金子兜太の俳句 ③
http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%9C%E5%A4%AA 【金子兜太の俳句】より
金子兜太の俳句(その八)
○ わが湖(うみ)あり日蔭真暗な虎があり 句集『金子兜太句集』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり(後半一部略)。
「初出は、「俳句」昭和三十六年二月号。「虎」と題して発表した八句より。
この年は兜太にとって多事の年であった。総合俳句誌「俳句」一月号から六回にわたり、〈造型俳句〉論の総決算ともいうべき「造型俳句六章」を連載。『金子兜太句集』を風発行所より上梓。といった意欲的な取り組みを示す一方、兜大も選考委員をつとめた現代俳句協会賞の選考が揉め、協会が分裂。十二月に俳人協会が発足した。その渦中で、中村草田男と朝日新聞紙上で二回にわたって論争をした。この句について、兜太は次のように書いている。
長崎から東京に移って、どこかの山湖に出かけたときの句。初夏。湖は厚い緑で囲まれ、
その日蔭に虎をひそませることは容易だった。想像のなかで、湖は自分の領域となり、虎は待機の姿勢を充実させて、黒黒と伏せていた。
待機といっても、次の行動への野心といったものではない。私の場合、社会的行動はすでに頓挫していて、もっぱら自分いちにんに執し、その〈主体の表現〉を俳句にもとめていた。方法を〈造型〉と名付けて書いているうちに、いつのまにか「前衛」というものになっていて「啓蒙家」といわれ、(略)私にとって、〈自由〉こそすべてで、自ら〈自由人〉たらんとして俳句をいじりまわしていたのに、なかなかツポにはまった渾名がもらえなかったようである。(「自作ソート」「現代俳句全集二』昭和五二年 立風書房・刊)」
上記の酒井司氏の解説では、「兜大も選考委員をつとめた現代俳句協会賞の選考が揉め、協会が分裂。十二月に俳人協会が発足した。その渦中で、中村草田男と朝日新聞紙上で二回にわたって論争をした」との簡単な紹介に止めているが、中村草田男の年譜においては、次のように記されている。「昭和三十五年 五月 現代俳句協会幹事長となる」。「昭和三十六年 現代俳句協会の幹事長の職を辞す。十一月、同志と俳人協会を発足させ、初代会長となる」。この背後には、草田男と兜太の両氏における、目指す俳句観の決定的な対立があり、草田男は兜太の「造型俳句」を、「造型俳句といわれているものなど、十七音の短形式が、暗示の伝達性を十分に発揮することができなくて、徒に難解となってしまって、このままいけば、俳句大衆との連結が絶たれてしまう」(、「潮流の分析と方向をさぐる」(『中村草田男全集第一四巻』所収の座談会記事)として、それが故に、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」と、兜太を「敵」とみなすようになるのである。兜太は草田男によって認められていった俳人といってもよく(中村草田男指導の「成層圏」から本格的にスタートとした)
、そして、草田男を俳句の師として、直接・間接を問わず、兜太は草田男を目指して、共に、現代俳句の牽引車として活動してきたのであるが、この昭和三十六年の「現代俳句協会」の分裂にともない、もはや、両者は歩むべき道を異なにしたのである。そして、草田男が、兜太を敵として、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」との句を残しているように、兜太もまた、当時の心境を、この掲出句の「わが湖(うみ)あり日蔭真暗な虎があり」のように、一匹の「虎」に喩えているのである。この「虎」は、まさしく、当時の兜太その人の自画像と理解したい。そして、この虎の背後には、兜太が好きな作家としてあげている「金子光晴・野間宏・中島敦」の中島敦の『山月記』などの「虎」のイメージが横たわっているようにも思えるのである。
金子兜太の俳句(その九)
○ 梅咲いて庭中に青鮫が来ている 句集『遊牧集』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
「 初出は、「海程」昭和五十三年四月号。
第七冊目の句集『遊牧集」では、雰頭の「青鮫抄」に収録されているが、青鮫を素材にした 作品は、他に二句ある。
霧の夢寝青鮫の精魂が刺さる
青鮫がひるがえる腹見せる生家
三句のうち、最初に置かれているのは「霧の夢寝」の句。二番目が「梅咲いて」。最後に「青鮫が」の句。作者が並べた順に読んでいくと、青鮫の着想は、夢の中で得たものとも思えるし、 梅の咲いている庭は生家とも思える。
「梅咲いて」の句は、白梅の花が咲き、早春の光が淡い陰影をつくっている庭の中を、精悍で檸猛な青鮫が、何匹も悠々と泳ぎまわっているというイメージが湧く。このような光景は現 実にはありえないが、この句、生々しく新鮮なリアリティがある。早春の明るい日差しの中の 梅の白い花と、その日差しの中をゆらめく青鮫の背のかげりのある青さとが、微妙な陰影をかもだしている。
ここで書かれた世界は超現実的な世界である。にもかかわらず、リアリティをもちえたのは、〈実〉に重心をおいて書くという兜大の作句法に負うところが大きい。「梅咲いて」の句は、そ の一つの成果と見てよいだろう。
この句が発表された「海程」の「熊猫荘寸景」で、兜太は、
「虚実皮膜の間」というときの実の面が私たちの目標で虚の世界はあくまでも従ということである。◆虚の世界を十分に知り大いに活用はするがそれは実の表現のための手段ということ。◆現俳壇にはこびる虚の第一義化とは全く反対の立場を確認することでもある。
と書いていたが、ちょうどこの時期、俳壇では〈軽み〉が言われるようになった時期でもあり、危機感をもっての発言というように受けとめておいてよい。」
この酒井弘司氏の解説のうち、兜太の「現俳壇にはこびる虚の第一義化とは全く反対の立場を確認することでもある」及び「ちょうどこの時期、俳壇では〈軽み〉が言われるようになった時期でもあり、危機感をもっての発言」については、兜太と同じ「寒雷」の出身で、兜太と同じ年代の、そして、兜太を無視し続けていたといっても過言でない評論家・山本健吉に激賞され続けていた、「杉」主宰の森澄雄へに対する兜太の痛烈な批評的主張と解して差し支えなかろう。同じ、加藤楸邨門において、金子兜太と森澄雄とでは、両極端のような立場で、そして、当時の俳壇においては、山本健吉を始め、多くの先達的な方々は、森澄雄の立場を是として、ともすると、兜太はアウトローのような立場を余儀なくされていたといっても、これまた差し支えなかろう。このアウトロー的立場の兜太を理解するとき、兜太が好きな作家として上げている「金子光晴・野間宏・中島敦」の、詩人・金子光晴が想起されてくる。反骨、反戦、抵抗、放浪、風狂…。そんなさまざまな言葉を冠せられた詩人・金子光晴には、日中戦争が始まった年に、全体主義的な社会を鋭く風刺した詩集『鮫』を世に出している。兜太もまた反骨、反戦、抵抗、漂泊、風狂のリベラリスであることは、詩人・金子光晴に勝るとも劣らないであろう。そして、その金子光晴の傑作詩集『鮫』は、兜太にとってどんなに刺激的なものであったかは想像に難くない。兜太は、金子光晴が死亡したとき(昭和五十年六月三十日)、次の二句を句集『旅次抄録』に残している。
緑悦の虚無老い声の疳高に
突出の鬼色曼珠沙華朽ちて
兜太には、この掲出句以前にも「鮫」の句はあるが、それらをひっくるめて、兜太の「鮫」の句の背景には、兜太が愛して止まなかった詩人・金子光晴のイメージ、なかでも、その傑作詩集『鮫』のイメージが横たわっているように思えるのである。いや、兜太にその意識がなかったとしても、その金子光晴の、そして、その「鮫」のイメージで、掲出句の「鮫」の句を鑑賞したいのである。
金子兜太の俳句(その十)
○ 冬 眠 の 蝮 の ほ か は 寝 息 な し 句集『皆之』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
「 初出は、「俳句研究」昭和六十一年一月号。
「雨に養蚕」と題して発表した五十句より。他の作品には、
日 本 海 秋 は 星 座 の 唾(つば) が 降 る
雨 に 養 蚕 鮎 錆 び て 叔 父 た ち
禿頭や尖(と)んがり山や紅葉四五分
がある。-句目の「日本海」の句は若狭での作。産土の地、秩父の山峡への思いには、切々
としたものが窺える・兜太、六十七歳。なによりも兜大の句でよいところは斬新なところ。
「冬眠の」の一旬。冬眠の蝮(まむし)に寝息があるわけがないが、こういわれると、なにやら聞こえてくるような錯覚につつまれるから不思議である。妙なリアリティをもった句。暖かなに俗性を、鋭い感性感覚で包みこんでいる。
兜太は自解で次のように書いている。
冬の山はじつに静かだ。葉の落ちた木木(きぎ)のあいだに射しこむ陽の光もし-んとしている。 その根を埋めるように積もった落葉も、人や獣が来て踏まないかぎり音を立てることはない。常緑樹も、襄震と篭と沈黙している.ときに罵声あるの。・・・そんな、山中で蛇たちも冬眠にはいり鎮まっている。しかし、アクの強い、それこそ存在感十分のマムシだけは、その 寝息が聞こえてくるような気がするのだ。いや、たしかに聞こえる。
(『兜太のつれづれ歳時記』平成四年 創拓社・刊)
蝮は、蛇の仲間でも、華麗な紋様があり存在感がある。クサリヘビ科の毒ヘビ。全長六十センチ内外。樹木は葉を落とし、静まりかえった山麓の唇一間。冬眠中の動物は、ほかにもたくさんいるだろうが、寝息が聞こえてくるのは蝮だけ.「蝮のほかは寝息なし」・・・この一見、豪放磊落な蝮は、兜大の自画像のようにも見えてくるから不思議である。」
この掲出句の背景は、この解説で十分であろう。しかし、この句に接していたら、金子兜太にとっては、「俳句の師であったり、後にはその師から敵とも見なされていた」中村草田男の次の句とその前書きが思い起こされてきた。
蝮の如く永生きしたし風陣々 草田男(昭和四十四年)
この草田男の前書きには、「文部省関係の官公立学校職員の文芸修業誌『文芸広場』二百号に達せるを以て、委員等記念の寄せ書きをなせるその最後尾、即興的に次の一句を誌す。石川桂郎氏二十四年以前戯れに、当時の吾が新妻に対ひて、『貴女の御亭主は蝮の性(さが)と宣(のたまい)りたる一言耳底に遺れるがゆゑなり』」。 金子兜太が、掲出句の蝮に遭遇したときに、草田男のこの句は意識下になかったであろうが、されど、この兜太の掲出句の「蝮」を、草田男その人の比喩と理解しての鑑賞もまた「楽しからずや」という思いが去来するのである。