<Opening Exhibition> 矢野恵利子+土居大記『行ったひと、行けなかったひと、』記録
Zunzun-planCのこけら落とし展示『行ったひと、行けなかったひと、』では、本スペース立ち上げメンバーでありそれぞれが個人の美術家でもある、矢野恵利子と土居大記の初の共作インスタレーション1点を公開しました。
本ページでは、記録動画・抜粋写真・Zunzun-planCのステイトメントに加え、高松市美術館学芸員の橘美貴さんに寄せて頂いたレビューを掲載しております。是非ご覧ください。
展覧会開催時期:2020年12月4日 (金)– 2021年1月10日(日)
記録動画(Youtube)
上:日本語
Movie: Mikuto Tanaka
上2点:Photo: Takehiro Iikawa
下3点:Photo: Hiroki Doi
Zunzun-planCステイトメント
『行ったひと、行けなかったひと、』
昭和後期に建てられたと思しきビルの薄暗い階段を登り、いかにも住居用ですといった風情の鉄製のドアを開けると、白く、小さい玄関と、上半身が隠れるサイズの半透明の扉(以下:扉)が目に飛び込んでくる。扉は光を透過するので部屋が明るいことは分かるのだが、中に何があるのかまでは見えない。
来場者は玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、部屋の中に入ることになるのだが、扉を開けた途端“何か”が音を立てて落ちるのを目撃する。さて、来場者はこの扉を引いて入ってきたか、押して入ってきたか。
作品の仕組みを説明する。扉には細いロープが取り付けられている。ロープはいくつかの滑車を経由して展示室内をめぐり、天井部に取り付けられた板状装置の中央部にある可動式のスキージーのようなものに括り付けられている。扉に連動してスキージーは迫り出すように動くのだが、下に記す3つの無意識・あるいは意識的な「選択」の結果として”何か“落下する仕組みである。
1、 扉を引くか・押すかの「選択」によってスキージーの動く方向が反転するので、天井部の装置上で対極の位置に置かれた2つのモノのうちどちらか1つが押し出され、来場者の前に落下する。
2、 来場者は予め、“だれかにあげてしまってもいいもの”を持ってくるようにとアナウンスされているため、来場者は何かしらを「選択」して持参し、落下した“何か”を持ち帰る代わりに自身が持参した“何か”を装置に置いていく、という循環が続いている。
3、 以上のことから、どのタイミングで来場するのかも、結果的に「選択」の1つとなる。
この作品は、自分や他人の「選択」が、それぞれの結果に影響を与え合うという世の中で当たり前に起こっている現象を抽出した装置となっている。わたしたちは選択の連続の中で生きていて、他人の引いた一線や偶然に選んだことの結果により、今同じように隣に立っているはずの人との境遇が大きく変わっていく。時に理不尽とも言えるその結果をどう受け入れていくかについて、各々が考えるきっかけとなることを願っている。
・・・
この作品コンセプトはZunzun-planC設立に大きく関わる下記のエピソードからも着想を得ている。
Zunzun-planC設立メンバーで美術家でもある矢野恵利子と土居大記には、ワーキングホリデービザを取得してアイルランドに渡航しようとしたという共通点があるが、2人の大きな違いは、矢野は無事渡航し1年の滞在を終えて帰国したが、土居はコロナウイルスの世界的感染拡大により渡航がかなわなかったことである。展示会場の壁面には、それぞれのビザ申請書類が掲示され、矢野の書類が滞在許可書は勿論のこと現地でのレシート類まで揃っているのに対して、土居の書類はビザ申請段階の数枚でストップしており壁面の空白が目立つ。
同じく壁面に掛けられた2つのモニターのうち、矢野の映像はアイルランドの風景や現地で制作した習作が流れるが、土居の映像はビザ停止が決定してから日本で撮影した習作が流れる。
渡航時期の選択という1点だけで、現在2人が手にしている結果が大きく変わった1つのモチーフとなる。それと同時に土居が渡航できなかった結果を受けて2人がコミュニケーションを取るようになり、Zunzun-planCが設立されたという事実も存在する。
Zunzun-planCという名前には、王道のプランA、代替案であるプランBを元に人は生活してきたが、コロナウイルスの感染拡大により、誰しもが更なる代替案プランCを選択せざるを得なくなった。そのプランCを最高の選択としていきたいという意味が込められている。
設立にあたって力を貸してくださっている全ての皆様に感謝するとともに、プランCがどのように変化していくかを楽しんでいただけたらと思う。
Zunzun-planC
『循環する運命と選択』
高松市美術館学芸員 橘美貴
新型コロナウイルスの感染拡大が社会に与えた影響は大きく、「新しい生活様式」という言葉に代表されるように、私たちの日常を一変させてしまった。本展は、マスクの着用が日常化し、人と会うことにも神経質になるなか、矢野と土居が自身の境遇の中にある運命と選択を紐解いた展覧会である。
2020年春頃から日本でも始まったコロナ禍では、それまで当たり前のように目指せていた目標そのものを奪われるケースが多発した。夏の甲子園など各大会の中止に涙する選手たちの姿がニュースで流されたのも記憶に新しい。1年前までは華々しいオリンピックイヤーになると思われていたものが、あらゆる制限のもとで生活しなければならない年になり、突然扉が閉ざされたような感覚を多くの人が味わったのではないだろうか。土居がアイルランド渡航中止後に日本で撮影したという映像を見ていると、暗闇は行き詰まりの世界を、マッチの上をゆっくり進む火は焦りとともに次の行動を見定める心を感じさせる。この年に当たってしまったことは当事者にはどうすることもできない運命だったのかもしれない。壁に張り出された情報量の差が矢野の濃密な1年と土居の空虚な時間を対比させるが、矢野が映す暖炉の炎と土居のマッチの灯、寄せては引くアイルランドの波と畳の上のカーテン、2人の視線はたまに近づいて共鳴するようだ。
さて、運命が人を翻弄する一方で、私たちは無意識レベルの小さな選択を日々積み重ねている。例えば、目の前の扉を押すか引くかといった選択もそうだ。普段の生活では扉が開けばよく、押したか引いたかは気に留めないだろう。無意識の選択が何かに繋がることは多くないかもしれないが、この会場では文字どおり扉が天井の装置と紐で繋がれ、来場者の選択が一寸先の未来を決定する。装置に何が設置されていたかは運命で、押すか引くかは自身の選択であるというシステムはくじ引きのようなものだが、多くの人は説明を受けるまで自分が何かを選択したことにすら気づかない。
さらに時間を巻き戻すと、来場者は「誰かにあげてしまっていいもの」の選択が必要だったが、この「誰かにあげてしまっていい」というのが難しい。ゴミではいけないし、そのためにわざわざ購入するのも違う。すでに持っているものの中から、自分には不要だが他の人なら使えるような何か、というニュアンスが含まれているのではないだろうか。筆者はミニマリストとは縁遠く、自室には物があふれているが、これに当てはまるものはなかなか見当たらず、悩んだ結果、一度読んだきりの文庫本を持参することにした。これはさきほどの無意識の選択とは対照的な意識的な選択であり、持参したものが装置に設置され、今度は後の来場者の運命となる。この装置では、選択の集積が運命へ、その運命が選択肢となって繋がっていく環境が整えられている。
同じ目的を持ったにも関わらず、選択したタイミングが違っただけでアイルランドに行けた矢野と行けなかった土居。タイミングの選択は大きくとらえれば、アイルランドを目指すきっかけとなった出来事の違いや2人が生まれた年の違いにまで遡られ、それは運命の違いと言えるだろう。運命と選択が循環する日々の中で、私たちは短期的、長期的な視野を持って選択を見極めてきたはずだが、コロナ禍を生きるという運命において、小さな運命や選択でも大きな結果を導き出してしまうことを強く意識することとなった。ポスト・コロナという時代は2021年1月現在でまだ見えてこないが、今を生きる私たちはより大きな想像力を働かせて生きていくスキルが求められているのだろう。
高松市美術館学芸員 橘美貴
Zunzun-planC