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言霊のドラマ 秀吉はなぜ連歌師紹巴を寵遇したのか?

2018.03.29 05:17

https://news.yahoo.co.jp/articles/4ecca2323b7e689ad46e2b235e117332b9fac3e6  【言霊のドラマ 秀吉はなぜ連歌師紹巴を寵遇したのか?―尾崎 千佳(解説)『連歌巻子本集 2』】より

『連歌巻子本集 2』(八木書店出版部)

明智光秀・細川幽斎等の戦国武将と親交を結び、天下人秀吉に接近した連歌師紹巴(じょうは)。宿願成就の力が宿ると信じられた紹巴の連歌は、いわば戦国時代の言霊であった。秀吉政権下、公武・都鄙の有力者たちがこぞって紹巴の連歌に惹きつけられたのはなぜか。高精細フルカラーにより映し出される紹巴連歌の核心とドラマに迫る。

◆言霊のドラマ ――秀吉はなぜ連歌師紹巴を寵遇したのか?

◇沈酔の日々

紹巴は酔っていた。時代劇ドラマの話ではない。紹巴書状の話である。連歌座が果てたあとの酒宴はいつも深更に及び、連歌三昧の日々に寸暇を求めて、紹巴は、沈酔さめやらぬ頭で手紙をしたため、添削や句評の依頼に応えている。寅の刻、すなわち午前4時頃付の書状が複数現存するところから察するに、「いざとき人」と述べた松永貞徳の証言どおり、紹巴は短眠の人であったらしい。

◇都鄙の往還

新天理図書館善本叢書『連歌巻子本集一・二』には、紹巴自筆の連歌懐紙15編と連歌学書『初学用捨抄』を影印により収録した。紹巴真蹟を編年集成した類書はなく、本書によって初めて、27歳から69歳にかかる約40年間のその変遷をたどることが可能になる。時代は室町末期の天文20年(1551)から秀吉天下統一後の天正20年(1592)にかけて、明智光秀・細川幽斎など有力武将の名が見えるいっぽう、地方の無名人による作品も含まれる。永禄10年(1567)7月9日賦何路百韻(ふすなにみちひゃくいん)は三河・尾張の国人長坂守勝主催の連歌、同12年(1569)閏5月28日賦何船百韻は若狭国遠敷(おにゅう)郡箱ヶ岳城主内藤伊良の催した連歌である。40代半ばの紹巴は、門弟を伴ってしばし都を離れ、東海道・北陸を旅し、在地領主の歓待を受けた。守勝の連歌には三河国刈谷城主水野信元の被官、伊良の連歌には若狭守護武田元信の被官が多数一座する。都の連歌師紹巴を迎えたこれらの連歌座には、互いの平等性を原則とした一揆的性格も潜むようである。

ところが、40代後半以降の紹巴には、畿内より外に出た形跡がほとんど認められない。紹巴は、天正中期、豊臣秀吉から新在家中町通堀川西に宅地を拝領する。関白秀吉みずから紹巴宅に出向いて連歌を催すこともあったし、同宅毎月恒例の月次(つきなみ)連歌は、公家衆が輪番で世話役をつとめるというやり方で、主人不在時も興行された。そして、天下統合の進むにつれ、全国から上京した地方武士が紹巴連歌の連衆となった。紹巴は、公武・都鄙の交流拠点を掌握することによって、身を京都に置きながら遠国の人々に接触する。

◇言霊のリアル

秀吉がかくも紹巴を寵遇した理由は、紹巴の連歌に、宿願の成就を予祝する力があると信じていたからに他ならない。出陣や出世の重大局面のたびに、秀吉は紹巴に連歌を所望した。天正10年(1582)8月18日夢想連歌懐紙の冒頭には、風を得て進む3艘の船が下絵として描かれている。願主秀次が夢に見た神詠に基づくこの百韻は、本能寺の変から2ヶ月半を経た政権動乱期に興行されている。夢想の裏には、渡りに船の来るごとき時宜到来への期待がこもるかに見える。

貞徳によれば、紹巴は、「連歌には行者の念力にも等しい霊験が備わるからこそ、金銀をはたいて祈祷連歌を依頼する者が絶えないのだ」と語ったという。そうして蓄えた金銭の一部を、紹巴は、東寺の築地、元興寺の塔、北野社松梅院の屋根の修理勧進にあてた。金を出すぶん口も出し、北野社年頭恒例連歌の連衆を独断で差配して、主催者の顰蹙を買うこともあった。紹巴は、言葉を金銭と交換してはばからない、徹底した現実主義者であった。

◇対面のドラマツルギー

天正19年(1591)11月24日賦初何百韻および同20年(1592)11月24日賦何船百韻は、京都所司代前田玄以を中心とする連歌である。玄以は、秀吉信任のもと、17年間の長きにわたって京都の政務を統括した敏腕の行政官であり、同時に、秀吉興行連歌の常連で、紹巴とも親しかった。注目すべきは、所司代取次(とりつぎ)役をつとめた玄以付の役人たちもこぞって連歌をたしなんだことである。右筆として所司代の発給する文書の清書にあたった磯辺宗色は、とりわけ多くの紹巴連歌に一座した。所司代配下の文筆官吏、地下官人、北野社宮仕(みやじ)・本願寺坊官・相国寺行者(あんじゃ)のような社家・寺家の被官たち──天正後期以降の紹巴連歌は、権門勢家の末端に属する人々によって支えられていた。各組織の実務・渉外担当者が連歌を媒介として日夜交わりを重ねたとき、秀吉の京都改造は名実ともに完成に近づいたのではなかったか。かくて紹巴の酔興はさめることがない。

うち続く連歌興行のあいまに、紹巴は連歌のテキストを手ずから書き写して送り、地方愛好家の需要に応えることも怠らなかった。『初学用捨抄』は、書名のとおり、紹巴が初学者個々人のレベルにあわせて、内容を取捨選択した連歌指南書である。別のテキストととりあわせて机上に備えることを薦めて、効果的な自習方法を遠隔指導することもあった。オーダーメイドにカスタマイズ、都から遠く離れた地方作者に対して、紹巴は至れり尽くせりの心遣いを発揮しつつ、上洛の機を得るなら実地指導すると約束もする。京都への憧憬、対面の価値は、いや増しに増したに違いない。

◇連歌史の残像

戦国時代から安土桃山時代にかけて、連歌は、神への誓約に基づく非日常的で一回的な営みから、人間社会の階層や障壁をときほぐすための現実的で反復的な営みへと、徐々に変質を遂げてゆく。一揆的結束の連歌、夢想を仮装した祈祷のための連歌から、取次たちの交際の具としての連歌へ。連歌史は紹巴とともに中世から近世に移行する。

他の句に自の句を付ける興奮、自の句が他の句によって変貌を遂げる驚喜、そして、刻々と移り変わる展開を共有する愉悦の時間。劇的魅力に満ちた紹巴の人生の核心は、おびただしいほどに興行されたその連歌のドラマのなかに宿るであろう。高精細フルカラーが映し出すドラマの残像に諸学の知というメスが入れられ、紹巴連歌の虚実がえぐりだされることを期待している。

[書き手]尾崎 千佳(おざき ちか)

山口大学准教授。連歌俳諧史。

〔主な著作〕

・共編著

『西山宗因全集 全6巻』(八木書店、2004~2017年)

・論文

「宗因における出家とその意味」(近世文藝108、2018年)

「宗因と伊勢 続貂」(ビブリア152、2019年)

「大内氏の文芸」(『大内氏の世界をさぐる』、勉誠出版、2019年)ほか