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一家に遊女もねたり萩と月

2018.03.30 04:47

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno29.htm 【奥の細道(市振の宿 元禄2年7月12日)】 より

 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返し*など云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ*。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し*。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて*、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ*」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし*」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし 。

一家に遊女もねたり萩と月(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)

曾良にかたれば、書とヾめ侍る*。

 7月12日。天気快晴。新潟県西頸城郡能生町を出発。奥の細道

(市振の宿 元禄2年7月12日)の早川という川で芭蕉は足を滑らせて衣類を濡らしてしまった。河原で乾燥させてから、再出発。昼、糸魚川の新屋町左五右衛門宅で休憩。夕刻5時、市振に到着。「桔梗屋」という旅籠に宿泊したと当地では言っているが不明。

 市振は、新潟県西頚城郡青海町<にしくびきぐんおうみちょう>の親不知の南2.5km、北陸線市振駅周辺。寛延年間に関所が置かれ、北陸道のチェックポイントとなった。

 宿舎の記述が曾良にも無いので不明だが、本文のような事実は曾良の随行記には無いので、この遊女の一件は虚構であろうと思われる。

親知らず、子知らずの全景

いまは、トンネル道路が出来、北陸道の最大の難所も、難なく通過することが出来るが、芭蕉の時代は、浪静かな時に、波打ち際をそっと旅したのかと思うと、当時の苦労が偲ばれます。(文と写真提供:牛久市森田武さん)

「一家に遊女もねたり萩と月」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)

芭蕉が宿泊した「桔梗屋跡地」

 市振の宿は、今も、昔も「何も無い場所」のようでした。ただ、地元のオバサン達は、親切に長円寺や桔梗屋跡の案内をしてくれました。(文と写真提供:牛久市森田武さん) 

一家に遊女もねたり萩と月

 この一句、とかく虚構か真実かで論争が絶えない。最後の一文に曾良が記録したといいながら曾良の『旅日記』に記述の全く無いこと、西行の江口の遊女との和歌のやり取りの謡曲『江口』に真似て創作したものだとする、などさまざまである。

 「一家」の読み方も同じ宿の意と、孤立した人里離れた怪しげな一軒家とする説など有って定まらない。まあ、とおりいっぺんに読めばそれでよし、深読みすれば奥深く読める豊かな句ということなのであろう。

親しらず・子 しらず・犬もどり・駒返し:新潟県 糸魚川市歌にある北国街道最大の難所。親子といえども顧みる間も無く、犬も馬も渡りかねる難所 。

一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ:<ひとまへだてておもてのかたに、・・・ふたりばかりときこゆ>と読む。ふすまを隔てた通りに面した部屋で二人ほどの若い女の声が聞こえるの意。「面」は、ここが『源氏物語』「帚木」の巻からの影響があると思われるところから、「西」の誤記ではないかという見解がある。

越後の国新潟と云所の遊女成し:<えちごのくににいがたというところのゆうじょなりあし>と読む。遊女は、古くは、宴席などで接待をする女。遊女、売春婦。

白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて:『和漢朗詠集』の「白波の寄する汀に世を過す海士の子なれば宿も定めず」による。 「はふらかし」は身をもちくずすことをいう。 

衣の上の御情に、大慈の恵をたれて結縁せさせたまへ:<ころものうえのおんなさけに、だいじのめぐみを・・けちえんさせ・・>と読む。芭蕉一行は墨染めの僧侶姿であった。そこでこの女は、仏の慈悲をもって捨てないでほしいと言ったというのである。

神明の加護、かならず恙なかるべし:<しんめいのかご、かならずつつがなかるべし>と読む。神仏の加護は必ずありますよ、の意。 気休めの発言。

曾良にかたれば、書とどめ侍る:曾良の『旅日記』にはこの記述はない。

全文翻訳

今日は、親不知・子不知・犬戻・駒返など北陸街道の難所を越え、疲れ果てたので早々床に就いた。

ふすまを隔てた南側の部屋で、若い女二人ほどの話す声が聞こえる。年老いた男の声も混じって、彼らが話すのを聞けば、女たちは越後の国新潟の遊女らしい。伊勢神宮に参詣するために、この関所まで男が送ってきて、それが明日新潟へ戻るので、持たせてやる手紙を認めたり、とりとめもない言伝などをしているところらしい。「白なみのよする汀に世をすぐすあまの子なれば宿もさだめず」と詠まれた定めなき契り、前世の業因、そのなんと拙いものかと嘆き悲しんでいるのを、聞くともなく聞きながらいつしか眠りについた。

翌朝出立する段になって、「行方の分からぬ旅路の辛さ。あまりに心もとなく寂しいので、見え隠れにでもよろしゅうございます、お供させていただけないものでしょうか。大慈大悲のお坊様と見込んで、その袈裟衣にかけても慈悲の恵みと仏の結縁を垂れ給え」と涙ながらに哀願する。

不憫とは思ったが、「私たちは諸所方々に滞在することが多いのです。だから、あなた方は誰彼となく先を行く人々の後をついて行きなされ。神仏の加護は必ずありますから」とつれなく言って別れた。哀しみがいつまでも何時までも去らなかった。

一家に遊女もねたり萩と月

曾良に話したら、これを記録した。


http://www.basho.jp/senjin/s1407-2/index.html 【一つ家に遊女も寝たり萩と月】より

芭蕉 (おくのほそ道)『おくのほそ道』の市振での句。 

同じ一軒の宿に遊女と泊合わせた。おりしも庭には萩の花が咲き、月も照らしているよ、の意。遊女達のあわれな身の上を思う気持ちが、萩の花と月でより余情を深める。萩の花は遊女、月は芭蕉だと見る人は多いが、芭蕉が自身を上から照る月に見たてることはないのではないかとの意見もある。

この章は『曾良旅日記』に記述が無く、内容も異色であることなどから、『撰集抄』の江口の遊女の説話を元にした芭蕉の創作と考えられている。『おくのほそ道』全体を連句的に見るとそろそろ恋の場を必要としたからである。文章が創作であれば当然句も虚。

では現代俳句で「虚」の問題はどう考えればいいのだろうか。指導者から、実際に見聞きし感じたことを詠まなければいけないと指導されることがある。しかし元々俳句が、自由に想像の世界を切り開いてゆく連句から生まれたものであるから、そう堅苦しく考えなくていいと思う。実感や経験を句にすることは大切だが、例え空想で句を作ったとしても、どこかに作者自身が出て来るはずだから、あとは読者が評価してくれる。俳句は気楽にやりましょう。

とはいっても男性なのに女性の句を詠んだり、親が元気なのに病人にしてしまうなどは行き過ぎだと思うが・・・。