東京 (06/04/21) 江戸城 (19) 内曲輪16門 / 内濠 (2) 神田橋門、一ツ橋門、雉子橋門、竹橋門、清水門、田安門
- [神田橋門]
- 鎌倉河岸
- 物揚場跡
- [一橋門]
- 一橋徳川家外堀通上屋敷 (丸紅本社)
- 東京大学発祥の地
- 高頭藩内藤家小川町上屋敷 (駿河台下)
- 富士見坂
- 文坂石碑
- 錦華坂
- 男坂、石碑
- 女坂、石碑
- 皀角 (さいかち) 坂、石碑
- 小栗坂
- 甲賀坂
- 仲坂石碑
- 池田坂
- 雁木坂、雁木坂石碑
- 紅梅坂
- 東京復活大聖堂(ニコライ堂)
- 淡路坂
- 幽霊坂
- 新坂
- 観音坂
- [雉子橋門]
- [竹橋門]
- [清水門]
- 牛ケ淵
- 九段坂、常灯明台
- 飯田町中坂
- モチノ木坂
- 二合半坂
- [田安門]
- 弥生神社 (彌生慰霊堂)
昨日は終日雨となった。天気予報では曇り、時々雨がぱらつくとあったので、小雨ならば徒歩でも史跡巡りをしたかったのだが、予報ははずれて本降りが終日続き、結局、外出の機会はなくホテルで過ごす羽目になった。今日は雨もあがり、史跡巡りを再開する。
[神田橋門]
神田橋門は、寛永6年 (1629年) に高麗門と右折枡形が、出羽国秋田藩主の佐竹義宣はじめ、東北諸侯により築かれた。西側に土井大炊頭利勝の屋敷があったので、寛永年中までは大炊橋門と呼ばれたが、その後に神田橋門に改められた。神田橋門は明治7年 (1873年) に櫓門が撤去され、橋は関東大震災で焼失。現在の橋は、大正14年 (1925年) に架けられたもの。近くに神田橋門の石垣が残っている。
鎌倉河岸
江戸時代は、神田橋のすぐ近くに鎌倉河岸があり、隅田川などから船で物資の運搬輸送のための船着場や荷揚の施設が置かれていた。鎌倉から北材木商が築城に使う建築部材を取り仕切っていたので、鎌倉河岸と呼ばれるようになった。
物揚場跡
神田橋門の普請に携わった材木商や大工たちはこの河岸に面した地域に住んでおり「鎌倉町」と町名が残っている。神田橋の交差点近くに「物揚場跡」の碑があった。鎌倉河岸にあった町屋敷に付属した荷揚場で、武家屋敷に付属したものは物揚場と呼ばれていた。
[一橋門]
一橋門は、神田橋門と同じ時期、寛永6年 (1629年) に陸奥国と出羽国の大名によって築かれた。一橋が架けられる前は、簡易に丸太一本の橋があったので、ここを一橋と呼んでいた。1873年 (明治6年) になって一橋門は撤去された。現在の橋は大正14年(1925)に架けられ、一橋門の櫓台の石垣の一部が残されている。
一橋徳川家外堀通上屋敷 (丸紅本社)
一橋家は、徳川将軍家の血筋が絶えた際に将軍継嗣を出すことができる御三卿の一つ。この御三卿は八代将軍 徳川吉宗の四男である徳川宗尹(むねただ) によって創始され、他に田安家と清水家がある。御三家 (紀伊徳川家、尾張徳川家、水戸徳川家) の一つの水戸徳川家の徳川斉昭の七男の七郎麻呂は、資質を高く買われ、将軍継嗣の資格をもたせるため、幕府 (12代将軍 徳川家慶、老中 阿部正弘) の意向を受けて一橋家に養子に入り、一橋慶喜となった経緯がある。
一橋徳川家の上屋敷は八代将軍吉宗の三男宗尹が、御三卿として、松平伊豆守の屋敷跡地を拝領した場所で、ここの地名をとり、一橋家を家名とした。広大な屋敷跡には丸紅ビル、国際協力銀行、大手町合同庁舎、東京消防庁などが建っている。丸紅ビルの前に屋敷があったことを示す石柱と案内板が置かれている。
[一橋徳川家江戸屋敷: 外堀通上屋敷、千石下屋敷]
東京大学発祥の地
一橋から少し北に進んだ所にある学士会館は東京大学発祥の地の場所。手前には石碑と我が国の大学発祥地の説明板が建っている。この始まりは江戸時代に遡る。護持院が1717年 (享保2年) の大火で焼失した跡地に1862年 (文久2年) に蕃書調所が洋学調所と改称して移し、翌年開成所と改め、1869年 (明治2年) 大学南校となった。明治6年には開成学校、明治7年には東京開成学校と改め、明治10年に東京医学校が合併し, 東京大学が創立された。 この護持院ケ原の跡地は東京大学だけでなく、東京外国語大学、学習院、一橋大学の発祥の地にもなっている。
高頭藩内藤家小川町上屋敷 (駿河台下)
高頭藩内藤家の下屋敷は現在の新宿御苑で、そこには昨年9月30日に訪れた。上屋敷は一ツ橋門の北の小川町にある。中屋敷は存在せず、幾つかの下屋敷を持っていた。上屋敷は江戸開府当初は竹橋門内北の丸にあったが、その後日比谷門内、麹町二移り、1692年 (元禄5年) にこの地に上屋敷を拝領した。ちょうど現在の駿河台下交差点の場所にあたり、敷地は新宿の下屋敷の様な広大なものではなく、石高3万3千に相当する小さな屋敷だった。
[高頭藩内藤家江戸屋敷: 小川町上屋敷、内藤新宿上屋敷、下渋谷下屋敷、深川島田町下屋敷]
靖国通りと錦華通りが合流する交差点から、明大通りに抜ける短い坂道。昔はここからも富士山がよく眺められたそうだ。
文坂石碑
ここの坂が文坂なのだが坂名の由来は不明だそうだ。江戸時代の坂道ではなく明治時代にできた様だ。
錦華坂 (きんかざか)
錦華公園の東側に錦華坂 (きんかざか) がある。1924年 (大正13年) 政府による区画整理により造られている。江戸時代にあった旗本の住居跡を突っ切って道が造られている。この地区に錦華小学校があったのでこの名が付いている。
この近くにある石段の坂“女坂”に対して名付けられたのがこの男坂。男坂は、1924年 (大正13年) に女坂と同時期に造られている。男坂は急な坂で、女坂は緩やかな坂だ。この急な男坂を自転車を担いで登る。
男坂のすぐ近くに女坂がある。男坂は直線な坂だったが、女坂は曲がりくねっている。女性用に坂の途中でで中やすみが出来る様になっている。この坂も男坂と同じく、1924年 (大正13年) 政府による区画整理により造られている。大江戸の史跡ではない。
江戸城の外濠であった神田川沿いに皀角 (さいかち) がある。坂の中程辺りに神田上水の懸樋が架けられていたそうだ。昔、皀角 (さいかち) の樹が多くあったらしいのでこの名が付いている。皀角 (さいかち) は初めて聞く木の名前だ。その実のさやを水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、古くから洗剤として使われていたそうだ。
皀角 (さいかち) はこんな木だ。
皀角 (さいかち) 坂を下った所に神田川の方面への緩やかな上る坂がある。昔、この近くに小栗某の屋敷があったことから、小栗坂と呼ばれている。
お茶の水仲通りから山の上ホテルへの道にある坂。甲賀組の者が多く居住していたとか、馬場昌宇という御医師の屋舗があったので甲賀坂と呼ぶ様になったと文献に残っているそうだ。
お茶の水仲通りからニコライ堂西門前に上る坂で、元禄の頃、坂を上りつめた所に池田市之丞の屋敷があったので池田坂と呼ばれた。また、その屋敷で唐犬 (闘犬) が行われていたことから唐犬坂の別名もあった。坂道に下側には仲坂石碑があるのだが、何故池田坂に仲坂の石碑があるのかは調べても分からなかった。
雁木坂、雁木坂石碑
本郷通りからニコライ堂の北側をお茶の水仲通りの方に上るのが紅梅坂。もともとは幽霊坂とつながっていた坂道だったが、昭和の始めに本郷通りが開通して、坂は途中で分断されてしまった。昔、この坂を上りつめた辺りに紅梅で知られた光感寺があったことから、紅梅坂または光感寺坂とも呼ばれていた。埃坂 (ごみざか) などとも呼ばれていた。江戸時代には多くの埃坂 (ごみざか) が存在していた。
東京復活大聖堂(ニコライ堂)
1891年 (明治21年) に竣工したギリシャ正教の聖堂。1923年 (大正12年) の関東大震災により煉瓦造の鐘楼が倒壊してドームが破壊されたが、1927年から1929年にかけて、構造の補強と修復が行われた。第二次世界大戦では空襲による被害を免れ無傷のまま残った貴重な文化財。
今は新型コロナ肺炎の感染予防の為に見学は中止されていた。門の外から写真を撮った。
淡路坂
聖橋の南詰から神田川に沿って東に下る坂が淡路坂。江戸時代、鈴木淡路守の屋敷があったことから、この名で呼ばれている。
本郷通りから外堀通りの方向に下る坂が幽霊坂という。由来は不明だそうだが、かつては坂の両側は大木が繁って、人通りも少なく、淋しい道だったでので、幽霊坂と呼ばれたのではとの事。
本郷通りから、淡路公園の南側を外堀通りの方向に下る坂を新坂という。明治維新前は備後福山藩阿部家の敷地だった。明治になって敷地の中央に道路を通してできた新しい坂道なので、新坂と名付けられた。
この坂を上った所に観音堂がある。それでこの坂は観音坂と呼ばれた。江戸時代はこの様な祠ではなく、観音寺と呼ばれた寺だった様だ。
[雉子橋門]
雉子橋御門は、1629年 (寛永6年) に陸奥国と出羽国の大名によって築かれた。家康が朝鮮の来聘使を饗応するため、鳥小屋に雉子を飼っていたので雉子橋門と名付けられた。平河濠と牛が淵がかなり接近している場所なので、そこを防備する為に東西の二つの濠を結んで、この門を造っている。元々の雉子橋門は、現在の雉子橋より100メートルほど西にあった。雉子橋門の渡櫓は1873年 (明治6年) に撤去、その後、1903年 (明治36年) に鉄橋に架け替えられたが、関東大震災で被災。大正14年に現在の橋に架け替えられた。雉子橋から江戸城側に入った所に石垣があるのだが、これは渡櫓の石垣なのだろうか?
[竹橋門]
竹橋見附門は、旧江戸城内曲輪15門の一つで1620年 (元和6年) に造られ、内郭の城門として警備にあたった。この地は、平川の旧流路で日比谷入江から内陸奥の船着場であった。竹橋とは、船付場に竹で組んだ「竹舟橋」と呼ぶ桟橋を設えていたことに由来する。竹橋見附門を通る道は、桜田門外の変により一時閉鎖されたが、明治3年に再開通している。1878年(明治11年)8月には、西南戦争の論功行賞と減給に不満を抱いた近衛兵260余名による反乱「竹橋騒動」が起きた場所でもある。
現在のアーチ型竹橋は、大正15年、帝都復興事業で架設されたもの。
帯曲輪
平川門枡形内の門と竹橋門との間の濠中に、細長い土橋廊下のような帯曲輪で、曲輪は両門と結ばれている。城郭における帯曲輪は、本丸に近く最も防備を必要とする地点に設けられる。江戸城では平川濠を二重に分断し、両門が帯曲輪の廊下走路で連絡し合え、有事の際に相互の城門の番兵が火急な場合、それぞれの応援に駆け着けることができるようになっている。さらに隣接して、一橋門と雉子橋門を置き、わずかな距離の間に三重 (平川濠、内濠、外濠) に濠を廻らせ、護りを強固にしている。
写真上の二枚は、平川門からとったもので、下は竹橋から撮ったもの。
清水濠
竹橋門から清水門との間にある濠は清水濠と呼ばれている。
[清水門]
清水門は、北の丸の東門で1624年 (寛永元年)、備中国足守藩主浅野長晟により建てられ、1658年 (万治元年) に修復された。現存しているのは修復された時のもの。この辺に清水が湧出していたので清水門と呼ばれている。1759年 (宝暦9年)、九代将軍家重の次男重好が、北の丸東一帯に屋敷地を拝領して御三卿の清水家を興した。この清水門から清水家としたのだろうか?
牛ヶ淵
清水門へは架橋ではなく土橋となっており、牛ヶ淵の右前方に水位を保つために設けられた。清水門から田安門までの濠を牛ヶ淵と呼んでいる。その土橋を左に進むと千代田区役所がある。田安門に向かう九段坂が急勾配で、牛車が落ちそうだったことから、この名前がついたそうだ。
1590年頃には江戸の人口はが急激に増加し、飲料水不足が起こっていた。その対策として小河川をダムでせき止め、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の2つの飲料水専用のダムを造った。
九段坂、常灯明台
町名の由来となった九段坂は、日本橋川から田安台に向けて続く道が、武蔵野段丘を上がるところに、9層の石段と「九段屋敷」という幕府の御用屋敷が造られたことに由来する。明治以後、段差を廃して坂道となったが、急傾斜であったため、荷車を上げる為、食い詰めた人々が「立ちん坊」とよばれる人足となって九段坂下で待ち受けていたという。
江戸時代の坂と橋の番付がある。九段坂は関脇で大関は神楽坂。江戸の町人は洒落っ気があり、なんでもこのような番付表を作り楽しんでいる。
九段坂のシンボルとなっている「常灯明台」は、もとは靖国神社入口にあったが、震災復興計画による靖国通りの拡幅で、田安門入口の九段坂公園に設けられた。
大山巌像
九段坂公園には大山巌像が建っている。この像は1919年 (大正8年) に建てられている。大山巌は薩摩藩の出で西南戦争、日清戦争、日露戦争を闘いぬき初代陸軍大臣を務めた人物で、死後、陸軍大将井口省吾ほか現役、予備役将校、実業家、地方有志などがこの像の建設に係わっている。
品川弥二郎像
品川弥二郎も像が建てられている。この像は大山巌像より早い1907年 (明治40年) に高村光雲の監督の基、西郷従道他2854名の賛同で造られている。品川弥二郎は長州藩士で吉田松陰の松下村塾に入門し尊皇攘夷運動を行う。その後、明治に入り内務大臣を務め、獨逸学協会学校(現:獨協大学)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立など産業振興で大きな功績を残している。
飯田町中坂は九段坂に平行した坂で、九段坂に付随する坂だという。九段坂は主として観光用の坂で、景色を楽しむ江戸の人々がゆっくり歩ける。飯田町中坂は九段坂夜緩やかな坂として造られ、商業、運輸に使われた坂だ。九段坂の観光を邪魔しないような配慮がなされていたのだろうか? それとも九段坂は急坂なので、物資の運搬には不便だったからだろうか?
冬青 (モチノ) 木坂は檎の木坂とも書かれる。モチノキは常緑広葉樹で「冬でも青い木」というのでこの字が充てられている。この坂にモチノキが生えていたのだろう。先ほどの中坂はこの冬青 (モチノ) 木坂と九段坂の中間にあるので中坂というそうだ。
九段中学校前から大神宮通りに下る坂。この坂も洒落で名付けられている。ここからは日光山がこの坂からは半分しか見えなかったそうで。日光山は富士山の半分の高さで富士山の五合目の高さ、その半分しか見えなかったので二合半という単純な算数を当てはめてこの坂を二合半坂と呼んだという。別の説では、あまりに急な坂で、一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからだそうだ。
[田安門]
1636年 (寛永13年) に建てられたものと考えられている。田安門は現存する江戸城の遺構のうちで最古の建築物。太田道灌時代は田安門の辺りは、田安口、飯田口と呼ばれ、上州方面へ通じる道があった。桝形になっており、外側は高麗門、内側は渡櫓門で構成されている。
門を入ると北の丸になり、当時は、北の丸内西側一帯は田安家 (田安徳川家) が、東側一帯は清水家 (清水徳川家) が、それぞれ所有し、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となっていた。千姫や春日局、徳川家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などがあった。現在は、北の丸公園の出入口となっている。北の丸の見学は次回訪問時となるだろう。
弥生神社 (彌生慰霊堂)
田安門を入り、櫓の石垣の横手の階段を上ったところに彌生慰霊堂がある。明治10年に起きた西南戦争に出征して戦死した警察官は現在の靖国神社に祀られているが、戦争ではなく、凶悪犯逮捕や災害救助のために命を落とした警察官の追悼施設がなかった為に、明治18年にこの弥生神社を2517柱の追悼施設として創建。近代日本警察制度の基礎を築いて「日本警察の父」と称される、川路利良が祀られていた。当初は、文京区向ヶ丘弥生町に建てられたことからその名が付けられ、その後、芝公園や警視庁庁舎内、青山墓地内、麹町と遷座し、昭和22年に現在の場所に遷座とともに「弥生廟」となった。昭和58年に「弥生慰霊堂」と改称し、それと同時に従来の神式から無宗教形式による慰霊祭を川路利良の命日前後で現在でも行われている。
この後、田安門の近くにある靖国神社を訪れたのだが、見学途中で日没が近くなり、見学は途中で切り上げて、明日は靖国神社から始めることにして、帰路に着く。