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金子兜太の俳句 ②

2018.04.01 03:40

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%9C%E5%A4%AA 【金子兜太の俳句】

金子兜太(その四)

○ 霧の村石を投(ほ)うらぱ父母散らん  句集『蜿蜿』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、「海程」昭和三十七年六月・第2号。 兜太は、故郷の秩父での幼年時代を回想して、次のように書いている。

                  

 昭和元年、国神村から、荒川(隅田河=ママ)の上流を越えて、皆野村の小学校に入学した。皆 野には父の親や妹たちがいたが、対岸の国神村にひとまづ開業(診療所・・・筆者註)したのである。私は、山の迫った谷川の橋を渡って、一人で通学した。小学校まで、優に五粁はある。(略)そんなことが数ケ月つづいたあと、皆野の祖父母の家に預けられ、翌年、町制が敷かれてから間もなく、父は皆野のその家を改造して、そこに開業した。いま思うと、長い道を通ったときの川の音や山の近く暗い影が実に鮮明に私の感情の中に刻まれているのを知る。

 (「俳句以前・・・中学の頃まで」扉句研究」昭和四二年六月号)

 つづけて、中学時代になってのことも、〔祖母と叔母たちが集まると何となく矢が母に向う、その〈家〉のもつ生理が気に入らなかった。(略)〈家〉というものを暗く感じだした〕とも書いていた。「霧の村」の句。兜大の生い育った秩父は、山峡なので秋になると霧が深い。文字通りの霧の村の出現といってよいだろう。兜太にとっては、今も胸中で生き続けている原郷の風景である。

 この句に込められた作者の思いは、故郷への愛憎である。山国を出ることなく暮らす老いた父母には、憐れみをもった眼差しで「石を投(ほ)うらば」と書く。石を投げたら飛び散ってしまうほどなのに、というのだ。また老いた父母の背後には、山峡の人々の貌も見えてくる。父祖の霊を含めての故郷への愛憎が、この句には込められている。それは長子として家業を継がず上京した作者にとって、血に繋がる父母への断ちがたい思いと、古い因習によってしか日常生活が動かない村落共同体への反発という、両面の愛憎といえよう。

 だから、この句は、一度故郷を出た者でなくては書けない句でもある。そこには、故郷への母胎憧慢への思いと、故郷を撃つ形姿とが二重写しに見え隠れしている。  .

 ちょうど、第一次産業の解体が進みはじめた時期の作。」

 この掲出句などは、「前衛俳句」とか「造形俳句」のレッテルを貼らなくて、「霧」・「村」・

「石を投(ほ)うる」・「父母散らん」と、この用例の駆使で、酒井弘司氏の解説を待つまでもなく、「故郷への母胎憧慢への思いと、故郷を撃つ形姿とが二重写し」との兜太の作意がダイレクトにイメージ化されてくる。兜太らを巻き込んだ「社会性俳句」の残滓の「第一次産業の解体が進みはじめた時期の作」ということは、あえて触れる必要もなかろう。そして、兜太のこの傾向の句は、例えば、「朝顔や百たび訪はば母死なむ」(永田耕衣)や、「霧の夜父が出てゆき何か起こる」(安田安正)などの、「造形俳句」というフイールドを離れて、兜太が狙っている作句の傾向と軌跡を一にする佳句を多く目にすることができる。ともすると、兜太は「論」の人であり、その「論」に固執する余り、例えば、芭蕉の「不易・流行」の「不易」などを度外視する傾向が見られるのであるが、この掲出句などは、そういう「俳諧・俳句」が本来有しているものを見事に抉りだしている一句のように思われる。こういう句は、小西甚一氏の「良い句にならない種類の『わからなさ』」とは無縁の、兜太の本来的な(そして、それは晩年の兜太の句に濃厚となってくる古典との共有の世界でもある)、もう一つの世界のもののように思われる。

追記 これらのことは、兜太のこの句集『蜿蜿』の後書からも察知される。 

 ・・・この句集を編みおわって、私は〈一人の連句〉ということを思った。〈最短定型のイメージ〉を追い、それの豊かな〈形象〉を求めて、むしろ一句一句の独立に執心して作句してきたわけだが、一冊にまとめてみると、あたかも、連句の席に会した人たちが激しく付け合ったように、私は、自分ひとりのなかで、自分の句に向って、ときに反発し、ときに響和しながら、気合いをもって相対し、相関わりつつ、次々と句を作りだしていたことを知るのである。

金子兜太(その五)

○ 霧に白鳥白鳥に霧というべき か    句集『旅次抄録』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、「俳句研究」昭和五十年一月号。「山湖一連」と題して発表した二十句より。

 この句が発表された前年の年譜では、〔九月三十日、日本銀行を定年退職。感想を求められ、「衆の詩」(朝日新聞)を書く〕と記している。兜大の誕生日は、九月二十三日。この年、五十五歳。「衆の詩・・・〈日常〉を見なおす」(「朝日新聞」昭和四十九年九月六日夕刊)では、

 日常を、とくに即物的日常を離さずに、俳句の内質として重視しようとする私の姿勢を刺激した事情がいくつかあった。その一つは、私自身も含めての前衛的営為の成果と反省(成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)である(略)。それらの事情のなかで、〈衆の詩〉としての俳句の特性をおもわないわけにはゆかなかった。 遍歴のあと「軽み」にいたった芭蕉晩年の思案の態をおもい、「荒凡夫」一茶の日常詠がもつ存在感の妙味にひかれたのも、そのためである。

 と書いた。季語と十七音定型の見直しなども含め、この頃より古典と競い立つ気概のもとに小林一茶、種田山頭火などの評論の発表も多くなった時期である。

  この一句、九州の九重高原での作。いちめん霧に覆われた山の湖。その霧の中に白鳥がいて、白く立ち込めた霧に一瞬まぎれてしまいそうでもある。この風景、白鳥をより美しくきわだたせるために霧が集まってきたとも受けとれる。

 眼前の光景を「霧に白鳥」と捉え、一呼吸おいて「白鳥に霧というべきか」と書く。霧が流れ、光が流れ、刻の流れる白一色の静澁な山湖。白鳥と霧に感応している兜太の至福の時間が見えてくる。定年退職で解放されたことにもよろうか、作品にも自在さが窺える。

    山 越 え の 悲 鳴 ひ と す じ 白 鳥 に

    白鳥二ついや三ついるもぐらない                    」

この酒井弘司氏の解説で、金子兜太自身が自らが記している、「前衛的営為の成果と反省(成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)」の、その「反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)」ということは、金子兜太の句業の変遷を辿る上で、一つのエポックとして位置づけられるものであろう。さらに、「季語と十七音定型の見直しなども含め、この頃より古典と競い立つ気概のもとに小林一茶、種田山頭火などの評論の発表も多くなった時期である」ということも、兜太俳句を知る上で是非承知しておくべきことであろう。

 ともすると、金子兜太の句業は、兜太自身の言葉ですると、これらの「衆の詩」としての句業以前の、「前衛的営為の成果と反省」のその「成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ」に因るところの、兜太前半(大雑把に五十五歳以前)の句業が過大に一人歩きしているきらいがなくもないのである。

金子兜太(その六)

○ 暗 黒 や 関 東 平 野 に 火 事 一 つ     句集「暗緑地誌」

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり(後半一部略)。

「初出は、「海程」昭和四十四年二・三月合併号。

 熊谷に居を移してからの兜太は、日銀本店まで電車で通勤をする生活に変わったが、それは、関東平野の一端に居をかまえ、関東平野を電車で通勤するという生活でもあった。通勤電車速度は、兜大の句づくりのリズムと合っていたのか、『俺の俳句は、通勤電車とトイレの中なんだ』といった話を、ときに耳にしたことがある。句帳は使わず、メモ用紙に句を書いていた。この句について、兜太は、次のように書いている。

(略)こういうまったく想像の句を多作している。これは、関東平野を走る、真昼間の列車のなかでとびだしてきたものだが、(略)この、現実に向って想像力がのびのびとはたら  く時間に、私は自分自身の〈自然〉を感受することが多い。

          (「自作ノート」『現代俳句全集二』昭和五二年立風書房・刊)

 ここで、「想像の句」と書いているが、単なる想像の句と受け取ってしまってはいけないだろう。四季を通して、体内に蓄積してきた関東平野の夜景が、瞬時、句のかたちとなっ再化されたのである。なによりも、この句、上句を「暗黒や」と大きく切って、下旬を「火事一つ」と体言で終止する。具体的な言葉で直裁に書いているところが効果的。

 関東平野は、兜大の故郷・秩父にも隣接するが、その広大な関東平野に、深く厚い夜の闇がたち込めている。その闇の彼方の一角に、夜空をこがして燃える火事。広大な暗黒世界のに一つ火事を発見することで、関東平野の空間的なひろがりと、闇のぶ厚さの質感を、あざやかに捉えている。」

 金子兜太が傾倒した俳人は、加藤楸邨と中村草田男の二人であった。兜太自身の言葉ですれば、「楸邨氏を人間および句の師と考え、草田男氏を句の師と考えている」(「楸邨俳句の『人間』」「寒雷」昭和五三年三月)とし、兜太の「寒雷」の楸邨選のものには、この掲出句の「上五や切り」のものを目にすることができる。

 葭切りや屋根に男が立ち上がる(「寒雷」昭和一七年一〇月)

 リルケ忌や摩(さ)するに温き山羊の肌(同上)

 兜太の俳句のスタートは、まさしく、これらの人間探求派(草田男・楸邨・石田波郷)のそれを一つの目標として、そして、それを止揚せんとする兜太の試みが、兜太の前半生(五十五歳)の句業だったように思われる。なかでも、石田波郷の「草田男の散文化傾向に対する韻文化の強調」ということには、兜太は「旧き因習を引きずっている」ものとして、それには見向きみせず、逆に、草田男俳句の傾向を是認し、「表現要求をむきだしにして散文化していく俳句の非韻文性の俳諧」の道を選んだのであった(「人間探求派の功罪」『俳句の本質』)。そして、その傾向は、昭和四十二年(兜太・四十八歳)の「埼玉県熊谷市に転居。初めて自分の家をもつ。以降、定住漂泊の地と定める」(酒井・前掲書の「年譜」)の頃を一つの区切りとして、この掲出句に見られるように、古典への再接近とあわせ、「俳句の韻文性」をも受容する「何ものにもとらわれない」という姿勢への転回というものも垣間見ることができるのである。そして、草田男俳句が晩年になればなるほど、「ひとりごころ」の世界に沈殿していくのに対して、兜太俳句は、兜太自身の言葉でするならば、「ふたりごころ」の世界へと脱皮していくように思われるのである。さらに、この掲出句の上五の「暗黒や」については、兜太が好きな作家としてあげている「金子光晴・野間宏・中島敦」の、兜太と同じような強烈な戦争体験を経験し、それを主要なテーマとした野間宏の「真空地帯」などと同じような問題意識のものとして理解したい。ということで、例えば、田中空音氏の次のような鑑賞は是としない。

「意味の上から言えば、『暗黒』『火事』などという負の要素が書かれているのだが、私の受ける感じは、むしろ安らぎにも似た空間である。生暖かい皮膚感覚をともなった安らぎのある空間、たとえば子宮の中のような。そしてこの空間にはエネルギーが内在している。そんな感じがするのである。」

http://aea.to/tota/TOTA.251.html

金子兜太の俳句(その七)

○  人 体 冷 え て 東 北 白 い 花 盛 り   句集『蜿蜿』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「 初出は、「海程」昭和四十二年八月号。 前頁の「鹿のかたちの」の句と一緒に発表された。青森へ旅したときの句。五月四日、十三湖から弘前を経て、秋田へ向かう途中での作。津軽は花の真っ盛りの季節。兜太には東北を旅しての作品に佳句が多いが、霊気や生命力をもらう土地なのであろうか。

上句の「人体冷えて」という捉え方から、冷えぴえとした体感を通して、東北の初夏の風土のもつ美感が清例に捉えられている。 また、明治以降、使われるようになった「東北」という固有名詞を、兜太は意識して効果的に使っている。この「東北」という言葉には、日本の中心からみて奥地を意味する「道奥(みちのく)国」と呼ばれた、大化改新(六四五年) の時代からの言葉の伝統も、潜んでいることを承知しておき たい。 青森の五月は、関東地方よりも一足遅く、待っていたように作から初夏の花が、いっせいに開花する。「白い花盛り」からは、桜、辛夷、白木蓮、コデマリ、林檎、梨の花を思うが、ある一つの花でなく、これら一連の白い花を次々に眼にしたという理解のほうが、このの句には似つかわしい。長く厳しい冬を耐えて開花した花の白さが、肉体の冷えを通して冷えぴえしたものとして体感されているのである。また、「人体」という詩語になりにくい言葉をうまく生かした。

  兜太は、句集『蜿蜿』の後記で、

(略)眼前に岩があり、その岩の肉体の温さと等温のように自分の肉体が、ここに息づいていることに気付く。青空が自分の体内の細胞一つ一つに冷たくしみ込んでいることも知る。 突然、遠い時代の祖先が、髭むしやで草原を走る。神楽歌がとびこむ。

 だから、たとえば〈自然〉と言っても、こうした、自分の肉体で承知した自然しか信用しなくなる。眼でみ、耳で聞き、鼻でかぐだけの自然では十分ではない。    ’

 と書いていた。じかに体感し、肉体を通して確かに承知したもの。兜大の自然観を、ここに見ておいてよいであろう。

  句集『蜿蜿』の時代に入って、表現も平明化してきている。」

 この掲出句は、兜太の第四句集の『蜿蜿』の末尾を飾る句で、「東北・津軽にて 七句」のうちの一句である。兜太俳句といえば、それは、伝統的な花鳥諷詠的な俳句に対して、

前衛的な社会性俳句・造形俳句とのレッテルのもとに呼称され、そして、鑑賞されるのが常であった。その特徴は、「季語を十二分に尊重しつつ、それを約束とせず、最短定型(十七音)に立ちつつ、それが弾力的活用を図り、ともすると、思想性や社会性と無縁の閉鎖的な『個我』のみに終始することなく、進んで、思想性や社会性との関連で、現実というものを見据え、諷詠的描写的傾向の俳句を排して、探求的象徴的傾向の主体的・造形的傾向の俳句」(角川・『現代俳句辞典』の関係項目)を目指すものというようなことが、大雑把な表現方法ですればそのような言葉で置き換えることも可能なのかも知れない。しかし、そういう「論のための論」による鑑賞ではなく、現に、掲出句のような兜太俳句の鑑賞において、まず何よりも、兜太の、「東北という風土」に対する思い入れ、そして、この句を作句した当時の兜太の関心事の「定住漂泊」という観点から、これらの句は鑑賞されるべきものと理解をしたいのである。そういう観点から、兜太の「眼前に岩があり、その岩の肉体の温さと等温のように自分の肉体が、ここに息づいていることに気付く。青空が自分の体内の細胞一つ一つに冷たくしみ込んでいることも知る。 突然、遠い時代の祖先が、髭むしやで草原を走る。神楽歌がとびこむ」という、この句の背景が、この句に接する人に、ダイナミックに語りかけてくるのである。兜太は、極めて、兜太を巡る「定住漂泊」の様々の「土地・地誌・地霊・風土」の、いわば、「神楽歌」のようなものを探りあてることにおいては、稀にみる俳人の一人であるということは、その兜太の句集を繙いていくと、つくづくと実感するのである。