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蘇我の大王・ 天武天皇の謎を解く

2018.03.30 04:47

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7244010 【縄文2】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7991909   【乙巳の変】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7250972   【藤原氏の蘇我氏への遺恨】

http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-3.html 【「蘇我の大王」

天武天皇の謎を解く【第2章 謎に迫る】 (1)宝皇女(皇極・斉明)の謎】 より

③高向王と漢皇子  

 舒明期の国政は実質的に蘇我蝦夷の支配下にあり、皇極期は蝦夷とその子の入鹿に牛耳られていました。

 その時期の皇太子は古人大兄皇子で、その陰で逼塞した環境にあった異母弟の中皇子(中大兄皇子)は、鎌足が仔細に計画する蘇我氏による支配を覆す政変に同意し、実行・指示していました。

 これがその時期のおおまかな流れですが、通説では大王の血統から「用明期から推古期までのおよそ40年間が蘇我時代とする」とされています。

 しかし舒明大王も皇極大王も馬子から蝦夷に引き継がれた政策によって立てられた大王であり、平安期まで蘇我氏の血を引く天皇が続いています。従って「用明期から皇極期までのおよそ60年間を第一次蘇我時代」で、孝徳大王は勿論のこと、天智大王も蘇我氏の血を引いていますから、それ以降を「第二次蘇我時代」ともみることができます。

 しかし『紀』はそれを表に出さずに、継体大王の子の欽明大王を起点として、父系でつなごうと見せかけています。蘇我氏を表に出すと百済系が前面に表れてしまうためだったと考えられます。『紀』の各大王(天皇)紀の初めに記される諡号と出自を略記すると、次のようになります。

  「欽明」 天国排開広庭天皇 (第29代)=継体の嫡子。母は手白香皇后。

  「敏達」 渟中倉太珠敷天皇 (第30代)=欽明の第二子。母は石姫皇后。

  「用明」 橘豊日天皇 (第31代)=欽明の第四子。母は堅塩媛。

  「崇峻」 泊瀬部天皇 (第32代)=欽明の第十二子。母は小姉君。

  「推古」 豊御食炊屋姫天皇 (第33代)=欽明の中女。用明の同母妹。

  「舒明」 息長足日広額天皇 (第34代)=敏達の孫。押坂彦人大兄皇子の子。母は糠   手皇女。

  「皇極」 (第35代)=敏達の曾孫。押坂彦人大兄皇子の孫。茅渟王の女。母は吉備姫王。

  「孝徳」 天万豊日天皇 (第36代)=皇極の同母弟。

  「斉明」 天豊財重日足姫天皇(第37代)・・・・このあとで説明する。

  「天智」 天命開別天皇 (第38代)=舒明の太子。母は皇極。

    ※「弘文」(第39代)を明治期に追諡。

  「天武」 天渟中原瀛真人天皇 (第40代)=天智の同母弟。

  「持統」 高天原広野姫天皇 (第41代)=天智の第二女。母は遠智娘。

    ※『続紀』での和風諡号は日本根子天之広野日女。

 そして、二回も王位に就いた宝皇女について最大の謎を秘めるのが、「斉明紀」の初文にあります。

 「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は、最初に橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと。用明大王)の孫の高向王(たかむこのおおきみ)にとつがれ、漢皇子(あやのおおきみ)をお生みになられた。のち息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと。舒明大王)にとつがれ、二男一女をお生みになられた」という、再婚を記した文章です。

 この記事の奇妙さは、①高向王の正体が不明、②高向王の父母が不明、③漢皇子の死亡が不明で、これら4名の詳細が『紀』の他のどこにも記載されていないことにあります。わずかに記されているのは、高向王が用明大王の孫だったことだけです。

 そこで、宝皇女の④田村皇子(舒明大王)の妃になる前の初婚のことが、なぜ「舒明紀」にも「皇極紀」に記されなかったのか、⑤その前に、なぜ舒明大王と再婚だったことを記す必要があったのか、すべてに疑問が出てくるのです。

 その文に「のちに舒明大王に嫁した」とあり、宝皇女が中大兄皇子を生んだのが626年(22歳)ですから、高向王との結婚は大海人皇子の推定生年を入れれば622年以前、18歳より前ですから、おそらく16~17歳だったと考えられます。

 しかし、高向王が下賎の身ならともかく、その父は用明大王の皇子ですから、異母だったかどうかは別にして、『紀』が誇大に聖人化した厩戸皇子(聖徳太子)の兄弟か姉妹になります。

 そして漢皇子は当然、天智大王とは同母だが異父の兄になります。

 そのような血統にある宝皇女の前夫なら、妃の名も、堂々と正体が明かされて何の不思議もありません。それどころか『紀』は帝王紀なのですから、記録されなければならなかった事柄です。ところがそれだけの文章しかありません。

 そこで、それらは故意に隠されたからだと考えなければなりません。

 これについては、宝皇女と高向王、高向王と用明大王や厩戸皇子との関係を明記すると、『紀』が可能な限り伏せようとする、蘇我氏の血を引く大王家の人々と、大王家を操った蘇我氏との切り離せない関係を強調することになってしまうからだった、と推測できます。

 『紀』がその詳細を記すと、恐らく宝皇女の蘇我色は更に強調されて、中大兄皇子が起した変は単なる内乱に扱われる可能性があったと思われます。藤原氏勃興のきっかけになった「乙巳の変」は、世の改新のための命がけの改革でなければならなかったのです。

 しかし恐らく不比等はすべてを承知の上で、『紀』にその疑問が生じる文章を天武天皇を暗示するために故意に残したか、天武天皇の出自を持統天皇や元明天皇に示すために残さなければならなかったのか、そのどちらかだったと考えられるのです。

 なぜなら、その短文がなかったなら、宝皇女が舒明大王の妃になる前に夫も子もいたことも、後世の人間にはわからなかったからです。年紀の途中の不明記事ではありません。「天智紀」につながる「斉明紀」の初文です。

 従って、ここで『紀』が天武天皇の出自を記していないという見方を捨てて、

「斉明紀」の初文は天武天皇の出自を記したものであると理解するべきでしょう。

 天武天皇にまつわる謎は、これを鍵にしなければ解けないようになっているはずだから、これを鍵にすることで解けるはずだ、と発想を逆にしたのです。

 連綿と続く皇統譜を記すことを目的にした『紀』では、天智大王は皇極帝からではなく、斉明帝から大王に指名され、そして天武天皇は(兄)弟から王位を受け継いだことににしなければならなかったので、「斉明紀」に漢皇子の名前は残さなければならなかった、と解釈すべきでしょう。従って、「宝皇女は舒明帝との間で一男一女をもうけた」のが事実だったと思います。

 小林恵子(こばやしやすこ)氏がその初文に着目して、高向王を孝徳期の高向臣、つまり高向(漢人)玄理(たかむこのあやひとくろまろ。玄理は黒麻呂とも記す)、そして漢皇子を天武天皇とみなす説を発表しました。そこで推定された天武天皇は推古三十一年(623年)生まれで、享年64歳です。

 同氏による、皇室祭祀からいわゆる天武系八代七天皇が除外されていたという発見も、大きなヒントになっています。

 高向玄理は当時の有力官人で、小野妹子に従って推古十六年(608年)の第三次遣隋使に加わり、舒明十二年(640年)に帰国、孝徳大王の顧問的立場の「国博士」(くにのはかせ)にまでなりました。また孝徳大王の白雉五年(654年)には遣唐使の長になって海を渡りましたが、唐で没しました。

 しかし他の研究者も指摘する通り、玄理が宝皇女の初婚時頃にも大海人皇子の推定出生時頃にも、日本に戻っていた痕跡はありません。また608年は宝皇女14歳で子をもうける年齢ではなく、学生(がくしょう)の玄理を結婚相手にしなければならない立場でもなかったと思います。

 玄理を出した高向氏は、蘇我の祖の石川宿禰から分かれてのちの河内の高向村(河内長野市)を本拠にした、蘇我系としては宗家の分家とも言える古い家柄だったとされています。その本貫を福井県とする説があり、蘇我氏とは別ルートで、越方面から移住してきて継体大王と共に移住してきた氏族だったと考えられます。

 しかし高向臣は王族でなくまた玄理を用明大王の孫とする根拠が薄いため、その子が皇子と称されたかどうか、血統と名称にも疑問があります。

 本論では、天武天皇が蘇我氏の人物だったことを数々の状況証拠を積み重ねることと系譜の作成によって、それを明らかにします。

 『紀』がわざわざ残した「高向王は用明大王の孫」は、舒明大王を「敏達大王の孫」、また皇極大王を「敏達大王の曾孫で、押坂彦人大兄皇子の孫」としたのと同じ表現方法を取っています。しかし、舒明大王と皇極大王は敏達大王につなげられても、高向王が蘇我氏の血統にあることは隠しようがなかったのです。

 「斉明紀」初文の読み方を変えれば、「斉明大王は高向王の子をもうけてから舒明大王の妃になった。中大兄皇子は斉明大王の長男ではなかった」です。ここで、舒明大王がなぜ他人の子をもうけた女性を妃に迎えて、さらに皇后に立てたのかという、極めて重大な疑問が発生します。

 宝皇女は605年生まれで、田村皇子の妃になったのは推古三十二年(624年)前後と考えられていますから、「舒明大王は推古三十二年頃に、高向王にとついで子をもうけて21歳くらいになっていた宝皇女を、妃に押し付けられた」という意味で解釈されます。

 従って、舒明大王の意思でそのような婚姻が行われたとは到底考えられず、宝皇女は馬子と蝦夷によって、大王にする予定の田村皇子の「皇后予定者」として再婚させられた、と考えられるのです。

 そしてここで更に重要なのは、漢皇子は当然その前に生まれていることと、本論で天武天皇の生まれに622年説を採用したことです。つまり漢皇子の生年は天武天皇の生年と、天武天皇より一回りくらい上だったと推定される入鹿の生年とも、相反しないのです。天武天皇を漢皇子だったとみなせる重要な要素です。

 しかし入鹿を漢皇子とみなすことはできません。入鹿=漢皇子だったなら、高向王=蝦夷=用明大王の孫になってしまうからです。だからと言って、『藤氏家伝』に入鹿が皇極大王の「寵幸近臣宗我入鹿」と書かれていることから、入鹿を皇極帝の愛人と見たり高向王とみなす説がありますが、大王が入鹿を特別にかわいがったのは事実だったとしても、この説は受け入れられません。

 また田村皇子についてはその後、「王位に就くと、妃だった蝦夷の妹(法提郎女。ほてのいらつめ)を差し置いて、宝皇女を皇后にさせられた」ことになりますので、これについては、馬子が敏達大王の皇后だった炊屋姫を大王(推古)に立てたのを倣って、蝦夷が「舒明大王が崩じると宝皇女を大王(皇極)に立てた」としか理解できません。

 そして、蘇我の宗家が血がつながらない皇子や大王にそこまでの力を持っていたことがわかれば、蝦夷に関する『紀』の記述のほとんどが無理なく理解できることになります。

 まず、宝皇女が漢皇子を身ごもっているときかもうけた直後に、高向王は亡くなったものと考えられます。そして蝦夷が田村皇子に対して、その寡婦を押しつけて強硬に大王に立てたことから、蝦夷と田村皇子の間には密約があったことも推定できます。また、それが蝦夷の大王家に対する影響力の根源だったから、宝皇后は人形のように王位にも就けさせられた、と説明できるのです。

 その政略結婚の手段としては、まさに第1章3-3で述べた「①味方につけておきたい、同格あるいは格下の家柄との縁組」です。この意味では、大海人皇子が中大兄皇子に額田王を譲った際には、何らかの密約が交わされていたように思われます。いずれにしても、名家の女性が政略の道具として使われることが多かった時代です。

 孝徳大王が下した旧俗の廃止を命じた詔の中に、「夫に離婚された妻が何年か後に他の男と結婚するのは当然のこと」という箇所があります。ここから、年代からさらに推測すれば、宝皇女を高向王に配して、高向王が没したあとでは田村皇子の皇后予定者としたのは、あとの時代を見通した馬子の計画と指示に基づくものだったと思われるのです。だから馬子が没する前に、蝦夷が10名足らずの要人を集めて会議を開くまでもなく、田村皇子の大王擁立は既に決定していたと考えられるのです。

 蝦夷に対して、高向王に先立たれた宝皇女を田村皇子に配する策を蝦夷に授けたのは馬子で、舒明大王崩御後、皇后を大王に立てたのは蝦夷と入鹿の意志だったと考えられるのです。

 ちなみに、上に記したような和風諡号は持統期以降に整えられて、第53代淳和(じゅんな)天皇(840年崩御)まで贈られました。

 そして用明大王から斉明大王までの間の4名(5代)の大王に付けられた「豊」(とよ)は、蘇我氏系であることの識別文字として採用されたものと考えられます。従って、敏達大王の系譜を強調される斉明大王も、諡号上では蘇我氏系だったことが示されていると考えられます。

 また、改新に関係した孝徳大王以降は欽明大王に用いられた「天」を再使用して、実態は別にして、皇統が欽明大王につながることを明示して、更に天智大王からは蘇我氏の「豊」と切り離されたものとみなされるのです。


http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-4_main.html  【「蘇我の大王」

天武天皇の謎を解く【第2章 謎に迫る】 (2)蘇我蝦夷の謎】

①「乙巳の変」と高向臣  下に目次がなかったり開ききっていない

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(2015.02.04修正)

 馬子は嶋宮に館を構え、大臣になってからは「嶋大臣」と呼ばれましたが、その前後から「(蘇我)葛城臣馬子」と称していたと推測されます。これは馬子が推古大王に、「葛城の県(あがた)は私の元の本拠であり、その県にちなんで姓名を名乗っている」と言ったことに拠ります。

 馬子と同時代に厩戸皇子の側近として、大王家以前から葛城に居住していた古代の大豪族で皇別(こうべつ。大王や皇子の子孫)葛城氏の血筋を引く、葛城臣烏那羅(かつらぎのおみおなら)という人物がいました。信憑性はありませんが、馬子は葛城氏も蘇我氏も祖先が同じ建内宿禰(たけのうちのすくね)だという理由を付けて、実質的に葛城県を既に支配下に置いていために、馬子も葛城臣を名乗っていたようです。

 馬子はそのことばに続いて葛城県の私有を申し出ましたが、葛城氏が完全に凋落していたわけではないので、推古帝に強引すぎることをたしなめられて、実現しませんでした。

 しかし馬子が葛城臣と称していたことに対する咎めは受けていませんから、蘇我の宗家であり同時に葛城氏の長という立場は認められていたということでしょう。

 馬子の母と妻について詳しいことは不明ですが、住まいが葛城にあったと言ったことから、義母(稲目の妻の一人)が葛城本宗家の娘で、そこに生まれた娘が馬子の正妻になって、葛城一族を統率する立場になっていたものと思われます。稲目も馬子も、往時の畿内で名門豪族だった葛城氏を取り込むために、葛城氏宗家の血統にある娘と無関係だったとすることはできないからです。

 さらに推測すれば、敏達大王のあとに大兄皇子が大王(用明)に立てられたのは、稲目からすると用明大王が娘の石寸名(いしきな)の夫として義理の息子であり、同時に娘の堅塩媛の子として孫でもあり、さらに嫡男馬子の義理の兄でもあったという理由もあったからだろう、と考えられます。用明大王はまさに蘇我氏のために擁立させられた大王だったわけです。

 用明大王と石寸名の間に生まれたのが田目皇子で、葛城直磐村の娘の広子との間には、当麻氏の祖になった麻呂子皇子(当麻皇子)をもうけています。

 そして蝦夷は、宝皇女が大王(皇極)になったとたん、葛城の高宮(御所市の高宮廃寺跡)に祖廟を建てて、そこが蘇我の領有地であることを宣言しました。

 大王はそれを責めていませんから、蝦夷の代には蘇我氏が葛城氏を完全に押えてその土地の実権を握っていたことがわかるのと同時に、これも蝦夷と皇極大王の強い関係を示していると考えられます。

 蘇我氏の人物の呼称については、養育関係に基づく場所の名前だけでなく、血縁関係がなくても、別氏族の長に指名されて、その氏族の名を付けた「臣」や「王」と名乗ることがあったと推定されます。

 馬子の異母弟だったと推定される摩理勢(まりせ)は、「境部臣」を名乗りました。天武天皇が定めた「八色の姓」で、朝臣に次ぐ姓の宿禰を授けられて、境部(橿原市)に居住していた氏族に「坂合部連」(さかいべのむらじ)があり、彼らの族長となって統率したと考えられているのが「境部臣」です。

 摩理勢を馬子の弟、また従弟とする説もあります。摩理勢は上宮家との係わりが深く、泊瀬王(山背王の異母弟)を頼りにしていたことや蝦夷への反発、また蝦夷に討たれたことなどから、馬子の実弟(蝦夷の実叔父)とは考えにくく、馬子の異母妹(小姉君あるいは石寸名)の兄弟だったのではないか、と思われます。

 ちなみに、摩理勢は田村皇子(舒明大王)の皇位継承の前に山背皇子の擁立を決めていましたが、大夫たちに「大兄王の命に違うてはならぬ」とたしなめられています。これは非常に示唆に富むことばです。山背王はその前に不服でも蝦夷の決定に従うと言っていますので、摩理勢が独走した悪者になります。そして、ここからの『紀』の構図は、舒明大王を立てるまでの蝦夷も、摩理勢が擁立を謀った山背王も善人であり、のちに、皇極大王を立ててから悪人になった蝦夷と、善人であり続けた山背王を入鹿が独断で討って一族を滅ぼしたので、蝦夷と入鹿を中大兄皇子が討った、という流れになります。

 更に蛇足ですが、筆者は、田村皇子の擁立を馬子は生前に決めていて、推古大王にも蝦夷にも伝えていたのですが、内紛を恐れた蝦夷がすぐに命令を出せなかったために混乱し、最終的に摩理勢を処断して収めた、と考えています。

 推古大王の宮の上殿(かみつみや)を与えられた厩戸皇子は「上宮王」と呼ばれ、その子の山背大兄皇子は山背氏に養育されたものと考えられています。

 山背臣の人物では、推古期に山背臣日立(ひたて)がわが国で初めて方術を学んでおり、「八色の姓」で山背臣が朝臣姓を授かっていますが、系譜は不詳です。しかし山背を付けられた皇子が、「山背臣」や「山背王」とも称されていました。山背大兄皇子が「山背大兄王」とも記されているからです。

 『記』においては、欽明大王と堅塩媛の間の第八皇子山背王子が「山代王」、押坂彦人大兄皇子と桜井玄(ゆみはり)皇女(『紀』の敏達大王と推古大王との間の第七皇女、桜井弓張皇女)も「山代王」の名を継いでいます。

 皇極大王の祖父になる桜井皇子は、『記』では桜井玄(ゆみはり)王と記されますが、「吉備王」と呼ばれていた可能性もあることを述べました。これは吉備姫王の父だったことからも妥当性があると思われます。また、後述しますが『紀』で「身狭(武蔵)臣」と呼ばれた蘇我日向は、『続紀』「文武紀」に記される「日向王」だと推定されます。

 従って、馬子から大臣位を継いだ蝦夷についても、館を構えた場所から「豊浦(とゆら)大臣」と称されたのですが、入鹿が林臣と記されるのと同様に、養育された士族の長としての立場もあったものと考えられるのです。

 その推理に重大な暗示を与えてくれるのが、「皇極紀」に記される高向臣国押(たかむこのおみくにおし)です。

 高向氏は南河内に拠点を置いた古族で、蘇我宗家と祖(武内宿禰)を同じくするとされています。その一族は恐らく継体大王の時代から、大王家の警護役を任務としていたようです。蝦夷も、高向氏は大王家に対する蘇我氏の見張り役だと思っていたのでしょう。しかし長く大王家についていた高向氏は、蘇我氏の分断と宗家の打倒を狙う鎌足と中大兄皇子にすでに抱き込まれていたのです。

 だから入鹿たちが山背大兄王を攻めて一旦取り逃がした時には、国押は「大王の宮を守るのが役目」と、追討の兵を出すことを拒みました。

 そして「乙巳の変」では、国押は蘇我宗家に対して明らかな裏切り行為に出ました。入鹿の遺体が蝦夷に送られたあと、甘樫丘(甘橿丘)の北側の尾根にあった蝦夷の館の守りについていた東漢氏などを、「吾等は君大郎(きみたいろう)のことで死刑に処せられるだろう。大臣も今日明日のうちに殺される。それなら誰のためにむなしい戦をしなければならないのか」と、解散させてしまったのです。東漢氏は技術や武力を持って、古くから蘇我宗家に直接従った数十の枝族からなる大集団でした。

 国押のその言葉では蝦夷を単に「大臣」として、「君大郎の父」と切り離しています。しかし「君大郎」は「主君の大郎」で、大郎は太郎つまり長男のことですから、君=蝦夷で大郎=入鹿です。また、国押を長とする高向臣の君(=王)が蝦夷だったことを暗に示しています。

 『紀』のこの箇所については『藤氏家伝』(正式には『家傳』で藤氏の名はついていない)とほとんど一致していて、入鹿を示す「君大郎」も使われているので、『紀』と『家伝』のどちらが元になったのか疑問なのですが、「賊党高向国押」と記しているのが目につきます。鎌足が利用して協力させた国押を「賊党」にしたことに、『藤氏家伝』の性格が現れています。国押が「大臣も今日明日のうちに殺される」ことを一人で勝手に予測したはずがなく、計画を国押に教えた人物がいたことを隠しているからです。

 高向臣の名称については、蘇我稲目の弟の蘇我塩古(しおこ、また桓古ともいう)が河内の高向村に居所を構えたので「高向臣」の姓を負ったとされています。塩古が初代高向臣で、蝦夷は豊浦に居を構えながらその地位と名称を継いだ「高向臣蝦夷」として国押の君(王)だったと考えられます。

 つまり、 蝦夷が養育された氏族については、その名前から東国の氏族と見る説がありますが、ここから考えられるのは、

蘇我蝦夷は高向臣に養育されたことです。

 高向氏は蘇我氏と同祖と伝える名家で、国押は大王の宮の警護長を務めるほどの重用人物ですから、『紀』の流れからすれば、入鹿が殺されたために国押に死罪を与えられる力を持った人物は、彼らの統率者だった蘇我本宗家の蝦夷しかいなかったのではないかと感じさせます。ところが国押は、すぐに殺されるとわかっている蝦夷に死刑にされることはないと知っていたのです。

 だからここでは、国押の部隊と東漢氏の兵たちを処罰できる人物が別に存在していた、と考えなければなりません。

 ここで細かく見直さなければならないのは、国押は「吾等は死刑に処せられるだろう」が「守るべき人がいなくなるのだからむなしい戦はやめよう」と言っていることです。つまり、東漢氏も死刑になるとは言っていないのです。

 国押を死刑にできて東漢氏も罰せられる人物は、国押を入鹿の殺害計画に引き込んで利用していた中大兄皇子でも鎌足でもあありえません。そうなると残りはただ一人、――用明大王の孫だった高向王の子で父の王称を継いでいた可能性が高い「高向王」、同時に東漢氏との深い関係が推測される「漢皇子」だったとみなさざるを得ないのです。

 そして、この推定で浮かび上がってきたのは、夭折説も出されていた

漢皇子が乙巳の変の時点までは生存していたという新しい発見です。

 しかし漢皇子は国押を死罪にできませんでした。なぜなら、国押は孝徳朝で貴族に列する刑部尚書(ぎょうぶしょうしょ)に就いた、と伝えられているからです。また東漢氏をすぐに罰することもできませんでした。しかし東漢氏は天武天皇の代になって大きな叱責を受けることになります。これがあとで極めて重大なヒントになりますが、恐らく入鹿が暗殺されたことはすぐに漢皇子に知らされなかったか、皇子が動きを封じられてものと思われます。

 国押が蝦夷を裏切った理由は、高向臣の長の座が、蝦夷の死によって「賊党高向国押」(『家伝』)が高向臣国押(『紀』)に与えられたことから明白です。国押と蝦夷は恐らく幼少時からの友達で、国押からすれば蝦夷は単に一族の養育者であり、族長は自分が務めるべきだと思っていたはずです。その心理を利用した恐るべき人物が、外向けには国押を臣にして立てながら内では賊党扱いにしていた鎌足だったと考えれば、乙巳の変の裏の流れが読めます。

 蝦夷親子について、「皇極紀」は「甘橿丘にならべて建てた、蝦夷大臣の館を上(かみ)の宮門(みかど)、入鹿の館を谷(はさま)の宮門と呼んだ。またその男女を王子(みこ)と呼んだ」、と記しています。この記事からも、蝦夷が「王」と呼ばれていたことがうかがわれます。

 『紀』はそれを事実として記載しているだけであって、それを天皇家に対する不遜や専横と捉えたのは近世になってからの解釈です。

 その他に従来は、①蝦夷が葛城の地に祖廟を建てたこと、②そこで八佾の舞(やつらのまい。大王だけに許された8人8列の群舞)を舞わせたこと、③双墓を造らせて蝦夷の墓を大陵(おおみささぎ)、入鹿の墓を小陵(こみささぎ)と呼んだこと、④館を宮門と呼ばせて子女を王子と呼ばせたことなど、すべてを混同して、蝦夷が大王を差し置いて数々の横暴な行為を行ったと捉えられてきました。

 しかし①から③に対して怒りを表したのは、山背大兄王と共に自害することになった上宮大娘姫王(かみつみやのいらつめのみこ。厩戸皇子の娘の舂米女王(つきしねのひめみこ)とされる)です。この妃は大王家に仕えた膳(かしわで)氏の娘でしたから、蘇我宗家に対する反発を強調されたのでしょう。

 『紀』はそれらを蝦夷と入鹿が殺害される原因と記しましたが、皇極大王がそれらの行為に反対したとは記していません。

 しかも②には皇極女帝が参列していた可能性があり、③については、死後に墓の造営で民を苦しめないためだとの説明を付けていますから、理解を示しており、④は蝦夷は舒明大王以前の筆頭外戚であり皇極大王を立てた皇族ですから、単に臣下の傲慢のなせる業だったとは言えません。

 また蝦夷が自害した当日に、皇極女帝は蝦夷と入鹿を墓に葬ることも、喪に服して泣くことも許しています。女帝は二人を罪人ではなく、通常死を遂げた宮人と同じように葬って送るように命じたわけです。それは憎しみを持っていた者たちに対する刑ではなく、『紀』が伝えようとする、馬子から蝦夷と入鹿に及んだ蘇我宗家の横暴に対する処罰でもなかったのです。

 入鹿が皇極期になって突然権勢を振るったように思われるのは『紀』の文章によるためで、皇極女帝が特別に頼りにしてかわいがったのを、『家伝』は反感とねたみから「寵幸近臣」としたのでしょう。そうでなければ鎌足を軽皇子の寵臣と記した理由も理解できません。