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私がいるという強い思い込み

2018.03.30 03:10

Facebook・Ayuka Mizoguchi さん投稿記事

もし人生が自分を満足させる旅ではなく、自分の本質(無条件の愛)を思い出す旅であったら、当然人生は自分の思い通りにはいかない。でもそこから真の愛と平和が見つかる♪


https://ayukablog.wordpress.com/?fbclid=IwAR0MiKKI6aW1XJ7HBZSlBLO_LCBHUBMFCXJdHtcYH79WKoYBgIlv3jfG5h8 

【私がいるという強い思い込み】 より

何も思い通りにならなくても幸せになる。そのためにまず、前回当たり前を疑うということ事実と解釈を分けるという、目覚めのための2つのコツのお話をしました。ですが、これを目覚めのハウツーだと思わないでくださいね。そうではなく、これは自分を含めた「存在」そのものの“自然観察”なんです。

般若心経のはじめに「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時」とありますね。般若波羅蜜は原語でPrajnaparamitaで、その意味は「the wisdom of directly realizing the non-conceptual simplicity of all phenomena(すべての現象を概念なしに直接に気づく知恵)だそうです。

これは私の先生でもあるルパート・スパイラさんが教えてくれた「ダイレクトパス」とまったく同じことで、ありのままの現象を一切の概念を通さずに深く見つめていくということです。

それによって、釈迦は私たちの本質は空であると見抜いたということなのです。

つまり、解釈(概念)も、当たり前だと思っていること(深い刷り込み)もすべて横に置いて、ただあるがままを観察するということです。徹底的な本当の意味の“自然観察”です。

さて、そうやって自分を見ていったとき、「自分」という存在を構成しているものは、前回の記事に書きましたように、思い、感情(感覚)、体のみですね。

その中でも一番私たちが分離を感じさせるものは、やはり「体」に違いありません。自我の一番の恐れは死であり、最も強い欲望は、自己の存続です。つまり、体を生き残らせること。

インテグレイテッド心理学では、自我の根本の恐れ(=人間の根本の苦しみの源)は、身体と精神の死であるとお話ししています。つまり、食べていけなくなること、また、存在価値がなくなること(役に立たない私、愛されない私・・・・)です。

でも、もし私たちの安全と永遠の生が確実に約束されていて、それを十分に感じていたらどうでしょうか?

言い換えれば、食べていけなくなる恐れも不安もない環境が整っていて、自分の好きなことだけに打ち込める。また失敗しても、性格が悪くても、どんなダメダメな自分でも周囲にいつも100%受け入れてもらえる環境であったら?

どれぐらい私たちの苦しみは減るでしょうか? または苦しみは生まれるでしょうか?

一時期、“分離のゲーム”という言葉が流行りましたが、これはある意味真を突いた言葉ですね。なぜなら基本的に分離した自分というのは幻想だからです。でも、母親のお腹の中で胎児としての存在が始まってから、私たちが体に同化してしまうことはほぼ必然であり、その結果自分という個体がいると思い込むことは免れないでしょう。

ちなみにリバーシングというセラピーがありますが、胎児の頃を思い出してもらうと、両親の気持ちや自分が両親から祝福されて生まれて来るのか?それとも迷惑、邪魔に思われているのか?などを繊細に感じ取っています。

つまり、“自分”という感覚がすでにしっかりあるわけです。そして、胎児が一番気にしているのも、やはり自分の存続です。祝福されていれば、自分は安泰で生き残っていける。

もちろん、分離を感じさせるのは体への同化だけではありません。“私の思いは私にしか分からない”、“私が一人で部屋で経験していることに気づいているのは私だけ”、だから「意識が分離している」、「分離した個の意識がある」という感覚に私たちは落ち込みます。(そうじゃないの?と思った方、おいおいお話して行きます)

こうやって「私という分離した個体」がいると強く感じた私たちは、自分を存続させるために、「より良い私」、「より良い人生」に勤しむわけです。

そして、この生き残りのための「より良い・・・」が、多くの苦しみを生み出します。今のままではいけない、成績が悪いとダメ、能力がないとダメ、それなりの知識がないとダメ、こんな欠点があってはダメ、自分には魅力がない、つまらない人間だ、何も提供するものがない・・・、と自己否定のリストは永遠に続きます。

または、誤った人生、間違った人生、失敗した人生、どこかでおかしくなった、自分は頑張ってきたのにこんな人生になっている、思い描いた人生とぜんぜん違ってしまった・・・、もちろん、自分を肯定している人も自分の人生に満足している人もいらっしゃるでしょう。ですが、肯定できて満足している理由がある限り、幸せはその理由に依存してしまいます。

望んだことが手に入ったから、思い描いた通りにことが運んだから幸せ。もちろんそれ自体は素晴らしいことですし、大いに喜びを満喫することは心身ともに良いことですね。ですが、このブログが提案する何も手に入らないけど幸せ♪もぜんぜんありなのです。理由がなく幸せ。望んだ通りにまったく行っていないけど心が平和。決して逃げていかない幸せ。

もしそこに興味があるなら、まずは「自分」がどんな存在なのかを深く知ってみることから始まるでしょう。

一つは、今までお話してきた自我としての自分の構造(体、思い、感情・感覚)。そして、もう一つは、自分特有の精神構造(自分の歴史、信念、価値観、セルフイメージなど)をよく見ていくこと。

さて、それらを深く見ていく前に種明かしをしてしまいましょう。今それが分からなくてもまったくかまいません。種明かしとは、「私という自己はいない」です。非二元の探求をしている人はよく知っていることですね。(ただ、知っているのと分かっているのはまったく別の話)

自我にとって一番のショックは、思いも感情も体もあるし、山も木も海もあって、あらゆるものがあるけど自分だけ存在していなかった・・・という真実です。(ほんとうは事象すべてないけど)

でも、実際には個としての自分がいる感は非常に強いわけです。繰り返しになりますが、そこをなぜか?と深くみていくのが、苦しみを解いていく鍵であり、また理由なき幸せへの入り口なんです。

なぜないものが、これほどまでにあると感じるのか? ヒントは、私たちは苦しいときほど、分離感が強く、分離した自分がいると感じるものです。

さて、もし現在もやもやと苦しい、または絶頂に苦しい、またはひく〜いレベルで苦しい感じがする・・・などあったら、それが体のどこに感じているのか?を見てみましょう。そして、そこに向けて深呼吸をし、自分にとって安心安全なイメージをしてみましょう。そして、また深呼吸♪

これは苦しみをしのぐ緊急手当で根本の処置ではありません。本当には楽にはなりませんが、苦しみからの休憩にはなるはず。

真のあなたはいつも愛・平和・力♪