伊達市と伊達氏
https://www.city.fukushima-date.lg.jp/soshiki/87/141.html 【「伊達市と伊達氏」】 より
「地域の魅力 ふる里再発見 伊達市と伊達氏編」は、だて市政だより2006年(平成18年)6月号から12月号まで掲載されました。
伊達氏初代が築いた高子岡城跡
高子岡城跡入口の写真 高子八幡宮の写真
阿武隈急行線高子駅から、北へしばらく進むと白い鳥居が目に入る。ここが、伊達氏がはじめて居城としたと伝えられる高子岡城跡である。鳥居をくぐり、桃畑を横目にさらに進むと、伊達氏ゆかりの八幡宮がひっそり立ち、往時の姿を偲ばせている。
文治5年(1189)夏、源頼朝が率いる大軍が奥州平泉の王者藤原泰衡を討 つため鎌倉を出発した。8月になって、頼朝軍が伊達郡に侵攻すると、泰衡軍は厚樫山(国見町)の山腹に二重堀を築き待ち構えた。ここに世に言う「厚樫山の合戦」が開始されたのであった。
この合戦で、泰衡配下の信夫庄司佐藤氏(飯坂大鳥城主)を倒し活躍したのが中村入道念西一族であった。中村氏は頼朝から恩賞として伊達郡を拝領し、後に高子岡に居城した。そして姓を伊達に改め、鎮護の神として亀岡八幡宮を山上に祭った(伊達氏ゆかりの八幡宮は、その後、居城が置かれた梁川や桑折、仙台にも建立された)。
これより後、伊達氏は居城を梁川、桑折、米沢などに移し、独眼竜で知られる17代政宗のときに、豊臣秀吉によって伊達郡を含む旧領を召し上げられ、天正19年(1591)に岩出山城へ、慶長8年(1603)には仙台城へと移った。
.「伊達氏ゆかりの鎌倉将軍」の夢は散る
大進の局ゆかりの井戸跡の写真 粟野大館の土塁跡と思われる場所の写真
鎌倉幕府を開いた源頼朝には、正室北条政子との間に生まれた頼家(2代将軍)、実朝(3代将軍)のほか、伊達氏ゆかりの男子がいたと伝えられている。
鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」によれば、伊達氏初代と伝わる入道念西の娘「大進の局」は頼朝の側室となり、男子貞暁(じょうぎょう)を出産した。貞暁は、北条政子の目をはばかって育てられ、幼くして出家し、京都の仁和寺に入った。
江戸時代に仙台藩4代藩主伊達綱村が編纂させた「伊達正統世次考」や、高野山の歴史を記した「高野春秋」によると、2代将軍頼家のとき、承元2年(1208)に伊達氏2代宗村(為重)が密かに貞暁を次期将軍に就けようと謀ったが、執権北条義時に露見して失敗したという。宗村は身を隠し、貞暁も高野山へ逃れた。
この時、宗村が隠れ住んだのは、伊達氏の遠い親戚である鎮守府将軍藤原利仁の遺領があった越前国粟野(現福井県敦賀市)といわれており、後に伊達氏3代となる義広も、父宗村と行動をともにしたと思われる。 義広は諸種の伊達系譜図に「粟野義広」と見え、隠住の地「粟野」を名乗ったことが分かる。
この事件の10年後、不思議なことに北条政子が貞暁に次の将軍になってくれるよう懇願している。しかし、貞暁はこれを丁重に辞退したという。 このころ、伊達氏はゆるされて本領の伊達郡に戻ったと考えられる。
「伊達正統世次考」によると、梁川八幡神主菅野神尾の旧記から、伊達氏は高子岡城から粟野大館へ移ったとし、館主を義広としている。また、延宝3年(1675)の「伊達信夫廻見覚」には、粟野大館は梁川から2キロメートルの場所に約300メートル四方の土塁がめぐっており、伊達氏の先祖が居館したとしている。
掛田の故佐藤健一さんの研究によれば、霊山町山戸田地区には大進の局が使用したと伝わる「大局の井戸」と呼ばれる井戸がある。
この地は、宗村の弟為家の分流である石田氏や山戸田氏が住んでいた地域で、一時、大進の局が一族を頼って逃れてきたのであろうか。大進の局 は、貞暁が死去した寛喜3年(1231)頃には、いまの大阪に住んでいたという。
現在、石田地区の菅野氏の一部は、この石田氏の子孫であるとされている。
南朝の奥州政府が霊山に移る
濫觴の舞(霊山神社例大祭)の写真 霊山寺大伽藍跡の写真
美しい紅葉で知られる霊山。その山上には慈覚大師が開山した霊山寺の大伽藍があったという。山上を歩くと、寺建物の礎石が数十残っているのに出会うので、ご存知の人も多いであろう。
「霊山寺縁起」によれば、霊山寺の寺領は昔伊達・宇多・刈田の三郡であったといい、3600坊あるいは3800坊を擁していたともいう。
元弘3年(1333)暮れ、建武新政権下、後醍醐天皇は新しい奥州政府開府 のため、第七皇子の義良親王(後の後村上天皇)と陸奥国司の北畠顕家を多賀の国府へ下した。
建武2年(1335)に顕家らは数万の奥州兵を率いて、京都の足利尊氏軍を追い払うのに成功し、凱旋帰国した。 しかし、間もなく足利方によって多賀城が危うくなると、建武4年(1337)1月8日に、義良親王と顕家は霊山寺の勢力と南朝の有力武将であった伊達氏7代当主の行朝(行宗)、結城宗広入道を頼り、伊達郡の霊山寺に移った。顕家は、同日付けで霊山に着いたことを後醍醐天皇に報告している。
建武2年(1335)12月から、伊達家臣の石田孫一が霊山館で警護にあたっているなど、早くから霊山寺は重要な基地として整備されており、有力な大将(広橋修理経広か)が在城していたと見ることができる。孫一は石田の大舘に居館したと見られる。
顕家は、再び京都の足利尊氏軍を追い払うため、建武4年8月11日に霊山城を出発しが、延元2年(1337)に和泉国石津(現在の大阪府堺市)で戦死した。21歳の生涯であった。
顕家の跡を継いだ弟の顕信らは、奥羽各地で戦いを展開したが、勢力を挽回できず、貞和3年(1347)8月頃に霊山城は落城した。この直前に伊達氏は北朝に降ったと見られる。このとき、霊山寺の建物群は全焼したといわれる。
現在、霊山神社に伝わる青磁の花盆と皿(県指定文化財)は、古来より陶磁器の生産地として有名な、中国・景徳鎮窯の優品で、霊山の二つ岩遺跡付近で見つかったといわれ、義良親王が在城のころ使用された可能性がある。
現在、石田地区や大石地区で行われている「濫觴の舞」は、義良親王を慰めるために、北畠氏が山上にある山王社の前で家臣に舞わせたのが始まりであると伝えられる。
もう1人の「政宗」 伊達家中興の祖、9代政宗
伝9代政宗の墓の写真 輪王寺土塁跡の写真
伊達家には「政宗」と名乗る人物が二人いる。一人は「独眼竜」として知られる17代政宗。そしてもう一人は伊達家中興の祖といわれる9代政宗である。
9代政宗は文武の才に恵まれ、和歌も堪能で、「山家の霧」と題する歌がよく知られている。また、彼の妻は室町幕府3代将軍足利義満の叔母にあたり、中央との繋がりが強かった。17代政宗の名は、この政宗にあやかって付けられた。
応永9年(1402)に、政宗は領地の割譲を求めてきた関東公方に対して、長倉館(伊達市館ノ内)や桑折赤館で反抗したが及ばず、会津方面へ逃れたという。ちなみに、政宗の代には本領である伊達郡のほか、伊具郡、刈田郡、柴田郡(宮城県)、長井郡(山形県)などが伊達領となっている。
政宗の墓は宮城県刈田郡七ヶ宿町の東光寺にあり、山形県東置賜郡高畠町に夫妻の供養塔が建っている。保原町柱田の東光寺にも政宗の墓と伝わる石塔や寺号である「儀山東光寺殿」と書かれた位牌もあるが、石塔の家紋が丸に横三つ引き両(伊達家の紋は丸に竪三つ引き両)であり、疑問は残る。
政宗の孫である11代持宗から14代稙宗までの本城であった梁川城(伊達市梁川町)は、丘陵突端部を利用した平山城で、南は広瀬川の断崖、西は段丘、北に中井戸、東に金沢堀という大きな堀で画されていた。
また、宮城県図書館が所蔵する「梁川絵図」などによれば、城の東側に東昌寺や常栄寺、覚範寺、輪王寺などの寺院が一列に並び、土塁と堀を方形に廻らしていた。近年梁川城は数度の発掘調査がなされ、当時の素晴ら しい遺構が多く検出されている。
11代持宗は大仏城(福島市杉妻町)に懸田氏とともに立てこもり、関東管領に反抗したという。彼は、後に梁川八幡宮を再建したほか、祖母の政宗夫人「蘭庭明玉禅尼」のため、嘉吉元年(1441)に、輪王寺を梁 川に創建しているので、梁川城に居城していたことは間違いない。
12代成宗も梁川城を本城とし、多くの献上品を携えてここから上洛し、将軍や公家たちに莫大な砂金や馬、太刀、名取川の埋れ木などを献上し、伊達家の勢力を示している。また古町観音堂や鬼石観音堂などを再建している。
14代稙宗、陸奥国守護となり、梁川から桑折西山に移る
上空から見た梁川城跡の写真 梁川城本丸跡庭園「心字の池」の写真
伊達家14代当主の稙宗 は、息子や娘を近隣領主に養子や婚姻によって送り込み、伊達家の勢力拡大を図った。また、巧みな外交手腕によって、大永2年(1522)12月い陸奥国守護職に就任。天文5年(1536)には、領国内の法律規範である分国法「塵芥集」を制定するなど、優れた政治力を持つ武将であった。
伊達家の居城は、11代持宗から梁川城に定着していたが、稙宗の代に桑折西山城(桑折町)に移っている。西山城への移転の時期は、「伊達正統世次考」によると、当時の梁川天神社神主記録に従い、天文元年(1532)としている。また、同年に梁川八幡神社が桑折西山へ移ったという。
梁川の地で城を拡張する考えもあったであろうが、現在の山形県や宮城県方面への領土拡大を夢見ていたため、奥州街道沿いであり、羽州街道の分岐点にも近い桑折の地が便利と判断したと見られる。
順調に勢力を拡げていた稙宗であったが、天文11年(9年説もある)に、 息子晴宗によって、西山城の座敷牢に閉じ込められる。この事件を発端に、奥州の大名・小名や一族を巻き込む大合戦になってしまった。いわゆる「天文の乱」である。
原因は、三男の実元を越後上杉家に養子に出そうとしたことで対立したなど、諸説言われているが、よくある父子対立である。
娘婿の懸田俊宗と相馬顕胤、家臣の小梁川宗朝は、稙宗救出のためすぐさま駆けつけ、保原高子原で西山城の様子を覗った。彼らは阿武隈川を渡り、程なく稙宗を救出したが、晴宗は稙宗に不満をもつ一族を味方につけ、懸田・相馬の連合軍と戦い、戦乱は長引いた。この戦いで、相馬軍が長く陣を置いたのが、掛田の陣場であった。
合戦は、はじめ稙宗方が優勢であったが、最終的に晴宗方の勝利に終わった。晴宗は、天文17年(1548)の9月頃に居城を桑折西山城から米沢城へ移し、天文22年(1553)には、味方した者に領地の安堵や新領の宛がいを行っている。
稙宗は丸森城(宮城県丸森町)に隠退し、永禄8年(1565)にこの地で没した。稙宗が桑折西山城を居城としたのは、ほんの数年間で、以後、ほとんど利用されることがなく現在に至っている。
奥州戦国の覇者伊達政宗、秀吉に屈す
梁川八幡神社の写真 霊山大条館跡の写真
伊達政宗は、永録10年(1567)に伊達輝宗と母義姫(最上義守娘)の長男として米沢城に生まれた。幼いときに疱瘡(天然痘)にかかり、右目を失明した。
天正7年(1579)に13歳となった政宗は、三春城主の田村清顕の娘愛姫と結婚した。愛姫は広瀬川沿いに梁川に下り、小坂峠を経て米沢に入ったという。天正10年(1582)に、政宗は初めて梁川八幡宮に参拝した。
同12年(1584)、政宗は父輝宗に家督を譲られ伊達家17代当主になった。18歳であった。
天正17年(1589)6月、会津の葦名氏を攻略した後、同年10月には、二階堂氏 の内紛に乗じて須賀川を手に入れ、伊達家の領土は、ほぼ福島県中通り・会津、山形県南部、宮城県中南部に及ぶ広大な地域となった。
天正18年(1590)に会津黒川城(現在の会津若松城)で新年を迎えた政宗は、連歌の席で「七種を一葉によせて摘む根せり」と詠んだという。七種とは安達・田村・安積・岩瀬・石川・白河・会津の七郡をさすという。伊達氏歴代の中で最大の領土となり、奥州の覇者となった。
しかし、名実ともに天下人となっていた関白豊臣秀吉は政宗の葦名攻めを非難。関東地方に勢力を誇った北条氏を滅ぼした(小田原の役)後、政宗から会津・岩瀬・安積の三郡を没収した。続いて秀吉は会津黒川へ向かい、8月9日に、さらに白河・石川等の諸郡を取上げ、三郡と共にそれらを会津黒川城主となった蒲生氏郷に与えた(42万石)。このため、政宗の所領は信夫郡・伊達郡・刈田郡・長井郡などとなった。
「蒲生氏郷記」によると、天正18年11月、葛西・大崎地方の一揆鎮圧を命ぜられていた政宗は、家臣の裏切りにあった。家臣の山戸田八兵衛(霊山大条館主)と牛越宗兵衛が、伊達政宗謀反の証文を蒲生氏郷のもとへ持参したのである。
後に行われた秀吉の御前での詮議(取調べ)で、この証文は政宗の花押の鶺鴒に眼があいていなかったので偽物と断じられ、政宗の罪は問われなかった。この申し開きに失敗していれば、政宗の首はなかったろうと言われる。あるいは、伊達家の存在さえも無くなっていたであろうと思われる。政宗の用心深さを物語る一件である。
山戸田八兵衛と牛越宗兵衛は、政宗の右筆(書記)であったというから、なお更である。
政宗、秀吉の命で伊達郡を失う
月見館跡の写真 梁川城代須田長義の墓の写真
天正19年(1591)夏6月、南部家臣九戸政実が謀反を起こしたとき、政宗は、蒲生氏郷らとともに乱の平定に向かった。
「蒲生氏郷記」によると、会津と九戸の往復の間と思われるが、政宗家臣の須田伯耆(月見舘主)が、蒲生領内で旧伊達家臣一味の者たちが氏郷殺害を計画していることを氏郷に密告したという。伯耆は彼の父が、政宗の父輝宗に殉死(主君が死んだ時に、臣下があとを追い自殺すること)した際の処遇に対して不満があったらしい。
氏郷は一味を捕らえ処刑し、伯耆はその功績で氏郷に召抱えられ、その後も月見舘に居館したと見られる。
豊臣秀吉は天正19年8月から9月頃、政宗から伊達郡・信夫郡・長井郡などを没収し、替わりに葛西・大崎地方の12郡を政宗に与え、伊具・名取・亘理など8郡を安堵した。
伊達郡・信夫郡だけは残してほしいという政宗の願いは実らなかったが、総石高は62万石あり、政宗の面目は保たれ、米沢城から岩出山城(宮城県大崎市)へ移った。ほとんどの家臣たちは新領地へ移ったが、親子兄弟の一部は残った。政宗の旧領は、蒲生氏郷に加増された(約73万石、後の改め高92万石)。
慶長3年(1598)、急死した氏郷に替わり、越後から上杉景勝 が会津若松城に入った。景勝は、蒲生旧領と佐渡国三郡、出羽国の一部を合わせて120万石を領し、伊達郡と信夫郡も上杉領に含まれた。
慶長5年(1600)7月、「関が原の合戦」が始まると、徳川家康の命に背いて、政宗は刈田郡の白石城を攻め取った後、8月から10月に先祖古来の地である伊達郡と信夫郡を奪回するため軍を進めてきた。政宗は大枝城などに陣を置き、梁川城などを攻めた。しかし、景勝配下の須田長義(梁川城代)、本荘繁長 (福島城代)らの抵抗が強く、夢は実現しなかった。
後年、政宗が須田に会ったときに懐かしがって、須田に太刀を与えたという。長義の墓は梁川の興国寺にある。
関が原の合戦の後、政宗は仙台城へ移った。城下を整備し、100万都市仙台の基礎を築き、再び故郷伊達郡を攻め取ろうとしたことはなかった。もう新しい時代が始まっていたのである。
政宗は、仙台の地で大崎八幡宮や瑞巌寺などの造営にあたり、当時の最高の技術と文化を注ぎ込んだ。政宗自身は、諸大名や当時の一流の文化人らと交わり、高い教養を身につけた。