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東京 (05/10/21) 江戸城 (22) 内曲輪16門 / 内濠 (5) 半蔵門から桜田門

2021.10.06 11:22


半蔵門から桜田門まで




前回は反時計回りに内濠を半蔵門まで回った。今日から江戸城巡りを再開し、まずは前回終了時点の半蔵門まで戻り、桜田門まで内濠と外濠の間にある史跡、文化財を巡る。


桜田濠 (弁慶濠)

前回からの続きを半蔵門から巡る。半蔵門の北側が半蔵濠で南側が桜田濠。この内堀の桜田濠は、江戸時代には弁慶堀と呼ばれていた。江戸城の築城に携わった京の大工の弁慶小左衛門がこの堀の縄張りをしたことに由来するそうだ。


三宅坂

内堀通りを半蔵門外から桜田濠に沿って坂を下る。この坂は近くに三河田原藩主三宅家の上屋敷があったことから三宅坂と呼ばれていた。別名として「皀莢坂」とか「橿木坂」とも呼ばれ、堀端に皀莢の木や橿の木が多く茂っていたからだそうだ。


渡辺崋山誕生地

三宅坂にある三宅坂小公園に渡辺崋山誕生地の案内板があった。渡辺崋山は知っていたが、ここが三河田原藩の屋敷で、三河田原藩士とは初めて知った。田原藩の家老で蘭学者だったので、西洋の知識は深く、当時ブームだった攘夷論に反対をする慎機論などを著し、これが元で、目付鳥居耀蔵が蘭学者を嫌って起こした蛮社の獄によって弾圧された。その後、蟄居になるが生活費のため絵画を売っていた。これが幕府の問題視することになり、藩に迷惑をかけたくないという思いで切腹して果てている。画家としても西洋の写実主義を取り入れるなど、特に肖像画の評価が高い。公園内には国内初の公共裸婦彫刻の”平和の群像”がある。渡辺崋山とは関係は無く、電通創立五十周年記念に造られている)。


鍋割坂

国立劇場の北側を内堀通りから西に上り、それから西に下る坂があり鍋割坂という。千鳥ヶ淵近くにも同じ名前の坂があった。延宝元年の地図にはない。但馬豊岡藩京極家の上屋敷之敷地内に当たる。その後の天保6年 (1835) ~ 文久元年 (1861) の各図には、堀側から平河天満宮のわきに向かって一直線に通じているのが載っているそうだが、この地図は見当たらなかった。その後、町筋が変わり現在のようになった。鍋を伏せたような台地の切り通しなので、この名になったといわれてる。


ドイツ公使館跡 (国立劇場)

鍋割坂の場所は国立劇場になっているが、かつてはドイツ大使館だった。始まりは1872年 (明治5年) にドイツ公使館が麻布よりこの地に移転。1894年 (明治27年) の地震で被災し、1897年 (明治30年)、写真の煉瓦造りに建て替えられた。1906年 (明治39年) にドイツ大使館へ昇格している。

1945年 (昭和20年) の東京大空襲で焼失、戦後、GHQに接収されたのち、1948年 (昭和23年) に国立国会図書館が建設され、仮庁舎の旧赤坂離宮から移ってきている。


柳の井

桜田濠の土手下に井戸があり、傍らにあった柳の木にちなんで、柳の井と呼ばれていた。江戸時代に名水として知られいたそうだ。土手は柵で囲まれており、内立ち入り禁止で非公開になっているそうだが、井戸へ降りる石の階段がある。柵を乗り越えて見れるのかも知れないが断念。井戸枠の門が少しだけ見える。


彦根藩井伊家桜田上屋敷 (憲政記念館)

三宅坂の外側に高台がある。ここが彦根藩井伊家桜田上屋敷だった場所。

ここにあった屋敷は、江戸時代の初めに、加藤清正が建てたのが始まり。加藤家は次の二代忠広の時に改易され、屋敷は没収された。改易の理由は諸説ある。嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだとか、忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反、駿河大納言事件に連座などだが、豊臣氏と血縁関係にあったために幕府に警戒され、手頃な理由をつけられて取り潰されたというのが最も信憑性が高い。加藤家改易後、その屋敷が彦根藩の上屋敷となった。

彦根藩初代藩主の徳川四天王の1人となる井伊直政 (左) は早くから徳川家康に接近して、多くの武功をたて、1590年 (天正18年) には家康関東入府の際、上野国箕輪12万石、関ヶ原戦いの後には近江国佐和山に18万石を与えられた。これが彦根藩の前身となり、彦根城築城は直政の死後に、その子直勝による築城だが、直政は初代藩主とされている。上屋敷には幕末には安政の大獄といわれた大老の彦根藩藩主の井伊直弼 (右) が居住していた。この彦根藩は江戸時代中、一度の転封もなく石高も譜代大名中最高で、明治維新まで続いている稀有な藩だ。

明治維新後、屋敷跡には1878年 (明治11年) に参謀本部・陸軍省の新庁舎が建設された。(この陸軍省は、元々は1869年 (明治2年) に鳥取藩池田家上屋敷跡地に置き、その後、和田倉門内の会津藩松平家上屋敷跡地に移転していた、当時は兵部省と呼ばれていた。1872年 (明治5年) に官舎から出火し、銀座一帯を焼失する銀座大火が起こり、兵部省を廃止して、陸軍省と海軍省を設置した。) 

陸軍省は、1941年 (昭和16年) の太平洋戦争開戦と同時期に市ヶ谷へ移転し、戦後の1960年 (昭和35年)、この跡地に市民の浄財によって政治家 尾崎行雄を記念する「尾崎記念会館」が建てられた。この尾崎記念会館は1972年に衆議院に寄贈され、施設の増築拡張を行い、議会開設80年を記念し、議会制民主主義の認識を深めることを目的として「憲政記念館」となった。

かつての大名屋敷の面影は残っておらず、憲政記念館の庭に石燈籠が置かれている。これが当時のものかはわからない。

屋敷跡の高台からは井伊直弼が暗殺された桜田門が見える。そこへの登城道も見える。多分、事件が起きた際には藩邸の人々はここからその惨劇が見えた筈だ。

1878年 (明治11年) に陸軍省がこの地へ移転した際、天皇直隷の機関として、陸軍の軍令を管轄する「参謀本部」を独立させた。この参謀本部の庁舎は、陸軍省の隣接地に1881年 (明治14年) に竣工されたが、1894年 (明治27年) の明治東京地震で被災、北側 (右写真の右側) に新館が建設され、1898年 (明治31年) に移転している。旧庁舎は陸地測量部が使用していた。1903年 (明治36年) には、建物の前に有栖川宮熾仁親王(元 新政府軍東征大総督、陸軍参謀総長)の騎馬像が建立された。 この騎馬像は昭和37年に親王とゆかりの深い有栖川宮記念公園に移設されている。

1941年 (昭和16年)、陸軍省と参謀本部は市ヶ谷へ移転し、1944年 (昭和19年) に疎開するまでこの地にあり、建物は翌年の東京大空襲で焼失した陸地測量部の旧庁舎跡地には、1960年 (昭和35年) に、立法・行政・司法の三権分立を象徴した面塔星型の時計塔が建設され、その後、庭園として整備、1967年 (昭和42年) には衆議院が管理する国会前庭が開園し、現在に至る。

時計塔の近く参謀本部の庁舎跡には1891年 (明治24年) に設置された日本水準原点が残っている。そのそばには、後世の電子水準器も立っている。

[彦根藩井伊家江戸屋敷: 桜田上屋敷赤坂中屋敷千駄谷下屋敷、下戸塚村早稲田村牛込村入屋抱屋敷、八丁堀蔵屋敷]



櫻の井

江戸時代初期に加藤清正が掘らせたと伝わる名水井戸の櫻の井が彦根藩井伊家上屋敷の表門外西側にあった。江戸の名所と言われ、幕末当時には、江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供していた。ニ度移設され、現在は憲政記念館の公園内にある。


梨木坂

井伊家の屋敷の裏門に面し、その後の陸軍省通用門と独逸公使館横手の間の道が梨木坂で、昔は梨の木があったので、こう呼ばれていた。


三平坂 (三辺坂)

地下鉄永田町の入口付近から南に下る坂を、三べ坂と呼んでいた。江戸時代に岡部筑前守、安部摂津守、渡辺丹後守の三邸があった事で名付けられたという。また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂御門の御水番役をかねていたところから水坂とも呼ばれていた。この坂は何度も通っている。この近くで働いていたのだが、この坂の名や由来は知らなかった。


華族女学校跡 (議院議長公邸)

三べ坂沿いに華族女学校跡の石碑が立っている。1885年 (明治18年) に設けられた皇族、華族子女のための官立の教育機関で、華族女学校として四谷にあった。その後、1889年 (明治22年) に、この地に移転し、平民子女も受け入れを開始した。

1906年 (明治39年) に学習院女学部、1918年 (大正7年) に女子学習院となり、1946年 (昭和21年) には戸山の近衛騎兵連隊跡に移転し、翌年1947年 (昭和22年) に官立から私立学校ととなり現在に至る。現在は衆議院議長公邸となっている。


新坂

都立日比谷高校とメキシコ大使館の間を外堀通りへ下る坂を新坂という。この坂は激坂で赤坂方面から登校の生徒たちも大変だ。生徒達には遅刻坂と呼ばれているそうだ。体育系部活のトレーニングには最適だろう。遠回りでも永田町から登校している生徒もいるのではと思う。この坂は江戸時代にあったのかは分からない。古地図で見る限り、岸和田藩上屋敷の敷地内にあたる。


次は彦根藩井伊家上屋敷から桜田門までの間にある大名屋敷中心にまわる。


茱萸坂 (ぐみざか)

国会議事堂の南側を東に下る坂が茱萸坂 (ぐみざか) で、潮見坂に続いている。道の両側にぐみの木あったこのが名の由来だそうだ。山王の祭礼には、ここで花車の番付札があり、その行列をチェックしていたので、番付坂とも呼んでいた。


山王坂

現在の衆議院第一議員会館と第二議員会館の間を日枝神社 (山王社) に向かう下り坂で、この坂の辺りは、明治維新までは山王社の社地であった事より山王坂と呼ばれていた。坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の屋敷があり、鹿島坂とも呼ばれていた。


日枝神社


山王男坂

山王坂を下ると日枝神社の鳥居が見えてきた。屋根付きの少し変わった鳥居から旧な階段がある。これが日枝神社の表参道で、正面の鳥居から53段の石段を上る坂を山王男坂という。


山王女坂

もう一つ山道がある。山王男坂の左手を迂回するように上る坂で、男坂より勾配が緩くなっているので山王女坂と呼ばれているが、一般庶民は通れず、将軍の参詣の時だけ用いられた。それで御成坂とも呼ばれていた。

日吉神社の創建の年代は、はっきりはしないのだが、1478年 (文明10年) に太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺 (現在の喜多院中院) 鎮守の川越日枝神社を勧請したのに始まるとされている。徳川家康が江戸に入封した際に、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。1604年 (慶長9年) 徳川秀忠の時代に江戸城改築で社地を半蔵門外の麹町隼町に遷座し、庶民も参拝できるようになった。1657年 (明暦3年) の明暦の大火により社殿を焼失し、1659年 (万治2年) に、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。



神門、宝物殿

男坂を登ると神門がある。手前に宝物殿と手水所があり、傍にさざれ石が置かれている。


本殿

1945年 (昭和20年) の東京大空襲で本殿も含め社殿が焼失し、1958年 (昭和33年) に再建された。本殿の前には狛犬ではなく狛猿が置かれている。正式には神猿 (まさる) というそうだ。魔除けの象徴とされ、「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じるという。この神社は日吉大社からの分霊で、日吉神社では猿が守り神なので、ここにも猿がいると言う訳だ。


山王稲荷神社本殿

本殿の裏側には山王祭で使う山車の保管庫がある。いくつもある。更に奥には稲荷神社の参道があった。

稲荷神社は、日枝神社が麹町隼町からここに移される以前から、この場所に鎮座していた。1657年 (明暦3年) の大火で焼失したが、 1659 (万治2年) に日枝神社の造営に合わせて、この稲荷神社も造営された。 この稲荷神社本殿は今でも当時の建物が残っている千代田区内で唯一の江戸時代初期の木造建築だそうだ。こちらには狛犬があるのだが、元々は神田神社境内にの南伝馬町天王社にあったが、1885年 (明治18年) の火災で天王社本殿が焼失し、日枝神社境内に鎮守として祇園社を造営し、狛犬は1901年 (明治34年) にここに移転されたもの。

日枝神社は山王祭が有名。山王祭は神輿行列と山車行列の神幸行列が特徴で江戸期から続いている。(山車行列は現在では行われない)


広島藩浅野家外桜田上屋敷

福島氏の改易後、1619年 (元和5年)、浅野長政の次男の長晟 (ながあきら) が広島城主 初代藩主となり、以降12代長勲までの250年間、浅野氏が代々広島藩を治めた。豊臣秀吉の家臣であった長政は、近江2万石の大名から、若狭8万5000石、続いて長政と、長男幸長は甲斐国21万5000石と出世を遂げた。幸長は家督を継ぎ、関ケ原の戦いの戦功で紀伊国37万6000石を与えられ、和歌山城主となるが、嫡子無く早逝、次男長晟が家督を継ぐことになる。長晟は大坂冬の陣・夏の陣の戦功で、家康三女振姫を正室に迎えている。

浅野家では江戸に藩主や妻子が住まう上屋敷、別荘の下屋敷など四つの屋敷を整えていた。この上屋敷は霞ヶ関坂を挟んだ対面の福岡藩主黒田家とともに、江戸の名所として知られた。歌川広重の浮世絵「東都名所霞ヶ関全図」には赤門が描かれている。 (浮世絵にある右側の屋敷で、左側は福岡藩黒田家の上屋敷) 赤門は、将軍家の息女を奥方に迎えた格式の高い大名家であることを示している。1833年、九代藩主斉粛 (なりたか) が将軍家斉の息女末姫を正室に迎えたのを機に、奥方の50人ものお付き居室の為増築されている。

現在屋敷跡は国土交通省中央合同庁舎第2号館、海上保安庁となっている。

[広島藩浅野家江戸屋敷: 外桜田上屋敷赤坂中屋敷青山下屋敷、鉄砲洲築地下蔵屋敷]



国会議事堂

浅野家上屋敷の一部とその他武家屋敷の跡地は1881年 (明治14年) の国会開設の詔により、官庁集中計画のもと、1887年 (明治20年) に、この地に国会議事堂建物の設計も進めたが、予算と工期の関係から1890年 (明治23年) に麹町に木造の仮議事堂 (写真左上) を建設し、貴族院と衆議院で帝国議会が開催された。1891年 (明治24年) に火災で焼失 (写真右上)、その後も二代目仮議事堂 (写真中) 1925年 (大正14年) にも焼失し、一時広島に臨時仮議事堂 (写真左下) に移転。東京に戻り三代目仮議事堂 (写真右下) は1936年 (昭和11年) まで使用された。

1906年 (明治39年) より新議事堂の建設が再検討され、ようやく1920年 (大正9年) に着工となった。帝国議会議事堂は1936年 (昭和11年) に竣工を迎えた。帝国議会は1947年 (昭和22年) に貴族院が廃止され参議院となった。

いつもそうなのだが、国会議事堂前では中年男性が拡声器で大声で演説をしている。これはこの永田町、霞ヶ関では一般的光景で毎日誰かが演説をしている。


霞ヶ関坂

霞が関二丁目の人事院と外務省の間を西から東へ下る坂。中世の頃、この辺りに関所が置かれていたことからこう呼ばれ、江戸時代には広壮な大名屋敷が建ち並んで、多くの錦絵に描かれている。

現在ではほとんど傾斜が見られないが、昭和初期には日比谷公園に突き当たる直線道路で長い傾斜のさかだった


福岡藩黒田家外桜田上屋敷

福岡藩は黒田官兵衛考高の嫡男長政が関ヶ原の戦功により筑前国を賜り、初代藩主として始まっている。江戸時代に筑前国のほぼ全域を領有した大藩で、筑前藩とも黒田藩とも呼ばれる。初代藩主長政の時代に江戸に屋敷を拝領している。上屋敷 (2万坪) がここ外桜田の霞ヶ関、中屋敷 (2万坪) が赤坂溜池に、下屋敷が白金 (3,400坪) や渋谷 (9,000坪) 等にあった。福岡藩の支藩であった秋月藩の上屋敷 (6,400坪) は芝新堀にあった。桜田の上屋敷と赤坂溜池の中屋敷には、明治維新まで使用されている。

この黒田家上屋敷を描いた浮世絵や古写真が残っている。歌川広重の「東都名所 霞ヶ関の図」の左側の屋敷で、浅野家上屋敷と道 (霞ヶ関坂) を隔てた所にある。1871年 (明治3年) から、屋敷跡には霞が関に初めて置かれた官庁として、銀座 (築地から移転) から外務省が移転された。当時の侍長屋の写真も残っている。置かれていた外務省は1877年 (明治10年) に火災で焼失し、1881年 (明治14年)、フランス人建築家設計による洋風の新庁舎が完成しが、この庁舎も関東大震災で焼失してしまった。

現在の外務省は、1960年 (昭和35年) に完成した北庁舎と、1970年 (昭和45年) に完成した中央庁舎、南庁舎から成っている。屋敷後の西側は憲政記念館の公園になっている。

[福岡藩黒田家江戸屋敷: 外桜田上屋敷赤坂溜池前中屋敷渋谷下屋敷、深川清澄町下屋敷]



潮見坂

福岡藩黒田家外桜田上屋敷跡 (外務省) の南側には、潮見坂と呼ばれる坂が通っていた。現在は日比谷公園の南脇まで下る坂。霞が関坂と三年坂との間にあって現在は緩やかな長い傾斜の坂ですが、中世の頃までは日比谷公園辺りが渚でもっと急坂で、眼下に海を臨むことができたので、この名がつけられた。


三年坂

霞が関の大蔵省と文部省との間に三年坂があった。今は当時とは異なり直線に伸びているのだが、昭和39年頃までは、坂の上部が栄螺尻 (さざえじり) と呼ばれた二段三段と曲折した坂が続いていた。この坂にて転ぶと三年のうちに死んでしまうという俗説からこの名がきている。別の三年坂でも同じ様な話があったのを思い出した。よくある話なのだろう。


ロシア大使館跡

明治時代、三年坂と潮見坂の間にはロシア大使館が置かれていた。明治期の霞ヶ関・永田町周辺には、各国の公使館や大使館が多く立地していた。ロシア大使館は1876年 (明治9年) 頃、この地の裏霞ヶ関に建設された。関東大震災でもほとんど損壊がなく、1925年 (大正14年) からはソビエト連邦大使館となる。その後、道路拡幅工事に伴い、狸穴坂に移転している。

ロシア大使館跡地は、1943年 (昭和18年) に完成の大蔵省本庁舎となり、戦後は1955年 (昭和30) 年までGHQ米軍に接収されていた。現在は財務省庁舎となっている。


桜田門 (外桜田門)

桜田門は、江戸城の内堀に造られた門の一つで、桜田堀と凱旋堀の間にある。江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在するが、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合にはここを指す。当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていた。

1636年 (寛永13年) にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築、桜田門と呼ぶようになった。1620年に東国大名の助役により石垣と枡形が完成。

1663年 (寛文3年) 頃に建てられた外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造で桝形を構成している。1923年 (大正12年) の関東大震災で一部が破損、鋼鉄土蔵造りに改修されている。

安政7年(1860年)にこの門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。13代将軍徳川家定の時代、黒船来航で米国より開国を求められていた。当時日本は鎖国政策をとっており、外国船打ち払いを主張する攘夷運動が主流で、開国派は少数だった。大老 井伊直弼は攘夷派の孝明天皇の勅許無く日米修好通商条約を締結。孝明天皇は幕政の刷新と大名の結束を説く「戊午の密勅」を水戸藩へ下す。これに対して、井伊直弼は、強権を発揮し、攘夷派の粛清を実施する。これが安政の大獄と呼ばれている時代だ。尊王攘夷急進派の水戸藩士は脱藩して、大老 井伊直弼の暗殺計画を練っていた。

1860年 (安政7年) 旧3月3日朝、井伊直弼は彦根藩士60人で江戸城への登城の際、見物客らに紛れていた水戸浪士中心の18名により外桜田門で襲撃を受け暗殺された。彦根藩邸から桜田門までは僅か600mの距離。

当日は雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、とっさの迎撃に出難く、それは襲撃側に有利な状況だった。水戸浪士 森五六郎が駕籠訴を装って行列の前に出て行列を止めた。森は静止しようとした彦根藩士に斬りかかり、行列の両脇の見物客に紛れていた16名が急襲し、数分で有村が井伊直弼の首を討ち取っている。

井伊直弼の暗殺後現場で討ち死にした1名を除き、17名はその場から逃れ、逃走途中で4名が自害8名が近くの大名屋敷に斬奸趣意書を提出し自訴している。残る5名は逃走したが、潜伏先で捕縛され3名は処刑され、二人が明治時代まで生き残っている。

一般的には井伊直弼は悪者として描かれているが、最も難しい時代に開国という決断をした事は、彼のリーダーシップを表していると思う。天皇はじめ過激な攘夷派が主流のなか、それを押し切り決断を下すのは勇気のいることだ。当然、暗殺も含めてかなりの反発は覚悟の上だっただろう。過激派攘夷派は今でいうテロリストで、それを抑えるには武力による弾圧しか解決策は無かっただろう。それが悪評の安政の大獄と呼ばれた。一説では、桜田門外の変の前には水戸浪士の襲撃は井伊直弼側には知られていたという。井伊直弼はいずれは暗殺される事を覚悟していたのでは無いだろうか?自分が暗殺されたとしても、元には戻らない事も分かっていた筈で、一仕事終えたという達成感もあったかも知れない。自分が暗殺される事で、次の段階に進むと考えていたかも知れない。この日に難を逃れたとしても、いずれは暗殺されると思い、身を運命に任せた様な気がする。現在の政治家にこれだけの決断力と実行力のある人がいるだろうか? 自分の中ではこの井伊直弼の評価は極めて高い。




今日は初日なので、少し張り切りすぎて、多くの史跡をまわった。ちょっと多すぎた。これをレポートにまとめるのは時間がかかるだろう。夜は、娘二人と半年ぶりに会い、焼き肉で夕食を共にした。二人とも元気にやっているので一安心。