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東松浦郡史 ㉒

2018.03.28 07:27

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より

三 佐賀の乱と唐津

 明治維新後、朝鮮の無禮なる振舞を怒りて征韓論起りしが、議合はずして桂冠せし参議江藤新平は、民選議院設立を建議して亦意の如くならず、不平欝勃たりしが、時に佐賀に新政治を喜ばざる憂国黨ありしが、二者合して一は征韓の意志を達せんとし一は封建政治復興を名として、乱を作さんとし、新平を推すに至ったが、佐賀藩士にして前秋田縣令たりし島義勇また之に應じ、共に叛徒の首領となり、従黨二千五百余人を集め、七年二月一日兵を佐賀に挙げ、先づ小野商會を襲ひて金銀貨幣を奪ひ軍用資金に充つ。其の報東京政府に達するや、四日熊本鎮臺に令して之を討たしめ、九日参議兼内務卿大久保利通に命じ、往きて之を鎮撫せしむ。又陸軍少将野津鎮雄を熊本に、同鳥尾小彌太を大阪鎮臺に、同山田顕義を西海道に、外務少輔山口尚芳を長崎に派遣して大に之に備へをなす。十五日叛徒縣廳を襲ふや權令岩村高俊鎮臺兵を指揮して防戦せしも糧食盡きて筑後に奔った。

 一方唐津にありては、唐津町区長に佐賀人にて安住百太郎といへるものありしが、佐賀の叛徒は百太郎を通じて應授隊を出さんことを請ひければ、即ち舊藩士を志道舘跡に會して援隊派遣のことを議したるに、激越せる士人は舊隣藩の関係情誼と、一は国事を憂ふる赤心より評議一決して、立ちどころに三百五十余人の出兵を決定した。

 二月十七日(陰暦正月元旦)志道館跡に勢揃を為せしに、先に出兵に同意せし輩も自己と国歩の利害打算の結果二百余人に減員し、同日未明愈々出發せし志士は僅かに百二十余人に過ぎなかった。是より先き百太郎は佐賀勢に投じたれば、小川司馬太郎・井上孝継は一隊を統べ、時の副区長たりし海老原里美は兵站を掌り、其の他佐久間退三・山田道正・形野安命・西脇勝心等の幕僚之に参し。満島を経て同夜は今の七山村に泊し、翌日佐賀勢の本営たる佐賀郡川上村實相院に着し、作戦方略の謀議を遂げ、機を見て官軍に肉薄せんとし、止ること三日間であった。二十一日神崎に向ひ同夜は其處に幕営を張り、翌日六田口の熊本鎮臺に突撃を試みんとせしに、佐賀勢既に鎮臺兵を撃退し居たれば、空しく神崎に退営した。廿三日は東中原なる筑前口の官軍に當り、午前八時頃より砲撃銃聲轟々殷々天地を震撼する計りなる有様なりしも、各々地物の要害を扼することなれば、一進一退勝敗終に決せずして、午後五時頃互に兵を退けた。この日の戦は小城兵と行を一にし、唐津勢の負傷僅かに二名であった。同夜はまた神崎に宿営をなす。翌日は唐津兵のみは休養を行ふ。二十五日田手川の戦は両軍の大會戦にして、佐賀・小城・唐津の軍勢死力を盡して防戦甚だ力むと雖も我軍支ふること能はず、唐津勢は敗走して牛津に退却し、翌二十六日唐津に還り、龍源寺に入りて一同謹慎して以て命を待った。

 朝廷は更に嘉彰親王を征討総督とし、陸軍中将山縣有朋・海軍少将伊藤祐麿をして、佐賀を討たしめんとせしも、征討軍到らざるに利通博多に於て部署を定め、連勝して三月一日佐賀に入り城終に陥り、義勇は鹿兒島に捕へられ、新卒は土佐にて縛に就いた。乃ち総督宮は命を奉じて博多に於て之を處決し、利通之に参し河野敬謙之が截断をなし。四月十三日新平・義勇を佐賀に梟し、其の徒十一人を斬り、其の他懲役百三十六人、除族二百四十人、禁錮七人、連累者にして罪を免んぜられしもの一萬七百十三人あり。

 唐津人士の處刑せられしものは、小川・井上・山田の三人は懲役三年に、海老原里美は懲役二年に、佐久間・形野・西脇等は除族に處せられしも、もとこれ国家を思ふの念より出でし誤解に基きしものなれば、数年ならずして各復族を許され、聖徳の厚さに浴するに至った。

  四 奥村五百子

 愛国婦人會の創設に奔走し、東洋最大の婦人団體を組織した、正七位奥村五百子は、弘化二年五月三日唐津中町高徳寺に生る。女史の父は左大臣二條治孝の三男寛齋の末子で、文政八年に十歳に得度して、高徳寺の法燈を継ぎて了寛と改む。母は小笠原藩士山田圓太夫の長女浅子である。彼女の兄圓心は、嘉永四年に九歳にて得度し、佛學を修むる傍、廣瀬青村・革場船山につきて漢籍を學ぶ、父の極端なる尊王論の感化を受けて、文久三年齢二十一歳の頃より国事に奔走するに至った、當時唐津藩は幕府との関係上佐幕諭を唱へて居た。然るに高徳寺は二條家との因縁上、尊王論を主唱すれば、師は時に蟄居に處せられしこともあった。

 彼女はこの父兄の許に育ちしことなれば、自然気象も雄々しく男性的気分ありて、幼時より豪宕勇邁の性格を有して、世の婦人の上に超忽たるものがあった。十四歳の頃、叔父山田勘右衛門を訪ねんとして、父母の制止も聴かずして、単身船に貸して大阪に至りしこともあった。

 萬延・文久の頃は国事多端の際なれば、父了寛・兄圓心等国事を憂へて、諸藩の志士と往来せしが、彼女も亦これ等志士と交りて、男子も及ばぬ気焔を吐いた。丁度文久三年彼女十九歳の時父に代った、長州の家老宍戸氏(夫人は女史の叔母)に使したが、其の際の扮装は、義経袴に朱鞘の大小を落し差しにし、深編笠を冠りて伊達衆姿にて、大に叔母を驚かしたのである。

 彼女二十二歳の頃福成寺に嫁せしも、夫と死別し、二十六歳にして、水戸の浪士鯉淵彦五郎と婚せしが、母兄共に之に賛せざりしより、唐津を去りて、夫婦は平戸に流浪し、水戸に至り、後唐津に帰りて古着また茶商を営んだ。彼女は明治二十年夫と離別し、一男二女を擁して一時また生活の難に遭ひしも、長女敏子また母に似て気象勝れて家産を助けた。

 二十三年国會開設せらるゝや、女史また衆議院議員選擧運動に奔走し。松ノ浦橋架設、唐津鐵道布詮、唐津開港などに関しても盡力少からず、殊に唐津開港の如き内面的女史の功労は忘るべからざるものがある。

 兄圓心師が本願寺布教師として朝鮮にあるや、女史は之を追ふて、明治三十年全羅道光州に入り、一旦帰朝して、翌年再び光州に至りて實業學校を創建して地方民の利益を図らんとて、具さに苦惨を嘗めて、九月漸く上棟式を擧げた。後病を以て三十二年七月帰国せしが、十月東伏見宮妃殿下に謁し、十一月には閑院宮妃殿下に謁せしに、其の韓国に於ける、布教教育に労せし功を嘉賞せられた。

 女史が国家的活動の背後には、本願寺門主・小笠原子爵・近衛公爵の有力なる援助があった。三十三年五月女史は南清視察の途に上った、これ此等名家の委託によるものである。上海より長江一帯の風俗教育宗教などを視察しつゝ、之を遡って南京に至りしが、恰も北清事変なるもの起りて、其の余波南方に及ばんとすれば、六月一先づ帰国して、調査事項を復命した。

 北清事変は、最初日英米佛獨露墺伊の聯合八ケ国軍寡勢にして苦戦せしが、間もなく我第五師團出兵するに至って破竹の勢を以て敵を斃し、北京の囲みな解いたが。女史は北清出征軍慰問のため連枝の派遣を本願寺に説きしに、其の議用ひられて、大谷勝信師慰問使として發足し、同年十月女史は仁川にて同一行に随従して、芝罘(チイフ)・太沾(ターク)・天津・北京等を歴訪して、或は慰問演説を試み、或は傷病兵を見舞ひ、また戦死者の法要を執行するなど、懇切なる慰問の任を果して十二月帰朝するに至った。

 女史は此の行中、戦地の光景の惨憺たるものを見て、出征軍人に對する同情の念は心中に湧き、帰国の途次既に京城・仁川・釜山等にて、其の遺族救護の演説を行ひて、痛く聴者に感動を與へて、少からざる寄金を得たるが、抑も愛国婦人會創立の基となりしものである。女史は帰朝後直ちに愛国婦人會創立の切要を高唱して、寝食を忘れて盡瘁し、閑院宮妃殿下を始め、近衛公・小笠原子其他名門を訪ふて、同會創設の賛意を促がし、終に女史の熱烈なる活躍の結果、三十四年二月發起人會は麹町区平河町禮法講習會所に開催せられた。

 かくて同會は翌三月事務所を飯田町日本體育會門衛所に移し、公欝岩倉夫人久子を會長に仰ぎ、三十六年三月には、閑院宮紀殿下を総裁に、同十一月には東伏見宮妃殿下を始め、多数皇族方を名擧會員に推戴するに至った。

 さて同會今後の重大事業は會員募集と寄附金収集である、為に同三十五年より三十七年に亘りて、女史は東奔西走遊説に席温ることなく、全国に足跡到らざるなく、三百余回の演壇に立つに至ったが。女史はこの行草鞋を穿ちて腕車を避け、旅宿も下等に定めて粗服を纏ひて倹薄自ら持して、會の盛運を期せしが、偶々三十七年一月公欝近衛篤麿の薨去は、同會の一大打撃なりしも、間もなく日露戦争勃發して、国民の愛図心沸くが如くなりしかば、為に同會の大發展を来すに至り、三十八年四月には法人組織の一大財団となり、體育會全部の建物を購ひ、本部の體裁も整ふに至った。

 日露戦争中には、女史は一年有半の間、満洲の野に出征軍隊の慰問をなし、軍隊の出入には送迎に奔走し、傷病兵の見舞、戦死者遺族救済等、遺憾なき後援振りを發揮した。

 同三十九年四月の本部総會は新宿御苑に開かれ、畏くも、時の皇后陛下(照憲皇太后)の臨御を仰ぐの盛運に達し。京都府石川縣文部総會には、総裁宮殿下の御臨場あり、女史は御随行の光榮を擔ふなど、女史の得意察すべきである。

 女史健康昔日の如くならざれば、郷里唐津に退隠せんとするや、同會は其の功労を多とし、祖道の宴を九段偕行社に擧げしに、妃殿下方も御臨席遊ばされたのである。かくて三十九年唐津に帰臥せしが、健康次第に衰ふれば、翌四十年京都大學醫院に療養せしが、二月七日眠むるが如くして年六十三才を以て長逝す。其の葬儀は、総裁宮殿下の台命により、愛国婦人會の名により、二月十日京都に於て壮厳に行はれ、時の大森京都府知事は同會の顧問なるより、葬儀委員長として事務を鞅掌した。其の遺骨は東京・京都・唐津の三ケ所に埋葬す。今や女史逝て十有五年、其の遺業は盛々隆盛に、所期の目的を達して居る。

  五 交通機関の發達

 道路は文明の尺度である、交通機関の状況に依って其の土地の文化の程度を察知することが出来る。

 舊幕時代は互に藩境防衛の必要より、道路橋梁の開鑿修築は之を避けた、されば天下の大街道と雖も曲折紆余高低上下の不便は免れざりき、況や其の他の道路は言ふ迄もなきことである。藩境撤せられ交通繁劇を加ふるに至りて、自然の要求上道路開修の問題は到来するものである。時の区長(今の郡長)坂本経懿見るところありて其の任官中に本区の幹線道路たる厳木呼子間の車道を鑿き、進んで佐賀との連絡を計らんとて、隣郡小城の有力家田上某に之を謀りたるに、彼は之を無益の土木として敢て耳を假さゞりしは、未だ時運の要求を察するに至らざりしものと云ふべきか。経懿は之に関せず断然工事に着手して路に本区の幹線道路の開鑿を竣工せしが、郡民其の便を受くること大なるは言を俟たざるところであって、氏の創意卓見の程後人等しく賞せざるはない。後松尾芳道の郡長時代に、先きの坂本案に成れる道路も未だ不完全なれば、縣道として幅員四問の道路に改修せられ、其後各村また要地に至る里道郡道縣道等次第に年を追ふて便利を見るに至る。

 鐵道は明治三十年四月唐津鐵道株式會社が起工せしに創まりしものにで、抑もこの鐵道布設に就きては、當時本郡長たる加藤海蔵の功大にして、其の在職中より唐津港の發展と相俟ちて、必然缺ぐべからざる大事業なるを悟りて画策に怠りなく、頻りに金融の大中心たる大阪に出入して、資本家の遊説に盡瘁せしが、其の労空しからず、豪商黒川幸七先づ之に應じ、協力して資金募集に幹旋せしが、其の経過頗る良好にして忽ち豫定の資金に達し、白耳義人ハーブルも亦資金を投じ、一時唐津に止まりしこともありし程盛況を呈した。是に於て海蔵官界を去りて同會祖々長に就任し、専心専業を督励し中沢孝政工事請負者たりし一方また事業経営の顧問として貢献せしこと少からず、着々功成り数年にして九州線幹線と久保田驛に連絡し、三十九年鐵道国有法案によりて政府の有に帰した。

 九州電燈鐵道株式會社の経営に属する、濱崎佐志間約三里の軌道経営は、もと満島馬鐵會社の事業として濱崎満島間に営業を開始したるは、明治三十三年六月十一日である。翌三十四年五月には材木町に延長し、四十四年六月には唐津村字京ノ熊に達し、同年唐津軌道會社と改称し發動機関による車體の運轉をなし、大正二年十二月には唐津村字観音谷に達し、同年九州電燈鐵道株式會社の経営事業となり、同五年九月佐志村字龍體に通じ、今や電気鐵道に改めんとて其議頻りに起りつれば、遠からず實現するに至るであらう。

 北九州鐵道は福岡縣博多驛の南方竹下驛に起りて、唐津を中心とし伊萬里驛に聯絡せんとするものにして、大正八年三月同會社の創立を見、草場猪之吉社長として之が経営に努力し、今や工事に繁忙であるが、竣功の上は福博長崎方面との聯絡交通の便益大なるものがあらん。

 唐津町に始めて電話線を開通して市民の利便を計りしは、明治四十一年である。

 唐津の港湾たるや北風の憂なきにあらざれども、古より韓漢に對する形勝の地位を占めてゐた。明治に入りて郡の南方諸炭田の發掘盛なるに従ひ開港の必要を促進するに至ったが、偶々明治二十年の交久留米市土木監督所にゐて、千歳川改修工事の任に當ってゐた、内務省土木技師石黒五十次唐津に来るを幸として大島小太郎は唐津港修築の意見を聴きたる後、縣の土木課に港湾設計を依嘱したるが抑々同港湾問題の起原であって、縣よりは技師を派遣し測量を行はしめしも有邪無邪然として終了した。

 二十二年小太郎東上中、元老院議官山口尚芳を訪問したるに、折柄税関局長中野建明席にありしが、健明謂へるに、目下政府は九州に於て特別輸出港選定を急げり、門司・唐津・口ノ津を適當と認めんとするも未だ唐津港の眞価を知らず、請ふ之を語れと、小太郎欣然として具さに同港の實況を述べしが、終に二十二年七月特別輸出港として認可せられた。これ今の唐津東港である。然るに同港は水深浅くして大船巨舶を緊ぐに不便である、同時に又出入港とするの欲求は地方人士の胸中に往来して、益々良港湾を得んとするの念は旺盛となった。偶々海軍出張所長星山大機関士は唐房湾の天然の良港たることを語りしより、或は東港を竣渫改修せんと主張するものと、或は唐房湾の天然形勝を利用せんとするものとの二派を生じたが、両港の利害得失を詳覈したる後、東港論者の議を斥け、永遠の利を策して唐房湾の便を唱へて、此の間を奔走せしものは長谷川芳之助・加藤海蔵・大島小太郎・坂本経懿・井上孝継・河村藤四郎・菊池音蔵・吉村儀三郎・岸田音吉郎等である。唐津村字妙見の漁民等は開港修築のこと成らんには、彼等は漁港を失ひて生活問題に関すること至大なれば大に之に反對し、郡當局殊に一科長永江景徳の如きは之が説得に労すること尠からざるところがあった。

 かくて二十九年二月二十八日には、今の唐津西港たる唐房湾築港のことを大島小太郎・坂本経懿・河村藤四郎・山崎常蔵・井上孝継・福地隆春・菊地音蔵・寒河江哲太郎・寒水敬的・市川才次の十名が、関係町村發超人総代となり、唐津村長中島磯之助の名儀により榎本農商務大臣に出願した。時の佐賀縣知事は田邊輝實にして書記官は山田春三である。

 山田春三は唐津開港につきては唯一の功労者といふべき人である。偶々唐津の東方数里なる福岡縣船越湾亦熱烈なる開港運動を開始し、唐津港の運命知るべからざるものあれば.事に當れる人士の其の間の苦心は一方ならざるものである。是に於て春三東上して極力政府當局に運動盡瘁甚だ力めた、之に従随せし唐津人士は大島小太郎・井上孝継である。かくて其の滞京長からんとするや、知事田邊輝實は春三の帰縣を促せしに、彼は頑として應ぜず、此の事たるや豈に一地方の小事ならんや、国家貿易の盛衰消長に関すること大なり、地方事務の如きは宜しく下僚に托するも可なりとて、関係官廳及び国士を訪ふて表裡両面の運動に寝食を忘れて奔足した。彼の女傑奥村五百子が此等の人士を激励せしも當時の一挿話である。

 政府は終に實地踏査を必要として、税関局長石川有幸して九州の港湾視察に派遣す、有幸先づ船越湾を見る、小太郎等憂苦措く能はず直ちに馳せて之を唐津に迎ふ。有幸即ち唐房湾の良否生産力の状況を審かに調査して長崎に赴く、春三・小太郎は鐵道なき地を腕車を駆りて特に長崎縣下早岐に見送り、有幸の意を動かすことに違算なきを期した。次で内務省土木局長古市公威は政府の命を帯びて来り視察せしが、果して其の港湾の優良なると生産力の十分なるを認めて、具さに政府に報告するところありしが、三十二年七月十二日勅令を以て開港場たることを認許せられた。これ即ち今の唐津西港である。

 唐津鐵道の全通、郡内炭田の發達、小城杵島両郡炭坑の興隆によりて、唐津港の昌運を来し、殊に大正三年南北亜米利加を載ち切りたるパナマ大運河開通以来、亜来利加と支那間の最捷航路の薪水供給地として至便の地位を占むるに至り、且つ南満州北支那との貿易上有利の位置を有すれば、港湾の修築な行ひて大艦巨舶の安碇と水陸貨物の取扱の便益を計るは、港運の盛衰消長に関すること大なるものである。前既に述べたる如く曩に築港の企画ありたるも計画不備の點ありしより、更に唐津築港株式會社を起して、大島小太郎外十三人の聯名にて、大正二年十月一日築港認可の出願を提起せしが、同五年七月十五日許可の指令に接し、更に同六年四月十三日附きを以て願出の唐津港修築工事實施設計変更の件は、同十年一月二十四日に至りて認可せらるゝことゝなった。然るに時恰も財界沈滞の時に際會して、未だ工事に入るの期運に達せず、将来適當の時期を待つことを余儀なくせられてゐる。

   六 教育。新聞

 志道館は唐津明神社の西側にあり、維新後は其の敷地跡は監獄署となり、大正四年迄は幼年監所在地となり、現時は唐津小學校運動場となってゐる、舊藩時代唯一の公立學舎たりしは前既に述べし如し。明治三年小笠原長国知藩事たる時、牙城にある藩邸を分割して一を政廳となし一を私邸となせしが、廃藩置縣に及びで志道館の學生をこゝに移し、政廳跡を小學校となし私邸跡を中學校となせしが、九年十月中學校を唐津准中學校と改称した。其の設立には坂本経懿・松浦顯龍・河村藤四郎等與って力あり。これ本郡中學校の濫触にしてまた小學校の萠芽の端となる。

 學制は五年始て公布せられしも、小學教育は以前の寺小屋教有と大差がない。十二年舊學制を改めて教育令を發布され、小學教育の大網を定められしより、各村の教育次第に普及進歩の跡を示すに至った。

 中學校は十一年三月本縣中學校規則により、唐津中學校と改称し、十一月縣立唐津中學校と改む。十七年の縣會にで廃校となりたれば、更に郡費と地方税の補助金を請ひて公立唐津中學校の名称を以て存續した。十八年十一月郡立中學校となり。廿年學制変革の結果地方税支辨尋常中學校(佐賀中學)の外は、中學校の名称を附することを得ざるに至りたれば、四月より高等唐津小學と称し、郡内小學高等科二ヶ年修業以上の生徒を収容し、廿一年唐津大成學校と改む。廿六年五月縣達により公立大成學校と改称す。廿八年四月縣立東松浦實科中學と改め。廿九年三月實科中學を廃し、四月佐賀縣尋常中學校唐津分校となり。卅二年四月獨立して佐賀縣第三中學校といひ。卅四年六月佐賀縣立唐津中學校と改称して今日に及ぶ。

 女學校は四十年三月八日唐津町の創立にかゝり、唐津町立實科高等女學校と称し、實科を加味せる中等女子教育を施し、廣く入學を許可して其の普及を企図せり。然るに民意は純然たる中等女子教育の必要を提唱し、四十一年四月より唐津町立唐津高等女學校と改称し、専ら婦女教育に遺憾なきを期せしが、大正九年四月より佐賀縣立唐津高等女學校となるに至った。

 従来唐津小學校に於て商業上の補習教育を行ひ居りしが、大正十年度より乙種商業學校の認可を得て、校舎を唐津公園下に設けて授業を開始す。

 教育の向上改善を図るの機関として、斯道の人々を會し各種の考案を附議し、衆意の向ふところの良案を採りて實地に行ひて教育の効果を擧ぐるの要がある。十八年六月東京久敬社に於て教育會設立の議發るや、直ちに規則を編成し、翌七月八月の両度公立唐津中學校竝に近松寺に於て、中學校教員其の他學務委員等教育に関係ある人々を會し本會設立のことを計り、其の結果本部教育會創立

のことを縣廳に申請することゝし、八月十八日規則を作製し、發超人十名大草政秀・大島小太郎・堤静男・山邊濱雄・峰澤治。寒河江哲太郎・横山辨太郎・澁谷門二郎・太田芳太郎連署して、郡衙を経て知事の認可を請ひしが、十月七日許可の指令来る、依て同月三十日夜浄泰寺に於て組織會を開催して、諸般の事務を評決し、且つ會長以下の役員の假選擧を行ひ、會頭に久布白繁雄を副會頭に大草政秀外に幹事六人を設く。十一月八日浄泰寺にて開會式を擧げしが會合するもの六十七人なり、是に於て本郡教育會愈々成立するに至り。二十年三月五日臨時教育総集會を行ひて、地勢によりて本郡を六区に分ち、本會の部属六支部會を設く。各部適應の問題を審議實行して着々効果を収めてゐる。

 二十九年七月四日唐津新報を發刊せしが、其の後西海新聞起りて相拮抗するの態にて、一小地方に両新聞の對峙するは、蝸牛角上の争たるを免れざる傾きあれば、大正三年十月両新聞社間に融合合一の契約成立して、唐津日々新聞と題し、體裁内容共に整ひて日々隆盛に赴きつゝあれば、前途の光明見るべきものあらん。

  七 殖産工業

   其一 唐津焼

 唐津村字町田の中里氏の唐津焼沿革文書は、吾人の参考に少からざる利益あれば之を其のまゝ記録せん。

                                   

 抑唐津焼陶器の源因たるや、神功皇后三韓御征伐御勝利にて、質人(シチビト)新羅高麓百済三韓王代として三子を携へ、本州東松浦郡草野郷(神功皇后舊跡玉島川近所鬼ケ城と唱ふ所在りて、皇后御所の地と云傳、又古史にも在り。後に鏡宮の社務職草野中務大輔藤原永平の先祖此處に城を築き、文禄役迄相續す、此邊草野郷と今以唱来)に御凱陣の上、同郡上ハ場(方今の舊城西の方を云ふ)と唱ふ地内佐志郷内に置給ひ、武内ノ大臣三子を新羅太郎冠者・高麗小次郎冠者・百済藤平(フヂヒラ)冠者と呼給ひて、新羅太良冠者を置き給ふ所を大良(ダイラ)村、高麗小次郎冠者を置給ふ所を小次郎冠者村、百済藤平冠者を置給ひし所を藤平(ヒヂヒラ)村と今以て唱来り(三子の名は世々同称すと古史に在り)。高麗小次郎冠者居所の地へ陶器竃建立し、陶器を製造して神功皇后へ献納す(小次郎冠者村地中より今以て掘出す陶器を佐志山焼と唱ふ)之れ皇国の陶器製造最初の地とす。故に伊萬里焼迄を唐津焼と云傳ふ。然るに往古東松浦郡秦(ハタ)郷、後に波多郷鬼子嶽城主に秦三河守なる者在り、八代にして断絶し、其跡嵯峨源氏にて波多氏を称し、数十代連綿と相續す。亦鏡宮の社務職草野郷鬼ケ城主草野氏数十代相續して、波多草野の両家は久家なりしを共に文禄三年豊公破没収。右泰氏前代に高麗小次郎冠者の裔孫を鬼子嶽城邊に被移轉、又波多氏中前代に小椎の地に被移、何れも焼物竃建立ありて陶器製造。此年間製造の陶器を古唐津と唱ふ(鬼子嶽小椎の地中より陶器今以て掘出す事在り)。

 豊臣秀吉公朝鮮御征伐の砌、前領波多草野の両氏を被没収、其地を以て寺澤志摩守を封ぜられ、波多氏別館の波多郷田中村島村城に住居に相成、慶長年中今の唐津城築立に相成轉移り後、城の西の方字坊主町へ陶器焼竃建立に相成、前件小椎より私先祖中里又七を坊主町へ被移候。文禄の役豊公名護屋御滞陣中御好に付、陶器を献上し、其の例を以て徳川幕府に同様右陶器を献上したる事とは成りき。

 寺澤氏正保四年被没収幕府領になりても、右陶器は幕府へ献上仕居候中。慶安二年大久保加賀守封地に成、二月城受取に成り。亦延寶六年松平和泉守封地に成り、七月十日入部、此時に當迄、又七二代中里太郎右衛門・三代甚右衛門相勤、元禄四年土井周防守封地に成、六月三日入部、此時代坊主町陶器竃を方今の唐人町へ被移、右三代甚右衛門及四代太郎右衛門相勤。寶暦十三年水野和泉守封地に成、五月十五日城受取済み、五代中里喜平次及六代太郎右衛門相勤。文政元年小笠原主殿頭封地に相成、六月二十三日城受取、九月十六日入部、七代中里荘平及八代の私迄代々の領主扶助米を被與、献上陶器製造仕。往古高麗小次郎冠者傳ふる所也、傳法を不失陶器古製の正統相續罷在候。偖又陶器は献上の外賣却する事は代々に堅く禁じ来候。

  右之通御座候也  以上

  明治十七年十月

    高麗小次郎冠者遠裔

      東松浦郡唐津村士族  中里敬宗

 工藝志料や、八代国治外二名の合著であって古今陶甕攷工藝志料を本として録せるもの、其の他地方小記録の一二に就きて、此等を参照摘録して見れば。

、唐津焼は孝徳天皇・齋明天皇頃(約千二百七八十年前)に創始するものと云って居る、是日本陶器製造の開祖と云ふのである。而して此の頃より建長年間(約六百七十年前)迄を(或は元享年間迄、約六百年前と云ふ説もある)一段とし。それより文明年間(約四百五十年前)迄を二段とし。其後慶長初年(約三百二十年前)迄を(或は天正年間迄約三百三四十年前と云ふ説もある)三段とし。通じて古唐津といった。其の一段のものは白土にて陶膚に薄釉(ハクイウ・ウスキウハクスリ)を施す、之を米量(ヨネハカリ)と称す、而して陶膚潤澤なし、古へ之を斗量(マス)としたと云ふ説あるは非なり、そは其の形状一ならざるを以て然らざるを知る、唯米を斟ひしを以て名とするのである。其の二段のものは、白土あり赤土あり、釉色は鉛色にして、臺輪(イトゾコ)の内皺紗(シウサ・チリメン)の皺(シハ)の如く緻(ケツ・シボリ)状に土質を露して釉を施さず、之を根抜(ネヌケ)といふ、三段のものは、奥高麗(オクコマ)と称し、高麗の器物に模造せしもので、陶膚稍々密にして釉色枇杷實の如く、或は又青黄のものもある。是も亦臺輪の内に皺紋あるを以て良品とす。此の外瀬戸唐津とて、應仁の頃(約四百五十年前)より天正年間(約三百三十年前)に製する所の者あり、尾張瀬戸の釉水を用ひし故にこの名あり、白土にして白色釉を濃に施せり、故に亀紋の劈痕が甚しい。又繪唐津といふ者あり、慶長年間以降のもので、其の質赤土青黄黒を兼ねたる釉を施してゐる、最も潤澤を有す、繪は草画である、茶碗盞盆等の雑器が多い。朝鮮唐津は、天正より寛永年間(約二百八十年前)に製する所のものにて、朝鮮の土及び釉を用ひ、土質赤黒にして青白を雑へたる釉を流布してゐる(俗になまこ薬といふ、)水壺盞盆の種類が多く、茶碗は稀である。堀出唐津と云ふは、寛永より享保年間(約二百年前)に製するもので、陶質堅く、青黒を帯びたる釉色であって、臺輪の土質を露すものと然らざるものあり一様でない、且つ臺輪の内に皺紋あるを良品とす、其の形多くは正圓でない。其の掘出と名づくるは、火候度に過ぎ或はくぼみ或は缺損するので、工人之を不用物として土中に埋めしを、後世堀出して賞翫せしより此の名がある。これより元来埋めざる完備の物も、この器と同種の物は皆堀出唐津と名づくるに至った。

 又左の如き記録がある、後柏原天皇の時(約四百年前、)伊勢の人五郎大輔祥瑞といふ者あり、明国に住きて磁器を作ることを學び、帰朝の後、技を肥前唐津の工人に傳へ、こゝに於て磁器の製作起れりと』。

工藝志料には、伊勢五郎太夫祥瑞は松坂の磁器職工なり、氏を山田(或は松本に作る)と曰ひ、則之(ノリユキ)と名つく。飯野郡黒部村に生る。幼より陶器を製せんことを欲し、後柏原帝の時明に航して之を學ぶ、江南に在て陶器を製す、時に日本に輸入する者あり、銘して呉祥瑞(ゴシヤウズヰ)或は五郎太甫と曰ふ、是より其名海内に播けり、永正十年六月(大正十一年より四百九年前)帰朝し、肥前今利に窯を開きて盛に之を製す、終に今利(伊萬里)に歿すと。

 按ずるに、中里氏の文書は貴重のものであって、同文書によりて、唐津焼窯の移動変遷の状態を知ることが出来。また八代氏等編著等によりて、唐津焼陶器の種別を明にすることが出来る。

そこで此の二者を對照せば唐津焼に就きて大體の治革を概知し得るかと思ふ。

 けれども中里氏文書中に「質人新羅高麗百済三韓王代として三子を携へ……武内大臣三子を新羅太郎冠者高麗小次郎冠者百済藤平冠者と呼給ひ…‥」とあるは信ずることが出来ぬ。元来冠者(クワンジヤ)とは、元服し冠したる少年の称、或は六位無官の人の称と云ふのである。然らば元服の起原は何時頃かといへば。聖徳太子傳歴に、太子が十九歳、崇峻天皇の朝(約一三三〇年前)に冠し給ひしと云ひ。国史には元明天皇の和銅七年(約一二一〇年前)聖武天皇皇太子として元服を加へ給ひしを始めとすと云ふのである。冠者をクワザ、クワンザ、クワジヤともいひて、源氏物語にくかんざの御座とか、くわざの君などの語を用ひ。平家物語に辻冠者ばらなどのことあるより察すれば、平安朝時代に入りて多く聞くことが出来る称呼である。それで神功皇后征韓時代頃に到底冠者などの文言称呼などあるべき筈がないと思はる。且つ又、皇后の三韓御征伐は新羅のみであって、時に皇紀八六〇年(一七二二年前)にして、百済の内附は皇紀九〇七年、高句麗の入朝は皇紀九三六年であれば、百済の内附は新羅征伐に後るること四七年、高句麗の入朝は七六年の後である。されば何れより考ふるも、三韓の三王子を質人として伴ひ来りたると云ふのは信じ難い。且つ又元服の一義中六位無官の人を云ふといへる點より見るも、四位とか五位とか云ふ位階は文武天皇の大寶令制定の時(約一二二〇年前)に始まって居る。

 是に於て考ふるに、八代氏等の云へる如く、唐津焼の起原は孝徳齋明朝の頃(約一二六〇年前)ではあるまいか。即ち其の頃には、遣唐使の往復やら、又齋明の朝には百済を援けて、新羅及び唐の聯合軍と韓半島で戦ってゐる時代で、彼我の交通も頻繁なる際であれば、彼の土の陶工を伴ひ来って、大良小次郎・藤平などに窯を開きしものではあるまいか。元服加冠の風習も大凡此の時代に起りしやうであって、次で冠者なる称呼も始まりしものとすれば、此の方面より見ても、冠者を称する名ある工人が神功皇后時代にありしとも覚えず。

 猶大良・小次郎・藤平などの地名は、現今東松浦郡切木(キリゴ)村にありて、偶々古竃跡より陶器の破片などを出すことがある。

 中里氏文書中に、「故に伊萬里焼迄を唐津焼と云傳ふ」とあり。工藝志料中に「肥前今利に窯を開き盛に之を製す、終に今利に歿す」と。依りて考ふるに、五郎太夫祥瑞は、今の唐津地方に開窯せしものでなく、伊萬里にて窯業に従事せしものと見るべきものであらう。

 かやうに唐津焼は、我国最古の窯業史を有し、脉々として後世に傳はりたるものなるが、殊に藩政時代に入りては、各代共に数寄奨励のため其の業振ひ、光格天皇の御宇(約百二三十年前)小笠原氏陶工に命じて、肥後八代焼に似たる白紋(地を彫り凹め其の上に白釉を施して文をなせり)にて雲鶴等の模様を現はさしめ、幕府に献ずることなどもあって、一種進歩の技工をも案出するに至った。維新後一時この業衰頽せしも、明治の末頃より大正に入りて其の業大に振起し、唐津名産の一として四方に販路を求め、世人其の雅致を賞翫するもの少なからざるに至った。

  其二 小川島の捕鯨

 小川島は呼子村に属して、呼子の北方三里の海中にある孤島である、大約百五十年前より捕鯨組の根據地なりしが、明治三十四五年の頃より汽船鐵砲を備へて漁獲する西洋風の漁法をも用ふるに至りて、往時の雅趣ある漁獲法は次第に頽れて、今は全く機械漁法となり、其の根據地も呼子の對岸加部島に移すに至り、萬般の施設も極めて簡単となった。こゝに往時の捕鯨の有様を載録せんに。

  ○諸般の施設

一、納屋は島の東端なる嶽の山海邊にありて、二十二間に十二間の藁葺家にて、入口は石を畳み、一段下りて一面に簀子竹を敷き詰めらる、この内に鯨肉を納むるものである。上納屋とて其の東側に瓦葺の家あるは事務所合宿所である。

一、諸器具には、轆轤臺、大庖丁二十枚中庖丁若干、釣棒五十本、段切庖丁若干、臓籠若干、船二十艘、銛(モリ)五十本。

一、漁夫の幹部を波座士(ハザシ)と云ひて三十二名あり、内六名は釆振(ザイフリ)の役をなして漁場に於ける進退懸引を號令するものである、数多の水手之に属す。

  ○網代(アジロ・漁場)六ヶ所あり。

一、嶽の山下なる水ノ浦海岸より、約八町の沖合を坐頭鯨の漁場とす。比の区の海底は砂地にして水深廿三四尋を数ふ。

二、同水ノ浦海岸より約二十町の海面は長須鯨の漁区にして、暗礁三あり潮流頗る急激であって、海底は一面に小石原となり、水深廿五六尋より三十二三尋に及ぶところがある。

三、小川島中には外に、永ノ尾・雁ノ尾の両漁区もある。

四、加唐島に淀の網代といふところがある、座頭鯨に最も良き漁区であって、島中第一の網代である。

      

五、同島の小泊口(コトマリクチ)の網代は、海岸より大約五町の沖合にして、水深廿八九尋乃至三十二三尋を有し、海底は一面に小石である。

六、同島の黒水沖の漁場は、水深十八九尋乃至二十二三尋にして、海底處々に暗礁があって、長須鯨の網代として最も良きところである。

   ○漁期

一、捕鯨の季節は、従前は小寒十日前より翌春土用明け十日後に終ることにせしが、後には小寒三十日又は二十五六日前より開始し、日数約百三十五日を漁季とし、此の小寒中を長といひて

長須(ナガス)子持鯨の最も多き季節である。

一、鯨の水路は、小川島山見より北東に當り烏帽子島と地ノ島との中間、また北々東の於呂ノ島見渡しより、游ぎ来るを常とし、春の彼岸後は上り鯨とて、西々南の北松浦郡平戸島方面より

                                

馬渡(マダラ)島南方にかけて游ぎ来るものにて、其の游行には序ありて鯢鯨(メグヂラ)を先とし、それより白長鬚・長鬚・座頭とし、榴花吹き盛る頃には蝉鯨の好季節とし、白長鬚は又四月頃再び来ることあり、最終にはまた鯢鯨・鰹長鬚来るものである。

  〇漁法

                               

一、一切の漁具は各船に積載せられ、毎朝未明より、勢子・持双(モツソウ)船等を魚見場に配置す。

一、流シ船と称して、東・西々南・西の三方の海上に船を漕ぎ出し、鯨の来游を待ち、鯨影を認むれば直ちに旗を擧げて魚見場に之を報ず。

一、魚見場はこの合図を見れば直ちに莚旗を揚げて船子に之を知らしむ(未明の時は炬火を用ゆ)、此の時勢子船は油断なく漕出し、鯨の振合に應じて除ろに網代の方面に追込み来る。

一、鯨網代に入れば、采振の波座士は潮流の緩急海水の深浅鯨の方向及び速度など、臨機應変機敏の策を立てゝ網張の指揮を發す。鯨網に近くに従ひて舷を叩いて烈しき音を立て、鬨の聲を擧げて之を威嚇して網中に遂ひ込む。この時直ちに口張網をなして後方を絶ち切り、又一入烈しく舷側を叩きて益々鯨を脅威すれば、彼は愈々狂奔す、此の時乳合とて幾枚も有る網を細き緒紐にて結び合せたるものあれば、鯨これに懸りて緒紐は切れて網は一枚となり、鯨の頭より半身にかけて網を蒙り進退の自由次第に衰へながら、一生懸命に遁け出さんとする時に、勢子船・持双船は全速力を以て之を追及して、各々先を争ふて銛を打込む、この時一人の波座士は隙かさず手形庖丁を携へ海中に躍り入り、鯨の鼻を貰きて之に網を通ふし、其の一端を船に結び付く。鯨身に銛を突き入るゝ数は、蝉鯨には凡五百、座頭鯨には二百、長鬚鯨には百五十振以上である、かくて體内に潮水浸入して勢力滅するに至り、持双船に縛り付け納屋場に曳き来るのである。

  ○解體の次第

一、脊の身を左右に割る脇の身も同じ。

一、大骨(脊の中央より丸切して腰の續目迄)を抜く。

一、山(頭)の皮を剥く。

一、頭(上頤より上側)を反す。

一、丸切(腰の續目)を切放つ。

一、肋を反し臓腑を出す。

一、肋を割り左右に開く。

一、敷の皮(股の畝簀)を剥く。

一、頭を割る。

一、丸切より下の皮身を剥く。

一、中切庖丁にて百五十斤=二百斤位に切りたる後納屋の魚棚に荷ひ込む。

  ○肉肉の分類

雑肉

ぼんのうの身  靨(エクボ)の身  物の身の身  蓮花の身  うなぎ

海老鐵     圓羽        小髭     油肉    潮吹

とんぴ  かぶら骨  頭(カバ)チはぎ  あいはぎ  石膓

はなくそ   耳紛   黒皮   でんどうまはし

あばら

あばらの身    同はゝゐの身    かめの身   れんげの身  つめさき小骨

油肉       天井肉       あばら剥   むな骨の身  むねの身

あふぎの身    同ふたへみ   同はらゐ   同かなめ   同ぶうつう

扇骨       ひうちの身   あふぎはた  同油肉

立羽

立羽諸かわ片皮   同ゑりまきの身   同がうの身   大剥   小そぎ

つゝろはぎ     つゝろ骨

觜(ハシ)

はしの身   はしの皮   觜のまくら皮   でんどうまはし   はしはぎ

はしあい

大骨

大骨の身   つめさきの身   同骨   だきの身   大骨のはぎ

大骨のはさみ肉   同うでぬき   だきのはさみの肉

かいのもと

かいの身   かいのふち   とこねかまはり   たけり   かゞみの肉

小便袋    きんつう    かいあいの身    かいあいの赤身   わらじ

丸切

丸切の皮   同しのぎ   同身筋   丸切のはぎ

くらはぎ   筋の皮  にべいちご   まはし

臓腑

のど輪   ちいこ   ひめわた   丁子   赤わた

大膓   いかわた   ふきわた   丸わた  まるの皮

百尋   百尋のかさ  かみわた   豆わた  臓の肉

ちわた

大納屋

山の皮   脊の皮   錢のみ  さよ わきの皮

小骨   しのきの皮   たな   たなあい  かた皮

しのぎ   うね     すのこ   けず   尾羽毛

黒皮    切だし    切レ赤身   おとし

骨の数

せみ鯨の骨  百六十個      坐頭鯨の骨  百六十二個

長鬚鮫の骨  百六十九個      児鯨の骨  百六十四個

  ○骨納屋

 骨納屋は事務所の東隣にあり、横八間縦十二間の藁葺屋根造であって骨切場・唐臼場・釜場の三区に分たれ、先づ鯨骨を荒割して三十余人の工女に送れば、工女は之を細く削り、六箇の大釜にて油を煎し出す、煎じ滓(カス)たる骨は四箇の唐臼にて粉末とし肥料を製す。こゝに面白き骨削の歌があって、太鼓の調子に合せて、一様に庖丁を使ひながら工女が謡ふ歌に。

 あすはよいなぎ沖まぢや遺らぬ磯の藻際で子持ち取る。

 親父舟かや萬崎沖よ菜(ザイ)をふりやげて水門(ミト)まねく。

 水門は三重側其のわきや二重蝉の手持はのがしやせぬ。

 納屋のろくろに鋼くりかけて蝉を巻くのにや日間もない。

 其三 金融殖産工業

 銀行

 唐津銀行は明治十八年の創業であって三百五拾萬圓の資金を擁し、西海商業銀行は同三十一年の創立であって百五拾萬圓の株金を有し。相互銀行は大正二年開業して百萬圓の資金を動かしてゐる、其他唐津町には各種の銀行、各村にも株式または合資の大小金融機関がある。

 礦業

 唐津炭田の沿革を述ぶるには、唐津・相知・厳木各地の斯業の関係諸氏の諸説と高野江基太郎氏の日本炭礦誌中の一部とを探りて綜合記録するものであるが、著者往々要を脱し核心に触れざるものあり、見る人其心を以てせられたし。

 抑も唐津炭田の發見年代は明かならざれど、口碑の存するものに徴すれば、今を去ること大約二百年前の享保年間(徳川八代将軍の頃)、北波多村大字岸山小字「ドウメキ」(今芳谷炭坑礦区内)にて、耕鋤の農夫が偶然露頭炭の發見をなせしに始まると云ふのである。

 其の採堀は、地理と運搬上の便宜関係にや、最初北波多村岸山、碑田方面に於て開堀せられ、其の後相知村佐里・相知・平山に及び、漸次厳木村岩屋方面に發展してゐるやうである。今其の開堀の沿革を考ふれば、創業時代・海軍省豫備炭田時代・機械利用時代の三期に分ちて發展の跡を尋ぬるを便宜とするやうである。

                                   

 創業時代は採堀法幼稚にして、明治維新前より各所に小規模なる所謂狸堀(タヌキホリ)により堀出すものであったが、常時石炭の使途は、僅かに鹽田地の製鹽釜に使用せし外瓦焼及び自家用ガラ焚きなどに用ひし位に過ぎなかった。然るに幕末維新の頃に至つては、各藩にて洋式に學び軍艦を備ふるものがあって石炭の需用を要することゝなった。そこで我唐津藩では御手山を開坑した、御手山なるものは相知村押川字一ノ谷及び本谷にて、向定吉を棟梁とし藩営として之が開坑をなし、資金は地方(チカタ)役所より同坑の問屋吉井定冶・松本源助の手を経て供給せしものなるが、明治初年大島興義統轄の下に満島に小笠原家借区炭山事務所創設され、多数の艀船を造り、同坑炭の山下し場たる相知村岩バエより唐津港に運炭して、賣買上荷賃の利得を計れり。

 舊藩時代に於ては、御領山即ち幕府領有の炭山と、私領山即ち藩有炭田とがあつて、、御領炭山区域は平山上・平山下・鷹取・本山・岩屋・浪瀬の一圓にして、日田(豊後)代官役所に年額金貳拾五錢の冥加金を納むれば何人も随意に開坑することが出来た。又私領炭田は相知・佐里・牟田部・岸山・稗田部内であって、小笠原家の管轄に属し、各自許可を得て開堀したものである。

 其の他薩摩・久留米・熊本各藩の経営せし炭田の状況は下記の通りである。

 薩摩藩よりは、慶應年間藩士池上次郎太を派して、岩屋の人藤田源助・藤田平内・藤田令蔵等の斡旋の下に、最初本山舟木谷に坑区を開き、其の後鹿子岩を経て岩屋方面各所に着手せしも、廃藩と共に明治六年よりは池上次郎太箇人の営業に移り、明治十五年の頃岩屋田原に開坑せしも、翌十六年には廃坑に帰したが、其の出炭は総て鷹取土場より川下せしものである。

 久留米は、同藩御用商人松村文平に命じ、慶應年間平山下村字「ローサイ」に開坑して納炭せしめたるものであるが、廃藩と共に同人箇人の経営となる。出炭は佐里川岩小屋土場より船積みとし川下せしものなり。

 肥後山とは、明治三年肥後熊本藩より藩士横田卯内外二名を派遣し、宗田信左衛門を棟梁とし平山下村武蔵谷に開坑せしが、一時は出炭額も多量にして相知村岩バヱ土場より川下しとした。常時同藩船萬里丸・凌雲丸の二隻が戴炭運輸のため入港せし際は、黒船来るとて唐津人士をして驚異の感を以て迎へしめたが、明治十一年頃業を止め廃坑となる。

 海軍省豫備炭田時代。明治六年九月日本坑法發布實施と共に、岩屋方面薩藩関係坑区は最初に海軍豫備炭田に編入せられ、續て平山方面に及び、明治十五六年頃迄に岸山・碑田方面の優良坑区は逐次豫備炭田に編入せらるゝに至り、海軍省は是等の豫傭炭田坑区には夫れ夫れ下稼人を置きて採炭せしめて、其の一部を海軍用炭として買ひ上げ、残余の大部分は剰余炭として、各下稼人に八分金を納付せしめ全部を拂ひ下げしものである。同省は此等の事務を處理するため、明治七八年頃より満島に海軍属吏を派遣し、同十一年に至りて唐津公園下(今の商業高校敷地)に唐津海軍石炭用所を設立し、相知村には同出張所を置き、叉一旦有事の日に際して、艦船に搭載の便宜上當時の良港呼子村字殿ノ浦に貯炭場を設置した。かく海軍が唐津炭に着目せしは、炭質の良好なると、炭層の関係上採炭選炭などの労費が、他の炭田より経済的なるによるといふ。

 同八年時の区長坂本経懿官界を去りて身を實業界に投じ、前記の剰余炭を一手に収めて、海軍剰余炭賣捌所を設遺せしが、同二十二年高取伊好・松尾寛三等と共に當局に要請するところありし結果、茲に豫備炭田は開放せられて、當時の下稼人五十一名に各自坑区の交付行はるゝに至った。依って経懿は剰余炭賣捌所を會社組織に改め、唐津用炭會社と改称し、そして豫備炭田解放後の石炭全部の販賣權を獲得するに至った。現今の唐津石炭合資會社の前身はそれであって、唐津海軍石炭用所に豫備炭田開放と同時に廃滅に帰した。

 機械利用時代。茲に機械利用時代といへるは機械の利用盛に至れる頃を云へるものでありて、勿論其の以前より多少機械の利用をなせしことは云ふまでもなきことである。さて始めて機械を採堀に利用せしは、明治七年長崎の豪商永見傳三郎唐津舊藩士帆足徹之助の協同経営により、岸山村寺ノ谷に汽鑵を据え付けて井坑堀鑿により採炭せしものを以て、唐津炭田に於ける機械立ての嚆矢となす。其の後幾何もなく中止廃坑に帰せしが、長崎の人青木休七郎は同十三年之れを継承して再興せしも、亦一二年にして失敗に終った。同十九年に至りて、竹内綱・高取伊好・外村宗治郎・魚澄総左衛門等共同経営の下に芳ノ谷に開坑せし時より、組織的機械立採堀法起りて、其の後他坑にても之に做ひて機械据え付け採炭に従事するに至った。今は各炭田の發展沿革を簡叙するであらう。

 八代町炭坑。明治二十一年福田嘉蔵・小笠原長世・三宅吉*(益蜀)・矢田進・原徳實・山田元貞の六人出資の下に、小林理忠太の坑区買収と共に、海軍豫備炭田の一部拂下を受け、時の小笠原家々扶河内明倫の斡旋により、東京米商會所頭取中村道太等の銀主を得て、翌二十二年九月汽罐を据え付け開坑に従事せしも経営意の如くならず、更に銀主を東京原亮三郎に仰ぎて業を持續せしも、これ亦失敗に終り、二十五年終に廃坑に帰す。翌二十六年田代政平の懇請により同人を下稼人として再び事業を開始せしに、時運に際會して出炭日に増加するの隆昌を見るに至りしが、同三十九年六月坑区を擧げて芳谷炭坑會社の買収するところとなった。

 牟田部炭坑は、明治二十二年九月吉原政道。小林秀知・杉本正徳等の共同事業として経営せられ、小林理忠太の抗区を基礎として附近坑区を併せて二十四萬坪の大借区として起業せるものに始まったものである。二十三年三月第一堅坑堀鑿深二百六十尺にして四尺炭層に着炭した。二十四年一月第二堅坑を開始せしが資金意の如くならざるため、二十五年一月長谷川芳之助の出資と唐津物産會社後援の下に事業を継續しつゝありしが、二十六年に至りて全然長谷川芳之助の手に移り、三十二年十月東京の人木村騰の買収する所となった。三十七年二月英国人ゼー・エム・ダウを社長とし桂二郎を取締役とする牟田部炭坑株式會社の経営に帰し、四十年三菱會社の有に移轉し、爾来同社の経営する所となりしが、四十四年堅坑の崩壊すると共に終に廃坑となる。

 芳谷炭坑。海軍省豫備炭田時代は大小の炭田錯綜してゐたが、前記の如く明治十九年竹内以下の共同礦区となり、附近の小礦区を買収併合して七萬二千余坪の礦区に拡張し、約半里程なる鬼塚村大字山本小字鹿ノ口なる松浦川沿岸に大八車にて運炭し、七千斤積みの上荷船にて唐津東港に出炭した。同二十三年には中野に第二坑を開き、同年松浦川畔に至る一哩三十鎖の間に軽便鐵道を敷設し、小機関車を運轉して運炭上の改革を計り、一日の採炭量十四末萬斤に及び、二十五年の頃には一日出炭二十五萬斤を算するに至った。二十七年三月株式會社組織に改め竹内綱専務取締役となる。

 二十八年には約七哩を隔つる唐津港に電話線の創設をなす。三十一年蓮炭用軽便鐵道を複線とし、機関車運搬の法を改めてヱンドレスロープとなす。三十二年唐津鐵道敷設後は全く之に依り、又大島に貯炭場を設置した。三十九年六月矢代町礦区全部の買収を決行す。然るに曩に三菱會社は相知炭坑を入手せしが、次第に其の冀足を伸べて、四十四年四月本礦区の営業權をも継業するに至った。

 相知炭坑。同二十七年三月芳谷炭坑の組織変更となるや、高取伊好は同炭坑を去りて、現相知炭坑地方なる数多の小礦区を買収して三十萬坪の大礦区となし、二十八年十一月鐵錐試錐の結果有望なるを確知し、二十九年四月一日始めて堅坑開鑿に着手し、八ケ月にして三尺層に着炭し、爾来経営四年の後、三十三年十一月三菱會社に譲渡し、漸次昌運に赴き三百萬坪の大礦区を包擁するに至った。

 岸岳炭坑。生石のまゝにて村民の燃料に供せしは二百年前であるやうだ。舊藩政時代は、採堀炭に對しては地役として幾分の納金を取り立てたるものらし。廃藩後當坑附近一帯は海軍省豫備炭田に編入せられ、後年之が解放により舊藩士族授産のため配當せらるゝに至った。最初鑛業幼稚にして単に上層炭のみを探堀せしため、未だ市場の聲価上らざりしが、二十二年に至りて始めて下層炭發堀せられて産額増加し品質良好となるに至り、頓に唐津炭の名聲を博するに至った。三十四年古賀製次郎・下村銓之助・野依範治・古賀新次郎の共同企業に移ったが、世人其の鑛石の存在を危みたるも、断然所信を遂行して帆足鐵之助・原徳實・宮島傳兵衛や所有鑛区を買収し、大字稗田に開坑せしが本坑経営の第一着手であって、爾来鑛区を買収して五十余萬坪の地区を有し、三尺五尺の両炭層を採堀し、四十四年には第二坑の開鑿をなすに至った。運炭は坑所より約五町を距る波多川の積載場より、上荷船によりて唐津東港に輸送するものと、中途唐津線鬼塚驛に陸揚げして汽車便にて西港に送るものとの二法を取った。其後大正元年に至り三菱會社の買収する所となり、同十年迄は同坑口にて出炭せしが、翌十一年よりは芳谷坑の坑口より排炭することゝなった。

 岩屋炭坑。もと向秀助の坑区にして島津利平次坑業の未廃坑に帰しゐたるを、明治二十六年藤田郁次郎は大石の採堀權を譲受け事業に着手せしが、同三十年神戸の石井源兵衛・梶原伊之助と共同出資の上規模を拡張して事業を継續せしも経営意の如くならず、三十六年一月廃坑の止むなきに至った。當時の石炭は唐津石炭合資會社の取扱に属してゐた。四十一年三月に至りで貝島太助の所有に移りたるが、坑運次第に順調にして今日あるを見るに至る。採堀炭は三井物産會社の一手販賣に属してゐたが、大正九年冬より貝島家にては其の販賣のことも自営となすに至った。

 厳木炭坑。本坑はもと大谷炭坑と称す、これ厳木村大字牧瀬小字大谷にあるが故である。最初島津利平次により開坑せられ、明治二十七年藤田郁次郎の経営するところなりしが、其後波多昌太郎を経て、四十一年箱田菊松の所有に轉じたるを、四十四年澤山熊次郎之を買収し、漸次事業と坑区を擴張せしが、大正六年十一月大阪の豪商住友吉左衛門に賣却せられて、今日あるを見る。

 其の他小炭山は郡内所々に散點してゐる。

 唐津炭として他所に送り出されたるは、明治三年宮島傳兵衛が肥後山の依頼を受けて大阪に輪送せしが、同地移出の嚆矢にして、二十二年六月大久保福太郎が英国船グリンガイル號に積み込めるは、外国輸出の緒口を開きたるものである。

  唐津港排出炭数量概見

 明治二十六年       一五七,一六九噸

 同二十八年(日清戦争中) 二三三,一七二

 同三十八年(日露戦争中)  四八八,〇六四噸

 大正九年         一,四五二,九七六

  郡内主要炭坑最近産額唐津港着炭

  炭坑部       大正九年       大正十年

  芳谷炭坑      四九七、五七六噸   三六二、七九五噸

  相知炭坑      三九九、七〇三    三五三、一一五

  岩屋炭坑      二〇六、四二二    二〇八、三七〇

  石炭會社所属炭坑   七六、一三三     五五、九一九

  厳木炭坑       三五、一七七     三三、一七八

  平山炭坑       一〇、四二二      四、六二八

 唐津港にて取り扱ふ石炭は、右の外杵島・小城両郡なる杵島・佐賀・新星敷・多久・古賀山・*(竹助)原

等の各炭田産出炭とも含みて、前記唐津港排出炭数量中には、此等の出炭額も合算せられてゐる。

 工業

 株式會社唐津鐵工所は、明治四十二年四月の創立にかヽり、最初は竹内鑛業株式會社に属せしが、大正五年四月獨立して株式組織とし、高級鐵工用機械・工具及び附属電動機を製作して、精巧と堅牢を標傍して信用日に厚く、陸海軍工廠・造船所。兵器製作所其他全図各方面に販路を有して、我国有数の工場として發達しつゝある。

 株式會社唐津製鋼所は大正六年十月創立して、最初は唐津電気製鋼株式會社と称せしが、同十年六月唐津製鋼所と改称し、鋳鋼・鋳鐵。錬鋼・鋼塊等の作業に従事し、創立日猶浅きも著々経営の成績を擧げてゐる。其他株式會社唐津製作場は、炭山向きの機械製作に従事して居る。其の他郡内各地に、或は煉瓦工場、或は製紙工場等ありて唐津半紙の名高く。唐津製鋼所の製品も名あるに至った、唐津は水陸交通の便と石炭の供給の便利あれば、将来有望の工業地たるべき要素を供へて居る。

 其他

 農業は、郡農會及び各村農會の活動とによりて、耕作法施肥法選種法など頗る改善せられ、また各地に耕地整理を行ひて、田面を擴大し灌漑耕作の便を図りて、日進月歩の態を示し、且つまた範を欧米に取りて造林業なども見るべきものあるに至った。

 水産業も亦長足の發達をなし、水産組合漁業組合等を設けて、漁撈法水産製造の道など工夫して、漁額を増大し、殊にまたトロール船漁法なども起るに至った。

 博覧會、唐津納涼博覧會は大正十一年七月二十一日より同八月二十日までを會期とし、子爵小笠原長生を総裁に戴き、杉山正則を會長に推し、高取伊好を協賛會長となし、工學博士宇佐美柱一郎を審査総長に工學博士栗原鑑司を審査長として、唐津小學校舎を利用して開設せられたのである。従来各町村又は郡内聯合にて、學藝品農産水産物の展覧會品評會などは開催せられ、時に或は縣内水産品評會等行はれし事はありしも、博覧會として廣く全国の生産品を蒐集して産業の發展を企図せしことは、之を以て嚆矢となす。(郡内生産を主とするも)しかも一町にして此の事業を決行せしは、町長杉山正則の英断と、新時代の唐津人士の意気の壮図によるものである。陳列品は、工藝館(四館) 農産物及び食糧品館、染織物及加工産物館、特設館(教育學藝品)美術館に分ち、余興場として演舞館の設をなす。抑々一町にして此の擧あるは其の負担軽きにあらざれど、其の効果に至りては、産業取り引き上の効益ありしは謂ふまでもなけれど、白砂清波の唐津、風光繪の如き唐津、海港として優良の唐津、財界有為の唐津とを、絡介したる利益亦少からざりしは明なる事實である。

附録

一、附録に収むるところの神社佛閣の縁起は、往々現時の記録を記載すると雖も、史料蒐集のこと困難なりしため、松浦記集成所載のものを主として載録せり。

一、縁起載録の目的は歴史上の参考を主眼とす、故に舊記録に価値少からざる點あるを覚ゆ。

一、神社佛闇の縁起は、総て斧鉞批判を加へず、これ本来の性質が神秘的要素を基本とすればなり、讀む人心せられよ。

 附録 神社佛閣縁起

 一 唐津神社 (唐津町城内)

 社格 郷社。

 祭神 底筒之男命、中筒元男命、上筒之男命。

 創立 天平勝寶七年九月。

 由緒 唐津神社は往古神功皇后の奉崇にして、其神霊は底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三神を祭祀す。其の由緒を原ぬるに、始め皇后神教を奉じ新羅を征するや、西海茫々として一望際無なく、身師向ふ所を知るに由無し、時に皇后三神に祈誓して曰、神若し吾をして新羅を征せしめんと欲せば、願くば一條の舟路を示めせ、吾頼て以て師と進めんと、我朝固より神国なり、神霊豈顧みざらんや、奇なる哉妙なるかな海上忽光輝ありて以て后軍を導く者の如し、皇后頼て舟路を得遂に能く三韓を平治す。皇后神徳の著しきを感じ、凱戦の後鏡を捧げて松浦の海濱に三神を祭る。然るに其の後数百の星霜を経て漸く衰頽を極め、社殿自ら消滅に至らんとするの時、恰も孝謙天皇の御字地頭神田宗次と云ふ者あり、一夕神夢を得て海濱に至る、忽ち一筐の波に浮びて来るあり、之を採りて開けば則ち一寶鏡なり、且愕き且敬ひ、其霊異を怪み、之を時の帝に秦聞す、朝廷神徳を感じ、特に詔命を下して號を唐津大明神と賜ふ、實に天平勝寶七年九月二十九日なり。事来崇敬、文治二年神田廣に至り、益々尊崇して社殿を再建し、且つ祖先宗次の功労を思ふて其霊を合祀すと。

慶長年中寺澤氏唐津城建築成りて、後十五年改めて當社を再興し、同氏祈願所と定められ、其後大久保・土井・水野・小笠原の各氏相次で祈願所と崇敬せり、明治六年郷社に列せられ唐津神社と改称せり。

 松浦記集成に録するものを見れば。

社號 唐津大明神。

祭神

一宮  磐士命  赤土命  底土命  大直日神  大綾日神  海原神

二宮  八十任日神  神直日神  大直日神  底津少童神  底筒男神

     中津少童神 中筒男神 表津少童神 表筒男神

相殿

水ノ神罔象女ノ神(ミヅノカミミヅハメノカミ)

  寺澤侯御築城之時、火災守護として御勸請有之此為相殿

 當社は神功皇后三韓征伐之時、船路静かならざるを天に祈り給ひて、程なく洋濤静に治り、三韓平定御帰朝の後此處に勸請し給ふと云。

宮司   勸松院  戸川美濃守藤原惟成

社家   安藤陸奥守源政郷   内山一太夫藤原重固

  同大明神別録縁起

 當社は神功皇后三韓征伐の時、西海蒼々として船路静かならざりしに、皇后天に向はせ祈念し給へば、我朝は神国の故にや、海上忽然として浪穏になりければ、船路やすらけく三韓平定の功を奏し給ひ、帰朝の後此地に勸請なさしめ給ふ神社とかや。其後帝都の三位蔵人豊胤信するところの観世音、底江五郎宗次に抱かれ西海に赴き給ふと夢みければ、豊胤不審にぞ思はれける。さてまた底江五郎宗次は在所唐津に於て、天平勝寶七年九月二十六日夜夢中に白衣の老僧来り枕上に現はれ、三ケ日を待て北方の海邊に出て見るべし、必ず不思議あるべしと宣ふと見て、夢は覚にける。また翌夜も同じことなるにより、奇異の思ひをなし其日を待ち得て、供の用意をなさしめ、海邊に出で遙に沖を眺められしに、奇なるかな一ツの筐物照り輝きて波濤に浮めり、間もなく渚に漂着しければ、潮をむすぴて嗽ぎ、、直に其の寶筐を携て帰宅す。宗次倩々思ひけるは、我此處を領せしこと遠きにあらず、然るに今かゝる夢想を承ること、神明の告に疑ひなし、仍て清淨の地を撰び寶筐を奉納して、武運長久をも願ふべしと、其の用意をなしけるに、譜代相傳の家来を始め領内の民百姓等まで、尊崇し奉りて、則ち先の神所石の寶殿のありける所に納め奉りぬ、時に天平勝寶七年九月二十九日なり。其の後五郎宗次帝都に到り、蔵人豊胤の館に行き、不思議なる夢物語りありけるに、三位豊胤も過ぎにし頃に観世音の現夢の物語りあり、符節を合せたる如き霊夢なれば、終に天聴に達せられしに、時の帝孝謙天皇詔命を下し、唐津大明神と神號を給ひぬ。神徳廣大にして舊例の祭祀惰りなく、諸事の式禮等また同じ、其の後遙かに時を経て、松浦黨の内、始祖源太夫判官より八代に當りて、鴨池源三郎の男神田五郎廣と曰ふ人あり、往古の五郎宗次の跡を尋ねて、其の名を請ひ継ぎ尊崇して、後鳥羽院の御字文治二甲辰ノ年、三位豊胤五郎宗次の二霊神を、唐津大明神の相殿に勸請し奉りね、この二神則ち唐津大明神八座の中にておはします、今唐津城中にあり。

 又別記に曰く、唐津大明神は孝徳天皇の御字、當国の住人神田五郎宗次上京して、中将と曰ふ人宗次に懇意となり、唐津の勝地なること委敷語れば、あはれ願はしきところなり、一生の中必ず行きて住居せんと深く契りけれども、公事如何とも為しかたく、末期に及んで我誓って唐津に行かんと、死後棺に納めて其の上に官位姓名年號月日を記し海に入れよと、終焉の日遺言の如く難波の海に浮べたるに、難なく天平勝寶七歳九月二十九日唐津の海濱に流れ者きけり、宗次夢想の生を得て、右棺の入りたる箱を海士人の手に得たり、宗次尊崇し其の趣を具に都に奏上しければ、帝詔を下し唐津大明神の號を賜ふ。以来元和元年に至て九百余年を経たり、九月二十九日の祭禮怠ることなしと。

 右の外にも縁起の所録存するも、大同小異なれば之を略す。

奉 寄進田 之事。

唐津大明神宮之御所在、肥前国上松浦郡之西郷、庄崎之川向八丈田之下、田地三丈之事、四至堺書(カ)の作也。

右件の田地者、親實知行無 相違處也、然尊天長地久當村安穏家門長久子孫繁昌息災延命、為御油燈 奉 寄進 處也、仍寄進状如件。

 文安六年己已正月十日      源親判

    (紀元二一〇九)

 同社鐘銘に曰く。

 肥之前州松浦郡當社大明神者、神田五郎宗次以夢想、往来于海邊、一日有一箇寶筐浮海上、光明照輝遍満十方、宗次半驚愕之、半尊崇之、〇〇孝謙天皇即下詔命號唐津大明神、于時天平勝寶七歳九月二十九日也、故老所傳、一宮観世音化現、二宮茲氏尊降下也、爾来歴八百五十一星霜、霊験不減昔日異哉、今也寺澤志摩大守廣忠朝臣、命工鋳洪鐘、祭神〇〇〇〇大守為尊神徳周華鯨新鋳、祝千秋、鐘聲亦興名聲大遠近傾、願九々列。

  慶長十一年龍集乙已二月 日

                   前南禪承兌誌焉

                   當宮司覚任房

 二 諏訪神社 濱崎村

          

祭神 健御名方命(タケミナカタミコト)

 建暦三年甲子十月二十七日勸請、其後大永七年迄七百四十余年之間諸記紛失、大永八年戊子六月二日地頭高階朝臣永勝造営より今に至て棟書等連續す。

 本社 東面して拜殿籠殿あり。

 末社七宇

                

  大神宮 祗園宮、八幡宮、猿田彦大神、稲荷宮、鷹社、誓来セウライ社。

 社家一人 建武三年より相續、寛文六年以来吉田家配下、當代従五位下隈本土佐守藤原朝臣次孝。

  諏訪宮古傳記

 縁起曰、肥前国上松浦郡草野庄濱崎の諏訪大明神者、延暦年中奉勸請所也、舊事本紀曰、天孫降臨之時大己貴神(オホナムチノカミ)第二子健御名方命、欲拒天孫、於是経津主神・遣岐神(武甕槌神なるべし)逐之、健御名方命逃到信濃国諏訪郡迫甚、而請曰、願得此郡以為父母………、而作我居則吾豈奉背天孫哉、因茲経津主神、以諏訪一都附于健御名方、是則諏訪明神也。神皇正統記、大物主神子健御名方刀美神者、事代主之弟也、今諏訪明神是也、一云神功皇后征三韓時、天照大神託、以住吉明神・諏訪明神令為輔佐、延暦三年甲子當所近隣於玉島里、建聖母大菩薩之社、是則神功皇后奉 崇所也、同時勸請於平原郷住吉明神於當郷諏訪明神是往古皇后三韓征伐時、二紳為輔佐故也(以上縁起)。

 昔者宮殿全備之時、地境営作整斉宏麗、應仁乱後四海騒擾此地為戎馬之衢、殿字廃頽、宮地荒蕪、況於簡冊器用乎、慶元之後寰宇一新民庶繁滋、然後雖加修造、終不復舊観矣。十月廿七日為祭日、神輿幸于玉島河之下流海濱、邑之北境也、祭儀厳整頗為壮観、近世祀事残闕、僅致如在之意、而猶為郡中大祀、歳時小奠具于年中行事。神秘有愛鷹悪*(兀虫・マムシ)之事、古傳曰筑前博多、今津・加布里及本州唐津・平戸等一帯之地。往古海舶之域湊泊之所也、有韓人誓来(セウライ)者、献鷹子當宮、一日狩于二本松、鷹撃鳥而下麻・小豆。胡麻之圃中、為*(兀虫)被害、蓋神愛惜之乎、爾後濱崎村濱崎浦・砂子村之地、山野林薮絶無*(兀虫)矣、若有誤落麻・小豆・胡麻子、者、則一夜花實根株之下忽生*(兀虫)蛇、故土人無栽三種子、乃摸刻其鷹形為神寶、寫鷹羽為神紋、誓来客死此地、祭其霊為末社矣。今世不謹之徒誤落三種子、而間々有遇彼変異者、世人之所識不贅于此、*(兀虫)蛇之害人民、為非命之死、為終身患、為期月之疾、使稼穡失其時者比々皆然、近村殊多、而犬牙之縁界不入當宮之産土三村之地、芻蕘于他山偶有包裹*(兀虫)秣中来落此地即死、産子(ウブコ)入他村雖有毀傷者無疾痛焉、是故遠近来乞祀前之清砂而為避*(兀虫)之符、持之者*(兀虫)不敢近矣。国史所載諏訪明神武神也、以経津主。武甕槌(タケミカツチ)之雄、而負日神之光天下無不風靡、而與之決一旦之雌雄、既而感皇澤之探、知天始之可畏而帰順焉、率群神而為天孫開国之孚先、豈非全智仁勇、者乎、萬世列朝之祀典、為天下之鎮霊、守文護武愛物仁民洋々乎、盛乎、赫々然明哉、何新禳之不應、何志願之不得、所謂控之者應洪纎而効響、酌之者随浅深而皆盛者乎、人唯患誠敬之不至、而不可患應感之虚矣、夫神砂避*(兀虫)之一事、中古偶有此事、而中神之忌諱乃然耳、愚民以為避*(兀虫)之神、是豈足測神徳之萬一哉、然而亦可窺霊威之顯赫也矣。

   附記

 正徳六年丙申(享保と改元す)八月十八日、唐津侯土井大炊頭源利實君、遊于玉島河、便路拜當宮、召祠司隈本宮内藤原次利、自賜懇詞。越廿六日召次利于城中賜金、而令奠之後為 常例敬仰異 于他祠、歴利延君、利里君、寶暦十三年移封総州古河、土井侯移封之後唐津之邑入為 六萬石、余地入縣官、後五十余年、文政元年戊寅郡為對馬侯之邑、侯之敬神擢 于他邦、廼以當宮為郡之宗祠、對馬之為国海上遼遠、是以毎年使田代総督代拜焉、崇奉超于前時。

  同社別録縁起

 當社は人皇第十六代仁徳の御字、百済国より王仁といふ宮人、鷹を献じ奉りしに、其頃迄は日本に鷹といふ鳥渡らず、其のよし皇帝に奏しければ、鷹は所謂霊鳥と聞きつる、請取るにも禮儀あるべし、其の禮法を知りたるものや有ると宜へども、其の故實を知りたるものなき故に、其の由天聴に達しければ、女を出して請取るべし、婦女は其の禮を知らずとても苦しからずとて、御吟味ありけるに其の頃の官女に、神功皇后三韓征伐平定したまひ、大矢田宿彌といふ人を新羅国に留置き鎮守府将軍の職を賜ふ、これ鎮守府将軍の始めなり、この宿彌の四代に當りて大矢田連と云ふ人の娘を諏訪ノ前といふ、則ち宣旨ありて鷹を受取らしむ、其の出でたちいと花やかに見えけり、この諏訪ノ前と申すは四八の相を備へて類稀なる美女にして、和歌の道はもとより諸道に達したる禁廷張中の官女なり。王仁の子に誓来といふもの、鷹を持ちて渡す時倩々思ふやう、かゝる官女に渡すこと其の例なし、直ちに渡すも如何なりと、笄を抜き錦の帛紗をかけて畳の上に立てゝ鷹をおろし、少しく後方にひかへたり、則ち諏訪ノ前さしよりて受け取りけり。鷹は「コノリ」なり、天皇御感斜めならず、誓来を三年留めさせ給ひ、鷹の居様故實杯委しく相傳せり、其の中にはい鷹を仕立て、日本鷹狩り始まる、日本にては諏訪ノ前を鷹匠の大祖とす。三年目誓来帰国のとき、この松浦より船に乗りけるゆへ、諏訪ノ前見送り来り給ひぬ、此處にて鷹匠はまたらを合せけるに、麻と小豆を作りたる畑の中より、一つの蛇出で鷹を巻き殺せり、諏訪ノ前惜みたまひけれども其の甲斐なくなりにけり。かくて都に上りて帝に何と奏せんやと案じ煩はせ給ひ、暫く此の松浦潟にをはせしが、御年二十八にて草野の露と消えさせ給ひぬ、この唐土ケ浦のものどもおしみまいらせ、今の御社の所に葬り奉りて都に奏しければ、諏訪大明神と尊崇すべきよし内勅ありしなり、則ち唐土ケ浦の守護神と祝ひ祀りて、十月二十七日の祭禮怠らず。其の後この浦に麻小豆胡麻を作れば、蛇多く生ずるとかや、蛇と麻・小豆を憎ませ給ふゆへ、この浦に蛇来らずまた此の社内の砂を請ふて他所の居屋敷に振り置けば、蛇そこへ出でずと云ひ傳へ、世擧りて信仰し奉りぬ。諏訪大明神奉納の軸に「夫れ鷹は天地の間の奇物、群禽の中の悍鳥なり、されば古人も猛烈神俊の才に比し、和漢ともに是を賞せり、我朝にては神功皇后は在位四十七年丁卯、百済国より鷹を貢に備へ、其の後仁徳天皇の御字にまた鷹を献じければ、天皇御猟に出で給ひ、鷹を放つて雉子を得給ふ、是鷹狩の始めなり、夫れより代々の天皇も是を愛し給ひて、世々名鷹も多かりき。鷹の一物たる勇俊武備の鳥なれば、最武士の愛すべきものなり、遊戯の業に似たれども、孔子も猟狩すといへり、四時の狩は耕作の害を除くためなれば、往古より其の事なきにしもあらず。兼て山野の狩に馴るゝ時はいかなる厳寒の軍場にも、脛の雪髭の氷も厭はず、指をおとし膚をさく寒に堪へ、鶴翼八陣のかけひきに習ひ、土卒の足を固むる業なれば、其の備に用ふること徒といふべからず。此の大明神に詣る時は鷹能一物あり、末世の今まで奇特あること有難き御神なり。

三、聖母大明神(今の玉島村南山の玉島神社)

祭神 神功皇后

 此の社地を珠島と云ふは、皇后三韓征伐の役に向ひ給ふ時、干珠満珠の二寶を海人に得給ひ、

暫く此の地に秘蔵し置き給ふ故に珠島と曰ふ。

縁起

往昔神功皇后は、長門の豊浦宮仲哀天皇の御后なり。此處の川を玉島川又梅豆羅川とも曰ふ、爰に於て三韓征伐の兆を試み給ひ、金の素針を入れ給ひ鮎を釣り給ふに、忽ちかゝれり、此の素針にて釣り給ひしことは神秘なりとかや、釣竿は攝州播州の堺なる幹竹といふ竹なり、今に生田須磨邊に釣竿竹とてあり、此の金の素鈎にかゝりし因縁にて此の玉島川の鮎にかぎり唇金色なりと謂ひ傳ふ。其の節皇后の上り給ひし石を、紫臺石といふ、今は川底に埋みて見えず、川岸の上に玉島山といふ所あり、則ち皇后の宮を安置し奉り聖母大明神と称し奉るなり。また干珠満珠の山とて二あり、此の山の隣るところに加茂某といふ隠者あり、常に語りていふ、我住所の前に細き土橋あり、溝川なり、前は往還なり、適々大地震と外々騒ぐことあるとき、此の玉島山には地震を知らず、故に此の家に生れたるもの地震を知らずと、其の天理如何と笑談せり、これも御神徳なるべし。

 そのかみを汲てこそしれ玉島の簗にこぼるる瀬々の落鮎

 恋君をまつらの浦の乙女子はとこよの国のあまおとめかも

 是は山上憶良が松浦の玉島川に逍遙する時、詠ぜり、釣する女ありて打ち連れたちて行く、みめ形すぐれ、何れの里か何れの家にあるぞと問ひ、また疑ふらくば神仙かと問へば、女ども打笑ひて答ふ、皆釣するものなり、たゞ里もなく家もなくして、此の山水に遊ぶなりと答ふ、其の事を後に詠めるなりと。とこよの国は是より北に世界あり、且つは浦島が子の事も、とこよといへりと、此

の山ノ上憶良の事八雲御抄にも出でたり。

断簡に曰ふ、

 天地のともに久しひつけと此のくしみ玉しかしけらしも、是は神功皇后新羅を討ち給ひし時、ニッ石を御裳の腰にさしはさみ給ひて、是誕生あらせたまひし故なり。件の石をくしみ玉と曰ふなり。たゞ姫神のちごらが彼の国をば討ちしなり、件の石は恰士郡深江村子負臨海岳の上に在り、二石の大は長一尺二寸六分、囲一尺八寸六分、重十八斤五両なり、小は長一尺一寸、囲一尺八寸、重十六斤十両なり、如鶏子其美好成る事論に絶えず、所謂住尺壁これなり、此の二石肥前国彼杵郡平戸浦の石占にて是を取る、深江を去ること二十里、往来の人下馬跪拜す、古老傳曰、息長足女命新羅征伐の時、此の両石を用杵着御舳中以鎮懐、されば是本説なり、書方葉五誕生のことは世人の説なり、末世に下馬は知らず、此のくしみ玉の事知る人稀なり。

 神功皇后は仲哀天皇二年正月立后気長宿彌の御娘なり、気長足姫と申し奉る、開化天皇の御曾孫なり、神功皇后と申し奉る、武内宿彌を大臣とし、大伴武持を大連とす、今の左右大臣なり、同九年庚辰二月二日、天皇橿日にて崩じ給ふ、御年百歳、皇后諸臣と議談ましまして、天皇の御遺骸をひそかに、長州豊浦宮にかりもがりし奉る。同三月皇后新羅・高麗・百済の三韓を討ち、其の冬に至り三韓悉く平ぎ、王は皇后の御陣に降参しければ、大矢田宿禰を新羅に留めて、鎮守将軍とし三韓に下知せしめ給ひて、皇后は帰朝し給ふ、三韓は今の朝鮮なり。十二月十四日築紫楠屋の宮にて誉田別尊を産み給ふ、則ち應神天皇なり。楠屋の宮は今の産宮(ウミグウ)なり、誉田(ホムタ)と云ふ事は生れ給ひし時、御腕の上に肉高く集まりて鞆のごとし、鞆を誉田と云ふにより、御名を誉田天皇と申し奉るとかやまた胎内にましゝ時に、仲哀天皇崩じ給ひければ、未た生れ給はずといへども、帝王の正統なれば、依て胎中天皇とも申し奉る。神功皇后辛已年冬群臣三種の神寶を奉り、御即位を進め奉るといへども、甚だ辭退ましまし、皇子に更りて攝政をなし給ふこと六十九年、即位を辭退し給ひけれども、第十五代の帝と称し奉りぬ、女帝の始めなり、然れども一本に三十四代推古天皇を始といふは御位を辭し給ひし故なるべし(著者曰ふ、徳川時代までは天皇の列に加へ居、編纂のときに皇后の列に下せり)。神功癸未三年譽田別尊太子に立ち給ふ、都を岩余(イハワレ)に移して若櫻宮と云ふ。同四甲申歳乙酉歳両年、新羅百済より八十艘の貢を捧ぐ、同十二壬辰より癸巳までの二年に、仲哀天皇を越前国角鹿(ツヌガ)に気比大明神と崇め奉る、皇太子同年御拜ありたり、同六十九年神功皇后崩御、壽百十二歳、狭城盾列(サキタテナミ)陵に葬り奉る。同十六代應仁天皇庚寅元年正月朔日御即位、七十一歳にならせ給ふ、仲哀天皇第四皇子なり、在位四十一年なりき。この帝欽明天皇の御世庚寅三十一年に、豊前国字佐郡蓮臺寺の麓に垂跡し給ひ、其處に白旗八流下り立てるより、八幡大神と崇め奉り、また五十六代清和帝貞観元年己卯に、釋行教和尚に神託ましまして、山城国男山石清水鳩峰に鎮座まします。

 人皇三十代欽明天皇の御宇二十四年癸未、神功皇后御妹淀姫神を、肥前国に鎮座ましまし、河上大明神と崇め奉る、同三十年己丑冬肥前国菱形の地邊に住みける兒、三歳になりけるをして神託してのたまはく、我は是れ人皇十六代譽田八幡なりと勅し給ふ、其の時また筑前那珂郡に白旗四流赤旗四流下りたり、其由都に奏しければ、八幡大神と勅使を以て神號を贈り給ふ、是より八幡の號を得給へり。其處に松を植えて印とせり、是れ即ち箱崎宮なり。

 比の玉島川にて皇后鮎を釣らせられ、希見物(メツラシキモノ)と悦び給ひしにより、こゝを梅津羅国と云ふなりと日本紀にも見えたり。今の松浦を知らぬひの梅津羅ノ国ともいふなり。其の川上に聖母大明神と申す宮在り、これ則ち神功皇后を祭りしなり、正八幡大神の御母君にてまします故に、人皇三十代欽明天皇の御宇二十四年甲申、皇后の御妹ノ宮川上淀姫大明神と同時に、詔下りて祭れるなり。此の聖母をしやうもんさまと所のものども云へり、国の云ひぐさにては、はねる言葉多し、二重嶽をにん重うたけと云ひ、十方嶽をとんぼふ嶽と云ふ如期例多し、訓聲に心付くべし。また此處より住吉大明神・荒御崎大明神、皇后の御船を守護し給ひぬとなり、此の因縁を以て平原村に、住吉大明神を勸請し奉るなり。

四、無怨寺大明神(今の玉島村大村神社)

祭神 太宰少貳廣嗣

 松浦廟宮先祖次第竝本縁記

 贈太政大臣大中臣鎌子連鎌足、俵功任大臣、鎌足薨之後給食封二千戸、尚如生時、即被授藤原姓、有一男右大臣藤原不比等朝臣是也、有其四男即立四門也。

 一男 左大臣武智麻呂   南家 元右大臣

 二男 贈太政大臣房前   北家 元参議民部卿

               

 三男 参議式部卿正三位宇合(ウマカイ) 式家 馬養とも書す

 四男 参議左京大夫麻呂   京家

 宇合朝臣有 八男。

 一男 太宰少貳従二位下廣嗣       二男 贈太政大臣正一位良継

 三男 贈太政大臣正一位種継       四男 右大臣贈正一位近衛大将皇太子傳麻呂

 五男 内舎人縄手(トネリナハテ)    六男 贈太政大臣正一位百川

 七男 参議太宰帥従三位勲一等蔵下麻呂  八男 参議従三位濱成

本縁起

 右近少将従四位下藤原廣嗣、太宰少貳任中慮外難罪、製世音寺讀師能鑒、執事筑前ノ介南淵深雄、内竪磯上興波等慕主公而傳。

 右少貳廣継朝臣者、孝徳天皇御宇大織冠太政大臣大中臣鎌子連鎌足御殿戸(オトド)之孫、正三位式部卿藤原朝臣宇合之第一子也、以天平十年四月授従五位下拜式部少輔兼大養徳(ヤマト)守、同年十二月為太宰少貳 兼 行将軍職、抑件少貳先祖父鎌足御殿戸奉授君王功遍天下、名満華夏、而以彼子孫非可任外庭之傍臣、然而為令防禦敵伺隙之危、以文武竝朗、兼将軍職所令拜任、然将軍少貳既是天下神妙之聖哲黙賢奇異之其一也、於彼存在時有五異七能。

  謂五異者

一、御髻中生一寸余角(諺曰人者雖 賢専角不 生云々今案謂 之世間稀有)

二、侯宇佐玉殿頃年奉仕囲碁(此亦稀有専非人間之事。)

三、龍馬出来(少貳任初年十二月郭中聞 一音七度嘶之即以高直令労飼専不喰例草喰荒強草或時喰 大小*(木若)又其形体尤寄異也是知 龍駒 仍試櫪中打四杭労飼之間漸々登立四杭如是経数日縮足立一杭遠近見開甚馬 異體。)

四、峙面従者不後龍馬(得件龍馬午上従都府之務午後勤朝家之命如此往返之間備中国板倉橋之爪立異體男専不似例人干時少貳間曰汝何処居住乎申云丹波国氷上郡所生矢田弘麻呂也中曰即被召奉永主人也又中云誰人洛下鎮西朝夕往返給人其人吾共可有云々参候更不後御馬尻及渡門司関之時進立御馬前也世傳云龍出来者有峙面若謂之歟)

五、華洛鎮西朝夕往返(古往今来世人未有此事奇異甚多今略擧五異而已設雖得龍馬朝夕往返身力豈堪乎仍異常人也五異之中一寸角神通龍随重堪半斤石以五町抛訓。)

謂七能者

一、形體端厳強軟自在(瞋無敢敵之者軟即有羽毛之恩。)

二、文箱通達内外融洞(世俗文筆法門奥義悉能了知莫不研學之)

三、武藝超輩戎道練習(一度括二失射放分中二物不異揚由又十盞桃燈而脱太刀十燈一時濂?之。)

四、歌舞和雅聴莫不感(音韻雅音宛可比浄土天人諸天楽)

五、管絃幽徴律呂弗違(一曲之中奏八音)

六、天文宿曜陰陽通達(伎術自在之條亦勝衆能之中此業殊勝也)

七、妻室花容人間希有(他人十倍己従夫加水此希有事但依件妻女蒙官責即亡身命也其能雖多略以明之。)

 凡比等事以為希有、是以高野姫天皇御學士右衛門督眞吉備朝臣並僧道鏡、又與少貳御近親人々相共語云、其眞吉備苟為朝使、以去霊亀二年入唐、至于天平二年経十四年之間、砕々分明研鑒数多内典外書天文陰陽、又能捜試人情、令件廣継朝臣者猶尚勝於両朝人也、才學優長茲朗、内外通達異能克備矣、此人自然為物妨歟、朝家蠹害斯而已如是質*(日一寸)毀(ガイアツテ)謗之間、以天平十四年冬十一月被加従四位下、遷右近少将、其故何者相會彼新羅賊、之日、為我朝有勒公之節、仍所被拜任也、爰高野姫天皇發御不快之気、令候道鏡其寵罔極、漢宮入内之夜如星侵月、伉儷成宴之朝似鳥戯花、帝王之位因斯難惜、後代之謗乎、不敢為耻、而間天変怪異種々非一。於是少貳以天平十年勘之、頻以上表、(其表文は本記第四章廣嗣。の傳に出つ今は省略す。)雖知此旨上表、時帝更不破納件表奏、可譲帝位於玄昉之由、以和気清麻呂為勅使、奏宇佐大神宮、専不憚帝勘為攝神罰、返奏不容受給由、帝姫大瞋攻彼清麻呂降穢麻呂、斬其手足己配流隠岐国替替宿街(大隅国なるべし。)爰商客之船漕於逆風来、従管州密通事由乗船、淨海得達宇佐宮、俯伏拜表申云、為攝神宣返奏不容之由、今遭禍難唯願神験如故、還復悲哀睡入覚悟之次、手足還生神助不空、感喜之足、即依祈念之應建立神護寺(在愛宕山今為御願寺和気氏之寺也)、于時玄昉者帝王御恩之余矯恣自長、於少貳在京妻室命婦欲通花鳥之気以風多情之志、女已不肯被白単衣染翰飛文、落居都廳前、少貳忽以上洛高聲放言、城中之人善聞為恐、是擧世云僧正被。○歟。廣嗣朝臣已上才人也、天下俊者也(一箭射四方)、為君為臣必致凶計、不知却朝廷、乃至断身命、即天平十五年九月急激發軍兵、以従四位上大野朝臣東人為大将軍、従五位上紀朝臣飯磨為副将軍、軍監軍曹各四人、竝召集東山。東海。山陰・山陽・南海五道之軍総一萬七千人、委東人等符節討之、又召隼人廿四人令候御在所、右大臣橘宿禰諸兄、勅授位各々賜當色服發遣、冬十月少貳率一百騎許、在於板櫃橋河之側、親自率隼人為前鋒、即編木為船渡河、于時佐伯大夫・式部少輔安倍大夫御坐云々、良々久乗、馬出向官使被到来、再拜承之、常人等所率六千人陳河東大叫云、逆臣豈拒捍官賊哉、直滅身罪及妻子親族者也、常人等云為賜勅符、小貳下馬又以再拜即遁去肥前国松浦郡値賀浦、乗龍馬遙欲移隣朝、向馬於海上不敢進、其時少貳云以小直買此馬故不進也、即削頭棄畢、乃乗船浮海、得東風往四個日行々見島船上人云、是*(身沈)羅島也、于時東風猶扇船留海中不肯進行、漂蕩已経其夜西風卒起更吹還、自提驛鈴一口臨海云、我是大忠人也神冥豈捨我哉、是頼神力暴浪暫止、然而黒風彌々扇白浪不平、帆柱之上種々鳥来居、所謂烏鵲鳩等也(烏者住吉鵲者香椎鳩者八幡大神也)、遂吹着小値賀島、次還来松浦橘浦(彼御忌日十月十五日也)、其遺體三箇日懸虚流雪、鎮落之處今鏡宮也。

 抑廟霊非愚只依朝祈神冥愍趣也、阿因名称鏡宮、電光照耀夜如昼如此之間、勅使頓滅二三人、洛下外鏡奉見其影、奉聞其名、酔気迷神死已甚滋、臣下公卿妖死又多、諸卿朝議、眞吉備嘲臣外誰人奉祈鎮哉、槐林同門學館契深、況又祭祀祈鎮其能尤勝者以眞吉備朝臣、所被択遣也、奉宣旨以後令修降伏邪悪之法、途中毎宿勤仕河臨解余之秡、又従筑前国宗像郡、以圓座四枚宛着手足、御幣負背匍匐参来高聲唱申、一日為師終身為父、一字千金二世恩重、依聞此唱忿心急和影、談存生没後之事等不敢致害(所兼思計眞吉備勅使下也我心卒和也云々)、而聞道鏡僧正屈請有験名僧、登大和国高山一向勤修北斗七星之法、於殿上宮中所々、令修調伏之法、又依託宣以右近司立檜木、造立同身六尺彌勒佛像一體、又書金泥法華経一部(託宣云以雷電檜木彼引導佛可破造云々仍以倬(?)木令造給)乃以二十口僧為使、奉担下件佛経其料夫六十人也、於斯勅使眞吉備朝臣以天平十七年造立廟殿二宇、奉令鎮座両所廟、以即建立神宮知識無怨寺、奉安置佛経、以彼二十口僧定置祈願住持之僧、以扶夫六十人分置宮寺雑掌人(御墓守三十人、寺、家雑役人三十人)至于彼達忌日者、昼則披存時佛法華経、講説一乗妙義、夜傳菩薩三聚淨戒、被加行府御誦経、復次天平十九年十二月騰勅府、為誓度逝雲、始置年分戒者、又同令始修法華三昧、如此等事皆以為祈鎮也、于時姫天皇寵愛尚甚、件僧正道鏡終被任太政大臣、然後未経幾程天皇庵然崩給、於大和添下郡高野山陵是也、即道鏡奉荷御骨、陵下結廬勤行、而間姦計事相發俄被定下下野国薬師寺別當、是尚依先帝厚恩也、而任下不幾頓以死去、世人云彼藤原少将霊罰也、亦即舎弟弓削清人、男弘方・弘田等配流土佐国、而間忽死去。如此過十余年之間、眞吉備朝臣内心祈念云、剋念若叶先可奉事松浦藤廟所、念已成就以天平勝寶六年、拜任太宰都督、即経奏聞、定行廟宮春秋二季千巻金剛般若讀経並最勝會彌勒會等、其料置大領田拾五町施入(在當郡見留加、志之庄是也)又神宮無怨寺寄置水田四十町(二十町燈油佛餉并廟御忌日十五日、料二十町、住寺祈願僧二十町之料也)

又免田六十町(三十町分置御墓守三十人料、三十町寺家雑役人三十人料)、又其次定置鏡廟之號、其故何者廟霊忿怒之時、御在所方丈照耀如懸鏡、仍称鏡山也、又藤少将者是累葉高門之胤、勤功忠臣之烈仍授尊號、故称鏡尊廟也、然則雖大悪忿怒、依彼存時之契終為眞吉備朝臣被祈鎮給、可謂心為恩使命依義軽、寧非斯哉、爰眞吉備朝臣任太宰都督、既歴八箇年之間、建立施薬院竝起種々佛事等、凡此朝臣若冠時者被擇為遣唐使、擧日本之面目、帰朝以降廣聞賢名、是依神佛有助也、遂登大臣位、多是藤廟助成云々。書曰玉雖有映不研専無其光、雖能治之人無傷時者、曾不見其所治、若於世間無如期大乱者、誰知眞吉備朝臣忠言之譯哉、然則委尋其奥大略

記之、若於後代宮寺之間、有神妙希有事者、詳緇素注加之耳。

   天平勝寶三年二月十一日染筆

 右肥前国松浦郡鏡宮所蔵縁起一巻、文字不正間有可疑者、應松平和泉守之倖臣仙石利重及侍醫市井玄*(シンニュウ+台)之需、而校正之、別寫一本以為倭訓云。

  元禄三年庚午三月庚申日

         下御霊神主 従五位下藤原朝臣信直

  別録縁起

無怨寺宮は天平九年丁丑九月晦日、廣嗣公値賀ノ浦よりこの茅原ケ浦に着き給ひければ、此所の賤民どもいたはりまゐらせ焼き火にあて奉りけれども、御脳痛しきりなれば、其の浦中物音を止め、さまざま介抱し奉りけり、この焼き火にあて奉りし翁を、焼火ノ翁と號して末社の一なり、然るに有為轉変生者必滅の習ひなれば、十月十五日薨逝遊ばされ、其の節御遺言ありて此處に葬り奉る、千原寺と云ふ一宇を建立して、御菩提を弔ひ奉りしなり。其の後神霊八寸方圓の鏡と現在し給ひ、内裏の方へ光を放ち給ひ、如何なるいはれか帝御脳気ましまし御不例なりしかば、博士に占はせ給ひしに、霊魂、帝を恨み奉りしなりと奏しければ、吉備大臣を勅使として、この松浦に下し給ふ、比の事鏡二ノ宮ノ記に出づればこゝに略す、それより鏡宮大明神の尊號下りて、松浦郡の宗廟と仰がれ給ふ、其の後茅原寺を改称して無怨寺大明神と称し奉りしなり。誠に比の所まさしく聖廟なれば、此の御社、鏡宮と同時に勅命ありて御造営あり、又無怨寺の號故あり、御寺大明神と崇敬し奉るなり。

抑此の御寺大明神堺内は正面五町横十町なり、後の山を伐り開きて大乗妙典の法華経を敷き、唐金の七十五佛を納め奉りし、寺地霊場なり。爰に宮を建て諸堂鏡ノ宮と同じ、然れども大伽藍七堂廻廊等はなし、妙法華経を移し給ひしとかや、本尊は天年勝寶元己丑年、行基菩薩檜を以て彫刻し給ひし彌勒大菩薩なりとぞ、都藤原の俊成公よりの寄附にて、此の御寺宮へ安置し奉られしとも、また波羅門僧正の寄附ともいへり、かゝる霊地なれば、一度この御寺大明神に詣てし信仰の人は、無實の難を遁れ天福あること、疑ひなかりけるとなり。

 五、河上山大権現 玉島村字平原

 祭神 熊野権現

 肥前国上松浦郡草野庄平原村、河上山權現社者熊野權現也、往昔人皇四十二代文武天皇御宇大寶年中、山伏之元祖役ノ小角(エン オヅヌ)行者、入唐不帰、行者之二代義學修験者慕役師、當国下向之時、熊野權現奉勸請於此郷、祭宮定、而祈国家之安全、當国者以隣三韓之故也、爾来至于元禄之今、千有余年、于此毎截之祭祀無懈怠、貴賤之緇素(シソ・ソウゾク)運歩、無不奉敬崇、祭日十一月十五日也、十一月者子之月也、子者北方之位、十二支之始也、是發揚之元、偉哉神徳、遠照於七末之天、近曜於五始之地、奉號日本第一大霊験者、宜哉亦依有由緒、當国之古跡、鏡大明神、田島大明神、両社倶、奉崇於同社者也矣、謹上再拜敬白。

  日本紀神代巻曰

 

 伊弉冉(イザナミ)尊生火神時、被灼而退去矣、故葬於紀伊国、熊野之有馬村焉、土俗祭此神之魂者、花時亦以花祭、又用鼓吹幡旗、歌舞而祭矣。

 白河院詣熊野時、見路傍花盛開詠和歌曰、

 左伎爾保布(サキニホフ)、波那能気志紀乎(ハナノケシキヲ)、美慮加羅尼(ミルカラニ)、軻彌乃許々慮曾(カミノココロヲ)、贈羅尼志羅留々(ソラニシラルル)。是亦以花祭之意乎。

 又神代巻曰

 伊弉諾(イザナギ)尊與伊弉冉尊、盟之乃所睡之神、號曰速玉之男、次掃之神號 泉津事解之男(ヨモツコトサカノヲ)、凡二神矣。

 今按、速玉之男、事解之男、伊弉冉尊、是熊野三所權現也。

  古今皇代図曰

 崇神天皇六十五年、始建熊野本宮、景行天皇五十八年建熊野新宮

両所権現者、薬師観也、傳云、伊弉諾・伊弉冉也、若一王子者放無畏大士、號曰日本第一大霊験熊野三所大權現。

  神名帳曰

紀伊国牟婁郡熊野早玉神社

 愚按、神名帳之趣者、両所権現者、速玉之男、事解之男也、三所者應加於伊弉冉尊也。

  元禄十一戊寅年九月三日 謹書