虚実
https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%E8%99%9A%E5%AE%9F/ 【虚実】より
〈虚〉を実体のないもの,うそ,偽り,〈実〉を実体のあるもの,まこととみる一般的な考え方と,〈虚〉は超越的な存在根拠であり,〈実〉はその具体的な現れであるという《荘子》風の考え方とがある。中国では古く《荘子》関係の思想書にこの言葉が見られ,以後詩文,書画,医学,兵学等の分野でもしばしば用いられた。
日本では主として近世の俳諧や演劇の方面で用いられ,その芸術観,文学本質論,表現論等を記述する場合の重要概念となっている。表現論としての虚実論は,歌学歌論における花実論と類似した点があり,一部その伝統を受け継いでいる。歌論でいう〈花〉は,外面的修飾や理想化されたイメージを意味し,〈実〉は内面的真情やありのままの事実を意味するが,その究極的理想は花実相兼である。その伝統を継ぐ虚実相兼論としては,たとえば近松門左衛門のいわゆる虚実皮膜の論,〈芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。(略)虚にして虚にあらず,実にして実にあらず。この間に慰みが有たものなり〉(《難波土産》)があげられる。この虚実を相対的にとらえる虚実相兼論に対し,荘子哲学を背景にして,〈虚〉を相対的次元を超えた絶対的根拠として虚実論を展開する者もあった。談林俳諧の総帥西山宗因の〈抑(そもそも)俳諧の道,虚を先として実を後とす。和歌の寓言,連歌の狂言也〉(《阿蘭陀丸二番船》)とか,その門下の岡西惟中の〈俳諧とはなんぞ。荘周がいへらく滑稽なり。とはなんぞ。是なるを非として,非なるを是とし,実を虚にし,虚を実になせる一時の寓言ならんかし〉(《俳諧蒙求》)などという発言がそれであって,表現論の域をこえた俳諧文学の本質論にまで踏みこんでいる。ただ,談林俳諧ではこの論に見合う優れた作品がないため,理屈倒れの観がないでもない。ところが,蕉風俳諧の時代になると,芭蕉の門人各務支考がこれを受け,〈言語は虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事かたし〉(《風俗文選》所収〈陳情表〉)と徹底し,さらに〈抑,詩歌連俳といふ物は上手に噓(うそ)をつく事なり。虚に実あるを文章と云ひ〉(《芭蕉翁二十五ヶ条》)などと,日本文学史上まれにみる組織的俳論にねりあげていった。支考によると,これは支考の独創によるものでなく,師芭蕉の教えによるというが,はたして芭蕉にこのような虚実論があったかどうか,いまのところ不明としかいえない。芭蕉の虚実論を伝えるという伝書《聞書七日草》(呂丸),《山中問答》(北枝)は,その伝来に疑問が残るからである。もっとも,かりにそのような虚実論があったとしても,他の芭蕉俳論と矛盾撞着をきたすところはまったくない。
なお,この虚実の問題は,写実主義・自然主義などのように,現実対象の忠実な再現的描写を志す芸術の表現理論に共通する課題であって,明治以降もしばしば論争の種となっている。例えば坪内逍遥の《小説神髄》における模写主義の提唱は,虚構を排し事実をとることを説いたものであるが,これに対し二葉亭四迷は《小説総論》で〈虚相〉を写すべきことを主張し,森鷗外は〈早稲田文学の没理想〉(1891)で,逍遥の没理想論は世界は〈実(レアアル)〉ばかりでなく〈想(イデエ)〉に満ち満ちているという重大なことを見落としていると反駁(はんばく)した。さらに石橋忍月は《舞姫》評で〈虚実の調和〉ということを説いている。→寓言