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東松浦郡史  ⑳

2018.03.28 07:21

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より

一〇 藩政時代の教育及び代藝術

   其一 藩政時代の教育

 武家政治創設以来學問文藝に頽たれて、戦国時代に入りて極度に達したるが、徳川家康政柄を握るに至りで文教の切要なるを悟りて、儒者藤原惺窩・林羅山に學を講ぜしめしより。學間教育の道次第に振起して、五代将軍綱吉の如きは自身書を群臣に講じたることさへありて、學者欝然として輩出するに至った。

 我が唐津藩にては、将軍綱吉の元禄四年土井氏藩治に就きしが、第三代利延四代利里の頃(約百七八十年前即ち寛保・延享頃にて第八、九代将軍頃)、吉武法命なる人ありて官を辭し閭塾を開きて青年教育の道に献身的努力をなし、孝悌仁義の教化に意を傾け、封内所々に閭塾を設けて、村正其他徳行篤き人を塾頭となし、以て其の目的の貫徹普及に盡力せしが、即ち相知村に信齋(又希賢堂と云ふ)あり、塾頭に向杢彌・向平蔵・向林八等を置き。徳須惠村に買珠亭ありて、前田庄吉之を預り。佐志村に時習亭あり、海士町に新に齋あり(後に双水村に移る。)平原村に彊亭あり富田氏之を司り。吉井村に思順亭あり。何れも怯命に属する閭塾であって、大小村正の子弟及び篤學諸子の教化を行ひしが、成積日に擧り一般民衆に其の影響及びて孝悌節義の人々少からず、依って其の門生なる前田正命をして「津府孝子傳」の編集を為すに至らしめた。其の後土井氏去りて水野氏・小笠原氏藩治に臨むに至りて、脈々として教育事業の見るべきものありしは、因を吉武氏に發するものと云はねばならぬ。

文政元年(約一〇〇年前)厳木村方面及び大川野(西松浦郡)地方四十五ケ村高一萬七千石(?)は、幕領に帰して豊後日田郡代の支配となりしも、同地方教育のことは更に何等の変化なく發達して、唐津藩時代と異なることもなかった。

 土井侯頃の儒者には、原三右衛門・宇井治太夫・稲葉十左衛門・奥清兵衛・吉武義質等名ありしが、中にも吉武氏は前述の如く一己の學究を以て終ることを屑とせず、普く藩民の教育に身を投じたるは、一大卓見にして其の着眼の程敬崇と感謝に堪えざるものである。

 吉武義質は法命と称す、寛保・延享の頃土井侯に仕へて郡宰たりしが、身を挺して教育事業に従事せんとて、職を辭して布衣の一儒者となり、藩内所々に閭塾を設けて門人高足の舎長に教示を司らしめ、法命は屡々諸塾に囘感して、向學の青年子弟を集めて聖賢の道を講ず。抑々法命の學燈は朱子學派に属し、聖賢の千言萬語は天人一體の心法なり、人として此の道により正道履まざれば天に背く、此の天理に適はざれば天の禍ひあるべからざるを知る。嘗て三宅尚齋に此の道を問ひ、天人一體の道理を窮め、學問の要こゝにあるを悟る。彼の所説を知るには左の諸説によりて分明す。

同志會談の辨

 同志此に集って月會を為すは學問のためなり、其の學問と云ふは、天理の本然人道の當然を明め得るをいふ。為學の方は小學近思録に備って今更云ふは愚なれども、天理の本然人道の全体は大虚の中に伏して見分に及ばず、此の理天命の性情具って須臾も離るべからざるの道なれども、気質の偏人意の私事なる物欲に蔽はれて、道と心と離れて天理に戻り禽獣の域に陥るものなるぞ、同志茲に理を窮め知行せん為の學問なれば、各々固有なる五常の性を失ふべからざるなり。聖代を離れ後世唱ふところの學問といふを考ふれば、徒らに経書の字訓を務めて私に想像し臆度の私知を用て理窟に渉り、甚しきはむづかしき字訓を解き得て以て人に誇り、妄りに學問の美名を慕ふばかりにて、程朱一生心を盡せし注解の意味は朦として知る事なく行ふ事なし。夫子の玉ふ、古昔の學者は己が為にす、今の學者は人の為にすと、此己が為にする處の學者より見ては、一生の閑勾當天地間の徒法なり。我黨の同志これを知りながら、不識不知舊習染俗の蔽ありて此の趣を脱洒するに意なし、夫れ本領の五性は日用事物の上に行はるゝを以て、道は天地に達す、然るに仁を説ながら應事接物の上には私欲を以て従事し、義を説ながら當然必為の志はなく、只一坐の便宜に殉ひ、禮を説ながら揖譲謙遜の心なく、智を説ながら自己の好悪に惑ひて是非を明辯する事なし、是世上の俗學に五十歩百歩なる者なり、願くは浮躁浅露昏棄無亨の舊習を改て眞心に天理を追ふべきなり。

聖學明辯

 一、學間を為る人大方経書の筋を分たず、只聖賢の道理上より、一つ事を種々に言ひ述べたりと思ふ者多し、夫故に四書・近思録・小學五経其外の書物を皆こね雑ぜにす、故に聖賢の意に通ぜず、先づ是を能く明察すべし。

 一、堯舜の時司徒典楽の官を以て萬民を教ふ、三代に至って教法精密になりて、大小學を設けて教を施し、周の末になりて教法廃れて學校も起らず、萬民生れたるまゝに物欲縦に生立つ、故に皆夷狄禽獣の域に陥り、父を無にし君を無にするに至る。孔子是を患て天人の道を教解し給ふ、門人聞*(古又)を得て論語を著し、後世に道を傳ふ、夫れ故論語には大小縦横悉く道理を説て 次序なし。孔子の説き給ふ所、或は*(酉去皿)を乞ひ車を請ふ、薑を食ひ酒を飲む、其事は微なれども其の義は精微に薀を極む。夫れ故程朱も読事愈久して意味の深長なる事を覚ゆと云へり。

一、孟子は、孔子の七十二子を相手にして説玉ふとは違て問者も甚疏なり、夫故答も肝要の理を的實に説て精微の事は鮮く、一つ一つに事證を指て人に示さる、千変萬化只心上より来る事を示せるは、論語と似たる様なれども事證を捕へてしかじかと説かるゝ故に、論語の如く渾然の気象薄きが如し、又義を添て人心のはづみより興起さする説き方なり。

一、右の如く論孟にて天人の道は知れたれども、今日學者身上に受用するに條目は見へず、是がなければ學者の法則立ず、夫故朱子傳記を集めて小學を集成せらる、論孟とは編集の別なる次第なり。

 一、右の如くにても學問の測源は知らず、失故程子禮記の内より中庸を表章して、堯舜以来道銃の學を示す、乃ち天理の本體學問の骨髄此書に在り、是亦前の書とは甚別なり。

 一、小學にて學者の法則を立て、中庸にて學者の測源は知りても、學問の全體と云ふ物は是では見へず、そこで程子・朱子大學を表章す、つまんで云へば三綱領、分けて云へば八條目學間の次第は此書を以て知るべし、是亦前の書の趣とは別なる者なり。

 一、四書小學にて學問の意は残るところなし、然れども古の事故其時に應じたる語意なる故に、近世の人に示すやうに綿密になし、夫故四書先哲の語を集めて、朱子と呂氏と近思録を述べ、此を集成して中庸の精微・大學の次序・小學の法則・論語の精義妙道悉く此書に備れり、故に四書小學の階梯と云ふは此書なり。

 一、右の書の筋々を逐一能く合點すべし、一つ缺くれば一つ丈けの穴が明くなり、是が前に云ふ、一つ道理をあれでも云ひ此でも思ふと厚く重て云ふは、恐くは古の學かと思ふは大なる誤なり。

 一、五経は又別なり、詩経でなければ人情と云ふものを盡さず、書経でなければ二帝三王の気象を見窺ふものなし、易でなければ陰陽鬼神の造化する妙を知る事なし、春秋でなければ聖人の国家を治る體用を知事なし、禮記は純粋の経書では無けれども、禮法儀式の名目を知るに足るべし、言長ければ委くは述べず。

諸塾學談

 一、學びの道旅發の者に似たり、京師を望み長途せんとする者既に鞋を著く、即其途程を示すべし、鞋を著ざる者には途程を示すとも忘説となるのみ、今吾子等四五輩稍學に志を見る、是亦京路に向て鞋を著けける者と似たり、途程を示さずんば若し悪くば邪路に陥らん、故に愚説左の如し。是先師の教詣眞儒の定論にして、愚言の耄にあらず必疑ふことなかれ。

 一、學の道本源天に出て、更に人為に非ず、此理四書五経の中朱註に備はれり、各亦知るところなり、但聖賢の説如此なりと云ひて直に了悟せざれば、了悟の惑胸中に描事在って不知不議の闇浪生ず、天人實に一貫也、聊私意存すれば道と吾と霄壌所を易ゆ、天人一貫と云ふ所を物に當り事に因りて實に了悟すべし、空談に置くべからず。

一、天人一貫なれども一點の私意存すれば天と人と懸隔す、夫故學問して天人一貫の所に至るなり、學問の道先づ小學を以て先とす。

一、小學の教は人の上に五倫有り、外の道なく是に接るの道に親義序別信の條々有る事を善く了悟して、身を以て是を行ひ、其行ひの法心術威儀を敬むに習ひ、其習ひ知と長し化心と成る事を要すべし、其書は以上の事を明に知る為なれば、自家の身上に體認する事親切にすべし。

一、大學に進では小學に學び習ふところの事皆自然の天理に出て、人為にてなき所の理を明むべし、理を明むるの要は事々物々に就ても物理を究むべし、事々物々の上に就て其理を致めねば空理虚會になりて、今云ふ口チ先學間と云ふものになるなり、何程高上に精密の理を説ても、皆心に理を會待せざれば隣家の寶を計ゆると言へるが如し、自家身上に干渉せず、是を小人儒俗學虚學迂儒説夢の學などゝ書にも有るぞ、大學の書を讀んで八目三綱の意と文義篤と理會し、程朱の説に仍で眞粋の所を篤と合點すべし、妄に辯舌口説を貴ぶべからず。

一、論語孟子を讀んで吾心に理會し得たる理と、舌聖賢の心と背くか齋しきかな参考すべし.

聖賢の上と専心の理と違ふ所にては、更に熱思玩索して吾が通ぜざる所を暁達すべし、此所に至て自ら私知を用る牽強附會の意を起せば、一生聖賢の心地を知らず、更に程朱の説を尊んでも異見を主張すれば、自ら天心に違ひ己が本心を失ふなり。

一、古聖賢の心地を理會せば、自家に體認して道の本を立つべし、道の本元は天に出で、其實體は吾心に具れども、気稟の偏人欲の惑己私の蔽より心體瞑然と暗く、目の見る所明かならず、耳め聴く所聴き得ず、思ふ所中らず、為る所正しからず、是其元は心體本然の暗みより生るなり。此に至って中庸の心法、程朱の主一、孟子の養気、宋儒の敬學、王覇の辨、誠偽の分、異端の似是之非、朱學王學の辨などとて、至極*(糸眞)密の論有る事にて、こゝは初學の探り知れぬ所なり。つまり學間の極致は心法なり。堯舜の道銃は心法の事なり、大學もつまりは正心の章に在り、孟子千変萬化心上より説き来ると云ふも、朱子四十二歳にて中庸の要令を得たと云ふも、孟子の後知る者すくなし。千五百年の後宋に至て又明なりと云ふも、皆心法の上より云ふ事なり、夫れは程朱を初め其後明儒我朝山崎先生の著すところの書を以て夷考すべし。然るに世俗道學と云ふ各目計を問て、孟子の後絶學と云は流義の事かと思ふは可笑。譬ば観世流の謡が當時筑前国に絶て今は皆今春の下懸り計りになりて上懸の謡が絶たと云ふやうに、孟子山崎の流義を継ぐを道統と思ふ者あり.殊に不知の甚しきなり。聖學不傳と云は書籍斗りを知て吾心の道體を知らぬ事を云ふなり。是の一事は吾子輩の至り及ばざる所なれども、學問の模様を知て迂儒俗學に惑はぬ為に是を記すなり、こゝが京師に往く者に途程を示すと云ふものなり、未だ鞋を著けざる人に妄に告ぐべからず。

一、右に記す如くなれば、今初志の徒先づ慎獨を大切に工夫すべし、慎獨して本智を得ば眞實に聖賢道統の心怯誠道の所に至るべし、念頭に外の為人の為利の為名の為に趣く意志あらば、聖賢と口先き斗り合せて利欲で走るものなり、歩随はんとして道は南北すべし、或は文字言句を逐ひ辯舌口給を以て書を談じ、私意妄想を以て書籍を説くは、是正學の邪魔儘道の蓁蕪なり、口平心易気大公無我にして程朱の説を信用して自家親切に了悟し、黙識無言を以て聖學の眞道に入るべきものなり。

                        義 質

   習化堂其外諸賢熟 思之

 右は御領内諸所の開塾たる信齋・買珠亭・新々齋・時習亭・習化堂・強亭・思順亭に集るところの諸生へ、教示されたる學問の大意である。

法令の墓碑左の如し。

家君義質翁、諱法命、姓吉武氏、其先居于近江吉武村、因以氏之、考涼山君諱宗信、始禄於土井侯、妃干賀氏、家君以天和三年癸亥九月十有一日、生武蔵江戸柳原、四歳而涼山君見背家君、以其次子、恭拜侯命、分其世禄、新為別家、歴任税官監司管船官、既而告病免官、享保十有七年壬子十一月復告病、請以致仕令、不侫敬親、嗣其世禄、寶暦九年己卯十二月三日、病卒子肥前上松浦郡唐津城中、年七十有七、男子四人、越其月五日、葬城南神田村宮町丘云、

 今は土井氏時代より小笠原氏に至る大約百二十年閭に亘る、各村に設けられし閭塾の状態を便覧するために、略表を掲げて参照に供せん。

 塾名   所在地     時代   塾師    舎長

 信齋  相知村 寛保、延享頃約一八〇年前土井氏時代  吉岡義質 執事進藤源右衛門 舎長向平蔵

 買珠亭  徳居(スエ)村  同     同    前田庄吉

 新々齋  自海人町、移双水村  同   同   大谷治吉

 時習亭  佐志村     同  同  大谷治吉

 習化堂  玉島村     同  同  松崎九兵衛

 強亭   平原村     同  同  富田理太夫

 思順亭  糸島郡吉井村  同  同  楢﨑九兵衛

 希賢堂  相知村 寶暦、明和頃約一五〇年前土井、水野氏時代 向平蔵 舎長落合豊吉 學頭櫻井九一郎

 希賢堂  梶山村 寶暦=安永頃約一四〇年前土井、水野氏時代 峯忠人 舎長渡邊良兵衛。進藤源介 學頭 前田敬蔵。峯忠四郎

新々齋 自双水村、移佐志村  同  大谷治吉

希賢堂 相知村  安永、天明頃水野氏時代 向林八

希賢堂(又集義亭) 山崎村 寛政、享和頃約一二〇年前水野氏時代 進藤源介

輔仁堂(又滄浪亭) 吉井村(當時幕領) 寛政=文化水野氏時代 片峯敬吾

由義齋 自横竹村(打上ノ内)移長倉村(有浦ノ内)移原村(久里ノ内) 同 富田楽山

薀徳軒(又柏薗) 柏崎村  同  稲葉伊蒿

明倫舎 打上村 文化頃約一○○年前水野氏時代 後藤飛弾

明倫塾 白山崎村、移相知村 移浦河内村(厳木ノ内) 同 進藤源介

希賢堂 町田村  同  桜井覚兵衛

強怒亭 西松浦郡大川野村 同  富田九十郎

神集精舎 神集島村 同  菊池俊蔵

希賢堂(又培根塾) 西松浦笠椎村  同  向平十郎

葦葭堂(又聖功舎) 古川村(幕領) 文政頃約一〇〇前内外小笠原氏時代 山口與次造

新隍精舎 新隍村 小笠原氏時代 富田七介

観蘭堂 石志村  同      櫻井綱治

時授堂 唐津十人町 同     大艸銃兵衛

愛日亭 見借村 同       宗田運平    小田周助

濯纓(タクエイ)堂 西松浦郡水留村 同   山口禎次郎

帰厚舎  鏡村    同    松本退蔵

明倫塾  浦河内村(幕領) 同 秀島寛三郎

會輔塾  厳木村(幕領) 同  同

五惇堂  中島村(幕領) 同  同

 以上は村閭にありて一流階級子弟に漢籍により中等教育を施せるものにて、他に寺小屋教育なる初等教育も至るところに行はれ、城下にありて藩士の教育を為すには藩黌ありて、小笠原氏の志道館はそれである。

 志道館は、主として家臣の中階級以上の子弟のために、経書によりて専ら道學の教育を行ひたるものなるが、今其の起原を詳にせざれども、小笠原氏の頃大野右仲・村瀬轟・山田忠蔵等の儒臣之が學監として講學教育に従事し、授業は概ね午前十時頃を以て終る。後に館内に九思寮を設けて特に研學篤志の輩の便宜を図りたるが、館の将業後こゝに集まりて研鑚に耽るもの多く、寮長芳賀庸助之が指導監督の任に當る。維新の當時館の数科目を分ちて漢學部英語部となせしが、現大蔵大臣高橋是清は東太郎の別名により、英語部教授の任に當りしことあり。この外醫學館・橘葉館ありて醫薬の學を授けた。

 また藩臣の子弟にして志道館に學ばざるものは概ね、大手小路在住の儒臣臨黨野邊英輔の家塾に學びたるものにて、大艸の時習学 (主として家臣以外の子弟教育を司る)と相競ふの様なりしが、野邊門下の俊髦にて名をなしたるものに辰野金吾天野為之掛下重次郎等である。

 又詩文の學を修めんとするものは、出でゝ多久の儒臣草場佩川豊前の村上佛山などの門に遊ぶものも存した。

 今この時代に於ける特に學問教育上の著名なる人士数氏の略傳を記録して、大方の参照に供するであらう。

 大艸庄兵衛政義は幼名を坂口萬蔵と称し、父を坂口九兵衛といひ、唐津領久里村に生る。土井侯の儒臣吉武法命の學統稲葉伊蒿に就て聖學を修め、小學四書五経の大道を知らんとして、年十三の時筑前の儒醫道榮を慕ひ行きて書鑑を乞ひ、十四歳にして崎陽に遊び、十五歳の春方金一角を懐にして東都に行く、時に一書を残す其の書に曰く。

 …此度東行致候儀は不孝の至に御座候得共、左の條々學問・軍學・弓術・馬術・剣術・鎗術之至妙、書・文章・禮法、其外天下の善事、唐津に居候ては十分之稽古難致候、尤學問武藝、日本を廻り稽古仕妙に至り度奉存候、此儀妙に不至は残念之至に奉存候、此儀三年以前より志候得共東行致兼居申侯、此段必十五年程御他言被下間敷候、此書御尊父様へ御披露可被下候以上。

                           坂口萬蔵

      坂口清太郎様

 既にして江都に至り、神陰流の剣法の師木村傳次郎に随ひ、三年の間に剣法の印可を得、剱鎗・馬術・和歌に達し、聖學は紫野栗山に随ひ、書法は細井廣澤の門人惇信に學び、頗る妙所を得たり。中年に至りて森重靱負に就きて砲火術を修練す、文化四年九月蝦夷地に於て露人の暴行警衛に功あり、五年帰府せしに、老中青山下野守は彼に賛辭を與ふ。文化七年三月江戸を發足して、砲術修行として天下五十八ヶ国を歴巡せしが、其間會津・熊本の両侯其の技を傳習すること六ヶ年に及んだ。甲斐国に至りしに、佐々木道太郎は甲州の代官たりしが、大艸氏の尋常人にあらざるを知り、遂に師弟の約を結ぶ、道太郎は師を尊重すること頗る厚ければ、天下の門人一千一百余人中、たゞ道太郎にのみ皆傳をなす。道太郎常に語って曰く、求玄先生(政義の號)時至らずして處士たるを憂へて其の任官を勸むと雖も之を肯かず、修身天命に安んじて著書に耽り、殊に西洋夷賊の我国を侵さん事を早くより知りて海防録を著し、先見の明なること鏡の如く、其の砲術器械の技能知見に至りては先哲の未だ發せざるところを發し、其の極致に至りては仁の一字に帰することを示す、戦要砲火術書有余巻を著す。天保七年十二月江戸にて歿す。

 宗田運平は義晏と称す、其の父近義名古屋村郷正在任の頃、運平年十一歳にして横竹村(打上材の内)閭塾由義齎なる富田楽山に學ぶこと三年、後見借村に移り、十四歳の頃より柏崎村薀徳舎の稲葉伊蒿の門に入り、十七歳にして見借村々正に任ぜられ、二十五歳の頃藩君水野氏の儒臣司馬廣人に就きて、大和流の弓術を學び三年にして免許せられしが、其の傍ら易経を講じ、二十八歳の時父の命に由て、同藩の原田團兵衛活*(王幾)の門に入りて関流の算術を學び、研鑚五年に及んだが、偶々薄君遠州濱松に轉封す時に文化十四年なり。此の後師活*(王幾)の命によりて、筑前恰士郡武村の代官原田多仲太春種(治*(王幾)の師)に入門して算術天文暦術を學び、授時暦・貞享暦・寶暦々西洋暦を究む。文政十二年小笠原氏の藩廳に召されて、天文暦数研鑚の労を賞せられて、特に思召により苗字帯刀を許され、甚だ奨励せらるところがあった。天保五年には藩侯長會同十一年には同長和領内巡察の際に、何れも佐志村役宅にて運平の篤學を賞讃せらる。

 かやうに學問進みたれば、同志謀りて経書の會讀會を創め、毎會父子共に出席して、朱子の小學編集の意より四書近思録五経に至る迄の義を講ず。五十余歳の頃篤志者の請を容れて、家塾愛日亭を興して門生の教育に従事せしが、次子病に歿するや欝悶の心を轉ぜんとして、諸国遊歴の志を超して、天保十三年佐賀・柳川・肥後・島原に遊びて、佐賀にて馬場栄作なるものより寛政暦法秘書数巻を得て推歩の理を研鑚す。十四年小笠原氏は其の篤學を賞して、大庄屋席を命ず。

 弘化元年二月数學研究のため、京阪に遊び、江戸に至りては長谷川善左衛門の門に入りて、見、隠、伏三傳を授けられ、帰国の後別傳免許一巻を送致し来る。其の後算法通解を著述し、また初心者のために算法芥問答を著す。

 文政の頃より、藩士村民の入門するもの多く、其の中見・隠・伏の三免許を得たるものは、藩士小田周助・杉山伴作・の二人であって、見・隠の二免許ありしは秋山興太・古川壽助宗田氏の男外九郎にして、見題の免許は中江幾蔵のみなりき。運平七十歳の後、藩士指南學頭小田周助に、暦数教授の任を譲りて、己は一途に経學を志し、同志の輩と共に毎月二の日に會講怠ることなかった。

 嘉永元年藩廳は、運平が気節考を書きて奉りしを賞して、御紋付麻上下を賜はる、同三年には其の篤學を賞して米五俵を賜與せられた。安政元年には藩君巡察に際して、佐志村役宅にて金五十疋を賞與せられ、三年二月には、彼の暦数篤學を賞して、爾今以後毎歳米三俵下賜の恩命に接した。

 同五年七月廿五日、図書頭長行は豫告もなく運平宅を訪ふて、其の蔵書を硯察し、家庭の有様を問ひ、運平の顔貌を見ては其の長壽の相あるを以て励ます。帰城の際、図書頭の意により七十七歳以上八十二歳迄の高齢者を田圃の間に接見し、また馬上より運平の篤學讃称の辭などありしが、同月廿九日運平を藩廳に召されて 唐津焼筆架一個・同筆立一個新訂坤輿略全図一業を賜ふ。まだ八十歳以上の同村二人の高齢者には綿二斤宛、七十七歳より七十九歳のものには御酒代一封を賜ふた。六年四月四日、図書頭また不意に運平を訪ふ、運平病に臥せしが、特に接見して病状を問ひ近況を尋ね、また彼の篤學を称しては手づから、新撰年表・南京焼盃など下賜せられ、帰城せんとするや、其の子息外九郎を木戸先きて接見して、役柄丹精を称揚し老父に孝養怠りなきを励ます。文久三年正月外九郎上阪の析柄、図書頭偶々大阪滞留中であったが、外九郎を引見して、其の親父の安否を問ひ、また外九郎が親父を助けて村政に恪励なるを称し、御懐中羅紗紙入一個・御薬御懐紙・早付木・手帳等を外九郎に渡し、親父に傳達すべき旨を以てす。同六月老年の故を以て職を辭せしが、曩に毎年米三俵宛を下賜せちれしが、今後引き續き其の終身同じく賜給の旨達せられた。

 同六月廿七日嫡男外九郎父の職を嗣ぎ、其の身は退隠して澗山と號す、時に年七十七歳にして、在職六十一年なり。其後一に文墨に親む。

 大艸政徳曰く、余澗山翁と交ること三十有余年、翁の性淡くして水の如し、三十年前小學の精巧に由て四書近思録を講會す。其の後余東都に遊ぶこと四年にして帰国し。砲術指南の余暇に左傳の會讀を約し、安政四年七月開巻、文久元年二月之を終りしが、會講五年の間集會の人々には、富田叔蔵・中里禹之助・堤伊賀・浮須孝太郎・草場見節等ありしが、澗山翁に至りては一席の缺座さへなかりき。

 又曰く、吉武法命以来諸先輩々出し、歴年の間古川・山口・葛山の諸氏及び余の友加茂信蔵・黒岩断治・藩士金子五郎兵衛に至りて、崎門(山崎闇齋)の學を尊信して千里を遠しとせずして、三都に至り崎門の大儒によりて其著は云ふ迄もなく、佐藤直方・三宅尚齋・浅見安正の筆記文集等を書寫し、一百有余年にして漸く全備せり。殊に澗山翁は天文算學に通じ、書寫の筆記學談書七十部巻帙百五十巻、算學の書百部、天文暦書五十五部、地方の書八十六部巻帙百五十八冊皆澗山翁の家に秘蔵せり。それ翁の人となり性酒を好まず魚肉を多く食せず、儼威厳格にして謙譲節倹廉直にして、其の義にあらず、其の道にあらざれば一介も取らず、嗜慾を寡くし、滋味を薄くし、疾言遽色なく、惰容なく、嬉笑の言をきかず、世利紛華聲伎游宴の事を好まず、不善と交らず、小悪と雖も之を悪み、小善と雖も之を為す、其の他類推して知るべし。其の子九郎其孫に祐蔵あり。

 落合與吉諱は安重字は子曠通称を與吉といふ、郡内濱崎町船大工與平の子なり。壮時誤って腰部を傷けしより歩行に苦しむに至りしが、三十歳の頃より家業を廃して、相知村の希賢堂にて復齋向平蔵の教を受け、遊學数年にして舎長となる。復齋歿後其の遺言により上京して、山田静齋につきて學を修む、静齋の門には公家の人々にて従學するもの少からず、安重は遂に其の舎長を命ぜらるるに至った。後伊勢長島侯増山河内守の招聘によりて、勢州に赴く。河内守に従ひて江戸に入りし後、辭して江都の儒者栗山に學び、数年の後国に帰る。

 安重は實践躬行の人にして知りて行はざるを恥ぢ、吉武怯命の説く如く天人一理の心法を尊び、功利虚學を斥け實學を主とし、第一孝道を行ひ得たる人にして、人にも實践したるところを教ふれば、其の教示よく徹底し、童幼兒女に至るまで其の所説を體得することが出来た。初め長島侯より山田静齋に儒者を常めしに、静齋は直ちに安重を推薦せしに、身を立て道を行ふは孝道の終りなれば、直ちに之を諾して任に赴く、同門の士其の行を盛にし、殊に西塔院少納言卿は同門に學びしが、安重のため旅装其他の便益を計った。

 さて長島にては、嗣君及び家臣に對する教授誠意を致すも、嗣君元来遊楽に耽り、古道心法に親まざれば、安重惟へらく、身を以て仕ふるは一身の利にあらず、今は無用の禄を食むに等し、これ天理に背くものなり、如かず仕を致さんものをと、屡々留任を勸められけれども、遂に所願を達するに至った。この時侯河内守より太刀一口を賜ふ。安重帰国後も、終身其の太刀を身邊より離さず、山崎村確齋の希賢堂に出入すること数々なりしが、其の太刀の来歴を語りて、長島侯河内守の恩誼を銘せり。

 安重は常に、學談講書にも、其の理を始終日用の事に説き及ぼし、日用居常の事を書典に照し、學と行と分離しては聖學の意にあらず、講書の折り切要の點に達すれば巷を覆ひて、實際問題を詳述す、其の眞知實行を以て聖學とし、殊に孝道に意を傾く。

 安重曾て曰く吾壮年の頃桑弱なりしが、先生復齋に學びしより甚だ強健たるに至る、實に気質の変化と云ふべし。其の京洛山田静齋の門にあるや、静齋頗る彼を重んじて舎長となす、其辭に曰く。

  賢之學、予嘉其篤志勤苦、以作學監攝學頭、自今以往、躬益勉強、又兼正諸士、以能成大業焉、右與落合君。

    丙申孟夏      清省拜(静齋の別称)