金子兜太の俳句 ④
http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%9C%E5%A4%AA 【金子兜太の俳句】より
金子兜太の俳句(その十一)
○ 猪 が き て 空 気 を 食 べ る 春 の 峠 句集『遊牧集』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
「昭和五十五年の作。
句集『遊牧集』の作品は、昭和五十二年の早春から五十六年春までの四年間の作品から一七四句を抄出したもの。兜大五十代後半から六十一歳にかけての作品。旅吟の多い兜太句集のなかで、常住の日常での作を中心に選んでいる。居住する熊谷と故郷の秩父での作が多い。この句集とともにあった四年間は、兜太にとって作句上でも大事な時期であった。朝日カルチャーセンターで俳句講義を始めるなど、多くの草の根俳人との接触を通して、俳句を大衆消費社会の文化として押し出していった。
また、一茶への考えを成熟させ、評論『ある庶民考』(昭和五二年)、評伝『小林一茶・・・漂鳥の俳人』(昭和五五年)なども発表した。
『遊牧集」のあとがきでは、
一茶から教えられて、自分なりに輪郭を掴むことのできたく情(ふたりどころ)〉の世界
を、完全に自分のものにしようと努めてもきた。そのせいか、〈心(ひとりどころ)〉を突っぱって生きてきた私は、〈情〉へのおもいをふかめることによって、なんともいえぬこころのひろがりが感じられはじめているのである。
と書いていた。この〈情(ふたりどころ)〉は、外(自然と人間)に向かってひらいてゆくこころの世界である。
『猪がきて』の句。『猪』は、この句では『しし』と読む。山国に春が訪れる頃になると、
山の動物たちも活動をはじめるが、冬のあいだ、民家の近くまで来て畑を荒らしていた猪も、峠にもどって、春の澄んだ空気をおいしそうに吸いこむ。中句で『食べる』と置いたところ、いかにも木の芽がふくらみはじめた山々を見まわし、春の仕事で忙しくなった集落のあたりを見下ろして、空気を吸っている情景が見える。〈情 重たりどころ)〉の読み取れる句。そこには、アニミズム的交感がみられるという言いかたもできよう。アニミズムは、自然界のすべての事物を生命あるものとし、そこには精霊あるいは霊魂が宿っていると見る。『空気を食べる』猪に、春の峠の精霊を感じ、そのさわやかな春の大気に兜太自らも接し、自身も『空気を食べ』ているのだ。」
この「猪」は、「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」(昭和十七年作)の傑作句をものにしている、兜太自身の言葉ですると、「山影情念ということばで、山国住民の内ふかく蟠(わだかま)る、暗鬱で粘着的な実態」(「秩父困民党」『思想史を歩く 上』)の、古代の「知々夫国」(秩父)で生を享けた、兜太その人のイメージであろう。上記の酒井弘司氏の解説での、兜太自身の『遊牧集』の「あとがき」の、「一茶から教えられて、自分なりに輪郭を掴むことのできたく情(ふたりどころ)〉の世界を、完全に自分のものにしようと努めてもきた。そのせいか、〈心(ひとりどころ)〉を突っぱって生きてきた私は、〈情〉へのおもいをふかめることによって、なんともいえぬこころのひろがりが感じられはじめているのである」という、兜太俳句の転回点を見事に表出している一句として、これほど、後半生の兜太の俳句の傾向を分かり易く伝えるものはない。そして、それは、実に、酒井弘司氏も指摘するごとく、「アニミズム的交感」のもとでの「自然界のすべての事物を生命あるものとし、そこには精霊あるいは霊魂が宿っている」とする、いわば、兜太が到達した新しい「アニミズム俳句」の世界のものといってよいであろう。
金子兜太の俳句(その十二)
○ 河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく 句集『狡竜』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
「初出は、『俳句とエッセイ』昭和四十八年八月号。
『河の歯』と題して発表した三十句より。
この一句・〈かわ〉は川ではなく『河』。野川の類ではなく、山地に源を発し、平地を悠然と流れている河である。その大河の流れ、生きもののような波を、『歯』という楡で捉えた。白く波打つ『歯』の河は、絶えることなく『朝から晩まで』河口を目指して流れてゆく。この句の構成は、『河の歯ゆく』と『朝から晩まで』の二群の言葉から出来あがっているが、上旬の『河の歯ゆく』を下旬でもリフレインさせることによって、リズムのある円環的な読みを可能にした。
兜大の作品は、どちらかといえば言葉が多いが、この句は簡潔に書かれていて、読者に種々のことを想起させてくれる。
この句に触れて、兜太は、次のように書いている。
冬の北海道に数日の旅をして、この日は、札幌市内のレストランで遅い昼食をとっていた。一人旅の気やすさもあって、窓のむこうをながれる豊平川の川面をながめながら、ゆっくりと食べていた。(略)その河面には荒れ気味の無数の河波が立っていた。ときどき白い波がしらがのぞき、それがつぎつぎに重なってながれてゆく。河波を河の歯だとおもう。
(『中年からの俳句人生塾』平成十六年 海竜社・刊)
良い俳句は、どこかしら生死(しょうじ)をはらんでいるが、兜大の俳句は〈生〉を強烈にうたいあげているところに特徴がある。この句も単純化された表現のなかから、自然の交響するいのちを感得することができよう。
句集『狡童』は、単独の句集としては未刊であるが、『金子兜太全句集』に収められたもの。
句集名の『狡童』(こうどう)は、中国最古の詩集『詩經國風』のなかの「鄭風」(ていふう)に出てくる詩句。昭和四十七年の終わり頃から四十九年十月までの兜太五十代前半の作品一八七句を収録。旅吟が多い(全句集には、未刊句集『生長』と『狡童』を収録。それ以外は、『少年』から『早春展墓」までの五冊を収めている)。」
兜太のこの掲出句には「季語」はない。「季語」はないけれども、その土地の「地魂」のようなもの、「霊魂」(アニマ)のようなものを訴えてくる。この句は、句集『狡童』の中では「北海道 四句」の前書きのある句の一句で、この句の前には、同時作の次のような句が収載されている。
冷雨に濡れる百頭の歯を剥く牛馬
雪の町少女集まり仮面作る
状況原野屋上庭園ら向き蟹折る
これらの掲出句を見るとき、兜太は作句するときに、いわゆる『歳時記』の「冷雨」・「雪」・「蟹」とかの「言葉で書かれたもの」は排斥して、「実景とその実景よりのイメージ」のみで一句を創り上げていることであろう。そして、その「実景とその実景よりのイメージ」が、見事に、その土地の「地魂」のようなもの、「霊魂」のようなものを探り当てているのである。そして、これらの「アニミズム」(事物には霊魂(アニマ)など霊的なものが遍在し、諸現象はその働きによるとする世界観)というのは、兜太等が排斥した『歳時記』の「季語」の根底に流れているものといってもよく、その意味では、『歳時記』の抽象的な「季語」は排斥しているけれども、その抽象的な「季語」の中核に存在している、「事物の霊魂(アニマ)」には、極めて、鋭敏な俳人であり、逆説的にいえば、兜太は、「兜太の眼に映る真の季語」を中核に据えて作句しているといっても過言ではなかろう。これらのことについて、兜太は次のようにいっている。
「私の句作りは、景を見、その景にからまるように自分の想像力をひろげてゆく。そこにできてくるイメージを追ってゆくのである。ただ、最近では、表現行為が形だけにならないように、情の熱さを注ぎこむ努力をしている。(略)それといま一つ。イメージのなまなましさを保つために、日常からの汲みあげに努めている」(「情の熱さ」「寒雷」昭和五〇年三月号)。
金子兜太の俳句(その十三)
○ 潮 か ぶ る 家 に 耳 冴 え 海 の 始め 句集『蜿蜿』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
「初出は、「海程」昭和三十七年四月・創刊号。
創刊号に発表された五句の巻頭に置かれた作品。俳誌「海程」に賭ける思いが、ひしひしと 伝わってくる句である。兜太四十三歳。同時に発表された四句は、次のような作品であった。
魚群のごと虚栄の家族ひらめき合う
だれも口美し晩夏のジャズ 一 団
違い一つの窓黒い背が日暮れ耐える
(富沢赤黄男の死)
知己等地の弾痕となる湖の死者
1
「潮かぶる」の句。「海程」という俳句同人集団を旗揚げする決意が、海辺の家に託されて、ひしひしと伝わってくる。下句を「海の始」としているが、数年にわたって神戸・長崎という海辺の街に住んだことや、「海程」という俳誌名のことも念頭に置いての一句といえよう。昭和三十四年には、高浜虚子が逝去。三十六年には、現代俳句協会の分裂、俳人協会の誕生とつづいたが、その翌年の「海程」創刊であった。
代表同人の兜太は「創刊のことば」で、現代俳句の拠点づくりへの抱負を語っている。
現代ただいまのわれわれの感情や思想を、自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで(略)、また約束(季語・季題)というものに拘泥したくない(略)。自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい。」
創刊同人は三十名。芦田淑、丼倉宏、大井雅人、小田保、金子兜太、河本泰、隈治人、小山清峯、境三郎、上月章、酒井弘司、佐藤豹一郎、島田輝子、鷲見流一、 谷口視哉、津田鉄夫、 出沢珊太郎、仲上隆夫、八反田宏、林田紀音夫、藤原七兎、堀葦男、前川弘明、益田清、嶺伸六、柳原天風子、山口雅風子、山崎あきら、山中葛子、米沢和人。
創刊号の裏表紙には、五十音順で住所録が掲載されている。」
兜太が俳誌 「海程」を創刊したのは、昭和三十七年であった。その前年に、兜太が師と仰いだ中村草田男が、現代俳句協会の会長を辞し、俳人協会を立ち上げ、ここに、兜太と草田男とは袂を分かつこととなる。この現代俳句協会の分裂が、兜太らをして、この俳誌 「海程」の創刊へと踏み切らせた直接の原因とも解せられる。以後、草田男は兜太を公然と「敵」と見倣し、草田男は自分が主宰する「萬緑」のみにその活動を絞り、いわゆる、俳壇活動からは身を退くこととなる。また、兜太は兜太で、まっしぐらに己が信ずる道を往くこととなる。兜太のもう一人の師の加藤楸邨が、この現代俳句協会分裂の際のときの身の処し方は、また、実に楸邨らしいそれであった。「私(楸邨)自身が私自身の身を置く現代俳句協会を否定することとなり、その幹事会(現代俳句協会)の中にいる私の最も信頼する多年の後進(兜太を指している)を否定することとなる。これは立場上不合理であり、情に於ても耐えがたいことである」(「寒雷」昭和三七年三月号)として、草田男らとは行を共にしなかったのである(俳人協会の会長は草田男が就き、楸邨はその幹事に推されていたが、楸邨は俳人協会には加わらなかった)。こういう兜太を巡る背景なども加味して、掲出句やこの掲出句の酒井弘司氏の解説を見ていくと、実にリアルに訴えかけてくるものがある。そして、兜太らの、いわゆる、前衛俳句の拠点と見倣されていた、その俳誌 「海程」は、上記のとおり、「約束(季語・季題)というものに拘泥したくない(略)。自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい」との、伝統的・因習的な「季語・季題」との訣別する世界でもあった。そして、それは、兜太のその後の「アニミズム俳句」の世界への先鞭をつけるものでもあった。
金子兜太の俳句(その十四)
○ 父亡くして一茶百五十一回忌の蕎麦食う 句集『遊牧集』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
「初出は、『海程』昭和五十三年一月号。
初出では、『父亡くて一茶百五十一回忌の蕎麦食う』と発表されていた。同号では、次の句も掲載されている。
父 死 ん で 熟 柿 漬え て 朝 ぼ ら け
父、金子伊昔紅(いせきこう)(本名・元春)は昭和五十二年九且三十日死去。八十八歳であった。俳句は大正十一年頃から「ホトトギス」に投句。昭和初期から「馬酔木」に拠り、のち同人・自らも昭和十四年には『若鮎』(のち『若あゆ』)を創刊、没時まで主宰した。また、『秩父音頭』の復興のためにも尽力した。
兜太俳句に言及するとき、父、伊昔紅のことをぬきに考えることはできない・少年の日、
父・皆野町の生家で、開業医の父を中心に俳句仲間が集まって句会を開くのを目の前にしていたが、その当時のことを兜太は、次のように書いている。
『馬酔木』と『若鮎』はいつも誰かの膝にあり、あるいは炬燵の上に置いてあったから、
これは読めた。同人紹介とか随筆、幾人かの同人の作品ぐらいしか読まないが新鮮で甘美な上昇気流を感じていた。私が、こうした雰囲気をまづ俳句に知ったことは、その後に大きく影響している。俳句がくすんでもいず、ぢぢい臭くもなく、観念的で佶屈なものでもないものとして私に印象付けられたわけなのである。
秋桜子や篠田悌二郎といった人を覚えている。秋桜子が、秋陽の深く当る縁側に一人腰を下して、じっと庭をみていた事がある。障子越しに、私はその横顔を眺めていたものだ。波郷も白絣できた。
(「俳句以前・・・中学の頃まで」「俳句研究」昭和四二年六月号」)
父、伊昔紅の亡くなった直後、信州・柏原の小林一茶百五十一回忌俳句大会に出て、霧の深くかかった上質の蕎麦を食べながら、看取った父のことを思い、兜太は柏原の一茶堂の天井板に、この句を残している。父を彼岸に送った心情が切々と伝わってくる一句。」
金子兜太が師として仰いだ二人の俳人の、その一人の加藤楸邨が「芭蕉の申し子」のような俳人であるとすれば、もう一人の中村草田男は「郷土を同じくする正岡子規により再発見された蕪村の句業を再点検した」俳人であったともいえるであろう(正岡子規・中村草田男編『俳句の出発』など)。そして、兜太は、この師らの「芭蕉・蕪村」ではなく、兜太の言葉でするならば、「人間まるだし」の俳人・一茶に深く傾倒したのであった。そして、兜太は、自分の俳句を「アニミズム俳句」のものとの言葉は呈していないのであるが、一茶に関して、「一茶の句には、談林風の戯(ざ)れもむろん多いが、しかしかなりの句のイロニーのしぶとさと、フモールの豊かさを支えるものは、煩悩具足の叙情である。アニミズムの天真さがあり、生理的感応のふるえるような柔らかさがある。いかにも庶民らしい、ユーモラスで、皮肉っぽくて辛辣で、しかも純真な世界がひらけている」(「露をはらってあらわれる一茶俳諧」『俳句の本質』)との、「アニミズムの天真さ」という言葉を一茶に捧げているのである。兜太は「詩としての俳諧の庶民らしい実現」(「衆の詩」)ということを目指して、その実現を目指した俳人が一茶であるとして、その一茶の俳諧を高く評価した。そして、兜太の後半生の俳句は、この一茶の「衆の詩」、そして、その「アニミズムの天真さ」を、その前半生の「社会性俳句」や「造形俳句」の信条より以上に、その作句の中核に据えてきたということもいえるであろう。そして、それは、前半生の「ひとりごころ」の俳諧(俳句)から、後半生のそれは「ふたりごころ」の俳諧(俳句)への脱皮をも意味しているともとれるのである。掲出句の兜太の句は、「馬酔木」系の俳人であった父親への追悼句ではあるが、同時に、一茶への追慕・追悼の句でもある。ここで、もう一度、兜太が「荒凡夫」・一茶に捧げた「衆の詩」(「朝日新聞」昭和四十九年九月六日夕刊)についての一文を、酒井弘司氏の著書より再掲しておきたい。
「日常を、とくに即物的日常を離さずに、俳句の内質として重視しようとする私の姿勢を刺激した事情がいくつかあった。その一つは、私自身も含めての前衛的営為の成果と反省(成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)である(略)。それらの事情のなかで、〈衆の詩〉としての俳句の特性をおもわないわけにはゆかなかった。 遍歴のあと「軽み」にいたった芭蕉晩年の思案の態をおもい、「荒凡夫」一茶の日常詠がもつ存在感の妙味にひかれたのも、そのためである。」
金子兜太の俳句(その十五)
○ 酒止めようかどの本能と遊ぼうか 句集『両神』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
「初出は、「海程」平成元年十一月号。
句集『両神』では、「痛風抄(六句)」として収録している。他の句には、
梔子や痛風の足切り捨てようか
痛 風 は 青 梅 雨 に 棲 む 悪 党 な り
滝澤馬琴も痛風と聞き微笑む夏
朝ひぐらし痛風も癒えしかなかな
がある・四句を順に読んでいくと、梅雨に入るまえは大変だった痛風も、梅雨が終わり盛夏を迎えるころには痛みも消え、鯛の声に耳を傾ける余裕も生まれてきた推移を読み取ることができる。『酒止めようか』の句は、『朝ひぐらし』の前に置かれている。
五十代後半の兜太は、『酒の功徳』という文章で次のように書いている。
酒といえば日本酒で、それ以外はピンとこない。すこし間をおいて、ああ、これも酒だなとおもうていどである。そのくせ、ここ数年常用の酒は、ウイスキーかビールなのだから矛盾しているわけだが、これは健康上の要請で止むをえない。
しかし、機会さえあれば日本酒をとおもう気持はかわらないから、酒どころにゆけば、ここの酒は特別だからと自分にいいきかせて、それをいただくことにしている。
『俳童愚話』昭和五一年 北洋社・刊)
六十代に入ってから、兜大のことばに従えば『急につけがまわってきて』、歯槽膿漏に腰痛、 痛風には四回悩まされるという災難に見舞われ、好きな酒と牛肉をやめて養生、七十歳を過ぎて回復したが、さて、『酒欲』と食欲を制限して、もう自分をよろこばせてくれる欲がない。どんな欲で自分を元気づけようかという思いが、この一句から感得できる。
そうはいっても、どこかにこの句、余裕が感じられるのは、家族と、俳句、その俳句に連なる連衆に恵まれていることによろう。俳句と遊ぶ極上の楽しみが兜太にはある。」
金子兜太は、これまでに、十四冊(未完句集二冊を含む)の句集を世に出している。その収録句数は、三千九百十一句で、兜太をよく知る、「海程」創刊同人・現「朱夏」主宰の酒井弘司氏が、百句を選び、『金子兜太の一〇〇句を読む』(飯塚書店)を、平成十六年に刊行したのであった。これまでに、兜太を論じたものとしては、『金子兜太論』(牧びでを著・永田書房)、『金子兜太』(安西篤著・海程新社)そして『鴎の海・・・兜太百句抄』(大岡頌司著・端渓社)の三冊に過ぎないということである(酒井・前掲書)。これらのことに関連するのかどうか、兜太俳句というのは、その俳誌 「海程」に関連する、いわゆる、前衛俳句と称せられる俳人達では高く評価され、そして、その前衛俳句以外の俳人達の中では、例えば、外国でも活躍している名うて国文学史の碩学者であり、連歌・俳諧・俳句にも造詣が深く、そして、兜太と同じく「寒雷」で兜太を熟知している、小西甚一氏にすら「良い句にならない種類の『わからなさ』」との酷評すら受容しているというありさまなのである(小西甚一著『俳句の世界―-発生から現代まで―』)。しかし、その前半生の「社会性俳句」・「造詣俳句」と呼称せられていた、兜太の言葉でするならば、「ひとりごころ」によるものはともかくとして、その後半生の「ふたりごころ」の俳諧・俳句を意識したころのものは、この掲出句のように、まさに「俳諧自在の境地」に至ったといえるであろう。これらのことについて、先に見てきた、兜太の一茶への賛辞の言葉を一部借用するならば、「兜太の句には、一茶的な『荒凡夫』としてのイロニーと、フモール(真のユーモア)に充ち満ちており、その底流に流れている叙情と、季語・季題の底流に流れているアニミズムを把握する鋭敏な感覚と、さらには、天然自然と一体となって交流できる天真さがある。と同時に、『衆の詩』として、常に、雅と俗の、日常の『俗』の現実を直視する姿勢は、まさに、その前半生の創造する人としての主体性に裏打ちされたもので、やはり『俳諧自在の境地に至った、そして今なお前衛俳人たり続けるようとしている真のリベラリストの名に恥じない俳人』というような、やや、褒め過ぎの嫌いもなくもないが、小西甚一氏らの酷評に敢て異を唱えて、酒井弘司氏の兜太鑑賞の続きのようなエールの兜太礼賛といたしたい。