米三萬俵を賜はる。
さて長州の處分に就いては、幕府糺明使を發して交渉至って緩漫なるは、幕府のために遺憾のことである。兎も角も漸く糺明使の漠然たる復命に接して、橋・會・桑三侯及び公・板倉両閣老は連日の會議にて、橋侯は改易を主張し、會桑二侯は半地削除を唱へ、二閣老は前説を過酷として、削地十萬石を至當とし、遂に将軍の沙汰によりて公等の主張の如くなりたれば、翌二年正月廿一日五人は幕府の決意を奏請せしに、朝廷は薩藩の意を容れて容易に聴許あるべくも見へない。
二十三日公は藝州へ出發準備のために下阪す、この日老臣西脇勝善藩兵を率ゐて上阪し、在府の老臣多賀高寧は既に来りて滞阪してゐる。翌日公二人を召して今回将軍家より藝州に發向を命ぜらる、汝等如何に思慮するぞと、二人答へて台命重しと雖も今回は辭退こそ然るべしと、公首肯されしが、日を経て二人を召し将軍家より重ねて恩命ありたり如何せば可なると、二人は感泣して斯くまで優遇を賜ふ、今は是非なし御請けあるべしと。十六日大阪に於て藝州差遣の命に接せり、其の他板倉閣老以下進發の命があった。二月二日将軍は書を以て公に長藩の處分を委ねらる。
一、防長所置之儀與全権候間萬事見込通十分に取計可申事。
一、事の緩急により必出馬可致事。
一、處置済之上は速に上洛候様必東下は不致事。
右之條々に可得其意者也
二月
四月公は紀藩の軍艦にて大阪を發し、七日廣島に着し、二十二日藝藩の重臣を其の旅館大手筋一丁目丸内買屋敷に召して、長州の支藩徳山・長府・清末及び国老吉川監物・毛利筑前・宍戸備前を廣島に呼び出すべき旨を命ず、然るに是等の人々容易に出頭せず。飜て藝・因・備三藩の近況は皆幕府の裁許を以て苛酷とし、頻りに長藩を保庇して只管其の執行を妨げんと勉め、加之薩藩も京都にありて長州征伐の阻碍をなす、此の問公の苦心思ふべし。かくて日を経るも長州支藩一人の出藝なきを以て、四月朔日断然日を期して長州公以下の出藝すべき旨を藝藩をして達せしめた。
同時に藝州・佐賀・松江・松山・柳川・津和野・彦根・高田・小倉・中津・福山・濱田の諸侯及び紀州の国老安藤直承に長州の不逞を報じ、命令一下せば何時にても長州打ち入りの用意を相整へ置くべき旨を通じた。
四月二十四日藝州藩より毛利本・末家の家老着藝の届を為す、五月朔日公は国泰寺にて長州の使臣を引見して、毛利の家臣不穏の擧あるは其の罪軽からざるも、祖先以来恪勤の功により特に寛大の御主意により奏聞を隔て、知行拾萬石を削り毛利大膳は蟄居隠居、同長門は永蟄居を命じ、興丸をして家督を襲がしめ貳拾六萬九千四百拾壹石を知行せしむる趣裁許を與へ、同月廿日までに請書を差出すべき旨示達す。
五月五日公は九千余騎を従へ行装を正して、二葉山に登り東照宮の廟に参拜し、大に兵威を示して藝藩の懦気を鼓舞せんとせり。
九日廣島滞在の宍戸備後介・小田村素太郎を召すも至らず、依りて持小筒組二小隊・歩兵一大隊及び唐津藩士六人を遣りて二人を補へ、藝藩に託して禁錮せしむ。十八日長藩より請書差出の期を廿九日まで延期せんことを乞ふ、公これを許容し、同時に、廿九日の期限に至り請書の提出なき時は、討伐軍の諸勢(二十一家)長州へ攻入すべきやう命令を發した、斯くて使を大阪に遣して、長州よりの延期請願ありしことを承認し、討手諸勢に示達せる趣旨を報告し、且つ紀伊総督の速に征途に就かん事、九州四国の総指揮を定めて發向せしめん事、廿九日後に討ち入りの奏聞あらん事等を要求せしに、廿四日紀伊総督及び閣老松平伯耆守は廣島へ、京極主膳正は四国へ發すべしと命ぜられ、公を以て九州表討手指揮と為す。始め九州方面には越前老候春嶽を擬せしも、公異議を唱へて自ら是に當らんとせり、越前候は征長前役に小倉にて失敗ありたればなり。よりて此の命に接するに至る。されど公が藝州を捨てゝ此に赴くは、藝州方面には幾多の状勢に通ずるも、知見乏しき九州口に向ふは幕府のため又公のため不利なりといふべきものである。
廿九甘長州は前の裁許に服従すること能はざる旨返答す、今は一刻も猶豫すべきにあらざれば、其の次第を大阪に急報し、六月朔日公は藝州藩主をして、追討の幕令を毛利一族に達せしむ、一方同月七日には一橋侯より征長の勅命を奏請す。公は藝州口の軍務を松平閣老に引き渡し、同月二日軍艦朔鶴丸に搭じて廣島を發し、三日豊前小倉に入り開善寺を旅館とし、幕僚と共に日々追討の方算を議し、第一着に長州の罪状十四ケ條を擧げて英佛公使に示す。
此の時熊本・久留米・柳川の諸藩は小倉に出兵し居ると雖も、其の兵数甚だ尠きを以て九州諸藩に出兵を促すも、會々梅霖連日諸川汎濫して行軍を妨ぐるのみならず、鹿兒島は最初より出兵の理なきを唱へし程なれば命に應ぜず、其の他福岡・佐賀も口實を設けて兵を出さず。然れども関門海狭は幅員数町に過ぎざれば、敵の不時に来襲するも料るべからず、故に小倉藩老島村志津摩は田ノ浦を澁田見舎人は門司浦を、小倉支藩(小笠原近江守)の兵は楠原を、安志藩兵は庄司を、唐津藩兵は白木崎を、熊本藩兵は大里を警戒せしが、十七日黎明濃霧を利し長州軍艦不意に、門司・田ノ浦・楠原・庄司を砲撃す、島村志津摩最も善く戦ひて敵艦一隻を撃沈し一隻に損害を與ふ、長兵これに屈せず岸に上り奮闘して門司・田ノ浦・楠原を焼きたれば、大里に退きて據守せしも利あらず、大砲廿門其の他を敵に奪はる。會々熊本兵千六百新に来り會し、又大里沖には幕府の軍艦二隻警備をなす、この日の戦甚だ困難なりしは、我軍の武器不良且つ舊式に属すると、兵気振はざるとに起因するものたるは疑ふべからず。七月三日長兵は引島より大里を砲撃し、又兵を門司に伏せ窃に大里の背面を襲ふ、翌日敵は大里を陥れ、守兵小倉に走る、熊本・小倉の兵敵を赤阪に邀撃し、富士・回天の二艦は砲を發して應援す、長兵遂に退く、次で回天艦は直ちに下ノ関砲臺を衝きしも利あらず。幕軍の不利小倉口のみならず.藝州口にては総督紀州侯と松平閣老との不和と、且つ軍気更に振はず、石州口また敗戦退却をなすのみ。加之七月廿日将軍大阪城に薨ず。廿六日夜長兵襲ひ来り交戦翌日に亘る、小倉兵最も苦戦し熊本兵之を援けて力戦すと雖も、後援續かざるを以て纔に壘を保つに過ぎず、又幕府の軍艦進退運轉一致せず、是の故に熊本の総帥長岡監物は屡々公に策を建ぜしも、議協はざるを以て兵を率ゐて去り、續いて久留米・柳川の兵も亦去る、折柄大阪なる幕閣より将軍薨去を内報し帰阪を促し来るを以て、一日も猶豫すべきにあらずと決心し、廿九日公は老臣西脇勝善・多賀高寧を召して、大阪表急御用に付き今夜乗艦出發せんとす、高寧汝は窃に江戸より扈従の家臣を率ゐて長崎に廻るべし、勝善は夜に人り唐津の兵士を率ゐて帰藩すべしと命じ、夕刻両人をして小倉藩田中孫兵衛に、壹岐守大阪急御用に付き一先當地を出立すること、及び小倉藩に對する謝辭を通ぜしむ。
斯くて公は夜半窃に富士艦に搭じ小倉を發し長崎に向つた、これ海上壅塞せるを以て南海を廻らんとして長崎に迂回せしなり。二日長崎に着し、六日同港を發し廿一日大阪に着す。時に小倉引き上げを以て公の失策となし之を責むるもの囂々たり、板倉閣老窃に公に告げて、暫く屏いて物議の定まるを待つに若かずと、公其の意を諒し藩邸に蟄居して命を待つ。
八月八日将軍の不例を公表し、萬一の時は一橋候に相續を仰せ付けられ度く、長防追討の儀も名代として出陣せしめ度き旨、上奏に及びたれば、勅許ありたり。然るに十日に至りて小倉落城(八月一日落城)の報達したれば、今は急に征服の望みも絶え。二十日将軍薨去及び一橋侯嗣立のことを發表す。九月朔日勅して征長の軍を止めしむ。
九月二十三日公帰府を命ぜられ、廿九日軍艦に搭じ十月五日江戸に着す。翌日閣老を免ぜらる、征長事件のために責を受くるに至った。されど十一月九日擧げられて三たび加判の列を命ぜられ、役米三萬俵を賜はる。某侯一日嗣君一橋家に謁して、小倉の事天下嗷々として壹岐を責む、其の聲未だ静まらざるに復た彼を起して閣老に擧ぐ、世間皆台慮の存する所を怪む請ふ得て開くべきかと、一橋家微笑して曰く、天下人あらば何を苦んで復た彼を用ゐんや、壹岐守は今の幕府に缺ぐべからざるの材なりと。公は一時退引の意ありしも、同月二十九日外国御用係竝に御勝手御入用掛を命ぜらる、御勝手御入用掛は格別の事情あるにあらざれば、概ね首席の閣老を以て之に充つるを例とし、其の職權も自ら重きを加ふ、故に當時首席たる板倉侯を推すべきなるに、侯は當時京阪にありで嗣君一橋家を輔翼す、故に外交の衝に當れる公をして兼攝せしめたのである、されば公は其の信任の厚きに感涙を催ふした。
十二月五日勅使二條城に参向して、嗣君に征夷大将軍の宣旨を降され、右近衛大将に任ぜられ正二位右大臣に叙せらる。
同三年正月七日公は上京を命ぜらる、兵庫開港勅許の件にて将軍家より召し出だされたのである、十三日重ねて召命ありしも、しかし十六日に至り上京を中止すべき旨達せられた、然るに二十五日俄に西上するに至った。此の時英・佛・米・蘭諸公使も亦攝海に航行す、既にして将軍は京師より下阪して諸公使を引見せしが、公専ら應接の任に當った。三月五日将軍慶喜上奏して兵庫開港の勅許を許ふ、幾多論難の末終に五月廿四日開港勅許の命に接す。公は前将軍家茂の時開港の止むなきを唱へしも、国事多端の際なりしため果さざりしが、今や再び外交の衝に當り新将軍を輔けて、積年の難問題たる兵庫開港事件の解決をなすに至った。間もなく公は外国事務総裁の任を京師に於て命ぜられ九月二十九日大阪を發し兵庫を巡視し、同所より奇捷丸に駕し六月三日江戸に帰る。比の時老中御用番を廃して、御国内事務総裁(稲葉美濃守)、會計総裁(松平周防守)、外国事務総裁(小笠原壹岐守)、陸軍総裁(松平縫殿頭)、海軍総裁(稲葉兵部大輔)を新設す。六月五目公は幕府を代表して、外国貿易奨励の旨を普く国内に布達せしに、二十一日英国公使ハリエスパルケスは、公に書を寄せて謝意を表した。